私は如月さんの横で膝を抱え、たゆたう波間を眺めていた。
 寄せては返す波が、海と泡を浜へと押し上げていく。海の匂いは独特だけれど、その香りが生き物を産み出しているんだとしたら神秘的だ。
 しばらく眺めていたら、ふと如月さんは口にした。

「喉が渇いたけど、なにか買うか?」
「はい? ああ、そういえばワゴンありましたね。ジュースとか飲み物とか買えますし、買ってきましょうか?」
「僕も行く」

 それに私は内心「おっ」と声を上げた。
 今まで、何度も何度も周回していても、私が屋台やワゴンで買ってきたものを、如月さんは黙って一緒に食べたり飲んだりしていただけだったのに。一緒に買いに行くのは実は初めてだった。
 何度も何度もやり直しても、彼の気持ちを変えることはできないんだと思っていた。彼の自殺は止められても、彼の頑なな神経は、どう押しても無理なんだと諦めかけていたのに、それが揺らいだのには自然と気持ちが温かくなった。
 ワゴンの前にはメニューの書いた黒板が置かれていた。それを私と如月さんは眺める。

「お茶がいいのに」
「お茶? 烏龍茶ならありますけど」
「……苦過ぎてなんかやだ」

 そうだった。如月さんは子供舌だった。烏龍茶も駄目かと、当たり前なことに気付きつつ、私も飲み物を考える。

「レモネードとかありますよ」
「……それ、甘ったるくならない?」
「多分氷で割ってるのでそこまでじゃないとは。すみませーん。レモネードふたつお願いします」
「はいよ」

 海に合わせてか、アロハシャツの上にエプロンを巻いたお兄さんが、プラスチックのコップに氷とレモネードを注いでくれた。
 私たちはお金を支払って、それを持って再びテトラポットの前に座り、レモネードを飲みはじめた。
 ちう、と音を立てて飲むと、鼻を通ってレモンの爽やかな香りが突き抜けていく。その中で、黙って如月さんが海を眺めている横顔を盗み見ていた。
 私はまだ、如月さんの延命をしただけ。まだ、なにも変わってはいない。
 そう自分の心を戒めた。

****

 私たちがデートを終え、如月さんを高層マンションに送っていく中、如月さんは変な顔をした。

「こういうのって、普通は僕が君を送っていくものじゃないの?」
「いやですねえ。私だって自分の家に帰りますけど。如月さんは目を離せないといいますか……」
「……君、いきなり人のことを好きだと言ったり、泣き出したり。人の心を盗み見ているみたいで気持ち悪い」
「う……」

 この人、本当に人の心がないな。ズケズケと指摘されたことに傷口が疼いている中、如月さんは「でも」と言う。

「……まるで引き止めてくれてるみたいで嬉しかった。ありがとう」
「はい?」
「上手く描けなくって、自分の描きたいものにならなくって、もうなにもかもが嫌になって、死のうと思ってたら、タイミングよく君が来たんだよ」
「……あ」

 私はキャンパスを叩き落とす前と思いながら走っていたのが、やっぱり無駄じゃなかったんだ。私が言葉を失っている中、如月さんは淡々と言う。

「僕はそれ以外なにもできないのに、それがなくなってしまったら、もう生きてる価値もないのに。君が全力でがなり立てるから、まあいっかって思えたんだ。お節介、ありがとう」
「……私、そこまで考えてません」
「そう? また来る?」

 私はそのひと言に、驚いて如月さんを見上げた。
 今まで、何回も何回もやり直して、一日目でこんなことを言われたのは初めてだ。
 私は大きく首を縦に振った。

「行きます、行きます! 行かせてください!」

 それを言うと、如月さんはうっすらと口角を上げた。

「そう。じゃあ待ってる」
「…………っ!!」

 私は言葉を失った……如月さんが、笑ってる。私に、笑いかけてくれている。私は何度も何度も「如月さん、明日私行きますからね、絶対に絶対に行きますからね!」と念押ししてから、去って行った。
 嬉しい。のれんに腕押しで、私がしていることなんて、全部ただの余計なお世話だったんじゃないか。全部ただの自己満足だったんじゃないか。そればっかりが付きまとっていたのに。
 なにがどう変わったのかはわからないけれど、如月さんの琴線になにかが触れてくれたらいいと、そう祈りながら家路を急いだ。
 ……それに。
 私は一周前の如月さんのお通夜を思い返した。
 ……多分私は、あの人と絶対に対峙しないといけなくなる。如月さんのお母さんについてもまた、情報を集めないとな。自然と手を握り込んでいた。