私を困惑しきりながら眺め、泣くのがひと段落したのを見てか、やっと口を開いた。

「満足した?」
「えっと……はい」
「なら帰って。近所迷惑」
「……近所迷惑かもしれないですけど、私は如月さんのことを好きです」
「なにそれ、気持ち悪い」

 ばっさりと言い切られた。
 そりゃそうだ。如月さん視点では、私と彼は初対面だ。いきなり家に押しかけられたと思ったら泣き落とされて、本人からしてみたら、気持ち悪いことこの上ないだろう。
 でも私は必死だった。このまま目を離したら飛び降りてしまうと、もう知っているから。私は必死で訴えた。

「気持ち悪いかもしれませんけど、私はあなたのことが好きです」
「意味わかんない。警察呼ぶ?」
「呼んでもいいですけど、そうなったら如月さんはもうここにいなくって済みますか? ここが安全圏じゃなくなったほうがいいですか?」

 私からしてみれば、この不健全極まりないアトリエとなっている、このマンションの一室からなんとしてでも降ろしたかった。私が警察に呼ばれたら、多分うちの親は泣くだろうけれど、事情聴取で如月さんも呼ばれるだろうから、そのときに警察に根掘り葉掘り聞かれたら、もしかすると疲れ果てて飛び降りるのを止めてくれるかもしれない。
 私からしてみればどっちでもよかったことなんだけれど、私の言葉に如月さんはあからさまに機嫌が悪くなった。

「なんでそんなことする気だ? 君になんのメリットがあるんだ」
「あなたに生きてて欲しいからです」

 そう言い切った途端に、如月さんからあからさまに不機嫌なオーラが出てきた。最初はそれに脅えたり怯んだりしていたけれど、もうそんな猶予はない。
 だからこそ、私は言い切った。

「だってあなた、性格悪いですし、口悪いですし、態度も悪いですし。私だってどうしてあなたを好きになったのかわからないんですよ」
「待て。君本当になにを言ってるんだ? 君、僕のいったいなにを知って、そんな妙なことを……それだとストーカーじゃないか」
「ストーカーかもしれません。そうかもしれません。でもストーカーでもなかったら、ずかずかあなたの家に土足で上がり込んで、あなたを引っ張り出そうとなんてできないじゃないですか。ならもう、ストーカーで結構です。私は、あなたをここに閉じ込めたくないんです」

 さっきまでの不機嫌オーラから一転、今度はこの人はなにかに脅えたように、肩をピクンと跳ねさせた。
 この人は。体脂肪もない代わりに筋肉もないせいで、如月さんは私よりも背が高い割に細い気がする。その華奢な体が脅えたせいで、ひと周り小さく見える気がした。

「君、本当にいったいなんなんだ」
「私は相田晴夏。何度だって言います、相田晴夏。あなたを助けに来ました。私と一緒にデートしてください」

 祈る気持ちで、私は手を出した。どうかこの手を取って欲しい。振り払わないで欲しい。
 ……飛び降りないで欲しい。
 しばらくうろたえていた如月さんは、溜息とついて私の手にひょいと自分の手を乗せた。

「それで、どこに行くんだ?」
「一緒に海に行きましょう」
「海……この辺りだったら電車で一番端まで行かないといけないけど」
「じゃあそこに行きましょう。今の時期でしたら、まだ海水浴シーズンじゃないですから人は少なそうですね」

 そう言いながら、私は如月さんと一緒に出かけることにした。
 この周回があと何日で終了かがわからない。もしここで如月さんが死んでしまったら、もう後がないのかもしれない。だからこそ、彼には死んで欲しくはなかった。祈る気持ちを込めて、私は荷物をまとめる如月さんの細い背中を見つめていた。

****

 私鉄で特急。時間は一時間より少し前。
 案の定、この辺りで唯一浜に出られる海は、人がいなかった。
 漁には使えないらしく、どういう理屈かヨット遊びやサーフィンをしている人はいる。あとは近所の人が浜の近くのコンクリートで固められた道で犬の散歩をしていたり、打ち上げられている昆布のようなわかめのような謎の海藻を拾って遊んでいる親子がいるくらいだ。
 端っこのほうには海の家があるけれど、まだ開いてない。代わりに浜から避けた場所にワゴンを止め、アイスやらジュースやらを販売していた。

「思ってるよりなにもないな」
「そうですねえ。魚とか、この辺りだったらいなさそうです。浅瀬だったら魚いると思ったんですけどねえ」

 浜の端っこにあるテトラポットには、ほとんど魚もいないはずの海でも数少なく魚が獲れるらしく、釣り竿を持って座っている人たちはいた。
 私たちも、テトラポットにしばらく座って、海を眺めることにした。
 潮の香りはお世辞にもいいものとは思えず、流れてくる風は潮を含んでもったりとしている。その中、如月さんは遠くを見た。

「いつも描いているものだけど」
「あ、はい」

 広げられたキャンパスについて、思いを馳せた。
 あの人のいい目の通りに描かれた海の躍動感は、他の誰にも描けないものだ。上手い絵は他にも描ける人がいるだろう。躍動感溢れる絵を描ける人だっているだろう。でも、あの絵をあれだけ上手く描けるのは如月さんだけだ。

「……やっぱり、自分の目で見たものが一番綺麗だな」

 その横顔に、私の胸が大きく疼いた。
 この人の遠くを見る横顔が、私のずっと焦がれていたものだったから。