私はなんとか止めようとして、如月さんの背後から抱き着いてキャンパスを受け止めた。途端に如月さんの体が凝り固まって止まる。

「……君、なにやってるんだ」
「だって。だって如月さんがどうしたら止めてくれるかわからなかったから。このキャンパスを落としたらどうしよう。叩き割ったらどうしようって、そればっかり……」

 私が必死に言うと、如月さんの耳が真っ赤になっていることに気が付いた。私はそれに唖然とした。この人、いつも取り澄ました態度で、いけ好かない態度を取るというのに。この人にも羞恥心というものがあったのかと、私も伝染して顔を火照らせて、やっと背後から手を離した。
 如月さんはキャンパスを慎重に置くと、私と向き合った。そして、鼻をヒクリと動かした。

「……ケチャップライスはできたんだな」
「はい。あとは卵でくるめば、オムライスはできますよ。まだ早いですけどつくりますか? 食べますか?」
「食べたい。今日はまだ、栄養ゼリーしか食べてない」
「それ、絶対にカロリー足りない奴ですよ。栄養ゼリーはいくら栄養があっても、カロリーは賄えませんし」
「食べたら眠くなる」
「その分動けばいいんですよ。じゃあつくりますね。食べてくださいね」

 私はフライパンにバターを敷くと、そこに卵をほぐし入れて、その上にケチャップライスを入れて巻きはじめた。オーソドックスなオムライスだ。私はそれを「よっと」とお皿に載せると、如月さんに振り返った。

「オムライスどこで食べますか?」
「机持ってくる」
「普段本当になに食べて生きてるんですか。冷蔵庫の中、本当になにもないし……」

 前に見たときと同じく、カフェインドリンクと栄養ゼリーくらいしか入っておらず、あとお中元の箱が部屋の片隅に積まれているくらいだった。この家で稀少価値の高い食べ物は、大方お中元の箱の中身くらいだ。
 私の中では考えが及ばなくても、如月さんの中では通った理論でもあるんだろうか。少しだけぶすくれた顔をしながら、折りたたみの机を持ってきて広げ、私用にも丸椅子を持ってきてくれた。
 私は如月さんにオムライスとケチャップを差し出すと、如月さんは「いただきます」といいながら黙々と食べはじめた。植物園に行ったときにも思ったけれど、この人は育ちがいいのか存外に食べ方は綺麗な上、クチャクチャとした音も立てずに静かに食べる。

「……おいしい」
「ああ、よかったです! 他に食べたいものとかありますか?」
「君、また僕に食事をつくりに来るの?」
「だって、如月さん。絵に没頭し過ぎて、私が食べて食べてと言わなかったら全然なにも食べてくれませんもん」
「料理はできないし、注文はしてるんだ……たまに」
「たまにって……倒れたりしないんですか?」

 前の周回で倒れてたびたび管理人さんやお向かいの田畑さんが介抱しているのを知っていると、目を離したらまた倒れているか、ベランダから飛び降りるんじゃないかと、機が気じゃなかった。
 如月さんはスプーンを動かしながら、首を振った。

「……食事は嫌いじゃないんだ。ただ、物を食べる自分に違和感があるというか」
「食べない人なんていませんよぉ」
「……飢えがないと、なにも描けなくなるときがあるから。そして絵に集中しているときは、飢えすら忘れる。音も聞こえなくて、ただキャンパスと絵の具と自分しかいない世界が広がるから」
「ああ……」

 それについては、ときどき美月が本を読みながら話してくれていたと思う。

「天才って呼ばれる人のジャンルの中には、満たされたら途端に駄目になる人がいるんだって」
「満たされるって……?」
「人間関係が良好で、友達も恋人も家族もいて、経済的にも恵まれていて、なにをやっても上手くいく人のこと」
「……そこまでなんでも上手くいっていたら、逆に自分の才能以外に気を遣わなくっていいようにも思うけれど違うの?」
「私は天才じゃないからその辺は理解できないけど、ただ」

 美月は「心底理解ができない」という冷めた顔をしていた。

「自分を追い詰めないと達成できない人っているから」

 そのことを思うと、如月さんの場合もそんな人種なんだろうか。私にとっては、絵が描けなくても生きていけるけれど、この人の場合は絵が描けなくなったら言葉の通り死んでしまうくらいに苦痛を伴う人なんだろう。だから自然と自分を追い込んでしまう。そして追い詰められてしまう。
 その生き方って、かなりしんどいんじゃないかな。
 私はなにを言おうか迷った末に、尋ねた。

「配達を注文する際、なにを食べてるんですか?」
「はあ?」

 いきなり話を変えられて、如月さんは少しだけ不機嫌に鼻を鳴らした。この人すぐそんな顔するから。誤魔化すように、私は「あはははは」と笑う。

「もしその中で私がつくれそうなものがあったらつくりますよ。つくれないものは配達を頼めばいいですけど」
「……ピザが食べたい」
「たしかにつくれますねえ。でも材料がないのでまた買ってこないといけないかもしれませんね。好きなピザってありますか?」
「チーズとハムの乗っているケチャップで味付けしている奴」
「あー……ちょっと待ってください」

 私は慌ててピザのレシピを検索する。

「野菜ってなにがあっても平気なほうですか?」
「一応は」
「じゃあ今度コンビニで野菜買っておきます。それでつくりましょう」

 私がそうまとめたとき、如月さんは私の顔をマジマジと見た。真顔でこうして私の顔をマジマジと眺められたのは初めてだ。

「……どうかしましたか?」
「君はどうしてそこまで頑張れるの?」
「あー、うーんうーん……」

 まさか目を離したら飛び降り自殺しちゃうかもしれないなんて、本当のことは言えない。私にとって関係ないって、見なかったことにして、無限ループが終わるまでひたすら遊んでいてもよかったのに、私にはそれができなかった。
 自分でも理屈はよくわかってないんだ。

「わかんないです。私からしてみれば、如月さんがどうやって絵を描いてるのかわからないのと同じで、多分理屈はあるんでしょうけど、上手く口にはできないです」
「……ふうん、そう。ああ」

 如月さんは急にふらっと部屋の隅に向かうと、ごちゃごちゃしたところからなにかを取り出した。ICカードだと思う。

「はい」
「……あのう、このICカードは」
「さすがに高校生のお小遣いで何度も何度もおごらせるのはちょっと。僕のほうが稼いでいるし」
「なっ」

 そりゃそうだ。この人の絵は飛ぶように売れるし、いつぞやに見た価格は、まるで土地が飛び交っているような値段だった。この人からしてみれば、ICカード一枚くらい大したことがないんだろう。

「……ありがとうございます。大事に使いますね」
「大事にしなくてもいいから。でもありがとう」

 そうぺこんと頭を下げられた。
 まるで懐かない猫に懐かれたかのような気分になり、私はマンションを出るまで、胸にかかったドキドキとしたなにかを、ただペタペタ触っていた。