私と如月さんは、しばらくの間、迷路をさまよっていたけれど、だんだん出口の方向性も見えてきた。
 行き止まりには白いバラが咲き、ゴールに近いバラは赤いバラが目立っている。コツが掴めてから、どんなバラが咲いているか確認しながら歩きはじめた。
 私はスケッチブックを手にどこかで座り込むんじゃないかとハラハラしていたものの、意外と如月さんはそんなこともなく、ただ目に焼き付けるようにしながらバラをじっと見つめるだけだった。
 ゴールに辿り着いたのと同時に、お腹がグーッと鳴った。

「お腹が空きました」
「……そうだな。ここってどこか食べられるところってあるのか?」
「ええっと」

 一応確認してみたら、たしかにレストランはあるみたいだった。今日の植物園の様子だったら、入ってもそこまで待たずに食べることができるだろう。
 入ってみたら、ハーブソーセージやハーブチーズ、あと季節限定のバラジャムをかけたフレンチトーストなど、ハーブとバラに攻めたメニューが並んでいる。

「いろんなものがありますね。どれにしますか?」
「……普通のメニューってないのか?」
「普通と言われましても。ちなみに如月さんはなにが食べたかったですか?」

 そう尋ねると、如月さんは気まずそうな顔をした。

「……オムライスとか」
「あれ、オムライスが好きだったんですか?」
「普段から絵ばかり描いてたから、料理は全然できないんだ。近所に宅配を頼んでいたオムライスを出す店も、宅配サービスを止めてしまったから」

 気まずそうにボソボソと言う。
 台所の生活感が全くないのを思い浮かべる。たしか、油絵の具の中には口に入れたらまずいものもあるんだから、たしかに絵を描き終わったあと料理はしにくいか。そもそも絵ばかり描いていたから料理もできないって言ってるし。
 でもオムライスだったら、私でもつくれるなあ。

「オムライスって言っても、いろいろあるじゃないですか。最近の流行りは、オムレツをケチャップライスの上に乗せて、ナイフを入れたら綺麗に割れるって奴ですけど。オーソドックスなのは薄焼き卵でケチャップライスを包む奴ですけど、如月さんはどっちが好きですか?」
「薄焼き卵に、ケチャップ……」

 そうボソボソと気恥ずかしそうに言う。
 この人こんなに可愛い人だったのか。今まで本当に気難しい態度ばかり取っていたのが、なんだか嘘みたいに思えて、私は思わず笑ってしまった。
 そこでなにを思ったのか、如月さんはむっとした。

「そういう君は? 僕ばかりしゃべらせてフェアじゃない」
「ああ、それもそうですよねえ。私は食べられたら本当になんでもいいんで、ハーブソーセージもフレンチトーストもどれもおいしそうだなあとは思ってましたけど……強いて言うなら、カルボナーラが好きですかねえ。ここにはありませんね」

 それでも季節限定と書かれていたらやっぱり気になるから、私はバラジャムのフレンチトーストを頼むことにした。
 普通っぽいものが好きだって言うから、私も一緒にメニューを探して、如月さんはグラタンセットにした。こちらは下手におしゃれにしようとせず、普通にグラタンとトーストのセットみたいだから大丈夫だろう。
 私はメニューを待っている間、如月さんにふと思いついたことを聞いてみた。

「そういえば如月さん。普段食事はどうされてるんですか?」
「なんで?」
「いえ、冷蔵庫の周り、栄養ゼリーしか見えなかったんで、もしかして食事つくってないんじゃと思いまして」

 私は思ったことを突っ込んでみた。もし前の周で見たから知っていることを「どうして知ってる?」と警戒されたら困るけれど、如月さんはお冷やを飲みながらも嫌がらずに答えてくれた。

「僕は料理ができない。だから基本的に注文して届けてもらってる」
「さっきのオムライスみたいにですかあ。だとしたら、料理道具とはないんですかね?」
「なにが言いたいんだ、君は」
「ええっと。オムライスくらいだったらつくれるんですけど、明日お昼ご飯につくるのはどうでしょうか? さすがに冷蔵庫の中身なんにもないんだったら、私が買ってこないといけないんで」

 自炊を全くしてないんだったら、ご飯もいるよな。たしか如月さんの家、やかんはあっても電子レンジはなかったから、うちから冷凍ご飯持っていく訳にもいかないし、コンビニでご飯を電子レンジでチンして持っていくしかないのかな。
 ひとりで料理の段取りを考えていたら、だんだん如月さんは頬が紅潮してきた。この人、全然笑わないだけで、こんな顔もできたんだなと、思わず目を見張ってしまう。

「つ、くれるのか? すごい……!」
「すごくはないですけど……いや、私も休みの日は自分で食事をつくらないと駄目ですし」
「でも、すごい。だが……うちには本当に料理道具がないんで」
「ええっと。なら私、近所のホームセンターで買ってきますんで、料理道具置かせてください」
「さすがにそれは申し訳ないんだが」

 慇懃無礼な如月さんにも、遠慮の概念はあったのか。それとも好物をつくれる人だから尊重してくれたのか……どっちだ?

「お待たせしました、グラタンセットに、バラジャムのフレンチトーストになります」

 店員さんが届けてくれたオーソドックスなエビグラタンを如月さんは食べつつ、私は未知の食べ物のバラジャムを舐めていた。
 バラの匂いでもっと苦いものかと思っていたけれど、不思議といちごを思わせる甘酸っぱい味がする。そしてフレンチトーストにかけて食べてみると、イチゴジャムのフレンチトーストにちょっと近い……もちろん香りはバラバラしいんだけれど、そこまで口説くはならない。

「おいしいです」
「それはよかった。僕のも……悪くはない」
「それはよかったです。じゃあ明日、つくりに行きますからね」

 それだけ約束を取り付けた。

 私はまだ、彼の持っている深い悲しみも嘆きも絶望も、聞き出す勇気がなかった。
 まだ今日は初日で、彼と私は初対面で、彼が苦しんでいることを、私はまだ気付いてはいけない。
 でも。この人の人となりにようやくちょっとだけ触れられたような気がする。
 この約束が、どうか彼の命を繋ぎますようにと、私はそうひとりでこっそり祈ったのだった。