如月さんは私に玄関で泣かれたせいなのか、それとも変な女だが害がないと判断したのか、キャンパスの前に置いてある丸椅子に座って、いつまでもいつまでも絵を眺めていた。
 私が心を奪われた絵は、まだベランダから落とされずに無事のままだ。私は彼がキャンパスを見ていることをいいことに、ちらりとベランダを確認した。
 ここからキャンパスを叩き落とされたから、私は如月さんと出会うことができたけれど。如月さんはそのあとに自分も落としてしまう……私と過ごした日だって、彼を変えることはついにできなかった。
 あのときは、彼に合わせて絵の話ばかりしていた。でも、彼は本当に絵以外になにもないんだろうか。
 如月さんの出してくれたコーヒーは、お中元の高いものなんだろうか。インスタントはもっとインスタントっぽい苦いと酸っぱいが混濁になった味がすると思っていたのに、クリームも入っているせいか、異様においしく感じた。
 私がとりとめのないことを考えながらコーヒーをすすっている中、やっと如月さんはこちらに振り返った。

「……君は、学校に行かなくって大丈夫なのか? 家出とかじゃないだろうな」
「家出してませんよ。サボリではありますが。普通に出席日数は足りていますし、友達にはノート頼んでいます」
「なるほど」
「ああ……私、名前名乗ってませんでしたよね」

 普通に考えればストーカー扱いされて警察やら管理人やら呼ばれて追い出されても仕方ないのに、何故か如月さんの態度が前の周回の時と本当に変わらないせいで、名前を名乗り忘れていた。
 名前を名乗ることは、最終日に日記に書いておいたほうがいいかもしれない。

「私、相田晴夏と言います」
「相田さん……か。なんで僕のところに来たんだ」
「……あなたを知りたいからです。前にマンションを見上げたときに、あなたを見た気がしたので」

 それは間違ってはいない。
 キャンパスを落とされたあのとき、一瞬だけベランダから部屋に戻る如月さんを見たのだから。あのときから、全てははじまっている。
 それに如月さんは「ふん」と言った。

「僕は特に面白みのない人間だ。絵を描くこと以外なにもできない」
「でも、色がすごいじゃないですか。私は世界がこんなに色で溢れているなんて、思いもしませんでした」

 私はキャンパスの色を指差していう。
 海の波打つ様に使われている色は、なにも青だけじゃない。光の部分に白、黄色が差し込まれ、影の部分には紫、赤が入っている。そんな馬鹿なと思うのに、遠くから見るとたしかに海の色になっているんだ。色彩感覚が本当に豊かなんだと思う。
 それに対しても如月さんは素っ気ない。

「僕にはそう見えているから……でも、下書きはこんなものじゃなかったのに」

 それに私は内心「しまった」と思う。
 如月さんは下書きから激しい絵を描く。でも理想で思い描いた絵と現実に描き上がった絵が乖離し過ぎてスランプに陥ってしまった。私と別れた直後に身投げされてしまったほうからしてみれば、どの辺りが地雷なのかがわからない。
 私は思わず彼の利き腕の反対側を掴んだ。それに如月さんは私の手に視線を落とす。

「なに?」
「外に行きましょう。遊びに行きましょう。食べたいものはありますか。好きな飲み物はありますか。ここには冷蔵庫しかありませんし、なにか綺麗な色のものを食べに行きましょう」

 頭の中をどうにかグルグルとさせた。
 高校生のお小遣い感覚だと、そんなに高いものは食べられない。でもどうにかして、如月さんの投身自殺を止めるためにも、彼の頑なな気持ちと硬い口を解きほぐさないといけない。彼は本当に絵に関すること以外が極端に無欲過ぎて、前のときだって最後まで彼のことがわからないままだったのだから。
 ここで逃げてはいけない。ストーカーだと思われて通報されてもいけない。とにかくこの家から出ないといけない。それだけは、絶対だ。
 私は必死に言い繕った。

「私と一緒にデートしませんか?」

 変な女でかまわない。どうか、この手を振りほどかないで。