僕《わたし》は誰でしょう

 
          ◯


 他にも何かやり残したことはないだろうかと、そんなことばかり考える。

 僕の時間はもうあまり残されていない。

 この夏も、果たして乗り切ることができるだろうか——そう考えたとき、ふと思い出される顔があった。

 ——おれさ、余命一ヶ月って言われてるんだ。

 青い病衣を纏った、十歳ぐらいの男の子。
 僕が比良坂すずとして入院していたときに、病院の階段で出会った子だ。
 僕が退院するときも、エントランスまで見送りにきてくれた。
 名前は確か光希くんだ。

 ——一ヶ月後は八月の終わりだから、この夏を越せるかどうかはわからないんだって。

 彼もまた、この夏を乗り切れるかどうかはわからないと言っていた。
 彼は自分の気持ち次第でいくらでも長く生きられると信じていたけれど、病院側からはこの夏限りの命であると宣告されているのだ。

 ——おれは、お姉ちゃんよりも長生きする。だからお姉ちゃんも、おれのために長生きしてね。その方がお互いにずっと長く生きられるからさ。

 彼のためにも、僕は長生きするべきだったのかもしれない。
 けれどこのままでは、僕の時間は彼の余命には届かないかもしれない。

 なんだか約束を破ってしまったような気がして、残念な気持ちになる。

 あのときは正直、自分の方が先に死ぬかもしれないだなんて考えもしなかった。

 せめて彼には、僕がいなくなった後も元気でいてほしい。


「もうじき桜ヶ丘に入るぞ」

 隣から凪が言った。
 その声に僕が顔を上げると、窓の外には懐かしい田舎の風景が広がっていた。
 田んぼが続く坂道の先に、馴染み深い住宅地が見えてくる。

「ここからは道案内を頼む。さすがにキミのじーさんばーさんの家は知らないからな」

 言われて、僕は記憶を頼りにナビを始めた。
 両親はいつも仕事で遅かったから、夕飯はよく祖父母の家で食べていたのを覚えている。

 僕の指示通りに凪がハンドルを切り、やがて車は一軒の家の前に停まった。
 住宅街の一角にある、少し古めの一戸建て。
 小ぢんまりとした庭は手入れされていて、足元には芝生が敷き詰められている。
 入口前の表札は十年前と同じ、母の旧姓が掲げてあった。

「まだ住んでるみたいだね」

 僕らは車を降りて門の前に立った。
 そうして僕がインターホンに手を伸ばしたとき、

「待て」

 と、凪が隣から小声で制止をかけた。

 一体どうしたのかと、僕は彼の顔を見上げる。
 彼は無言のまま、庭の方を眺めていた。
 釣られて僕もそちらを見ると、視線の先で、誰かが窓辺に腰掛けているのがわかった。

 庭に面した一階の窓を開けて、そこから両足を下ろしている。
 風に当たっているのか、陽に照らされたその顔は静かに瞳を閉じている。

 五十代くらいの女性だった。
 あきらかに寝巻きとわかるシャツとハーフパンツ姿で、長く伸びた髪もセットされていない。
 疲れた顔で眠っているような、どこかくたびれた印象があった。

「なあ、美波。あの人って、まさか……」

 歯切れの悪い声で凪が言った。

 僕も、すでに気づいている。
 気づかないはずがない。

 あれから十年も経って、ずいぶんと年老いてしまったように見えるけれど。
 そこに座っている女性は間違いなく、僕の母だった。
 
 
 こちらの声に気づいたのか、母はうっすらと目を開けて僕らの方を見た。
 そうして緩慢な動作で腰を上げると、よたよたと危なっかしい足取りでこちらへ歩み寄ってくる。

「どなた……?」

 見た目通りの弱々しい声で言う。
 半ば呆然としていたらしい凪は、慌てて背筋を伸ばして答えた。

「ご、ご無沙汰してます。あの、俺……美波さんの同級生だった井澤凪です。覚えてますか?」

 彼もどうやら緊張しているらしい。

 母は最初のうちこそぼんやりと首を傾げていたが、やがて思い出したのか、それまで虚ろだった両目を大きく開かせる。

「凪くん?」

 ハッと口元に手を当てた母は、そのまま黙り込んでしまった。
 久しぶり、とか、大きくなったねとか、そういった言葉も頭に浮かばない様子だった。
 嫌な沈黙が流れる中、ちりんと、窓辺の風鈴が鳴る。

 やがて再び口を開いたのは凪の方だった。

「急に訪ねてすみません。まさかこちらにいらっしゃったとは……」

 気まずそうにする彼と同じで、母もぎこちない動作で視線を逸らす。
 と、その瞳が今度は僕の顔を捉えた。

「そちらのお嬢さんは?」

 母と目が合って、僕は息を呑んだ。

 十年前、最後にケンカをした母が目の前にいる。
 凪の話によれば、母はあの日、僕が自殺をしたと思っているらしいのだ。

 あのとき母に浴びせられた言葉で、僕は確かにショックを受けた。
 けれど、そのせいで死のうだなんて思ったわけじゃない。
 僕が死んだのは僕の不注意のせいであり、それを母が自分のせいであると思い込むのは心外である。

「ええと、こちらは……」

 凪は僕のことをどう説明するか迷っていた。
 だから僕は、

「母さん」

 と、自分の声で彼女に語りかけた。

「僕のこと、わかる?」

「え……?」

 母は不可解そうに眉を顰める。

 当たり前の反応だった。
 見知らぬ女子高生が、急に自分を母と呼ぶのだ。
 それも十年前に死んだ実の娘と同じ、自らを『僕』と呼ぶ少女が。

「僕のこと、覚えてる?」

 もう一度そう聞くと、

「な、何なの。あなたは……」

 母は戸惑いと恐怖とが入り混じった目で、僕を見つめていた。
 冗談ならやめてほしいとでも言いたげな、疑いの念がありありと見て取れた。

「別に信じてくれなくてもいいんだけどさ。ただ、伝えておこうと思って」

 僕は正直に言おうと思った。

 別に信じてくれなくてもいい。
 十年前に生きていたときでさえ、僕の思いは母に伝わらなかったのだから。

 ただ、もしもこれが母と会う最後のチャンスだとしたら、せめて自分の言葉で伝えておきたかった。

「十年前のあれは、自殺じゃないから」

 それを口にした瞬間、時が止まったような気がした。

 母はぽかんと口を開けたまま、何の反応も示さなかった。

 僕は構わず続けた。

「僕は死ぬつもりじゃなかった。だから、母さんのせいじゃないから」

 僕の伝えたかったこと。

 十年前の真実。

 それを目の前で打ち明けられた母は、

「……何を言っているの?」

 やけに低い声で、恨みがましい目をこちらに向けて言った。

「十年前って、それは……美波のことを言っているの?」

 みるみるうちに、その顔には怒りの色が満ちていく。
 まるで触れられたくない傷に塩を塗り込まれたような、激しい拒否感を露わにしていく。
 そして、

「勝手なことを言わないでちょうだい!」

 半ばヒステリックに、母は声を荒げた。

「わ、私はあの日、あの子にひどいことを言ったの。……いいえ、あの日だけじゃない。私はずっと、毎日のようにあの子のことを否定して、あの子の心を追い詰めてきたのよ!」

 言いながら、わなわなと震える両手で自分自身の体を抱く。
 その瞳は絶望の色に染まり、目尻からは大粒の涙がぼろぼろと溢れ始める。

「あの事故が自殺じゃなかったなんて……そんなわけがないじゃない!」

 悲痛な叫びが、庭に響き渡る。

 きっとこの十年間、母はこうして苦しみ続けてきたのだろう。

「私は最低な母親なの。だから……あの子が自殺したのは、私のせいなのよ……!」

 十年前の事故が母の心にどれだけの傷を負わせたのか、僕はまざまざと見せつけられた気分だった。

 母は僕の心を追い詰めてしまったと後悔しているようだけれど、むしろ、それによって追い詰められているのは母の方だったのだ。

「母さん、違うよ。十年前のあれは、自殺じゃなかったんだよ」

「あなたに何がわかるの」

 僕が訴えても、母は頑なに耳を傾けようとしない。

「あの子のことを何も知らないくせに。わかったようなことを言わないで!」

 何も知らないくせに——と、一体どの口が言うのか。
 僕は半ば無意識のまま、ぎり、と歯を食いしばっていた。

 わかってないのはどっちだ。

 僕は、それまで胸に押し込んでいた感情を抑えきれず、気づけば声を張り上げていた。

「わかってないのは、母さんの方でしょ!?」

 途端、母はびくりと怯えた目でこちらを見た。
 きっと、こうして言い返されることなんて予想もしていなかったのだろう。

「母さんは結局、何もわかってないんだよ。僕の気持ちなんて、何も」

 あれから十年もの歳月が経っているというのに。

 僕が事故に遭ったあの日からずっと、母は同じ場所から動けないまま、もがき苦しんでいるだけなのだ。

「もちろん、母さんに否定されるのはつらかったよ。僕の性別だとか、好きなものだとか、全部否定されて、わかってもらえないのがすごくつらかった。……でも、母さんの気持ちだってわかるよ。母さんは僕に、『普通の』女の子として、ごく一般的な生活を送ってほしかったんでしょ? この世で生きていくためには、その方がずっと過ごしやすいはずだから」

 周りがそうであるように、女の子は男の子に恋をして、自身を可愛く着飾ってデートする。
 僕もそんな風に生きられたら、きっと今よりも少しは悩みが少なかったはずだ。

「母さんのその気持ちは、僕に対する優しさだったってわかってる。だから……母さんのこと、恨んでなんかないよ。僕は、自殺するつもりなんてこれっぽっちもなかったんだ」

 そこまで言い切ったとき、母はふらりと体のバランスを崩して、芝生の上に尻餅をついた。見開いた目をこちらに向けたまま、口をぱくぱくとさせている。

「……な、何なの、本当に。ねえ、凪くん。これは一体どういうつもりなの? イタズラなら今すぐやめてちょうだい!」

 尚も母はヒステリックに叫ぶ。

 やはり、僕の言葉は届かないのか。

 たまらず涙が零れそうになるのを、僕は必死で堪えた。
 母の前で最後に見せる顔が、泣き顔になるのは嫌だった。

 僕はもはや居た堪れなくなって、その場から逃げ出すようにして走り出した。

「美波!」

 後ろから凪の声が聞こえたけれど、立ち止まることはしなかった。
 そのまま車の横を通り過ぎて、息が切れるまでがむしゃらに走った。



 やがて桜ヶ丘パークのところまで走ってきたところで、体力の限界がきた。
 比良坂すずの体は華奢で筋力もなく、たった数十メートル走っただけで足が震えてくる。

「大丈夫か?」

 車で追いかけてきた凪が、窓から顔を出して聞いた。

「うん……」

 肩で息をしながら、僕は乱れた呼吸の合間に返事をする。

「僕は……ただ伝えたかっただけだから。自分の口から、母さんに。こうして言葉で伝えておけば、たとえ今はわかってもらえなくても……いつかまた、母さんが今日のことを思い出して、そのときは今度こそわかってくれるかもしれないでしょ? 今の凪みたいにさ」

 凪はあの事故から十年の歳月をかけて、僕の気持ちを確かめにきてくれた。

 なら母だって、いつかは僕の真実を知ろうとする時がくるかもしれない。

 このまま僕の記憶が消えて、いずれ比良坂すずに戻ったとしても。母が今日のことを覚えてさえいれば、いつかはわかってくれる日が来るかもしれない。

 たとえその瞬間を僕が見届けられなかったとしても。
 この思いが母に届く可能性が少しでもあるのなら、それでいい。

「その……ごめんな。俺、何もしてやれなくて」

 凪はいつになく申し訳なさそうな顔で言った。

 一体何を言い出すのかと思った。
 彼にはこれ以上になく世話になっている。
 今日だって、車の送迎だけでも往復で六時間近くかかるというのに。

「俺にできることがあったら何でも言ってくれ。できる限りのことはする。だから遠慮なく言ってほしい。何か、他にしたいことはないか?」

 僕のしたいこと。

 残された時間の中で、今の僕にできること。

 乱れた自分の呼吸音を耳にしながら、ぼんやりと考える。

(そうか)

 大事なことを忘れていた。

 僕はまだ、凪に恩返しをしたことがないのだ。
 
 
          ◯


 行きと同じ、片道三時間弱のドライブを終えて自宅近くまで帰り着いた頃には、とっくに日が暮れていた。

 比良坂すずの両親に見られると余計な心配をされそうなので、あえて家の前ではなく近所の公園の辺りで僕は降ろしてもらう。
 いつもの定位置に車を停めると、凪も見送りのために外へ出てきてくれた。

「それじゃ、また明日。ここで待ってるから」

 彼はまるで当たり前のようにそう言ってくれる。
 仕事も休んで、何もかも僕のために付き合ってくれている。

 明日、僕がまだこの世界にいるかどうかもわからないのに。

「ねえ、凪」

「なんだ?」

「凪は、僕に何かしてほしいことはないの?」

 直球で質問をする。
 凪がしてほしいこと。

 本来ならこういうことは僕自身で考えて、さりげなくするべきものなのだと思う。
 けれどあいにく、僕には時間がない。

「してほしいこと?」

 突然の質問に、凪は目を(しばたた)かせていた。

「何でもいいんだよ。僕にできることは少ないかもしれないけど。でも僕は、凪にいつも甘えっぱなしで、このままじゃ死んでも死に切れないんだ。だから僕も、いま僕にできることを、凪のためにしたい」

 彼にはずっと世話になってきた。
 小学生の頃からずっと。
 思えばずいぶんとワガママな振る舞いをして振り回してきたかもしれない。

 けれど彼は、そんな僕と友達でいてくれた。
 今だって、あれから十年も経っているというのに、彼はまるでその時間を感じさせないくらいに、あの頃と同じように接してくれる。

「してほしいことなんて、そんなの……」

 凪はそこで一度切ると、急に下を向いた。
 前髪で目元が隠れて、表情が見えない。

「凪?」

「俺がキミに望むのは、たった一つだけだ」

 彼は顔を下に向けたまま、ゆっくりと僕の目の前まで歩み寄る。
 そうして僕の足元に膝をついて、顔を上げずに言った。

「俺は……キミにここにいてほしい。ずっと。そこにいてくれるだけでいいんだ。それ以上は何も望まない。ただ、生きていてほしいんだ」

 生きていてほしい。

 そんな難しいことを、彼は言う。

「もちろん、わかってる。それは無理なことなんだって。でも俺は……怖いんだ。キミをまた失うのが」

「凪……」

 十年前のあの日、僕は死んだ。

 あのとき、凪がどれほどのショックを受けていたのか、僕には想像することすらできない。

「ごめん。美波。俺は……キミのことを、恋愛対象として見ている。キミが男であることを知りながら、それでも俺は、キミを女として見てしまっていた。キミの気持ちをわかっているつもりだったのに、ひどい裏切りだと思う。本当に、ごめん……」

 彼は何度もそう謝りながら、膝の上に置いた拳を強く握りしめる。

 彼のその気持ちを、可能性として考えたことがないわけじゃなかった。

 僕らの体は異性同士だ。
 いくら中身は男だと言い張っても、僕の見た目は女なのである。
 思春期の真っ只中に、あれだけ毎日一緒にいて、意識するなという方が無理な話だったのかもしれない。

「……ごめんな。いい年して、子どもみたいなこと言って」

 凪はそう言うと、やっと腰を上げてその場に立ち上がった。
 僕よりもずっと背の高い彼の、こちらを見下ろす微笑みは優しくて、その瞳はわずかに濡れているように見えた。

「キミの気持ちはわかっているつもりなんだ。だからキミは、俺には何の遠慮もしなくていい。美波がただ生きていてくれるだけで、俺は救われているんだ」

 僕がここにいるだけで、彼はそれを祝福してくれる。

 たとえ僕の本性が男だとわかっていても、それも含めて、彼は僕を愛してくれている。

 なら、そんな彼が隣にいてくれるなら、僕はもう性別なんて気にしなくていいんじゃないか——と、そんな風にさえ思えてくる。

「凪、僕は……」

 と、そこで凪が急に顔を上げた。
 何かを見つけたかのように、僕の背後へ視線を向けている。

 何だろう、と思って僕も肩越しに後ろを振り返る。
 すると視線の先——公園を囲むフェンスの角から、こちらの様子を窺う二人の姿があった。
 片方は細身の少女らしきシルエット。
 そしてもう片方は、やけにガタイの良い巨漢だった。

「え……。もしかして、沙耶と桃ちゃん?」
 
 
 僕がその名を呼ぶと、二人はあからさまに慌てた様子で挙動不審になった。

「あっ。いやこれは、違うの! あたしたちはただ、たまたまここを通りかかっただけで。ねっ、桃ちゃん!」

「お、おう! 別に待ち伏せしてたわけじゃねーし。なんか二人の様子が変だったから隠れて覗き見しようなんてこれっぽっちも思ってなかったぞ!」

「ちょっと、桃ちゃん!!」

 まるで夫婦漫才でも始めたかのような彼らに、僕は呆気に取られる。
 その隣で、凪は妙に緊張した面持ちで二人を見つめていた。

「キ、キミたちは、その……一体いつから見てたんだ?」

「へっ!? いや、ちょうど通りかかっただけだから、別に何も見てませんけど!?」

「おうよ! 告白の瞬間なんて全然見てなかったぞ!」

「桃ちゃんは黙ってて!!」

 どうやら一部始終を目撃されていたらしい。
 凪は夜闇の中でもわかるくらいに耳を真っ赤にさせ、片手で目元を覆った。
 さすがにあの場面を見られたのは彼も恥ずかしかったようだ。

 再起不能となった彼の代わりに、僕は話題を変える。

「それで、沙耶たちはなんでここに? 僕に何か用事があったんじゃないの?」

 沙耶は窮地を脱するがごとく、僕の言葉に飛びついた。

「そ、そうそう! あたしたち、すずに……じゃなくて、美波に会いにきたんだよ。あなたとちゃんと話をしようと思って」

「比良坂すずじゃなくて、僕に?」

 二人は互いに顔を見合わせて頷くと、静かにこちらへ歩み寄ってくる。
 そうして僕の目の前に立つと、桃ちゃんは頭をかきながら視線をそらし、ぼそぼそと言った。

「その、このあいだは……冷たいことを言って悪かった。あんたのこと、邪魔者扱いみたいにして」

「え」

 まさか彼の口からそんな言葉が出るとは思わず、僕は返事に詰まった。

「あたしも謝る。あのときは、突き放すようなことを言ってごめん……。あれから桃ちゃんとね、二人で話し合ったんだよ。美波のこと。このまますずの記憶が戻るまで、何もせずに放っておいていいのかって」

「わざわざ謝りに来てくれたってこと?」

 彼女たちからすれば、僕は比良坂すずの体を奪った人間である。
 だから拒絶されるのは当たり前だし、それで冷たくされても仕方がないと思っていた。

 けれど彼女たちは、

「謝りたかったのもあるけど、今後のこともね、話したいと思ったの。あなたの記憶が消えてしまう前に、私たちにも何かできることはないかって」

 そんな申し出に、僕は面食らった。

「今のあなたは、確かにすずの体を借りている状態だけど……。すずも、あなたに右目をもらったでしょ? 角膜移植をして、すずは右目の視力を取り戻したの。だから、私たちもあなたに感謝してる。すずに右目をくれてありがとうって。だから……あなたに何か恩返しができないかって思ったの。あなたがここにいられる間に」

 それは、予想もしていないことだった。
 彼らが僕に感謝しているだなんて。

「桃ちゃんと話して、二人で考えたの。あなたが嫌なら、もちろん強制はしないけど。あなたさえよければ……私たちと一緒に、この夏の思い出を作らない?」

 思い出。

 彼らと一緒に、夏の思い出を作る。

 それは、聞こえはとても良いのだけれど、

「思い出って、具体的には何をするの? 夏祭りに行くとか?」

「何でもいいんだよ。夏祭りだけじゃなくて、他にもいっぱい、色んなことをして遊ぶんだよ。だって、今は夏休みだよ? 夏はたくさん遊ばないと。毎日思いきり楽しいことをして、へとへとになるまで遊び尽くすの。あなたの時間が許す限り、最後の瞬間まで」

 残された時間を、彼らと一緒に遊んで過ごす。

 想像しただけで、賑やかな毎日になるだろうなと思った。

「ね、井澤さんはどう思う? 井澤さんもどうせ暇でしょ? 非常勤だし」

「おい、こら。非常勤は暇って意味じゃないんだぞ。うちは身内が院長だから融通がきくってだけで……」

「ほら、井澤さんも大丈夫だって。美波はどう思う?」

 半ば無理やり調子を持っていかれているような気もするが、沙耶の目は真剣だった。

 四人で、この夏の思い出を作る。

 思い出を作るということは、彼らの心の中に、その記憶が残るということだ。

 なら、凪の心にも。

 僕にずっとここにいてほしいと言っていた彼の心にも、僕との思い出が残る。

 それはもしかしたら、僕が彼にしてあげられる、たった一つの恩返しなのかもしれない。

 だから、

「……いいかもね」

 僕がそう呟くと、沙耶と桃ちゃんはお互いの顔を見合わせて、ニッと年相応な笑顔を浮かべてみせたのだった。
 
 
          ◯


 翌日から、慌ただしい日々が始まった。

 朝七時に僕の家、もとい比良坂すずの家の前に集合して、凪の車に四人で乗り込む。

「って、俺はキミらの専属運転手か? 美波はともかく、他の二人まで当然のように俺をこき使ってくれてるわけだが」

「まあまあ、そんな固いこと言わずに。優しい井澤さんなら、あたしたちのお願いを聞いてくれるでしょ?」

 沙耶は凪の扱いが上手い。
 というより、凪が押しに弱いのだろうか。

 なんだか凪の新しい一面を発見したような気がして、思わず嬉しくなる。
 彼とは小学校の頃からずっと一緒に過ごしてきたけれど、こうして僕以外の誰かと親しくしている姿を見るのは新鮮だった。

「で、どこまで行けばいいんだ? 行き先は決まってるんだろ?」

「んー、どうしよっか。美波はどこか行きたいとこある?」

「っておい、まだ決まってないのかよ!」

 初日は、本当に何も決めていなかった。

 『夏の思い出を作ろう』なんて勢いで始めたものの、行き先については何も話し合っていない。
 もとより沙耶と桃ちゃんは僕の意思に委ねるつもりらしく、僕が行きたいと思った場所へ二人はついてきてくれる。
 そして車は凪が文句を言いつつも出してくれる。

 しかし当の僕がなかなかこれといった案を出せなかったので、結局「夏といえば海でしょ!」という沙耶の一声で、初日の行き先は海に決まった。
 車で一時間ほどの所に、そこそこ人気の海水浴場があるのだ。

「でも僕、海には入らないよ。女物の水着を着るのは嫌だし。だからって男物の水着を着れるわけじゃないし……」

「わーかってるって! 別に海に入らなくても、海辺で楽しめることはいっぱいあるんだから!」

 そうして向かった海水浴場では、沙耶の言った通り様々なアクティビティが用意されていた。
 クルージングにバーベキュー、釣りやビーチバレーなど。
 必要な道具の貸し出しは多くの海の家で行われており、僕らのように手ぶらで訪れた客でもすぐに楽しめるようになっている。

 真っ白な砂浜には、やはり多くの人が訪れていた。
 天気も申し分なく、青い海の向こうには立派な入道雲が立ち上っている。
 頭上ではウミネコやトンビが飛び交い、辺り一帯に鳴き声を響かせていた。

「なあ、なあ! スイカ割りしようぜ! ほら、でっかいスイカが売ってる!」

 昼食にバーベキューを楽しんだ後。
 桃ちゃんは店頭で売られていた大ぶりのスイカを指差し、興奮気味に言った。
 「もちろん井澤の奢りで!」という文言を付け加えるのも忘れない。

 ベタな遊びではあるけれど、思い返してみれば、僕はスイカ割りをしたことは過去に一度もなかった。
 実際にやってみると、これが意外と難しい。
 凪も、沙耶も、桃ちゃんも、惜しいところまではいくのだが、あと数センチという差で失敗してしまう。
 タオルで目隠しをされただけで、こうも方向感覚が混乱するものなのか。

「美波ー! もうちょい右!」
「おい美波! そっちじゃねえって! 戻れ!」
「そこだ、美波。思いっきり振り下ろせ!」

 三人の声に翻弄されながらも、ここだと思った場所で、手にした棒を力の限り振り下ろす。
 すると、確かな手応えとともに、足元で何かがぱっくりと割れる音がした。
 と同時に、三人の歓声が一斉に上がる。

 目隠しを外すと、形は歪ではあったものの、スイカはしっかりと割れていた。
 たまらず嬉しくなって、僕は湧き上がる達成感に思わずガッツポーズをした。



 その後も僕らは砂浜で原始的な遊びを続けた。
 砂を盛った山にトンネルを掘ってみたり、四人の名前を足元に書いてみたり、波打ち際のギリギリの所を歩くチキンレースをしてみたり、たまたま見つけた小さなカニをひたすら追いかけてみたり。

 そんな様子を、桃ちゃんは熱心にビデオカメラにおさめていた。
 そういえばショートムービーのコンテストがあるんだっけ、と僕は思い出す。

「桃ちゃんのそれ、コンテスト用に撮ってるの?」

 僕が聞くと、彼は「ああ」と言って視線をカメラから離した。

「夏の終わりに締め切りがあるからな。それまでに編集も終わらせなきゃいけねえ」

「大変だね。でもそれって確か、『比良坂すず』を被写体にするって言ってなかったっけ?」

 僕がまだ入院していた頃、彼は言っていた。

 ——オレの受賞第一作目の被写体は、すず、お前だ! これは絶対に譲れない条件だからな。この夏はずーっとお前にくっついてるぞ。

 彼は自分の想い人を被写体にした作品を作っていた。
 本来ならここに映るのは僕ではなく、比良坂すずであるはずだったのに。

「なんか、ごめんね。せっかく比良坂すずの映像を撮ってるはずなのに……中身が僕じゃ、たぶん違和感があるだろうし、思い通りの()にはならないよね」

 彼の作品の邪魔をしてしまっている。
 それを改めて意識すると、途端に罪悪感が込み上げてくる。

 けれど、

「謝るなよ」

 桃ちゃんはそう言うと、今度は沖の方へと目をやった。
 空はいつのまにか、ほんのりと夕暮れの色を見せ始めている。
 水平線に向かって、白い太陽がゆっくりと落ちてくる。
 昼間より少しだけ涼しくなった潮風が、僕らの髪を撫でる。

「あんたは確かにすずじゃねえけど、だからって赤の他人ってわけじゃないだろ。オレたちはその……もう、友達になったわけだし。友達に謝られるの、オレは嫌なんだ」

 友達。

 まさか彼の口から、そんな言葉が零れるなんて。

 思わず呆気に取られたまま彼の顔を見つめていると、彼は居た堪れなくなったのか、急にそっぽを向いてぶっきらぼうに言い放った。

「す、すずの映像なら、これからいくらでも撮れるしな! それこそオレがいつか本物の映画監督になったら、すずが主演の作品をいくらでも世に送り出してやるよ。だから今だけは、あんたで我慢してやるって言ってんだ!」

 大事な想い人の体を乗っ取った僕のことを、友達として受け入れてくれた。

 そんな彼の懐の深さを思うと、彼に愛された比良坂すずは本当に幸せ者なんだろうなと思う。

 そして、こうして友達になれた僕も。

「ありがとう……桃ちゃん」

 十年の時を越えて、まさかこんな友達ができるなんて。

 僕の人生も捨てたもんじゃないなと、改めて思った。
 
 
          ◯


 二日目は、流しそうめんを体験しに行くことになった。

 例によって朝七時に家の前で集合し、近くに停めてある凪の車へ四人で乗り込む。

 昨日のスイカ割りで味を占めた僕は、その日も何か新しいことに挑戦しようと思っていた。
 せっかくだから夏らしいものをと考えたときに、そういえば本格的な流しそうめんを経験したことはなかったなと気づいたのだ。

「流しそうめんなら、川床(かわどこ)へ行ってみるか? ここから二時間ぐらいの距離だし、山の上の川沿いだから、この季節でもかなり涼しいんだ」

 凪はどうやら行ったことがあるようで、彼に案内されるまま、僕らはそこへ向かった。

 避暑地として人気があるというその場所は、本当に山の上にあった。
 川沿いの舗装された坂道を上っていくと、大型バスや観光客の集まるスポットが見えてくる。
 道の脇には老舗の旅館や料亭が並び、川と緑に囲まれた清涼な空間で、多くの人がお茶や料理を楽しんでいた。

「うっわ、すっご! なんか良い感じの空間!」

「すげえ高そうな店だな! これもぜんぶ井澤の奢りってエグすぎだろ!」

「いや言ってないが!? 勝手にぜんぶ勘定させるな!」

 凪は否定しつつも結局奢ってくれる。
 さすがに学生にお金を出させるのは気が引けるのか。
 まあ、医者の家系で経済的には困っていなさそうだし、と僕もそれに甘えた。

 地元では気温が三十五度を超える猛暑日だったが、ここら一帯は凪の言っていた通り涼しかった。
 麓と比べると十度以上低いようで、半袖だと少し肌寒いくらいに感じる。

 目的の店は料理旅館だったが、この時期に限り特別に流しそうめんもやっているらしい。
 店の前には開店前から列ができていて、整理券をもらったが三十分待ちだった。
 もしも開店後に来ていたら数時間は待たされていた可能性がある。
 それくらい人気の店のようだ。

 やがて順番が迫ってくると、僕らは案内にしたがって階段を降り、川へと近づいていった。
 川の上には広い桟敷(さじき)が設けられており、食事はそこでできるようになっている。
 まだ呼ばれるまで少し時間があったので、僕と沙耶は桟敷の端まで歩き、すぐ下に見える川面を見下ろした。
 縁に腰かけて足を下ろせば、川の水に触れることもできる。

「うはー! 冷たくて気持ちいい!」

 川と滝の轟音が響く中、沙耶の嬉しそうな声が上がった。
 彼女は川面に足先を浸して恍惚の表情を浮かべている。

 「美波もやってみなよ」と言われて、僕も同じように裸足になって足を伸ばしてみる。
 すると、結構な勢いのある水流が指先を弾いて、思わず「ひゃっ」と声を上げた。

「あはっ。良い反応だねぇ」

 にやにやと笑う沙耶の顔がすぐ隣にあって、僕はどきりとした。
 毎度のことではあるが、彼女は基本的に距離が近すぎる。

 かあっと耳が熱くなった気がして、咄嗟に彼女から目を逸らした。
 それを見た沙耶は「んんー?」と怪訝な声を漏らす。

「なに? あたしにドキドキしちゃった? 美波って、あたしみたいなのがタイプだったりするの?」

 揶揄(からか)われているだけなのはわかっているが、僕は満更でもなかった。
 薄々気づいてはいたが、沙耶は、僕が好きだったあの子に少し似ている。
 見た目は全然違うのだけれど、なんというか、雰囲気が近いのだ。

 元気で明るくて、ちょっと強引で。
 屈託なく笑う顔が太陽みたいに眩しい。

 思い出しただけで、鼓動が高鳴る。
 それを悟られたくなくて、僕は慌てて沙耶に反撃する。

「そ、そういう沙耶はどうなのさ? 沙耶だって、桃ちゃんみたいな男子がタイプなんじゃないの?」

 以前もこういう話になったとき、彼女は言っていた。
 好きな人はいるけれど、それは叶わない恋なのだと。
 その話ぶりから、彼女の想い人はきっと桃ちゃんなのだろうと思っていた。

 当の桃ちゃんは今、少し離れた所で凪と話し込んでいる。
 周りは滝の轟音が響いているので、こちらの声はおそらく届かないだろう。

 さて沙耶の反応は、と僕は改めて彼女を見た。
 しかし当の彼女は、

「え? 桃ちゃん? なに言ってんの?」

 きょとん、と不思議そうな顔で首を傾げていた。

 予想外の反応に、僕は拍子抜けする。

「え? だ、だって。キミは前に言ってたじゃないか。好きな人の幸せそうな姿を見てるのが好きだって。それって、桃ちゃんのことじゃないの?」

 包み隠さずに僕が言うと、それを聞いた彼女はやっと何かを理解した様子で、にやにやと意地の悪い笑みを浮かべた。

「ふぅん。なーんだ。意外と気づかないんだね。自分だってある意味似たような境遇のくせに」

「へ?」

 発言の意図がわからない。
 僕が困惑していると、彼女は仕方ないなあと言わんばかりに説明してくれる。

「残念だけど、あたしが好きなのは桃ちゃんじゃないよ。もちろん、友達としては大好きだけどね。でも恋愛対象とは違う。女性の恋愛対象が必ずしも男性ってわけじゃないことは、あんたならわかってくれると思ってたんだけどなぁ」

 恋愛対象は、必ずしも男性ではない。

 苦笑するように言った彼女の言葉で、僕はやっとその真意に気づく。

「もしかして、沙耶の好きな人って……」

 僕が言いかけたその時、後方から凪の呼ぶ声が聞こえた。
 どうやら流しそうめんの順番が回ってきたらしい。

「おっ。やーっとお待ちかねのご飯の時間だね。てわけで、いざ出陣!」

 沙耶はいつもの調子でそう言うと、すぐに腰を上げて桃ちゃんたちのもとへと向かう。

「ほら、美波も。早く行こ!」

 促されて、僕も腰を上げる。

 こちらに笑みを向ける彼女の顔には、一点の曇りも見当たらなかった。


 初めての流しそうめんは、何メートルもある竹筒の表面を滑って僕らのもとへ届いた。

 麺の束が次から次へと流れてくるので、受け皿はすぐにいっぱいになる。
 後ろの客も(つか)えているので、食べる時間は十分程度しかない。

 あっという間にタイムリミットがきて、僕らは慌ただしく店を後にした。余韻に浸る暇もなかったけれど、

「はーっ! 面白かったね!」

 満面の笑みを浮かべた沙耶に言われると、確かに面白かったな、と思う。

 彼女の笑顔はきっと、周りの人を幸せにする。

 桃ちゃんも、比良坂すずも、きっと沙耶の存在に支えられてきたのだ。

 そして、僕も。

 彼女とこうして友達になれたことを思うと、僕は良い友達に恵まれているんだなと、改めて実感した。
 
 
          ◯


 思い出づくりを始めてから、三日目の朝を迎えた。

 今日もまた、目が覚めると僕は比良坂すずの自室にいた。
 パステルカラーのインテリアに囲まれて、あたたかなベッドの中から天井を見上げる。

 僕はまだここにいる。

 この分だと、もしかしたらこれからもずっと、僕はこの世界にいられるんじゃないか——なんて錯覚を起こしてしまう。

(いや……やめよう)

 こういう思考は良くない。

 下手に希望を抱いて、それが叶わなかったときは、余計に自分の心を追い詰めてしまうことになる。

 それに何より、僕がこの世を去らなければ、沙耶や桃ちゃんにとって大事な存在である比良坂すずが戻ってこられないのだから。



「で、今日はどこへ向かえばいいんだ?」

 凪がハンドルを握りながら聞く。
 このやり取りももはやお馴染みとなってきた。

 僕ら四人を乗せた車は、北へ向けて出発した。
 今日は日本海側にある海辺で花火大会と灯籠流(とうろうなが)しがあるのだ。

 花火はともかく、灯籠流しを生で見たことがなかった僕は興味を引かれた。
 沙耶たちに話せばぜひ行こうということで、即刻行き先が決まったのだった。

「にしてもさー。日本海側まで行くのはさすがに遠いね。ここから三時間以上かかるんじゃない?」

 沙耶の言った通り、目的地はかなり離れていた。
 もともと比良坂すずの家は太平洋寄りにあるので、日本海側まで行くとなると南から北へ陸を縦断することになる。

 片道三時間以上。
 往復で六時間以上。
 その間、運転はずっと凪がすることになる。

 ここ数日ずっと僕に付き合ってくれている凪の顔には、あきらかに疲労の色が見て取れた。
 今も運転を続けながら欠伸(あくび)が止まらない。
 そんな彼に今日も長時間のドライブを強いるのは酷である。

「やっぱり、やめとこうか。今の時期ならお祭りは他にもいっぱいやってるだろうし。わざわざそんな遠い所に行かなくても」

 僕がそう諦めようとすると、途端に凪が反論した。

「いや。別にこれくらい大したことない。祭りはともかく、灯籠流しが見られる機会は少ないだろ。このまま行こう」

 彼が無理をしているのは間違いなかった。
 けれど、他でもない彼が僕のためにそう言ってくれているのを思うと、無碍に断ることもできない。

 結局、目的地は変更せずにそのまま車を走らせた。
 途中から高速に乗り、それほど混んでいない道を進む。

 しかし、そろそろ休憩を挟もうかという段になって、

「凪、危ない!」

 僕が助手席から叫ぶと、凪は慌ててブレーキを踏んだ。
 慣性が働いて、僕らの体は前のめりになる。

 車が停まったのは、前方の車と衝突するすれすれのところだった。
 なんとか接触は回避できたことに、全員でほっと息を吐く。

 どうやら事故で渋滞しているらしい。
 それまでスムーズだった車の流れはここでぴたりと止まっていた。

 もう少しで、前方の車に突っ込むところだった。
 凪は居眠り運転でもしてしまったのか、目元を乱暴に腕で擦りながら「ごめん」と呟く。

 どう見ても限界である。

 やっぱり長距離の移動はやめておこう、と全員の意見が一致して、僕らはとりあえず近くのサービスエリアへ向かった。



 凪は凹んでいた。

 もともとそれほど口数が多い方ではなかったけれど、先ほど事故を起こしかけたところから全く喋らなくなり、表情も沈んでいる。

 サービスエリアのフードコートで、ひとり席に着いてコーヒーを啜る彼は半ば放心状態のように見えた。

「井澤さん、大丈夫かなぁ……。体力もそうだけど、主にメンタル的に」

 さすがの沙耶も、今は彼に話しかけられずにいた。
 三人で遠巻きに眺めながら、これからどうしようかと相談する。

「とりあえず高速は降りてさ。近くをぶらぶらしよっか? 遊べる場所は他にもいっぱいあるもんね」

 極力明るい声で言う沙耶を見て、僕はますます申し訳なくなる。

「……ごめん。僕が好き勝手にあちこち行きたいなんて言ったから。みんなにも気を遣わせちゃってるね」

「なーに言ってんの! もともと提案したのはあたしたちだし。それに、これは遊びだよ? 遊びは楽しくやんなきゃ!」

「そうだぞ美波。お前がそんな暗い顔してたら、オレの作品も映像映えしないんだからな!」


 もともとは凪のためになるかもしれないと思って、思い出づくりを始めたはずだった。

 けれど今は、それがみんなの重荷になっている気がする。

 そもそも僕は、いつまでここにいるんだろう?

 僕がこの世から消えない限り、彼らはずっと、僕のために身も心も削り続けることになるのだろうか。
 
 
          ◯


 このままでは駄目だ、と焦燥感が募る。

 僕はもう、ここにいるはずのない人間なのだから。

 本来なら存在するはずのない僕が、凪たちにこれ以上迷惑をかけるわけにはいかない。


 けれど、だからといってどうすればいいのだろう?

 比良坂すずの意識はまだ眠ったままだし、彼女を呼び戻す方法を僕は知らない。

 このまま時間の経過とともに彼女の回復をただ待つことしかできないのか——そう思ったとき、ふと思い出されたのは、光希くんの言葉だった。

 ——人間って意外と気持ち次第でどうとでもなるって、おれの父さんは言ってる。

 僕が退院する日、玄関まで見送りに来てくれた彼は曇りのない笑顔でそう言っていた。

 ——だからおれ、元気になってここを退院していく人に宣言してるんだ。おれはあんたより絶対長生きするって。

 彼は、自分の余命がもう一ヶ月しかないことを知りながらも、気持ち次第でいくらでも長生きができるのだと豪語していた。

 病は気から、なんて言葉もある。

 もしも彼の言った通り、自分の気持ち次第で命の時間が延びるとしたら。
 今の僕は、このままずっとここにいたいと、心のどこかで願ってしまっているのかもしれない。

 この期に及んで消えたくないと、わがままな思いを抱いてるから、そのせいで比良坂すずは戻って来れないのかもしれない。

 だとすれば、僕のやるべきことは決まっている。

 比良坂すずの意識を呼び戻すためにも、僕は、あの世へと旅立つ心構えをしなければならない。

 凪たちに別れを告げ、未練を断ち切って。
 もう思い残すことはないと、この世にさよならをしなければならない。



「……ねえ。できたらさ、この近くのお墓に寄っていけないかな」

 そろそろサービスエリアを出ようとなったとき、僕はみんなに言った。

「お墓? なんで?」

 沙耶は不思議そうに首を傾げる。

「この近くに、愛崎家のお墓があるんだよ。たぶん、ここからそんなに時間はかからないと思う」

 愛崎家、つまりは僕の父方のお墓がこの辺りにあったはずだった。
 詳しい場所は覚えていないけれど、霊園の名前だけは記憶している。
 スマホの地図アプリで場所を確認してみれば、ここから車で十五分ほどの距離にあった。

「愛崎家のお墓……って、それって」

 沙耶が息を呑む気配がした。
 他の二人も、同じような顔で僕を見る。

 愛崎家のお墓にはきっと、愛崎美波が眠っている。

 十年前に火葬された僕の骨が、その場所に納められているのだ。


          ◯


 自分のお墓を見れば、自分の死を実感できるんじゃないかと思った。

 僕はすでに死んだ人間で、いつまでもこの世に留まっているわけにはいかない。

 だから、比良坂すずのためにも、そして僕自身のためにも、僕は自分の死をちゃんと見つめなければならないのだ。


 スマホのナビに従って辿り着いたその霊園は、山の斜面を利用した雛壇状の地形だった。
 ずらりと並んだ墓石の中に、僕の眠る場所がある。

「あれだね。『愛崎家之墓』って書いてある」

 ここには両親に連れられて何度か来たことがあった。
 久しぶりに見たその墓の両脇には、まだ枯れていない花が供えられている。

「さすがに俺も、ここに来るのは初めてだな」

 凪が言った。
 この十年間ずっと僕の臓器を追いかけてきた彼も、さすがに骨の場所まではわからなかったらしい。
 あるいは生きた臓器を追いかけてきたからこそ、死の象徴である墓地には目を向けなかったのだろうか。

「ね、せっかくだから掃除していこっか」

「よっしゃ任せろ。オレが新品みたいにピッカピカにしてやる!」

 自分の眠っている墓を掃除するというのは、なんだか不思議な気分だった。
 備え付けの手桶で汲んできた水を柄杓(ひしゃく)でかけ、墓石の表面をタオルで綺麗に拭き上げていく。
 花はまだ枯れていなかったので、水だけ替えてそのままにした。

 と、足元の雑草を抜いていた凪が、立ち上がった拍子にふらりと眩暈(めまい)を起こした。
 ちょうど隣にいた桃ちゃんに支えられて倒れることはなかったけれど、その顔はなんだか青白く見える。

「凪。やっぱりもう少し休んでた方がいいよ。車に戻ろう?」

「いや、大丈夫だ。でも、ちょっと顔を洗ってくる」

 霊園の端の方にトイレがある。
 ふらふらと覚束ない足取りでそこへ向かう彼に、桃ちゃんが付き添った。
 残された僕と沙耶とで、掃除の仕上げをする。

「にしても、井澤さんって本当に美波のことが大好きだよねえ。あんなにふらふらになっても、美波のことを何よりも優先するんだもん」

 沙耶が唐突にそんなことを言って、僕はなんだか胸の奥がむず痒くなった。

「気持ちは嬉しいけど、さすがに心配になるよ。僕は、凪に無理をしてほしいわけじゃないし」

「まあ、惚れた弱みってやつだよね。好きな相手にはどんなことでもしてあげたいって気持ち、あたしもわかるなぁ」

 人は恋をする生き物だ。

 沙耶も、凪も、僕も、桃ちゃんも。
 そしてきっと、比良坂すずも。
 みんな誰かに恋をしている。

 だから僕にだって、凪の気持ちはわからないわけじゃない。


「あっ、戻ってきた。おかえりー!」

 やがて掃除を終えた頃、沙耶が元気よく言って手を振った。
 釣られて僕もそちらを見る。

 墓石の並ぶ景色の向こうから、桃ちゃんが歩いてくる。
 そしてなぜか、彼の隣には知らない男性が一緒に歩いていた。

 霊園の管理人だろうか。
 にしては、少し若い気もする。
 年は二十代の半ばくらいで、白シャツにスラックスというラフな格好をしている。

「桃ちゃん、おかえり。その……そっちの人は?」

 隣の彼にちらちらと視線を送りながら僕が聞くと、桃ちゃんは途端に「え?」と不思議そうな顔をした。

「何言ってんだよ、美波。こいつは……」

 そこでなぜか、桃ちゃんは口を噤んだ。
 無言のまま、隣の彼と僕とを交互に見る。

「えっ。美波、本当に何言ってんの?」

 と、今度は背後から沙耶が言った。
 どこか戸惑ったような声だった。
 もしかして僕、何かおかしなことでも言ってしまっただろうか。

「美波……」

 最後にそう僕の名を呼んだのは、隣の彼だった。
 左目の下に泣きボクロがある、綺麗な形をした双眸で、彼はまっすぐに僕を見つめている。

「俺のこと、わからないのか……?」

 そこまで言われて、僕はやっと思い出した。

「……凪?」

 見知らぬ男性だと思っていたその人は、凪だった。

 なぜだかわからないけれど、僕は一瞬、彼の顔を忘れていた。
 さっきまでは確かに覚えていたのに。
 それに、これだけ毎日会っている彼のことを忘れるなんておかしい。

「僕、もしかして……」

 まさか、と胸騒ぎを覚える。
 そしてその予感は、おそらく当たっていた。

 記憶が、消えかかっている。

 愛崎美波としての僕の記憶は、いよいよタイムリミットを迎えようとしていた。
 
 
          ◯


 死と向き合おうとした瞬間に、本物の死は一気に距離を詰めてきた。

 やはり光希くんの言っていた通りだと思う。

 人間は、自分の気持ち次第でどうとでもなる生き物だったのだ。


 少し寂しい気もするけれど、これで良かったんだ、と思う。

 僕はもう十年も前に死んでいる。
 この体は比良坂すずのもので、このままずっと借りているわけにはいかないのだ。

 本来なら今この時間だって、僕には与えられるはずのないものだった。
 沙耶や桃ちゃんと出会って、友達になって、凪と再会して。
 母にだって、伝えたかったことを自分の口で伝えられた。

 この三日間、毎日くたくたになるまで遊んで、楽しい思い出をたくさん作った。
 だからもう、思い残すことは何もない。

 僕の魂は、在るべき場所へと還っていく。
 ただそれだけのことなのだ。



「じゃあね、美波。今日も楽しかったよ」

 美波、と沙耶に言われて、一瞬誰のことだかわからなかった。
 一拍遅れて、それが自分の名前だと思い出して、慌てて返事をする。

「う、うん。僕も楽しかった。……また、明日」

 また明日、彼女たちと会えるのだろうか。

 日付が変わって朝になったとき、果たして僕は美波(ぼく)のままでいられるだろうか。

 沙耶と桃ちゃんとは、比良坂すずの家の近くで別れた。
 凪がいつも車で迎えに来てくれる定位置。
 二人の背中に手を振ると、その場に残されたのは僕と凪だけになった。
 街灯に照らされた公園の木が、さらさらと生温い風に揺れる。

「美波。キミは、怖くはないのか?」

 凪が言った。

 「何が?」とは聞かなかった。
 僕が恐怖を感じる対象は一つだけ。
 これから僕の身に訪れるであろう二度目の死が、すぐそこまで迫っている。

「僕はもう、十年も前に死んでいるんだよ。怖いも何も、今さらだよ」

 苦笑まじりに言った。
 今さら怖がったところで、幽霊が死を怖れているようなものだ。

 けれど凪は、

「俺は怖いよ」

 はっきりと、震えた声でそう言った。
 視線は道の先を見つめているが、まるでどこか遠くを見ているように焦点が合っていない。

「俺たち、ずっと一緒だったよな。小学六年のあの日から。中学に入ってからもずっと。部活だって、二人で演劇同好会を立ち上げたし、学校の帰りには沈み橋とかに寄ってさ。俺は、キミと一緒にいられることが幸せだった。ただ隣にいられるだけで幸せだったんだ。なのに……もう、二度と会えなくなるんだぞ。怖いのは俺だけか?」

 そこでやっと、彼の目がこちらを向いた。
 左目の下に泣きボクロがある、妖艶な瞳。
 この特徴的な目のおかげで、僕は彼のことを覚えていられた。

「俺は結局、キミにとっての何だったんだ? キミは、俺と会えなくなっても……何とも思わないのか?」

 今にも泣きそうな顔で彼が言う。

 そんな顔をされたら、こっちまで泣きそうになってしまう。

「……怖いよ。僕だって」

 本当は言いたくなかった。
 たとえ口にしたところでどうにもならないし、虚しいだけだと思ったから。

 けれど、こうして一度でも本音を口にしてしまえば、もう歯止めが効かなかった。

 自分という存在がなくなって、凪とも二度と会えなくなる。
 想像しただけで、足が竦みそうになった。

「本当は、消えたくない。僕だって、忘れたくないよ、凪のこと。ずっとここにいたい。死ぬのが怖い。……死にたくないよ」

 鼻の奥がつんとして、勝手に涙が溢れた。

 この期に及んで、僕は死にたくないと思っている。
 一度死んだ人間がそんなことを思うなんて、自分でも滑稽だと思った。

 体が震えて、うまく呼吸ができなくなる。
 ぐすぐすと鼻を鳴らしていると、こちらの両肩に凪が手を置いた。

「美波。……抱きしめてもいいか?」

 比良坂すずには悪いけどな、と、彼はあくまでも紳士的に確認する。

「……うん。いいよ。きっと比良坂すずの記憶には残らないから、大丈夫」

 今ここで起こることは全部、僕たちだけが覚えている、二人だけの秘密だから。

 僕が了承すると、彼は僕よりもずっと大きな手で、こちらの体を優しく引き寄せた。
 少し苦しいぐらいに、力強く抱きしめられる。
 いずれ消えていく僕を離さまいとするように、背中に回された手の指先まで力がこもっている。
 彼の体温と、心臓の音が、触れた肌から直に伝わってくる。

 ああ、僕は愛されているんだなあ、と思った。

 彼は僕のことを、いつもありのままで受け入れてくれた。

 たとえ僕が女でなくても、男になりきれなくても。
 別の女の子を好きになっても。
 母とケンカをしても、学校で浮いていても。
 事故に遭って、体がバラバラになっても。
 あれから十年が経って、こうして姿が変わっても。

 彼はずっと、僕のことを好きでいてくれた。

 それはつまり、僕の姿形は関係ないということだ。

 たとえ僕がどんな姿をしていても、性別がどちらであっても。彼はきっと、僕のことを愛してくれる。

 僕のことを、魂そのもので愛してくれている。

 なら僕は今まで、なんてちっぽけなことで悩んでいたのだろう。

 性別なんて関係ない。
 誰かを愛することに、きっと体なんて関係なかったんだ。
 

僕《わたし》は誰でしょう

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