車の外に出ると、じりじりと肌を焦がす強い陽射しが私らを出迎えた。
午前十時。
すでに太陽は高い位置まで昇り、朝と比べると気温もかなり上昇している。
ただ、田舎の空気は澄んでおり、都会や街中とは違った爽やかな風が吹き抜ける。
敷地の正面にある階段を四人で上り、頂上に着くと、公園の全貌が目の前に広がった。
「わあ……」
思わず、感嘆の声が漏れる。
公園は思っていた以上に広かった。
サッカーコートが二つぐらい入りそうなだだっ広いグラウンド。
さらに奥に見える小高い山の斜面にも階段が続き、所々にベンチや滑り台などが見える。
「ほへー。すんごい広さだね。一周しただけでヘトヘトになっちゃいそう」
沙耶が言って、井澤さんが頷く。
「ここは町の催しにも色々と使われる場所だからな。お盆の頃には毎年ここで夏祭りが開催されるんだ」
夏祭り。
その響きに、私は自然と胸を高鳴らせた。
もしかしたら、以前の『私』はお祭りが好きだったのかもしれない。
「さて。せっかく公園に来たわけだし、少しだけ遊んでいこうじゃないか」
井澤さんはそう言って、いつのまにか用意していたらしいバドミントンのラケットとシャトルを差し出してくる。
「おおーっ、バドミントン! ここ何年かは全然やってなかったなぁ。ね、すず!」
「え? あ、そうなの?」
沙耶に同意を求められるが、今の私にはその記憶がない。
「小学校のころ以来かなぁ。久々にみんなでやろうよ! ねっ、桃ちゃんも」
「おうよ! オレの華麗なスマッシュを見せてやる!」
どうやら桃ちゃんもやる気らしい。
車酔いも今は治まったようだ。
沙耶に促されて、私らは男女ペアの二チームに分かれる。
ジャンケンの結果、私と井澤さん、沙耶と桃ちゃんがペアになった。
「よおっし! いつでもこい、すず!」
桃ちゃんが威勢の良い掛け声とともにラケットを構える。
無駄に筋肉をつけた彼に打ち返されたら怪我をしそうだな……という不安を抱えながらも、私は最初のサーブを打った。
「えっ、うそ。すずがサーブを打った……!?」
と、何やら沙耶がよくわからないことを口走って驚愕の表情を浮かべた。
そのまま呆然と突っ立っているだけの彼女の頭上を飛び越えて、シャトルはストンと地面に落ちて転がった。
早速こちらのチームに点が入る。
「沙耶。どうしたの? 何かそんなにびっくりするようなことした?」
桃ちゃんがシャトルを拾ってくる間に、私は尋ねた。
すると彼女は、急にこちらへつかつかと歩み寄ったかと思うと、私の両手をラケットの持ち手ごとガシッと握り込む。
「そりゃびっくりするよ! すず、いつのまにそんなにバドミントン上手になったの!?」
「えぇ?」
上手、と言われても。
さっきはただ普通に一発サーブを打っただけだ。
スピードも特に速くないし、驚かれるようなことは何もしていない。けれど、
「すずが今までラケットにシャトルを当てられたことなんてほとんどなかったじゃん! いつのまにそんな普通に打てるようになったの!?」
よくよく聞いてみると、どうやら比良坂すずは極度の運動音痴で、サーブ一つ満足に打てなかったらしい。
(そこまでくるとなかなかだな……)
聞けば聞くほど、比良坂すずという人物のことが心配になってくる。
これは周りが過保護になるのも無理はないな、と改めて思う。
「まあ、でも。すずと一緒にバドミントンができるようになったのは嬉しいよ。あたし、こうやってすずと一緒にスポーツするの、ずっと楽しみにしてたから」
そう言って、彼女は私の手を握ったまま満面の笑みを浮かべた。
その眩しい笑顔に、思わず胸を高鳴らせてしまう。
そんな私の気も知らずに、彼女はすぐに自分の位置へ戻ったかと思うと、ラケットをぶんぶん振り回して次のサーブを促す。
「ほら、すず! もっかいやって! 今度はちゃんと打ち返すから!」
仕切り直しでサーブを打つと、今度はかなり長いラリーが続いた。
三人とも、素人ながらそこそこ運動神経は良いように見える。
こうして広い公園でラケットを振るうのは、なんだかとても懐かしいことのような気がした。
もしかしたら私は以前にも、ここでこうして誰かとバドミントンをしたことがあるのかもしれない。
(でも……誰かって、誰なんだろう?)
◯
「は——っ! 良い汗かいた!」
公園にあった女子トイレの手洗い場で、沙耶は甘い香りのする汗拭きシートを取り出しながら言った。
バドミントンでのバトルは思ったより白熱し、ただでさえ暑い真夏の炎天下でたっぷり汗をかいてしまった。
私はハンカチくらいしか持って来なかったので、見兼ねた沙耶がシートを分けてくれる。
こういうところを見ると、彼女もやっぱり女の子だなぁと思う。
「そういえばさ。今のすずって、トイレとかは不便だったりしないの? 女の子の体で、その、やりにくかったりとか……」
沙耶は少しだけ言葉を濁しながら聞く。
男と女では体の構造が違う。
自分を男だと認識しているなら、女の体では何かと不便があるはずだろうと。
けれど実際には、私は物理的な面では特に困らなかった。
不思議なくらいに、女の体で用を足すことに違和感はなかったのだ。
もしかしたら、比良坂すずの体がその動作を覚えているのかもしれない。
記憶は細胞に宿る、なんて言う人もいるくらいだ。
たとえ私が覚えていなくても、この体のどこかに記憶が残っているのかもしれない。
「あ。なんかデリケートなこと聞いちゃってるよね。ごめん、忘れて!」
私が返事に窮していると、沙耶は慌てて話題を変える。
「それで、どう? 探し物は見つかりそう?」
探し物。
一瞬何のことだかわからなくて首を傾げていると、
「記憶の断片、だっけ。この町に見覚えがあるんだよね? 何か思い出せそう?」
「ああ……」
記憶の断片。
この町へ以前にも来たことがあるという感覚。
朧げだが確かに感じるこの懐かしさを辿っていけば、私は何かを思い出せるかもしれない。
「まだはっきりとはわからないけど、思い出せそうな気はしてるよ。この公園のことも、なんとなく懐かしい感じがするし。私は多分、前にもここへ来たことがあるんだと思う」
「それって、すずの記憶とは別……ってことだよね?」
沙耶は恐る恐る尋ねてくる。
私は質問の意図を測りかねて彼女の顔を見た。
「どういうこと?」
「いや、その……。この町に訪れた記憶とか、自分が男だって思うその感覚とかってさ、それって全部、すずの持ってた記憶じゃないよね。今のあんたは、すずじゃない。全く別の、あたしとは関係がない赤の他人だよね?」
赤の他人。
なんとなく、急に突き放されたような響きを持つ言葉だった。
「実を言うとさ。あたし、ちょっと安心してるんだよね。今のあんたがすずとは別人だってこと」
彼女の思わぬ本音に、私は面食らった。
「安心? どうして?」
「だって今のすず、あたしのことをちょっと意識してるでしょ。女の子同士っていうよりは、気になる異性として意識してる」
指摘されて、私は二の句が告げなかった。
沙耶のことを、一人の異性として見ている。
彼女を見る視線にほのかな熱がこもっていたことも、どうやら本人に見破られていたらしい。
「わかるよ。なんとなく。男の人の視線って、けっこう正直だからさ」
シートで体を拭く彼女の、髪をかき上げた時に見えるうなじ。
ホットパンツの下から覗く瑞々しい脚。
それらに無意識のうちに視線をやってしまっていた自分に気づいて、今さら恥ずかしくなってくる。
「ご、ごめん。私、そんなつもりじゃ……!」
「いいよ。あたしは気にしてない。ただね、あんたが本物のすずだったら、それは困るの。すずがあたしに恋愛感情を抱いちゃうのはダメ。だってすずは、桃ちゃんのことが好きなんだもん」
彼女は本当に気にしていないといった風に笑って言った。
「桃ちゃんも、子どもの頃からずっとすずのことが好き。二人が両想いだってことは、誰よりも近くで見てきたあたしが一番よくわかってる。だから、その関係を壊しちゃいけないの」
そう言った彼女の横顔は優しい微笑を浮かべていたけれど、どこか寂しそうにも見えた。
「その……。沙耶は、好きな人とかいないの?」
もしかしたら彼女も桃ちゃんのことを——と、そんな可能性を考えてしまう。
「いるよ。叶わない恋だけどね。……でもいいの。あたしは、あたしの好きな人が幸せでいてくれるなら、それを見てるだけで幸せだから」
自分のことよりも、大切な人の心を優先する彼女の懐の深さに、私はそれ以上何も言えなくなってしまった。
と、それまで静かだったトイレの外側から、何やら口論するような声が聞こえてきた。
「だからあんたは、一体何が目的なんだよ!!」
怒りを含んだその声は、桃ちゃんのものだった。
おそらくは井澤さんに向けたものだろう。
「なんか揉めてんね。まっ、そりゃそうか。桃ちゃんはすずのこと大好きだし、井澤さんのことを敵視する気持ちはあたしもわかるしね」
「は、早く止めにいかないと」
すかさず駆け出そうとした私に、沙耶は「待って」と後ろから声をかける。
振り返ると、彼女は腕組みをしたまま諭すような声で言った。
「あたしもまだ信用してないよ、井澤さんのこと。もしもすずに何かあったら、あたしはあの人のことを絶対に許さないから」
◯
公園の駐車場に車を置いたまま、私らは町の中を散策してみることにした。
町は端から端まで一キロぐらいしかないので、徒歩でも簡単に見て回れる。
先ほど声を荒げていた桃ちゃんは未だ不機嫌さを露わにしており、井澤さんの顔を視界に入れようとしなかった。
けれど、途中で立ち寄った古い商店でアイスを井澤さんに奢ってもらうと、その後はいくらか表情が和らいだように見えた。餌付け完了である。
町の中はほとんどの土地が戸建ての家で埋まっていたが、ちょうど町の中心を横切る主要道路の周りだけは、スーパーやコインランドリー、食事処など、いくつもの店で賑わっていた。
そして、そこから少し逸れた道を進んでいくと、前方に何やら大きな建物が見えてきた。
「あれが桜ヶ丘小学校だ。この町に住む子どもは、みんなあの学校に通ってる」
井澤さんが言った。
どうやらこの町唯一の小学校らしい。
三階建ての、白っぽい横長の校舎が見える。
正面玄関の手前には、緑の葉をつけた立派な桜の木が立っている。きっと入学式のシーズンには美しい花を咲かせるだろう。
「この小学校も、すずの記憶と何か関係があるんですか?」
隣から沙耶が聞いた。
「まあな。本人が思い出すかどうかはわからないが」
井澤さんが言うと、三人の目が一斉に私を見る。
「え。あの……そんなに見つめられると緊張するんだけど」
「大丈夫だ、すず。お前は世界で一番可愛い」
「いや、そういう問題じゃなくて」
彼らに期待されたところで、私の記憶が戻るのかどうかはわからない。
そもそも比良坂すずとは無縁のこの地で、私は一体誰の記憶を思い起こそうとしているのだろう?
せっかくこうして遠出してきたというのに、もしもこのまま何も思い出せなかったとしたら、なんだか皆に申し訳がない。
何か手掛かりになりそうなものは——と考えたとき、ふと頭を過ったのは、先日井澤さんから見せてもらった一枚の写真だった。
「井澤さん。前にスマホで見せてくれた写真がありましたよね。川に橋が架かってる写真。あの場所ってここから近いんですか?」
「ああ、あれな。山を下りてすぐの所だ。車で行けば五分もかからない」
青々とした山をバックに、川の上を細い橋が横切っている写真。
もともとはあの場所へ連れていってくれるのだと井澤さんも言っていた。
「何の変哲もない川だけど、とりあえず向かってみるか。昔はよくあそこで遊んだしな」
「え?」
彼の何気ない一言が、私には引っかかった。
昔はよくあそこで遊んだ。
それは、一体誰の話をしているのだろう?
まるで当時の様子をその目で見ていたかのような彼の口振りからすれば、遊んでいたのは彼自身か、あるいは彼がよく知る人物ということになる。
井澤さんはこちらの視線に気づくと、一瞬だけ目を丸くして、すぐに顔を逸らして言った。
「もうじき腹も減ってくる頃だろ。橋を見終わったら、麓の方で飯にするか」
◯
再び公園まで戻って車に乗り込むと、私らは目的の場所へと向かった。
井澤さんの言っていた通り、車で五分とかからなかった。
最初にこの町へ来た時の山道とは逆の方向にある、麓へ下りるためのS字状の坂。
そこを下りてしばらく進むと、やがて川が見えてくる。
「見えたぞ。氷張川だ」
井澤さんが言った。
この土地と同じ名前を持つ、穏やかな川。
あの写真の背景に見えていた山は、先ほどの町を支えている山だったのだ。
川の脇には竹林があり、その陰に車を停める。
ドアを開けて外に出ると、サラサラと風に揺れる葉の音が耳をくすぐった。
竹林の途中には川へ続く細い道があり、竹のトンネルのようになっているそこを抜けると、目が覚めるようなアブラゼミの声とともに、川の景色が視界いっぱいに広がった。
「おおー! 絶景じゃん!」
沙耶が言って、桃ちゃんも同じように「うおおお」とテンションを上げる。
雑草が生え放題の河川敷に挟まれた川。そこにコンクリート製の細い橋が渡されている。
橋の幅は軽自動車がギリギリ通れるかどうかといったところで、手すりなどは見当たらない。高さもなく、川が少しでも増水すればたちまち沈んでしまいそうに見えた。
「この橋は『沈み橋』って呼ばれててな。雨が降って水位が高くなると、すぐに川の中へ沈んでしまうんだ。『沈下橋』とか、『潜水橋』ともいうらしい」
そんな井澤さんの説明に、桃ちゃんはビデオカメラを構えたまま不可解そうに眉を顰める。
「川の中に沈んじまったら、橋の意味がなくなるんじゃないのか?」
「この橋が作られたのは、かなり昔のことみたいだからな。当時は川の流れを妨げないようにとか、洪水で流木が流れてきても橋が壊れないようにとか、色々考えがあってこの形にしたんだろう。今じゃメインの橋は別にあるから、わざわざこっちを通る必要もないしな」
言いながら、井澤さんは川の下流の方を指で示す。
視線の先にはもっと高い場所に丈夫そうな橋があり、その上を自動車が行き交っていた。
「それじゃあこの場所は、子どもの遊び場にはもってこいだね」
私は橋の縁にしゃがんで、すぐ下に見える川面を眺める。
水深はそれほどないようで、おそらくは底に足を着けても膝丈ぐらいしかなさそうだった。
少しだけ、川に入ってみようかな、なんて思う。
灼熱の太陽はどんどん高さを増し、今はほぼ頭の真上にある。
一日で一番暑い時間帯。
ここで足を川に浸せば、どれだけ気持ちが良いだろうか。
「すず。気をつけてね。あんまり下を覗き込んでたら落っこちちゃうよ?」
後ろから沙耶の心配そうな声が届く。
普段の比良坂すずなら、実際に落っこちてしまいそうになるのもわかる。
と、何気なく聞き流そうとした彼女のセリフに、ふと既視感のようなものを感じた。
——気をつけろよ。あんまり覗き込むと落っこちるぞ。
誰かの声が、記憶のどこかで蘇った。
まだ幼さの残る、男の子っぽい声だった。
「うっ……」
途端にひどい頭痛がして、私は片手で額を押さえる。
「すず。大丈夫か!?」
すかさず背後から桃ちゃんが駆け寄って、こちらの両肩に手を置く。
痛みはすぐに治まったので、「ごめん。大丈夫」と笑ってみせる。
けれど、心臓は未だバクバクと早鐘を打っていた。
(今のは、一体……)
一瞬だけ脳裏を過った男の子の声。
あれは一体、誰のものだったのだろう?
◯
「そろそろ教えてくれてもいいんじゃないんですか?」
竹林の陰に停めていた車に戻ると、開口一番に沙耶が言った。
対する井澤さんは「何を?」ととぼけながらシートベルトを着用する。
「いい加減、あなたの知ってることを全部教えてくださいよ。すずのこと。今どうしてこんな状態になってるのかも、全部わかってるんでしょう? すずに遠慮して、あたしたちも強くは言わなかったけど。さすがに今のすずの状態を見てたら、あたしも黙ってられないし」
先ほど私が頭痛を訴えていたのを見て、彼女もついに痺れを切らしたのだろう。
これ以上は黙って見ていられないと、強めの口調で井澤さんに迫る。
「俺が全部喋ってしまうと、それは本人にとってはただの『知識』になってしまうぞ。本来の意味での『記憶を取り戻す』という形ではなくなってしまうわけだが、それでもいいのか?」
井澤さんは確認するようにこちらをちらりと見る。
同じく後部座席からも二人の視線が向けられる。
「すずはどうしたい? このまま自然と記憶が戻るのを待つ方がいいの?」
聞かれて、返事に詰まる。
早く情報が欲しいというのが本音だが、しかし井澤さんの言うことにも一理ある。
彼から口頭で真実を並べられても、それは本当の意味で記憶を取り戻したことにはならないのではないか。
しばしの沈黙の後、最初に口を開いたのは意外にも桃ちゃんだった。
「じゃあさ。あんたがすずに会いにきた理由だけでも教えてくれよ。あんたがなんですずのことを知っていて、オレたちの存在も知っていたのかを。それならまだ、すずの記憶に直結するわけじゃないだろ?」
「そうだなぁ」
桃ちゃんの提案に、井澤さんは車のエンジンをかけながら肯定的に返事をする。
「まぁ、『比良坂すず』に関することだけなら話してもいいかもな」
エアコンが作動し、灼熱の車内にやっと冷風が混じる。
すぐにアクセルが踏まれ、タイヤが動き出す。
車は先ほど川の下流に見えた新しい橋を目指していた。
丈夫そうで、高い場所にあって、洪水が起こってもそうそう沈むことはなさそうに見える。
と、そこで車道の脇を人が歩いているのが目に入った。
中学生くらいの女の子四人組で、それぞれカラフルな浴衣を着ている。
(もしかして、今日はお祭りがあるのかな)
祭りの様子を想像しただけで、胸が高鳴った。
盆踊りの太鼓の音。
屋台から香る美味しそうな匂い。
人々の楽しそうな笑い声。
そして、夜空に打ち上がる大きな花火。
「正直に言えば、俺は『比良坂すず』には用はない」
井澤さんが言った。
その発言に、桃ちゃんは「何だと!?」と今にも殴りかかりそうな勢いだったが、隣から沙耶が必死に止める。
そんな彼らを意に介した様子もなく、井澤さんは淡々と続けた。
「俺は、比良坂すずに会いに来たわけじゃない。俺が用があるのは……——比良坂すずの右目だけだ」
◯
昼食をとるために私らが向かったのは、夏祭りの会場だった。
私が祭りに興味を示していたから、井澤さんが気を利かせて車をそちらへ向かわせてくれたのだ。
「ありがとうございます。井澤さん」
「いや。もともとはこの夏祭りにキミを連れていきたかったから、俺はこの日を選んだんだよ」
井澤さんはそう言って、車を会場の駐車場に停めた。
氷張川の西岸、河川敷の土手を上ったところに、屋台がずらりと並んでいる。
けれど祭りのメインは花火なので、この時間帯はまだ準備中の所が多かった。
会場の入口付近でパンフレットの紙をもらうと、表面の上部には祭りの名前がでかでかと印字されていた。
『氷張川納涼花火大会』。
その名の通り、この氷張川の真上に花火が打ち上がるらしい。
「あっ! あそこの屋台はもうやってそうじゃない? 良いにおいがする!」
沙耶が嬉しそうに言って、焼きそばの屋台に駆けていく。
すぐ後ろにいた桃ちゃんも同じようについていくのかと思いきや、彼はいつになく神妙な面持ちでその場に突っ立ったままだった。
「桃ちゃんは買いに行かないの?」
不思議に思って私が聞くと、
「すず……」
と、彼は反射的にこちらの名を呼んで、それから困ったように肩を竦めた。
「……いや。今のお前は、すずじゃないんだよな」
その瞳は、あきらかに失望の色を滲ませていた。
今の私は、比良坂すずじゃない。
その事実を再認識した瞬間、先ほど車の中で聞いた井澤さんの話を思い出した。
——俺が用があるのは、比良坂すずの右目だけだ。
——右目?
彼の発言の意味がよくわからず、私は思わず聞き返していた。
おそらくは後部座席にいる沙耶と桃ちゃんも同じような反応をしていたと思う。
——比良坂すずは今から十年前、七歳の頃に右目の角膜移植を受けている。公園で転倒した際に植木の枝で右目を負傷し、角膜を損傷して著しく視力が低下した。それを治療するために、臓器提供者から角膜の提供を受けて移植手術を行ったんだ。
急に専門用語をいくつも述べられて、私は戸惑っていた。
角膜、ドナー、移植手術……。
それらは病院以外ではあまり耳にしない、およそ日常会話ではそうそう使われない単語ばかりだった。
——角膜を移植……。そっか。確かにすずは子どもの頃、右目を怪我して入院してたよね。
後部座席から、沙耶の証言が飛んでくる。
井澤さんは続けた。
——怪我をしたのは六歳の頃で、そこからしばらく右目は使い物にならなかったはずだ。ドナーから角膜の提供があるのを待って、一年後に移植し、視力を取り戻した。
——それ、オレも覚えてる。すずは一年ぐらいの間、ずっと右目に眼帯をしてた。すずが失明しちまうんじゃないかって、オレ怖くて怖くて……。
桃ちゃんも当時のことを思い出したように言う。
比良坂すずは十年前に、角膜の移植手術を受けた。
それはどうやら本当のことらしい。
けれど、
——でも、それが今回の記憶のこととどう関係があるんですか?
不思議に思って、私は尋ねた。
比良坂すずの右目と、今の私の記憶。
その二つが一体どう結びつくのか皆目見当がつかない。
——記憶転移、という事象を知っているか?
そんな井澤さんの質問に、私はハッとあることを思い出す。
記憶転移。
その単語の響きには聞き覚えがあった。
確か、数日前に桃ちゃんが口にした言葉だ。
臓器移植によって、記憶が転移すること。
誰かの心臓を別の誰かに移植した際、元の心臓の持ち主の記憶が引き継がれるという話。
嘘か本当かもわからない、時折フィクションで題材にされる都市伝説的なもの。
——今のキミは、比良坂すずの記憶を失っている。そして代わりに、別の誰かの記憶を思い出しつつある……。俺の見立てが間違いでなければ、今のキミはおそらく、その右目の持ち主だった人物の記憶を引き継いでいるんだ。
まるで現実的ではない事象について、医者の一人である井澤さんが語っている。
——俺は、その右目の持ち主だった人物を知っている。そして、その人物と再び対話するために、俺はずっとキミたちのことを追っていたんだ。
◯
人の記憶は体のどこに宿るのだろう?
脳か、心臓か。はたまた体の全ての細胞か。
もしも細胞に記憶が宿るなら、他人の角膜を移植された人間は、その他人の記憶を引き継ぐことができるのかもしれない。
私はいま、自らの身をもって、それを実証しようとしている……。
「あっ、かき氷の屋台だ! 井澤さーん。あれも欲しい!」
「遠慮ってものを知らんのか、キミは」
甘い声の沙耶に強請られ、井澤さんは渋々と財布を取り出す。
そんな彼らの後方で、桃ちゃんはひとり明後日の方向を向いていた。
心ここに在らず、といった様子でぼんやりと空を眺めている。
きっと、今の私が『比良坂すず』ではないことに強いショックを受けているのだろう。
大事な幼馴染、それも密かに想いを寄せている相手が別人と入れ替わっているなんて知ったら、こんな風になってしまうのもわかる。
「キミは何も食べないのか?」
いつのまにか、井澤さんが隣に立っていた。
彼の手元にはたこ焼きの載ったトレーが二つあり、そのうちの一つをこちらへ差し出してくれる。
「育ち盛りだろ。食べとけ。途中で倒れられても困るからな」
彼は有無を言わさずトレーをこちらに押し付けて、今度は桃ちゃんのもとへと向かう。
そうして同じようにたこ焼きを勧めたが、彼には断られたようで、仕方なく自らそれを食べ始めた。
「それで、どうだ? そろそろ何か思い出せそうか?」
出来立てアツアツのたこ焼きを口に頬張りながら、彼は聞く。
私の中に存在する、比良坂すずとは別人の記憶。
しかし今はまだ、決定的なことは何も思い出せない。
この町を見て『懐かしい』という感覚は確かにあるけれど、ぼんやりとそう感じるだけだ。
この右目の所有者が一体どんな人物だったのかはまだ何も見えてこない。
「あの……。井澤さんが知っているその人は臓器提供者で、実際に角膜を提供してくれたわけだから……今はもう、この世にはいないってことですよね?」
十年前、比良坂すずに角膜を提供したドナー。
ということは、その人は十年前の時点ですでに亡くなっていたということだ。
「俺に質問ばかりしていると、ただの推理ゲームになってしまうぞ。問いかけるなら、自分の胸に聞いた方がいい」
その通りだった。
彼から情報をせがんでばかりでは、ただの人当てクイズになってしまう。
さながら『私は誰でしょうゲーム』だ。
「私は……。たぶん、お祭りが好きだったんですよね。ここの景色を見ているだけで、とてもワクワクするんです」
確信を持って言えるのはそれだけだった。
生前の『私』はきっと、一年に一度のこの花火大会のことを毎年心待ちにしていたのだと思う。
「そうだな。……あいつは祭りが好きだった。十年前のあの日だって、直前まで楽しみにしてたんだ」
そう言った彼の声は優しかった。
まるで大切な人のことを思い起こすような、確かな慈しみの心がそこに滲んでいた。
「井澤さんにとって、その人はどんな存在だったんですか?」
「そうだなぁ。俺にとっては、かけがえのない存在だったよ。キミが俺のことをどう思っていたのかはわからないけどな」
彼のその言い方は、私とその人を完全に同一視していた。
私の中にはその人の記憶があり、そして記憶の中に、その人の魂が宿っている——暗にそう言われたような気がして、私はそのとき初めて、『自分』の居場所がここにあるような気がした。
◯
「臓器移植で記憶が移るなんてこと、本当にあるんですね」
私はまだ夢見心地だった。
赤の他人から角膜を移植されたことで、その人の記憶が転移する。
そんな現象は、映画やドラマなどのフィクションの中だけのお話だと思っていた。
「正直、俺もびっくりしてるよ。この十年間、あるかどうかもわからない記憶転移の可能性だけを信じて、キミの臓器を追ってきたけれど……。キミのその角膜以外の臓器はみんな、すでに役目を終えてしまった。肺も、心臓も、もう一つの角膜も。移植された移植患者とともに、すでに亡くなってしまった。誰もがキミの記憶を思い出すことはなかった。たった一人、比良坂すずだけを除いて」
井澤さんを十年も動かしてきたそれは、おそらく執念だった。
現実に起こるかどうかもわからない記憶転移を信じて、そんな長いあいだ私を追いつづけるなんて、正気の沙汰ではないと思う。
やがて祭り会場を一通り見て回ると、今度は少し道を逸れて、街の方へ繰り出してみることにした。
私はきっと、この土地の出身なのだと思う。
今はまだはっきりとは思い出せなくても、街のいたる所に見覚えのある場所が存在する。
だからこうして街を散策していれば、いずれは決定的な事柄を思い出せるかもしれない。
「おっ! ショッピングモールはっけーん!」
と、沙耶が道の先を見てテンションを上げる。
桃ちゃんと違って、彼女は今のこの状況下でも楽しんでいるようだ。
いや、もしかしたらそういう風に明るく振る舞っているだけかもしれないが。
「あっ。あっちは昔ながらの商店街! 今じゃ絶滅危惧種だよねぇ」
ショッピングモールに商店街。
どちらもかなりの年季を感じさせる佇まいで、今も現役であることがむしろ不思議なくらいだった。
そして、どちらも例によって私には見覚えがある。
「この辺りにも、私は来たことがあると思う。というより、日常的にここを利用してた……のかな」
朧げな記憶の中で、この辺りを歩いていた感覚を思い出す。
老朽化の進んだアーケード。
道の途中で急に姿を現す石造りの鳥居。
疎らな人通り。
と、そこへチリン、と鈴を鳴らしながら自転車が通りかかった。
白いセーラー服に紺色のスカートとリボンを付けた、中学生くらいの女の子。
今は夏休みの時期なので、部活の帰りだろうか。
走り去る彼女の後ろ姿を、私は半ば無意識のまま目で追っていた。
律儀にヘルメットを被るその姿に、強い既視感を覚える。
「あの制服も、見覚えがある……」
どこかの中学校の制服。
夏仕様の、紺色のスカートとリボン。
ふわりと風に舞うスカートの裾が、記憶のどこかでフラッシュバックする。
私は自転車の少女から目を離すと、今度は彼女が通ってきた道の先を見つめた。
「こっちの方角に、中学校があるよね。ここからそう遠くない。歩いていける距離の所に」
私はフラッシュバックした記憶を頼りに足を踏み出して、やがて走り出した。
この先に、学校がある。
おそらくは私が通っていた場所。
十年前に死んだ私の、まだ生きていた頃の思い出が、そこにあるような気がした。
細い路地を抜け、広めの車道に出る。
そこから駅のある方向へ進んでいく途中で、目的の建物はついに姿を現した。
氷張市立氷張中学校。
校門前の坂は急で、その先に見える校舎の景色がひどく懐かしい。
「氷張中学……。そうだ。私はここに通ってた。自転車で。あの山の上の町から、S字の坂を下りて……」
頭に浮かんだ映像を口にすればするほど、記憶が鮮明になっていく。
自転車で山を下りる時の、肌を撫でる風。
太陽に温められた緑と土のにおい。
氷張川の途中に見える沈み橋。
そして、この校門前の坂に差し掛かる頃にはいつも、
——おはよう、みなみ。
誰かが、私にそう挨拶していた。
みなみ。
そう、みなみだ。
苗字か、下の名前かはわからない。
けれど、生前の私がもしも男だったとしたら、『みなみ』は苗字かもしれない。
「何か思い出したか?」
不意に、隣から井澤さんの声が聞こえた。
ハッとしてそちらを見ると、彼はどこか不安げにこちらを見つめていた。
まつ毛の長い、妖艶な瞳。
その左目の下にある泣きボクロ。
その顔が、私の記憶の中にある人物と重なる。
十年前に、この校門前で毎日挨拶を交わしていた男の子。
——おはよう、みなみ。
——うん。おはよう、凪。
凪、と。記憶の中の私が、その男の子を呼ぶ。
紺色の学ランに身を包んだ、綺麗な目をした男子中学生。
そうだ。
どうして今まで忘れていたんだろう。
井澤さんの年齢は、おそらく二十代の前半から半ばほど。
十年前はきっと中学生だったはずだ。
「……あなたは、凪。私の友達だった、凪なんだね?」
井澤凪。
彼のフルネームを思い出して、私は合点がいった。
対する井澤さんも、こちらの顔を見ながら、ふっと肩の力を抜くようにして微笑んだ。
「そうだ。俺はキミの友達だった。学年も同じ。十年前、キミと同じこの中学に通っていた井澤凪だ」
十年前にこの場所で、毎日彼と顔を合わせていた。
当時の光景が、確かな色を持って頭の中に蘇る。
「あのー、もしもし? なんか二人きりで盛り上がってるとこ悪いけど、あたしたちの存在を忘れてません?」
と、横から沙耶が割って入る。
彼女は何が何だかわからないといった様子で、私と井澤さんの顔を交互に見ていた。
「ごめん、沙耶。私もまだわからないことがいっぱいなんだけど……もう少しで思い出せそうなんだ」
井澤さん——もとい、凪のことは今、やっと思い出した。
彼は私の小学校の頃からの友達で、お互いによく会話をしていた覚えがある。
ただ、会話の内容まではまだ思い出せない。
彼と何か、大事な話をよくしていたような気がするのだけれど。
「俺のことは少しずつ思い出してきたようだな。それで、キミ自身のことについては、何か思い出したか?」
凪が聞いて、私は再び彼の方へ視線を戻す。
「私は、『みなみ』という名前で呼ばれていたと思う。でもフルネームはまだ思い出せない。それに顔も……」
記憶の中で、自分の目で見たもの、周囲の環境なんかは少しずつ思い出せている。
けれど、肝心な自分自身のことはまだ見えてこない。
私はどんな人物だったのか。
そして、なぜ十年前に死んでしまったのか。
「もう一度、桜ヶ丘の方まで戻ってみるか?」
凪が言って、私は頷く。
あの山の上にある町はきっと、十年前に私が住んでいた場所だ。
あそこに戻れば、もっと具体的なことを思い出せるかもしれない。
「ごめんね、沙耶。桃ちゃんも。私のワガママで連れ回しちゃって」
「ぜーんぜん! もともとあたしらは勝手についてきたわけだしね。それに、今のあんたの記憶の謎を解明しないことには、すずの意識も戻ってこられないかもしれないし」
そんな沙耶の発言に、私は急に背中から水を浴びせられたような感じがした。
比良坂すずの意識。
そういえば、彼女の記憶は今どこにあるのだろう?
「さて。それじゃあ車の方まで戻るか。祭り会場の駐車場だったな」
凪が言って、みんなが歩き出す。
一拍遅れて、私もその後を追う。
言い知れぬ不安に駆られた私のことを、やけに無口になった桃ちゃんだけが見つめていた。