午前七時十五分、誰もいない教室。夏でも朝の机はひんやりとして気持ちがいい。
私、一瀬さくらが机に突っ伏していると、ガラガラとドアを開く音がする。
「一瀬さん、おはよう。今日も早いな」
「おはよう。川上くんこそ」
川上翼くん。笑顔が素敵なサッカー部の二年生。
彼は朝早く学校に来て、課題だったり、予習をしている。
放課後は少しでも練習に集中したいらしい。
私はそんな彼を毎朝見ている。だって、好きだから。
きっかけは昨年の文化祭の準備をしていた時。
その時の翼くんは別のクラスだったけど、私が一人で看板を作っていたら彼が近づいてきた。
「うわ、すごい綺麗な字!」
「え、別に……普通だよ」
「すげえ、これが普通なんだ。俺字汚くてさ、教えてほしいくらい」
たったこれだけ。このあと綺麗な字の書き方を教えたわけでもないし、特別仲良くなったわけでもない。
ただ、私の字を褒めてくれたときの彼の純粋な笑顔が忘れられなくて、気づいたら好きになっていた。
我ながらチョロいなって思う。
でも、翼くんのことを知れば知るほど好きになっていく。止まらない。
だから、二年生になって同じクラスになった時は思わず踊り出しそうだった。
本当は一緒にご飯を食べたり、登下校したり、あわよくば……恋人になったり。
そんな夢はあるけど、次に進む一歩がとても遠くて、こんな関係に収まっている。
毎朝勉強をする彼をただ眺めるだけ。会話なんかもほとんどない。でもこれでいい。
他に誰かが来るたった三十分ほどの静寂、これが私の特別な時間。
「おーっす翼、また勉強して真面目だな!」
「うっせ、お前はちゃんと勉強しろ」
八時を過ぎて、続々とクラスメイトが集まってくる。この頃になると、私は授業が始まるまで本を読んで過ごす。
しかし、今日は聞き逃せない会話が耳に入ってきた。
「そういえば翼、好きな人いるってマジ?」
「はあっ? うるせえよ」
「その反応はいるやつじゃん! 誰、何組かだけ教えてくれよっ」
私の中に芽生えたのは希望と恐怖。
もしかしたらその好きな人は私かもしれない。でも、違ったら……。
本を読むふりをしながら、私はじっと耳を傾ける。
「こんなところで言わすなって! 分かった、分かったから。また部室でな」
「ちぇー、分かったよ」
一体誰なんだろう。
私だったらいいな、でも私と翼くんはほとんど話さないし、でも……もしかしたら。
でも、でもと、そんな考えがグルグルと脳内を駆け巡る。
私は一日中そのことが気になって授業に集中できなかった。
ホームルームが終わり、私は図書館で勉強を始める。
家より集中できるからというのも理由のひとつだが、一番の理由は翼くんだ。
もしかしたら下校のタイミングが被ったり、声をかけてもらえるかもなんて淡い希望を抱いていた。
§
帰り道、相変わらず私は翼くんの好きな人が気になって、ぽけーっと歩いていた。
「好きな人、誰なんだろ……」
そんな私の目に飛び込んできたのは、うずくまっている女の子。
綺麗な茶色のミディアムヘアが印象的だった。
河川敷の高架下、何かあったのかと私は急いで彼女に駆け寄る。
「大丈夫ですか!?」
「うう……だ、大丈夫……」
「全然大丈夫に見えませんけど!」
そんな彼女を介抱すること約二十分。どうやら軽い熱中症のようだった。
水を飲んでもらって、日陰で様子を見る。
「ありがとね……てか、同じ学校だ」
「本当ですね。ええと、大丈夫なんですか?」
「うん、かなり楽になってきた」
「よかったです」
「私、二年の松野結衣。あなたは?」
「あ、私は一瀬さくらです。私も二年生で」
「そうなの! さくらは何組?」
「私は一組、です」
「そっか! 私は四組だよ」
どうやら本当に元気になってきたみたいだ。ひとまずは安心だと胸をなでおろす。
「そういえば松野さんはどうしてこんなところに?」
「ええー、結衣でいいのに」
いたずらっ子ぽく笑う松野さん。その笑顔は女子の私でも一瞬ドキッとするくらい可愛らしかった。
「じゃあ、結衣ちゃんで」
「えへへ、嬉しい。えっとね、私は待ち合わせしてたんだ」
「待ち合わせ、でどれくらい待ってたの?」
「すぐここに来たから三時間、くらい? 川見るの好きでさ」
「気をつけてね……そりゃ熱中症にもなっちゃうよ」
「えへへ、心配してくれてありがと!」
「それで待ち合わせの相手はいつ頃来そうなの?」
「部活も終わるし、そろそろ来るんじゃないかなあ」
結衣ちゃんが首を傾げてそう言ったところで、タイミングよく石階段を下りる音が聞こえてくる。
私が振り返ると、それは意外な人物だった。
「あれ、一瀬さんだ」
翼くんが、そこにいた。
練習終わりの彼の髪よ服は朝よりも乱れているのに、それが何だかかっこよかった。
「川上くんっ……!」
「あれ、二人って知り合いだったの」
「同じクラスだからな。それより二人こそ友達?」
「今日知り合った! 助けてもらっちゃってさ」
「そうだったんだ。俺からも、ありがとね、一瀬さん」
「い、いえ別に。当たり前のことだから……」
「そっか」
ニカッと笑う翼くん。彼の初めて見るタイプの顔が見れて幸せだ。
しかし、私は嫌なタイミングで忘れていたことを思い出してしまう。
翼くんの好きな人。
私はふと、結衣ちゃんを見る翼くんの顔を見る。
いつもの優しい目がより優しそうに見えた。愛おしそうなものを見る目。
まるで、私が翼くんを見るときのようだと、直感的にそう思った。
「あ、じゃあ私そろそろ帰るね」
「待ってさくらちゃん!」
「結衣ちゃん?」
「連絡先、交換しよ」
「あ……うん」
「ありがとう! さくらちゃん、またね!」
「気をつけて、一瀬さん」
「うん、またね。結衣ちゃん、川上くん」
私は適当な理由をつけてその場を去る。
これ以上翼くんの顔を見たくないと思ったのは初めてだった。
§
あれから何となく翼くんの顔が見れなくて、朝早く登校するのを止めた。
そんな日が一週間ほど続いたある日、通学中の私の肩が叩かれる。
「やっ、さくらちゃん。おはよう!」
「ま、結衣ちゃん。おはよう」
「さくらちゃんってこの時間に通学してたんだ。気づかなかった」
「結衣ちゃんはいつもこの時間なの?」
「ううん、私は本当はもう少し遅くてさ。今日はたまたま早かったんだよね」
「そうだったんだ」
「でもさくらちゃんがこの時間なら、早起き頑張っちゃおうかな!」
「私、本当はもっと早いんだ」
「ええっ! そうなの? じゃあ今日は寝坊?」
「うーん、ええと……」
言葉に詰まる。翼くんの話をするわけにもいかないし、結衣ちゃんに嫌な思いもさせたくない。
そもそも二人の関係も私は知らないのだけれど……。
私がそう考え込んでいると、結衣ちゃんが口を開く。
「なんか悩みごと? 私でよければ何でも聞くよ!」
「ありがとう。でも、うーん……」
考えれば考えるほど言葉が出てこない。何か言わなくちゃ! と思うほど余計に何も考えられない。
限界寸前の私を見ておかしくなったのだろう。結衣ちゃんが吹き出す。
「あっははは! さくらちゃん焦りすぎ!」
「ご、ごめん……」
「いやいや、謝ることじゃなくて。じゃあ、翼に相談してみたら?」
「えっ、ななななんで!」
「翼、人の悩み聞いたりするの結構上手くてさ。だからどうかなーって思ったんだけど……もしかして、男子は苦手……?」
「いや全然っ! 大丈夫!」
すごい勢いで首を振ってしまった、恥ずかしい。
「そっか! じゃあ私から一言伝えとくからさ。解決するといいね!」
「ありがとう、結衣ちゃん」
「さくらちゃんかわいいねー!」
学校に着くまでずっと頭をわしゃわしゃされたりした。
可愛い子に可愛いと言われるのは照れくさいけど、悪い気持ちじゃなかった。
「一瀬さん、今時間ある?」
放課後、教室で帰る準備をしていると翼くんから声をかけられた。
「あ、うん。何?」
「えっと、結衣から聞いたんだけど、一瀬さんが悩んでるから話聞いてあげてって」
結衣ちゃんがもう伝えてくれたみたいだった。しかし、実際相談したいことなんてない。
「えーっと、もう大丈夫だから……ありがとう」
精いっぱいの笑顔を作る。
つい一週間前はこんな瞬間が来たら大喜びするのに。
今はただ自分の気持ちが顔に出ないのを誤魔化すことしかできない。
翼くんの横を通り過ぎようとしたとき、腕を掴まれる。
「待って。俺さ、一瀬さんが朝来なくなったの、気になってて」
「そう、だったの?」
「うん。でも聞いていいものか分からなくて、だから解決したとしても知りたいって……ダメ?」
表情は違うけど、いつか見た私の字を褒めてくれた時の顔に似ていた。
裏に真剣さが見える、私の心を奪った笑顔。
「……うん、わかった」
私の心は大きく揺れている。もしかしたら、本当は翼くんの好きな人は私だったんじゃないかとか。
いっそ翼くんの優しさに付け込んで告白してしまおうか、とか。
でも、どれだけ考えてもあの時の表情が忘れられなくて、私は。
「川上くんって、好きな人、いるよね」
「えっ……うん」
翼くんは驚いた声を漏らして数秒沈黙し、うなずく。
「それってさ……」
上手く声が出せない。急に喉が渇いたみたいにカラカラになって、唾を飲み込む。
何度も「私?」と言おうとして、「あ」の形に口を開く。
「結衣ちゃんだよね?」
言えなかった。「私?」と聞いたらなんだか泣いてしまいそうな気がして。
それに、それは本当に聞きたかったんじゃなくて、ただの願望だって、心のどこかで分かっていたから。
「……うん、バレバレ?」
「流石に分かるよ~」
「頼む! 結衣には秘密にしてて!」
「もちろん。私は川上くんのこと応援してるからさ……だから、朝一緒にいるのとか、どうかなって……思って」
咄嗟に出た嘘だった。でも、これからは本当にそうなってしまうのかな、なんて考えていた。
「そういうことだったのか、気を遣わせちゃってごめんな」
「ううん、いいの」
「でもそれって申し訳ないしさ、俺は一瀬さんがまたいつも通り来てくれたら嬉しいな」
「え?」
「だって、あの時間好きだからさ、俺」
私の大好きな翼くんの無邪気な笑顔。
恋愛対象として彼の視界に入っていなくても、友人として彼が見てくれるなら、この関係が続くなら。
とても残酷なことだけど、それも私の幸せなのかもしれない。
「うん。じゃあ、また朝に来るね」
「よかった。楽しみだな」
「……私も!」
§
河川敷の高架下、二人の男女が石階段に座っている。
茶色のミディアムヘアをなびかせている、いたずらっぽく笑う美人。
彼女を見て少し戸惑ったように頬を染める男の子。
私の好きな人。
「あ、さくらちゃん!」
「一瀬さん」
彼らが私を見つけて手を振る。
「ごめん、お待たせ」
私も二人に手を振り返す。
この気持ちは絶対に見せないから、もう少しだけ、隣にいてもいいよね。
私、一瀬さくらが机に突っ伏していると、ガラガラとドアを開く音がする。
「一瀬さん、おはよう。今日も早いな」
「おはよう。川上くんこそ」
川上翼くん。笑顔が素敵なサッカー部の二年生。
彼は朝早く学校に来て、課題だったり、予習をしている。
放課後は少しでも練習に集中したいらしい。
私はそんな彼を毎朝見ている。だって、好きだから。
きっかけは昨年の文化祭の準備をしていた時。
その時の翼くんは別のクラスだったけど、私が一人で看板を作っていたら彼が近づいてきた。
「うわ、すごい綺麗な字!」
「え、別に……普通だよ」
「すげえ、これが普通なんだ。俺字汚くてさ、教えてほしいくらい」
たったこれだけ。このあと綺麗な字の書き方を教えたわけでもないし、特別仲良くなったわけでもない。
ただ、私の字を褒めてくれたときの彼の純粋な笑顔が忘れられなくて、気づいたら好きになっていた。
我ながらチョロいなって思う。
でも、翼くんのことを知れば知るほど好きになっていく。止まらない。
だから、二年生になって同じクラスになった時は思わず踊り出しそうだった。
本当は一緒にご飯を食べたり、登下校したり、あわよくば……恋人になったり。
そんな夢はあるけど、次に進む一歩がとても遠くて、こんな関係に収まっている。
毎朝勉強をする彼をただ眺めるだけ。会話なんかもほとんどない。でもこれでいい。
他に誰かが来るたった三十分ほどの静寂、これが私の特別な時間。
「おーっす翼、また勉強して真面目だな!」
「うっせ、お前はちゃんと勉強しろ」
八時を過ぎて、続々とクラスメイトが集まってくる。この頃になると、私は授業が始まるまで本を読んで過ごす。
しかし、今日は聞き逃せない会話が耳に入ってきた。
「そういえば翼、好きな人いるってマジ?」
「はあっ? うるせえよ」
「その反応はいるやつじゃん! 誰、何組かだけ教えてくれよっ」
私の中に芽生えたのは希望と恐怖。
もしかしたらその好きな人は私かもしれない。でも、違ったら……。
本を読むふりをしながら、私はじっと耳を傾ける。
「こんなところで言わすなって! 分かった、分かったから。また部室でな」
「ちぇー、分かったよ」
一体誰なんだろう。
私だったらいいな、でも私と翼くんはほとんど話さないし、でも……もしかしたら。
でも、でもと、そんな考えがグルグルと脳内を駆け巡る。
私は一日中そのことが気になって授業に集中できなかった。
ホームルームが終わり、私は図書館で勉強を始める。
家より集中できるからというのも理由のひとつだが、一番の理由は翼くんだ。
もしかしたら下校のタイミングが被ったり、声をかけてもらえるかもなんて淡い希望を抱いていた。
§
帰り道、相変わらず私は翼くんの好きな人が気になって、ぽけーっと歩いていた。
「好きな人、誰なんだろ……」
そんな私の目に飛び込んできたのは、うずくまっている女の子。
綺麗な茶色のミディアムヘアが印象的だった。
河川敷の高架下、何かあったのかと私は急いで彼女に駆け寄る。
「大丈夫ですか!?」
「うう……だ、大丈夫……」
「全然大丈夫に見えませんけど!」
そんな彼女を介抱すること約二十分。どうやら軽い熱中症のようだった。
水を飲んでもらって、日陰で様子を見る。
「ありがとね……てか、同じ学校だ」
「本当ですね。ええと、大丈夫なんですか?」
「うん、かなり楽になってきた」
「よかったです」
「私、二年の松野結衣。あなたは?」
「あ、私は一瀬さくらです。私も二年生で」
「そうなの! さくらは何組?」
「私は一組、です」
「そっか! 私は四組だよ」
どうやら本当に元気になってきたみたいだ。ひとまずは安心だと胸をなでおろす。
「そういえば松野さんはどうしてこんなところに?」
「ええー、結衣でいいのに」
いたずらっ子ぽく笑う松野さん。その笑顔は女子の私でも一瞬ドキッとするくらい可愛らしかった。
「じゃあ、結衣ちゃんで」
「えへへ、嬉しい。えっとね、私は待ち合わせしてたんだ」
「待ち合わせ、でどれくらい待ってたの?」
「すぐここに来たから三時間、くらい? 川見るの好きでさ」
「気をつけてね……そりゃ熱中症にもなっちゃうよ」
「えへへ、心配してくれてありがと!」
「それで待ち合わせの相手はいつ頃来そうなの?」
「部活も終わるし、そろそろ来るんじゃないかなあ」
結衣ちゃんが首を傾げてそう言ったところで、タイミングよく石階段を下りる音が聞こえてくる。
私が振り返ると、それは意外な人物だった。
「あれ、一瀬さんだ」
翼くんが、そこにいた。
練習終わりの彼の髪よ服は朝よりも乱れているのに、それが何だかかっこよかった。
「川上くんっ……!」
「あれ、二人って知り合いだったの」
「同じクラスだからな。それより二人こそ友達?」
「今日知り合った! 助けてもらっちゃってさ」
「そうだったんだ。俺からも、ありがとね、一瀬さん」
「い、いえ別に。当たり前のことだから……」
「そっか」
ニカッと笑う翼くん。彼の初めて見るタイプの顔が見れて幸せだ。
しかし、私は嫌なタイミングで忘れていたことを思い出してしまう。
翼くんの好きな人。
私はふと、結衣ちゃんを見る翼くんの顔を見る。
いつもの優しい目がより優しそうに見えた。愛おしそうなものを見る目。
まるで、私が翼くんを見るときのようだと、直感的にそう思った。
「あ、じゃあ私そろそろ帰るね」
「待ってさくらちゃん!」
「結衣ちゃん?」
「連絡先、交換しよ」
「あ……うん」
「ありがとう! さくらちゃん、またね!」
「気をつけて、一瀬さん」
「うん、またね。結衣ちゃん、川上くん」
私は適当な理由をつけてその場を去る。
これ以上翼くんの顔を見たくないと思ったのは初めてだった。
§
あれから何となく翼くんの顔が見れなくて、朝早く登校するのを止めた。
そんな日が一週間ほど続いたある日、通学中の私の肩が叩かれる。
「やっ、さくらちゃん。おはよう!」
「ま、結衣ちゃん。おはよう」
「さくらちゃんってこの時間に通学してたんだ。気づかなかった」
「結衣ちゃんはいつもこの時間なの?」
「ううん、私は本当はもう少し遅くてさ。今日はたまたま早かったんだよね」
「そうだったんだ」
「でもさくらちゃんがこの時間なら、早起き頑張っちゃおうかな!」
「私、本当はもっと早いんだ」
「ええっ! そうなの? じゃあ今日は寝坊?」
「うーん、ええと……」
言葉に詰まる。翼くんの話をするわけにもいかないし、結衣ちゃんに嫌な思いもさせたくない。
そもそも二人の関係も私は知らないのだけれど……。
私がそう考え込んでいると、結衣ちゃんが口を開く。
「なんか悩みごと? 私でよければ何でも聞くよ!」
「ありがとう。でも、うーん……」
考えれば考えるほど言葉が出てこない。何か言わなくちゃ! と思うほど余計に何も考えられない。
限界寸前の私を見ておかしくなったのだろう。結衣ちゃんが吹き出す。
「あっははは! さくらちゃん焦りすぎ!」
「ご、ごめん……」
「いやいや、謝ることじゃなくて。じゃあ、翼に相談してみたら?」
「えっ、ななななんで!」
「翼、人の悩み聞いたりするの結構上手くてさ。だからどうかなーって思ったんだけど……もしかして、男子は苦手……?」
「いや全然っ! 大丈夫!」
すごい勢いで首を振ってしまった、恥ずかしい。
「そっか! じゃあ私から一言伝えとくからさ。解決するといいね!」
「ありがとう、結衣ちゃん」
「さくらちゃんかわいいねー!」
学校に着くまでずっと頭をわしゃわしゃされたりした。
可愛い子に可愛いと言われるのは照れくさいけど、悪い気持ちじゃなかった。
「一瀬さん、今時間ある?」
放課後、教室で帰る準備をしていると翼くんから声をかけられた。
「あ、うん。何?」
「えっと、結衣から聞いたんだけど、一瀬さんが悩んでるから話聞いてあげてって」
結衣ちゃんがもう伝えてくれたみたいだった。しかし、実際相談したいことなんてない。
「えーっと、もう大丈夫だから……ありがとう」
精いっぱいの笑顔を作る。
つい一週間前はこんな瞬間が来たら大喜びするのに。
今はただ自分の気持ちが顔に出ないのを誤魔化すことしかできない。
翼くんの横を通り過ぎようとしたとき、腕を掴まれる。
「待って。俺さ、一瀬さんが朝来なくなったの、気になってて」
「そう、だったの?」
「うん。でも聞いていいものか分からなくて、だから解決したとしても知りたいって……ダメ?」
表情は違うけど、いつか見た私の字を褒めてくれた時の顔に似ていた。
裏に真剣さが見える、私の心を奪った笑顔。
「……うん、わかった」
私の心は大きく揺れている。もしかしたら、本当は翼くんの好きな人は私だったんじゃないかとか。
いっそ翼くんの優しさに付け込んで告白してしまおうか、とか。
でも、どれだけ考えてもあの時の表情が忘れられなくて、私は。
「川上くんって、好きな人、いるよね」
「えっ……うん」
翼くんは驚いた声を漏らして数秒沈黙し、うなずく。
「それってさ……」
上手く声が出せない。急に喉が渇いたみたいにカラカラになって、唾を飲み込む。
何度も「私?」と言おうとして、「あ」の形に口を開く。
「結衣ちゃんだよね?」
言えなかった。「私?」と聞いたらなんだか泣いてしまいそうな気がして。
それに、それは本当に聞きたかったんじゃなくて、ただの願望だって、心のどこかで分かっていたから。
「……うん、バレバレ?」
「流石に分かるよ~」
「頼む! 結衣には秘密にしてて!」
「もちろん。私は川上くんのこと応援してるからさ……だから、朝一緒にいるのとか、どうかなって……思って」
咄嗟に出た嘘だった。でも、これからは本当にそうなってしまうのかな、なんて考えていた。
「そういうことだったのか、気を遣わせちゃってごめんな」
「ううん、いいの」
「でもそれって申し訳ないしさ、俺は一瀬さんがまたいつも通り来てくれたら嬉しいな」
「え?」
「だって、あの時間好きだからさ、俺」
私の大好きな翼くんの無邪気な笑顔。
恋愛対象として彼の視界に入っていなくても、友人として彼が見てくれるなら、この関係が続くなら。
とても残酷なことだけど、それも私の幸せなのかもしれない。
「うん。じゃあ、また朝に来るね」
「よかった。楽しみだな」
「……私も!」
§
河川敷の高架下、二人の男女が石階段に座っている。
茶色のミディアムヘアをなびかせている、いたずらっぽく笑う美人。
彼女を見て少し戸惑ったように頬を染める男の子。
私の好きな人。
「あ、さくらちゃん!」
「一瀬さん」
彼らが私を見つけて手を振る。
「ごめん、お待たせ」
私も二人に手を振り返す。
この気持ちは絶対に見せないから、もう少しだけ、隣にいてもいいよね。