動画クリエイターは探偵になれない

「きっと目立つからよ。大したことないのにムカつくとか思われたんじゃない? だから、気を付けてって言ったじゃない」
 梨美は眉根を寄せた。
「どうしてこんなことになったんだろう。でもさ、わたしやっぱり動画を配信したい。病院に怒られるかな」
「怒られるって。病院から追い出されるよ。動画の配信はやめておいたら? 犯人だって、捕まってないのよ。危険よ。桃花、これって殺人未遂なんだよ? わかっている?」
 梨美が怒った口調になった。
 心配かけちゃった。ごめん。
桃花は目を伏せていたが、顔を上げた。
「だからこそ、配信したいんだよ。暴力では何も解決できないって伝えたいの。刺されたのはやっぱり『アイドル恋愛擁護論』のせいかな。わたしはただ綾音先輩を守りたかっただけなんだけどな」
 桃花は動画を配信したこともテレビ出演したことも後悔していなかった。
現在、岸辺綾音の禊はまだ行われず、あやふやになったままになっている。
 新聞やインターネットは海外の芸能人たちの恋愛や意見を紹介。その甲斐あって、世の中の雰囲気が「アイドルだって人間だよな、恋愛くらいしたっていいよな」という方向になってきたところだった。
 そして桃花は大学で刺され、車にはねられ、入院することになった。
「もう少しおとなしくできない?」
 梨美はあきれ顔だ。
「わたしは負けないもん。屈しない」
 桃花はきっぱりという。
「はいはい、でもどうなっても知らないわよ? エービーコミュニケーションズに言わないで動画をアップするんでしょ? ぜったいトラブルになるわよ。すでにメタモルフォーゼの動画は、桃花が退院するまで、事務所命令で配信を止めることになったのよ」
 梨美は渋い顔をした。
「わかった。梨美、ごめんね。でも、わたしは皆にホットなうちに言いたい」
「そういうと思った。わかったわよ。桃花は止められないものね」
 梨美は苦笑いした。

 高い機材があればそれに越したことはないが、ヨーチューブの動画は、スマホでも簡単に撮影できる。
音声をクリアにするためにスマホ用のマイクがあった方がいいけれど、探したら、バッグの中にあったし、小さな三脚とスマホを固定する雲台も入っていた。許可が下りたら、いつか大学構内でライブ配信しようと考えて、持ち歩いていたんだよね。えらいぞ、わたし。
 桃花はベッドのそばにあるテーブルにスマホをセットし、ライブ配信開始ボタンを押した。
「みなさん。こんにちは。桜宮桃花の桃花の独り言、始まります。きょうは、なんと、病院から中継してます」
 桃花は笑顔を見せる。
「ニュースで見た人もいるかな。実は、わたしは大学で何者かに刺されまして、入院することになりました。でも、わたしは暴力には負けません。大丈夫です。」
 息を整えて、まっすぐスマホのカメラを見る。言いたいことは言わないと。
「どうしてもお話したいことがあって、生配信することにしました。一つは、同じ事務所の岸辺綾音先輩のことです。綾音先輩はアイドルです。でも一人の人間として恋をしました。それは悪いことじゃないと思うのです」
 スマホのバイブが鳴っている。
 おそらくエービーコミュニケーションズからだろう。病室に踏み込まれる前に言わないと。
「綾音先輩、断髪式はやめてください。そんなことしなくてもいいんです。アイドルだって恋愛する権利があるんですから」
 パタパタとドアの前で足音が止まり、ノックの音と同時にドアが開く。
「田中さん、ちょっと病室で撮影は困ります」
 看護師が注意する。
「あ、名前は桜宮桃花でお願いします。すいません。すぐ終わりにします。もう一つは、刺されても元気ですってみんなに言いたかったの。心配かけてごめんね。では、そろそろ終わります。元気になったら、また動画を配信しますね。皆さん応援してくれてありがとう。またお会いしましょう」
「桃花、早く消せ! 配信を止めろ」
 マネージャーも飛び込んできた。
(もう中継しちゃったもんね)
桃花は心の中で舌を出す。
 桃花は病院の人からもこっぴどく説教をされ、マネージャーからも怒られたが、ちっとも心に響いてこなかった。
いま、言うべきことを言っただけだ。気分はすがすがしい。
個室とは言え、騒がしくしてしまったのは申し訳ないと思うけど、主にうるさかったのはマネージャーだと思う。ドアを開けっぱなしで怒鳴るから、廊下にも声が響いていた。
その点は入院している方々に迷惑をかけてしまった。ごめんなさい。
 とりあえずマネージャーの気分が良くなるまで聞いているふりをし、桃花は頷いていた。
 マネージャーは顔を真っ赤にして、帰っていった。
『桃花、かっこいい』、『そうだよな、アイドルだって人間だもん」とコメント欄に好意的な書き込みもあれば、『アイドルって職業なんだから、徹底的に恋人は隠すべき』、『ファンが恋人であるべきだ』という意見もある。インターネット上で白熱した議論となっていた。
「ほら、桃花のせいでまた炎上しちゃった」
 梨美がスマホにSNSのスクショを見せた。
「だって、わたしがやらなかったら、綾音先輩がアイドルやめないといけなくなっちゃうから仕方がないでしょ。髪の毛を切るのをどうしても止めたかったんだもん」
 推しが丸刈りなんてぞっとする。
「トントン」
 病室がノックされた。
「はい。どうぞ」
「元気そうね。なんだかずいぶん大学の前もにぎやかだったわよ」
大光寺茉莉が顔を見せる。大光寺茉莉は六本木のマンションの桃花の隣の部屋に住んでいる中年女性だ。桃花が引っ越ししてきたときからお付き合いしている。なんやかんや言いながら、着替えなど桃花の部屋から持ってきてくれる親切な美人だ。いや、美魔女というのだろう。もうすぐ四十三歳になるとは思えない。桃花とは年齢は離れているが、妙にうまが合うので、時々お茶をしたりランチをする関係だ。
「そうなんですね。茉莉さん、いろいろ頼んでしまってすいません」
「あなたねえ、これ以上面倒を持ち込まないでね。この前だって、あなたのファンの人がマンションの入り口にいたから、警察を呼んだのよ」
大光寺茉莉が呆れながら桃花の荷物を持ってきた。
「えええ! だって刺されちゃったんだもん」
「痛かったねえ。でも生きていてよかった。鉄板仕立ての服でも着なきゃいけない世の中だね」
茉莉の言葉に桃花は笑った。
桃花がこのマンションの一室に住むようになったのは、父と母が亡くなり、相次いで祖父も亡くなって、遺産が転がり込んだからだ。孤独で落ち込んだ時、励ましてくれたのは茉莉だった。
茉莉さんには息子がいて、わたしの一つ下と言っていた。だから、わたしのことをまるで娘のようにかわいがってくれている。ごめんなさい。
桃花は心配をかけてしまったと反省した。
「ところで、桃花、刺されるようなことしたの?」
「してないと思うけど」
「してないなら刺されないでしょ。心当たりないの?」
 茉莉は胡散臭そうに桃花を見た。
 全くない。全然ない。ああ、アイドル恋愛擁護論は展開しているけど、これって刺されるほどのこと? そんなことないよね。
 桃花が首をかしげる。
「荷物はこれで足りる?」
「ありがとう、茉莉さん」
「さっさと治しなさいよ。退院するとき、連絡くれたら迎えに行くわよ?」
「トントン」
 ドアがノックされた。
 茉莉は桃花に「お大事に」といって去っていく。すれ違うように黒木が病室に顔を見せた。
「様子を見に来たんだけど、元気そうだね?」
「はい、その節はお世話になりました」
「綾音に何かされたわけじゃないんだよね?」
 黒木は心配そうに聞く。
「はい。綾音先輩はわたしの推しですから」
「そうか……。あ、さっきの女性は誰?」
「茉莉さんですか? マンションの隣に住んでいる女性で、お見舞いに来てくれたんです」
 黒木さんは茉莉さんのことが気になっている?
 わたしは小首をかしげる。黒木の目が輝いているように見えた。
「茉莉さんっていうんだ。あまり無茶しないでね。お大事に」
 黒木はふらふらと帰っていった。
 茉莉さんに用事があった? 桃花には分からなかった。
「さっきの誰?」
 梨美は不思議そうに聞いた。
「黒木さん? それとも茉莉さんのこと? 茉莉さんはマンションの隣の部屋の人だよ、親切で仲良しなんだ」
 うっかり隣の部屋のおばさんと言おうとして、言い換える。どこで茉莉さんが聞いているからわからない。うっかり余計なことを言って、怒られるのはごめんだ。茉莉さんの名誉のためにもう一度いうが、茉莉さんはスタイルがいいし、知的で整った顔をしている。
「黒木さんは、駐車場で桃花の手当てをしてくれたお医者さんよね。茉莉さんってすごい美人だね。都会で近所づきあいって、わたしには無理だわ」
「茉莉さん、いい人だよ。うちのマンションの人たちは、挨拶くらいはするよ」
 桃花の言葉に梨美は肩をすくめた。
 つけっぱなしになっていたテレビでは、ニュースが始まった。
「『アイドルだって恋愛していいじゃない?』と発言して一躍有名になった、動画クリエイターの桜宮桃花さんが大学で後ろから刺され、重傷を負いました。桜宮さんはアイドル岸辺綾音さんの熱愛報道を受け、加熱するマスコミに対し『アイドルだって人間だ。恋愛してもいいと思う』と発言。アイドルとファンの新しい在り方について論じる動画を配信していました。警察は事件について詳しく調べています」
「ほら、もっと有名人になっちゃった」
 梨美は目を細めた。
「へへへ。ごめん」
 桃花は頭を掻いた。
「あ、電話だわ。帰るわね。おとなしくしているのよ」
 梨美はあわてて病室を去っていく。
「ああ、つまらないな」
 桃花はベッドに横になった。
 スマホをいじって、暇つぶしでもするか。ヨーチューブの徘徊をしていたら、電話が鳴った。
嫌な予感がする。
ホーム画面にはエービーコミュニケーションズと書いてある。
「え? ええ? わたし、クビ? クビですか?」
(あらまあ、クビになっちゃった。どうしよう。)
 桃花は頭の中が白くなった。




「これ以上面倒をみきれないので、事務所をやめてほしい」
 マネージャーの声が冷たく耳に響く。
桃花はエービーコミュニケーションズから最後通牒を突き付けられた。
どうしよう。と、とりあえず、梨美に連絡しないと。
 電話をすると、梨美がすぐに出た。
「ごめん、わたしクビになっちゃった」
 桃花が言うと、
「わたしもよ」
 梨美がため息をついた。
「ごめん、わたしのせいで梨美もクビになったんだね」
「まあ、そうかもしれないけど」
 そこで否定しないんだね。その通りなんだけど。
 梨美の冷静な答えに桃花は悲しい気持ちになる。
「エービーコミュニケーションズにかけあうよ。梨美は関係ないって言うから」
「でも、桃花の暴走を止められなかった責任はわたしにもあるわ。仕方ないよ」
 梨美はくすりと笑った。
「ごめん」
 桃花は申し訳なくなって下唇を噛む。
「ちょうどいい機会かも。先のことを考えなくちゃいけなかったから。桃花は気にしないで」
 梨美が落ち着いた声で言う。
 梨美が怒っていなくてよかった。
 桃花は少し安心する。
「わかった。でも、本当にごめん」
「なんとかなるわ。とりあえず、桃花はケガを治して。それから考えよう?」
 梨美に励まされて、桃花は電話を切った。
 刺されて、引かれて、仕事まで失った。踏んだり蹴ったりだ。梨美にも迷惑をかけてしまった。
 桃花はうなだれるしかなかった。
 十日後。桃花は車にぶつかったところも、刺されたところも順調に回復しているとして、退院することになった。
 まだ少し体勢を変える時、刺されたところがいたかったので、茉莉さんに手伝ってもらおうかと考えたが、やめておいた。茉莉は暗号資産と株の取引を生業としているので、日中は忙しい。お金は大事だ。健康もだけれど。
「エービーコミュニケーションズもクビになったしねえ。マネージャーの迎えもないか。仕方がない、タクシーで帰ろう」
寂しさを抱えながら、桃花は病院の玄関口でタクシーをつかまえて、自宅へ向かった。
やっぱり家がいいわ。
 桃花はマンションを見上げる。
久しぶりに帰るから、冷蔵庫の中身が心配である。、荷物を置いたら、とりあえず買い物に行こう。
 桃花はエレベーターで自室のある八階のボタンを押す。
茉莉さんにはご挨拶しなきゃね。お菓子を買っておけばよかったな。家に何かあっただろうか。ちょっと食糧庫を見てから、茉莉さんのところに行こう。今ならきっと時間が空いているはずだ。
桃花は家に着いてからの段取りを考える。
 エレベーターのドアが開くと、廊下がなんだか騒がしい。人だかりができていた。
 嫌な予感がする。
何かあった? まさか?
 桃花は眉を顰め、振動で傷が痛まないように歩く。
「あの~」
 桃花が声をかけると、一斉に周りの人たちが道を開けた。どうやら騒ぎの元は桃花の部屋らしい。
嫌な予感は的中。どういうこと?
なぜか桃花の部屋のドアは開いていた。視線を一身に浴びながら、恐る恐る桃花は部屋に入る。
「桃花さん、お帰り。あなたの部屋から死体がでたのよ!」
 リビングの真ん中には困り顔の茉莉さんがいた。そして茉莉の隣には黒木がいた。

 死体って、死んでいる体ってことだよね。ちらりと横目で警察官を見る。やっぱり本物の警察官だった。
 ええと、どうしてこうなったんだろう。退院してきたばかりなのに。
 桃花はうつろな目をした。
今は桃花は茉莉さんの部屋にいる。
 刑事が桃花と茉莉の顔を交互に見た。
「ええと、あなたが田中幸子さんだね。芸名は桜宮桃花で合ってるかな?」
「はい。できたら桜宮桃花のほうで呼んでください。本名は好きでないんです」
 桃花の言葉に刑事は苦笑いする。
「先日、大学構内で刺された動画クリエイターの桃花さんだね?」
「はい。きょう病院から退院してきました」
「それはよかった」
 刑事はにこりと笑った。眼鏡がよく似合っているハンサムさんだ。タレントや俳優さんにいそうなくらい顔が整っている。
「ええっと、野口蓮警部、いいから早く説明しなさいよ」
 茉莉が刑事の脇腹を小突く。
刑事の名前は野口蓮というらしい。刑事にその態度はどうなんだろう。さすが茉莉さんというべきか。もしかすると、知り合いなのかもしれない。
 桃花は二人を交互に見る。
「痛い。茉莉さん、痛いから」
「うるさいわね。早く結論から言いなさいよ」
 茉莉が不機嫌な顔をした。
「すいませんね。茉莉さんは僕の元嫁でして」
 野口警部は嬉しそうに茉莉を見る。
「もう離婚して二十年になるわよ。他人よ、他人」
野口警部は、四十代後半。優しそうで落ち着いている感じ。背も高く、細マッチョ。ぜったいモテるだろう。
「そんなに経ったっけ」
「大樹が二十歳だもの」
 野口は「そっかあ。そんなに経つのか」と相槌をうつ。
「桃花さんの部屋で本日、死体が見つかりました」
「はあ」
 桃花はどう反応していいのかわからなかった。
 なぜ死体? 意味が分からない。頭がくらくらした。
「第一発見者はアイドルの岸辺綾音、そのマネージャーの内山、それから茉莉さんと黒木さん」
「正確に言えば、わたしは来客中だったんだけど、桃花の部屋が騒がしいから見に行ったのよ。鍵が開いているし、桃花さんの声と違うじゃない? 留守を預かる身としては心配になって、ドアを開けたら綾音さんと内山マネージャーが死体を見つけていたのよ」
 茉莉は桃花に説明する。
「僕は茉莉さんに会いに来たんですけど。隣の部屋が騒がしいというので、茉莉さんと一緒に見に行ったんです。桃花さんがもう退院してきたんじゃないかと思ったから、様子見も兼ねて」
 黒木は桃花に軽く会釈した。
 わたしの刺し傷を現場で最初に確認してくれたお医者さんだ。
「なるほど」
 野口はメモをとる。
「わたしは身内がいないので、何かあった時のために茉莉さんに合い鍵をもってもらっているんです。茉莉さんは無実です」
 桃花が茉莉をかばう。
「誰も茉莉さんが殺したなんて言ってないよ。面白いね、桃花さんは」
 野口が笑った。
「だって、第一発見者が殺人犯っていうじゃないですか」
「確かにね、言うね」
 野口は笑顔になった。
「でも、第一発見者は綾音先輩と内山マネージャーでしたっけ?」
「これから岸辺綾音と内山宏には任意で詳しく事情を聴くつもりだよ。で、どうして茉莉さんに黒木さんが会いに来たのかな?」
 野口の目が鋭くなった。
「僕は茉莉さんに会いに来たんです。桜宮さんの様子も気になったし」
 黒木は美しく微笑んだ。
 野口はギロッと黒木を睨む。
 野口もイケメンだけれども、黒木も負けていなかった。黒木は野口より若く、三十五歳くらいだ。王子様っぽい甘い雰囲気が漂っているし、医者だし、きっと大モテだ。茉莉さん、どっちがタイプかな。
 ちらりと茉莉さんを見るが、茉莉さんはつまらなそうな顔をしていた。
「おい、貴様。茉莉さんって、呼んでいるのか!」
「ええ。呼んでますよ。大光寺茉莉さんっていうの、長いでしょ。普通フルネームで呼びませんからね」
「じゃあ、大光寺さんっていえばいいじゃないか。許可を取ったのか」
「名字を呼ぶなんて、距離が遠い感じがするでしょ。許可を取ればいいんですか? 茉莉さん、茉莉さんのことを名前で呼んでもいいですか」
 黒木は頬を染めながら、茉莉の方をみる。
「おまえは距離が遠くていいんだよ」
 警部さんと黒木さんは茉莉さんのことが好きなんだろうな。鈍いわたしでもわかる。しかし、今、ここで争うことでもないだろう。殺人事件の現場なのに。 
桃花は呆れた顔をした。
「茉莉さんで構わないわ。蓮、話を先に進めなさいよ」
 茉莉に怒られ、野口は顔を一瞬ゆがめた。
「今、蓮って呼んだよね。俺らも仲が良いよね?」
野口は笑みを浮かべた。「蓮」と呼ばれたのが嬉しかったようだ。わかりやすい男である。
 マウントをとられた黒木はムッとした。
「あの、すいません。きょう退院してきたんですけど、わたしは自分の部屋に入れるんでしょうか?」
 黒木と野口の小競り合いは続きそうなので、とりあえず聞いてみた。
「ごめんね、しばらく入れないよ。捜査にご協力ください」
 野口の言葉にがっくりする。
「桃花さんはうちに泊まればいいわ。犯人だって捕まっていないじゃない。物騒だからね。少なくとも事件が解決するまで一緒にいましょう。」
 茉莉が口角をキュッと上げた。
「え、でも……」
「行くところ、あるの?」
「ないです。エービーコミュニケーションズをクビになりました。相方や友達のところに厄介になるわけもいかないので、有難いですけれど……」
「そうでしょう? 見たわよ、あのアイドルだって恋していいじゃないってやつ」
「はあ。すいません」
「あれでクビになったんでしょ」
「そうなんです。よくわかりましたね」
「だてに四十過ぎまで生きてないわよ。テレビで桃花の事件を大きく扱っていたわね。面白かったわよ。それに海外のマスコミも出てきてたじゃない? 桃花、有名人ね。でも殺人未遂はこわいわ。物騒だし。桃花さんは娘同然だもの、心配だわ。うちにいらっしゃい」
 茉莉は肩をすくめる。
「本当に泊っていいんですか?」
「もちろん。家事を手伝ってくれればいいわよ」
 茉莉は小さく笑った。
桃花は茉莉の家の一室を借りることにした。
「綾音先輩って、本当に可愛いんです。だから恋人がいたっておかしくないと思うんです」
 桃花は動画について語りだす。
「まあね。でもアイドルでしょ。日本じゃ、アイドルの恋愛ってご法度じゃない」
「そうなんですけど。でも、そもそもアイドルがなぜ恋愛をしちゃいけないんでしょうということなんです」
「岸辺綾音の断髪式予告は海外でも話題になっていたわね。アーティストだって人間だし、恋愛が芸術に悪影響を及ぼすとは言えないものね」
「そうなんです。さすが茉莉さん」
「あの、まだその話題続く? 事件の話がしたいんだけど」
 野口に言われ、桃花と茉莉さんはおしゃべりを止めた。
「まず、桃花さんの刺された事件のことから。君を襲った犯人は防犯カメラに映っていたよ。黒ずくめの服装で、マスクもしていた。君を襲った後、大学構内の抜け道を使って逃げて行っていた。そのことから大学内部をよく知る人間と思われる。凶器はまだ見つかっていない。桃花さんは五限目の授業がなくなったから、大河原梨美さんと食堂で打ち合せの後、帰ろうとしたで合ってるかな?」
「あ、帰ろうとしたのではなく、エービーコミュニケーションズに行こうとしていたんです。動画の配信許可を撮ろうと思って。駐車場でマネージャーの迎えを待つつもりでした。結局マネージャーは遅刻してきたみたいですけど」
 野口はメモから顔を上げた。
「何か気が付いたことはある?」
「駐車場に綾音先輩と内山マネージャーがいたことくらいですかね。あとは、エゴサーチしていたら、ストーカーみたいな書き込みがあって、いやだなと思ったくらいです」
「そうですか。先ほど桃花さんの部屋で発見された死体ですが、実は女装しているんです」
 野口が詳細を語り始めた。
 女装? 女装っていったいどういうこと? 
「桃花さん、あなたに女装する男性のお知り合いはいますか?」
 たぶん、おそらく、私が知っている限り、女装する男性に知り合いはいない。
 野口の質問に桃花は思いっきり頭を横に振った。
「なるほど。次は、事件の経緯ですが、今わかっている分だけだけど、内山宏と岸辺綾音の話をまとめると……」
 野口はメモを見ながら話し始めた。

 内山宏と岸辺綾音が言うには、退院した桜宮桃花のお見舞いに訪れたのだという。桃花がケガをしたのは、綾音の恋愛騒動の記事で綾音の味方をしたせいだ。岸辺綾音は桃花に申し訳ないって感じていたと話していた。
内山も綾音のやらかした記事のせいで綾音を擁護した桃花が刺され、騒ぎになっていると考え、綾音と一緒にお見舞いに来たと言っていた。
桃花の部屋の呼び鈴を鳴らすと、内で人の気配がした。
「ゴンって音がしたような気がしたの」
「そ、そうなんですよ、警部さん。けっこう大きな音でした」
内山は大きく頷いた。
「人の気配がするのに、玄関に出てこないっておかしいって思ったんです。もしかすると桃花が急に具合が悪くなっているのかもと心配になったわ。脳のダメージはゆっくりでてくるって、テレビでやっていたし、部屋の中で倒れていたら大変って思って」
 綾音が顔をゆがめた。
「桜宮桃花が心配だったんだ」
内山が綾音を見ながら頷く。
それから二人は中に入ってみることにした。玄関のカギがしまっていたら、管理人を呼ぼうと思っていたらしい。
内山がゆっくりとドアノブに手をかける。
「鍵が開いている」
 内山と綾音が顔を見合せる。
「桃花? 大丈夫? 中に入るわよ」
 内山と綾音が慌てて桃花の部屋に入る。
「リビングはなんともない。桃花はいない」
 荒らされている形跡はなかった。
どこに桃花がいるんだろう。具合が悪くてでてこれないのかもしれない。
 綾音がキッチンや風呂場を探すが、見つからない。
 内山が桃花の寝室を見に行った。
「ドン」
 大きな音がした。
「うわああああ」
 内山が壁際にくっついて、大声を出した。
「どうしたの? 内山? 大丈夫?」
 綾音が寝室へ向かう。
「来るな。綾音は見ない方がいい」
「桃花に何かあったの? 桃花、大丈夫?」
 綾音が覗くと、女装をした男性が桃花のものらしいパジャマを握りしめ、倒れている姿が見えた。内山は青い顔だ。
「キャー」
 思わず綾音も甲高い悲鳴をあげた。
 隣の部屋の茉莉と黒木は、悲鳴や物音が聞こえたので、様子を見にいくと、綾音が桃花の部屋から慌てて飛び出してきた。
綾音と内山の様子を見て、ただ事ではないことがわかった。
もしかすると、桃花に何かあったのではないか。
茉莉と黒木も桃花の部屋に入って確認する。
桃花の寝室のドアが開いていたので、覗いてみると女装の男が倒れていた。
「この服、桃花が動画で着ていた服そっくりよ」
茉莉は眉をひそめた。
そばに男のものであろう、ウィッグが落ちていた。
「簡単にいえば、こんな感じだ」
野口が口角をあげた。
「ええ? わたしそっくりの服を着た男性がわたしのパジャマを持っていたんですか?」
「ああ。そういうことだね」
 えええ。キモイ。やだ、どうしよう。変態では?
 桃花は顔をひきつらせた。


これから部屋に鑑識が入ると野口が言っていた。
せっかく帰ってきたのに。冷蔵庫が……。きっと全部腐るな。桃花は大きなため息をついた。
茉莉さんの隣には野口さんがくっついている。
不思議な関係……。桃花は野口を興味深そうに見た。
野口さんは茉莉の元夫さんなんだよね。どうみても、茉莉さんのことが大好きに見えるけど、なんで茉莉さんと別れたんだろう? 
茉莉から野口の話は、一度も聞いたことはなかった。
バツイチで同じ年の息子がいるとは教えてもらったけど。黒木さんと野口さんは茉莉狙いだ。茉莉さんは、四十二歳。肌なんか皺もシミもない、スタイルもいいし、年下の恋人がいてもおかしくない。
黒木さんと茉莉さん、お似合いだなあ。もちろん野口さんでもいいけど。野口さんは元夫だって言うし、ちょっとチャンスは少ないかな。
桃花は野口と黒木を交互に見た。
「茉莉さんが殺されないでよかった。ところで、桃花さん、経過はどうですか? 元気そうでよかったです」
「ああ、大丈夫です」
 ついでとばかりに、様子を聞かれた。
 黒木は野口を挑発するように見る。
「茉莉は俺の元妻なんだけどね」
「呼び捨てですか。元妻ってことは、今は他人なんですね。無関係ってことで」
「いや、俺には関係ある」
 野口が威張って言い返す。
「蓮とはもう関係ないから。でも、黒木さんとも何ともないからね。桃花さんが考えてることはわかるわよ。」
 茉莉はワクワクしている桃花をたしなめた。
「野口さんも黒木さんも茉莉さんのことが好きみたい。茉莉さん、モテてますよ」
 桃花がこそっと耳打ちすると、
「桃花さん、後学のために教えておくわ。いくらイケメンで、優しくてもね、寄ってきた女の子の誘いを断れないならやめておきなさい」
 茉莉が片眉を吊り上げ、握りこぶしを作って力説する。
「たしかに。そうですよね。浮気や不倫する男はいりませんよね」
桃花は同意した。茉莉の顔は強張っている。そっと野口が視線をそむけた。
 聞いちゃいけない案件だったらしい。そっとしておこう。
 桃花は心に決めた。
「なんてことしてくれるのかしら。人が死んだとか、不動産の価値が下がっちゃうじゃないの。どうしてうちのマンションで殺人事件が起きるのよ」
 茉莉の眉根が寄った。
「たしかに、本当ですよね。困りますよね」
 桃花は肯いた。
わたしの部屋なのに、どうしてくれよう。死体があったとか、ちょっといやなんだけど。この部屋は売るべきだろうか。茉莉さんの言う通り、売買価格が安くなってしまうだろう。まいったなあ。
桃花は腕を組んだ。
捜査が終わるまでこの部屋には住めないから、いっそのこと、動画クリエイターから足を洗って、茉莉さんの弟子になろうかな。
 茉莉さんから暗号資産や株式売買を教わって、稼ぐのもいいかもしれない。パソコンもあるし、ネット環境もあるから、できないこともないだろう。
「じゃ、もういいのかしら。事件の説明が終わったなら帰ってね」
 茉莉は野口と黒木を追い出した。
「ごめんなさいね、桃花。黒木さんも追い出してしまって」
「いえいえ、大丈夫です」
 桃花は首を横に振る。
「ここの部屋、使っていいから」
 茉莉は手早く客室を片付けた。
「ありがとうございます」
 桃花はさっそく病院から持ってきた荷物を少しずつ解いて、パソコンを取り出した。きょうはもう更新はしなくてもいいだろう。疲れてしまった。
 ヨーチューブの登録者数をチェックすると、数百人増えていた。
 桃花はパソコンの画面を見つめる。
「アイドルだって、恋をしてもいいと思いませんか」
 ゲストとして呼ばれた朝の情報番組でテレビで訴えた。自分の動画でも訴えてきた。
「もし好きな人ができたら、わたしだって付き合いたいって思う」
アイドルだって動画クリエイターだって人間だ。
思わず熱く綾音のことを語ってしまったけれど、本当は綾音が自分で言うべきことだったのではないか。
桃花はふと思う。
 綾音がやると決めたことは、断髪式だ。トゥイッターをみると、綾音はアイドルを卒業するつもりではないかとささやかれていた。禊ぎをすることで、タレントとして芸能界復帰を考えているんじゃないかと予想しているファンもいる。
芸能界に復帰なんて、断髪しなくてもできるはずだ。もし綾音先輩が自分で「どうして恋愛しちゃいけないんですか」と言っていたら、どうなったんだろう。大炎上だろうか。恋愛好きとしてイメージが悪くなっていたかもしれない。
黒木さんは、綾音先輩とどんな関係なんだろう。黒木さんは茉莉さんのことが好きみたいだ。じゃあ、綾音先輩とは恋愛ではない? 
もしや週刊誌は間違っていた?
 綾音先輩は黒木さんが好き。でも黒木さんは茉莉さんが好き。
 綾音先輩は片思いなのか。これはわたしでもどうにもできない。いくら推しの幸せが見たいからと言っても、無理である。
んん? どういうことだろう? 誰かが嘘をついている?
 わからないわ。情報が足りなさ過ぎて、全体がつかめない。考えても無駄みたい。
桃花は軽く目を閉じて、ごろっと横になった。畳のイ草がいい匂いだ。ちょっとだけ今はない実家を思い出す。
アイドルっだって人間だ。ご飯だって食べるし、トイレにも行く。結婚して子供も産む。それなのに恋愛をしたら、仕事を続けるために禊をしないといけないのか。
アイドルという職業だからなのか。でも、それくらいでファンが離れるなら、そんなファンはファンじゃないと言えるんじゃないか。
だって、ファンだって、結婚するし、アイドルとは別腹で恋人作るじゃないか。
 頭の中で堂々巡りだ。
芸能人として人気絶頂の時期なのか、年齢にもよるんだろうな。綾音先輩は、二十二歳。アイドルにしては大御所だ。
 わたしがしたことは余計なお世話だった?
桃花は「まさか、そんなはずはない」と首を横に振る。
綾音先輩はあの恋人記事をターニングポイントに使おうとしていた? やはりタレントデビューの邪魔をしてしまったんだろうか。
インターネットの掲示板やSNSを見ていくと、アイドルの恋愛について大激論が交わされていた。ファンはアイドルに恋人がいないから好きになるのか。本当のファンなら推しの幸せを願うべきなんじゃないのか。いろいろな意見が出されていた。
 綾音先輩の大ファンだから、綾音先輩を擁護したことに後悔はない。綾音先輩には幸せになってほしかった。
 桃花はため息をつく。
「何してるの?」
 茉莉がパソコンの画面をのぞき込む。
「簡単に言えば、エゴサーチです」
「精神衛生上、悪いことしてるわねえ」
「はあ」
「ちょっと付き合いなさい」
 茉莉が桃花を外に連れ出した。
 きょうは退院して、殺人事件に巻き込まれるなどあったが、まだ夕暮れ時だ。
「こんなところに公園?」
 桃花が不思議そうにたずねる。
「遊具はないけどね。桃花さんには縁遠いところね」
 小さく笑いながら茉莉が桃花に案内する。
 六本木のマンションに囲まれた公園だ。芝生の小さな山がいくつかあって、公園らしさを演出するベンチがいくつかある。町内会の札が立てられている花壇にはあじさいの花が咲き始めていた。
すっかり青葉になってしまった桜の木の下にあるベンチには、スマホをいじっている若い人の姿もある。遊歩道は整えられているので、気晴らしに歩くのにちょうどよさそうだった。
「ここはわたしの散歩コースなの。趣味よ、趣味」
 茉莉がほほ笑んだ。
 茉莉さんは暗号資産で億り人になったと聞いたことがある。パソコンやインターネットを駆使して最先端を行くというイメージなのに? 
桃花は意外そうな顔をした。
「もともとわたしは主婦だったのよ。大学で好きな人を見つけ、卒業後に結婚したわ。すぐに子どもにも恵まれた。好きな人と結婚して幸せだったわ」
 桃花は茉莉の元夫の野口の顔を思い出す。
夫婦に何があったのか。不思議だったんだよね。
桃花が観察するに、野口は茉莉に未練がある。
「ま、すぐに離婚したんだけどね」
 桃花は何と反応していいのかわからなかった。
「わたしは雑草みたいに名もなき存在だけどね、結婚した時は幸せだったし、今も満足しているわ」
「はあ」
 離婚の話がメインではないのか。
桃花は少しがっかりする。
桃花の目下気になることは茉莉の離婚の経緯である。
「雑草にも一つ一つ名前があるのよ。雑草の名前を探すのは、結構時間がかかったわ。これはアカザ。こっちはシロザ。これはタケニグサ。知ってた?」
「全く知りませんでした」
 茉莉さんは何が言いたいのだろうか。
 桃花はちらっと茉莉の顔を見る。
「アカザとシロザの違いって分かる? 新芽のところを見るの。ほら、こっちは赤いでしょ? だからこれはアカザ」
「なるほど」
 たしかに新芽の茎が赤い。
「タケニグサはね、雑草扱いされているけど、園芸種として扱われている国もあるの。ほら、花を見て? 小さくて可憐でしょ。きっとあなたのことを好きだっていってくれる人がいるし、必要と思ってくれる人がいるわよ。心配しないで、人生は長いわ」
「本当ですね。可愛い。花火みたい」
 茉莉と桃花はタケニグサの小さな白い花を見つめる。
「好きな気持ちをあきらめないで。あなたなら大丈夫よ」
「茉莉さんに言われて勇気が出ました」
 やっぱりアイドルの綾音先輩が好き。首になっちゃったけど、普通に就職するのは、り無理。わたしには向かない。動画を配信することが好きだから、動画クリエイターとして生きていきたい。
 桃花の胸が熱くなる。
「わたし、がんばります」
「そうよ。世間が何を言おうが、貴方が好きならいいのだから」
「はい。そうですよね。わたしが好きならいいんですよね」
 桃花は茉莉の両手を握る。
「ありがとうございます。わたし、がんばります」
「う、うん? そうね、がんばって」
 茉莉は怪訝な顔をした。
「おい、何やっているんだ?」
 野口が二人を見つけ、手を振る。
さっき茉莉さんに追い返されたはずなのに、まだいたのか。なんだか哀れな大型犬のように見えてきた。茉莉さんへの好意が駄々洩れだ。
野口の視線はまっすぐ茉莉に向かっている。
「茉莉さん、ひとりで散歩?」
 隣にいるわたしが見えないのだろうか。
桃花は小首をかしげる。
わたしは透明人間? 恋する男の瞳は不思議だ。わたしに挨拶はないのか? お前の目は節穴かと問いたい。
「見てわかるでしょ。桃花さんと散歩よ」
「ああ、桃花さん。いたのか」
 野口には本当に見えていなかったらしい。意外にポンコツな人なのかもしれない。
「殺人事件もあったんだから、気をつけないと。茉莉さんが狙われたら大変。ずっと家にいてほしい」
「いや、わたしは部外者でしょ」
「茉莉さんはそういうけど。第一発見者? いや、第二発見者なんだから、一応警察に調べられているんだよ。なにか見ているかもしれないでしょ」
「疑われているの?」
 茉莉は嫌そうな顔をする。
「そ、そうはいってないよ。僕は茉莉さんを信じている」
「そういうの、どうでもいいんだけど」
「えー、ひどい、茉莉さん」
 いちゃつく野口を茉莉が冷たくあしらう。
何でも言える関係もいいな。でも離婚しているんだよね。
桃花は茉莉にあしらわれる野口を憐れんだ。
「で、またうちに来て……、いったい何の用よ?」
「ひどいなあ」
 野口は肩をすくめた。
「用事がないなら来ないでいいのよ」
「捜査のために来たんだよ。仕事だよ、仕事」
 野口が威張る。
「本当に仕事しているのかしら」
 茉莉が首をひねる。
「ちゃんとしてるから。出世もしてるし。いつでも復縁できるからね。待ってるから。それにこの事件、俺がちゃんと解決して見せるから、任せておいて」
野口が胸を張った。
 茉莉は聞こえないのか、しゃがみ込んで地面を見ている。
「ちょっと、茉莉さん? いま、口説いていたんですけど。聞いてる?」
 野口ががっかりする。
 全く聞いてなさそうですよ。
桃花はちょっとだけ野口が哀れになった。
茉莉はポケットから虫眼鏡を取り出した。
「茉莉さん? 何を見ているんですか」
「ああ、ツメクサよ」
「つめくさ?」
「うん、アスファルトのひびとかに生えている、この芝っぽいみどりのやつ」
「ツメクサっていうんですか」
「そうなの。花が咲いているのよ」
「ほんとだ」
 桃花に虫眼鏡を渡す。
「あのね、もしもし? 茉莉さん、事件の話がしたいんだけど?」
 野口は遊歩道のベンチに座るように茉莉と桃花にお願いする。
「あのストーカー、やっぱり桃花さんのストーカーだったようだよ」
 野口はカバンからペットボトルを取り出して一口飲んだ。
「SNSのプロバイダに発信者情報開示請求をした。それで彼の個人情報が分かったんだ」
 野口の説明を聞きながら、茉莉がじっとペットボトルを見ている。
意外に外が暑く、少し歩いただけでのどが渇いた。茉莉さんもそうみたい。
「コーンスープじゃなくて悪いけど」
 茉莉の視線に気が付いた野口は、笑いながらカバンから二本ペットボトルをとりだした。
「茉莉さん、どっちがいい? 麦茶と緑茶」
「麦茶がいい」
「桃花さんは緑茶でいい?」
 異論はない。野口さんのご厚意のおこぼれだけど、水分補給できるのはうれしい。
「コーンスープは熱いですからね。冬がいいですよね」
 桃花は突っ込んだ。
「でも、人気だっただろ? あのシーン」
 テレビドラマで当て馬役の優しい男性がヒロインにコーンスープを差し出すシーンがあった。
 茉莉はテレビドラマを見ていなかったらしく、無反応だ。
 野口はコホンと咳をして、メモを読む。
「彼は桃花推しで有名でね。男性名と女性名二つのニックネームをインターネット上で名乗って使い分けていたらしい。男性名はゴン。女性名はサイレスだったかな。彼の本名がゴンザレスという名前だったから、そこからとったのかもしれないね」
 ストーカーさんは、ゴンザレスさんか。外国人? 日本の人?
桃花は眉をぴくりと上げた。
「ゴンザレスは父がメキシコ人で母が日本人だ。日本で生まれ育っている。身長百六十センチ。三十二歳になるんだが、小学生のころからいじめにあい、中学も途中から行かなくなったそうだ。アルバイトをして生計を立てていたが、一つのところで長くは続かなかったようだね」
 ゴンザレスさん、苦労していたんだなあ。
 桃花は肯いた。
「彼の部屋からは化粧道具も多数見つかっている。インターネットの履歴から君のメイクアップ動画を熱心に見て、練習していたようだ」
「そうですか」
 どうりでわたしそっくりの顔になっていたはずだ。あれはびっくりした。ゴンザレスさんが生きていたら直接会ってみたかったな。しかし、どうしてわたしの部屋で死んでいたんだろう?
「死因は絞殺。第一発見者らが見つけたのは、殺された直後だったようだよ」
 第一発見者は、内山マネージャーと綾音先輩だ。ゴンザレスさんが殺された直後に二人はわたしの部屋に飛び込んだってことになる。
なぜゴンザレスさんはわたしの部屋にはいれたの?
 桃花は首をひねった。
「いったい誰が殺したのかしらね? ゴンザレスさんって、何時くらいに桃花さんの部屋にはいったの? 綾音と内山マネージャーだって、もしかすると殺されてしまう可能性があったってことでしょ? 怖いわね」
 茉莉が渋い顔をした。
「まあね。綾音と内山マネージャーが桃花の部屋に入った時間は午後四時ごろって言っているけど。二人とも正面の入り口から入ってないので、防犯カメラに映っていないんだよ。おまけに通用口の防犯カメラにも映っていない」
「そんなことあり得るんですか?」
 桃花は疑問をぶつけた。
「監視カメラの角度によって死角ができてしまうからね。何者かが事前に監視カメラの角度をいじっていたら、映らないよね」
 野口は「ほんといやになるよ」とつぶやいた。
「内山と岸辺にどうして監視カメラに映ってないのかって聞いたら、『映っていなかったのは運がよかったからだろう』といっていた。まったくふざけているよ。ゴンザレスも内山マネージャーも岸辺綾音も映っていないって、偶然があるのかねえ。まあ、ゴンザレスのほうはマンションの前で立っていた防犯カメラの映像はあったけどな」
 野口は肩をすくめる。
 もし早く退院していたら、犯人と鉢合わせしてわたしが殺されていた可能性だってあった。身代わりにゴンザレスさんが殺されたってこと?
 桃花はぞっとした。
「茉莉さんも桃花さんも何か思い出したら連絡して」
 野口は茉莉の顔を優しく見る。
「桃花さん、君は刺されたばかりなんだから無茶はしないこと。犯人探しとかしないでね」
 野口はほとんど桃花の顔を見なかった。
こんなに明らかに好意の差をみせつける人っているんだね。
桃花は苦笑する。
 野口は「じゃ」と片手をあげて去っていった。途中振り返りながら、茉莉に大きく手を振っていた。
桃花は野口の必死さが面白かった。
大人も恋をするんだなあ。元妻を追いかけているなんて、なんか不毛ではあるけど。ぜひ茉莉さんを口説くのを頑張ってほしい。
「いったいどこから入ったのかしらね。マンションの入り口には防犯カメラがあるから、いつ忍び込んだのかなんて簡単に分かるはずなのに」
 茉莉はマンションの入り口の大きなガラス扉の監視カメラに手を振った。
「ほかに入り口といったら、自転車置き場?」
「ああ、たしかに」
 小さな扉を開けてみる。
 監視カメラの向きは扉と自転車置き場の通路をうつしている。
「あれ、この向きだとカメラの真下は映らないかも」
「もしかしてこの死角から入ったのかしら。もうちょっと角度をずらしたらきっと完璧に映らないわね」
 茉莉が腕を組む。
「そうかもしれないですね。ということは、綾音先輩と内山マネージャーもここから入った?」
「そういうことよね」
「なぜわざわざ通用口から入ったのかしら。やましいことでもあったのかしらね。普通お客様なら正面玄関から入るわよね。自転車に乗ってきたんじゃなければ」
 あの二人はお客としてきたわけじゃない? やましいことを考えていた?
 何かわたしにしようとしていたってこと?
 あり得ない。だってわたしの大好きな綾音先輩だよ。
「警察もゴンザレスさんを殺害した犯人のことはまだ分かってないんですよね?」
「たぶんね。野口は何も言っていなかったし」
「わたし、自分で犯人を捕まえます。犯人はわたしに言いたいことがあるんですよ。直接聞いてみたい」
「危険よ?」
 茉莉が脅す。
「じゃ、茉莉さん、一緒に捕まえましょう」
 桃花は茉莉の手を握る。
「いやよ。わたし、関係ないもの。遠慮しておくわ。その代わり、うちの部屋に桃花さんがずっと住んでくれて構わないから」
「関係大有りじゃないですか。だって第一発見者」
「ええ? 第一発見者じゃなくて、正確には第二発見者よ。それにわたしは犯人じゃないし。仕事もあるし、忙しいんだから、捜査の手伝いはしないわよ。野口に任せればいいじゃない?」
「そんなあ。茉莉さん、乗り掛かった舟でしょ。助けてくださいよぅ」
 茉莉の容赦ない拒絶に桃花は情けない声をだした。



五 
空梅雨っていうんだろうか。もう夏という感じだ。自分の部屋の窓から見る景色と茉莉さんの部屋から見る景色が違うんだなと思うと同時に、殺人事件があったことを思い出した。
「ゆっくりしていらっしゃい」
 茉莉さんは仕事をしに、部屋にこもってしまった。
 なんだかだるい。いろいろなことが起きすぎて、何も考えられなかった。ごろごろしているうちに時間は過ぎ、いつの間にか寝ていたらしい。
 インターフォンの鳴る音で、飛び起きた。
「まだここにいるのか」
 野口警部が開口一番に桃花に言った。
 ひどいやつである。
「いますよ。ここに住んでるんですから。家賃もだしてますよ。だいたい、昨日事件があって、一日しか経ってません。わたしの部屋の調査はおわったんですか?」
桃花は不機嫌そうにする。
「いや、まだだ」
 それで追い出そうと?
 桃花が目で訴えると、野口は肩をすくめた。
「事件の捜査のことだが、まだ犯人は捕まってない」
「そんなのわかってるわよ。昨日の今日なんだから。ここに来ないでもいいから、はやくつかまえなさいよ」
 茉莉さんが部屋から出てきた。野口さんは茉莉さんの姿を見て目を輝かせた。わかりやすい人である。
茉莉はリビングの野口を玄関先へ追い払うように追い立てる。
「茉莉さん、そんなこといわないで。ちょっとだけ事件のこと教えるから。ねえ、会話をしようよ。毎日茉莉さんに会わないと、具合が悪くなるんだよ」
 野口は頼み込んだ。
「そんな病気、ありません」
 茉莉さんはつれない。
「えええ。なんですか? 聞きたいです」
 桃花が返事をすると、
「そこは茉莉さんに反応してほしかった」
 野口はつぶやいた。
「茉莉さんのことが好きなのはわかりますけど、わたしは一応被害者ですよ。色々教えてくださいよ。犯人とか、誰が怪しいとか」
「被害者は犯人探しとかしないでおとなしくしてろ」
 野口は忌々し気にいう。
 なんかムカつきますけど。桃花は野口を睨む。
「犯人を捜そうとしていることがなんでバレたんでしょう?」
 桃花は茉莉にこそっと聞く。
「マンションの管理人に頼んで、防犯カメラを見せてもらったからじゃない?」
「なるほど。ここの管理人がおしゃべりなんですね」
「管理人は日本の警察に協力してくれた善良な市民だ。一般市民は探偵の真似事などやめておけ。危険だ」
 野口は眉根を寄せて注意する。
「わたしたちだって善良よね? 知る権利があるわ」
 茉莉さんが桃花に同意を求める。
「茉莉さんは危ないことはしないでね? 心配になる。桃花さんも警察が犯人を捕まえるまでおとなしくしていなさい。ケガだって治っていないだろう?」
「うう。はい」
 桃花は仕方なく頷いた。
「桃花さんの部屋で死んでいた被害者は小島ゴンザレス。三十二歳。現在は無職。ほとんど家から出ない、引きこもりだったが、家族によると、桃花のファンになって外に出るようになったそうだ」
 そっか。やっぱりファンだったか。わたしそっくりの女装していたもんね。
 茉莉と桃花は黙って聞く。
「容疑者は固まったの?」
「まあな。いまのところ、岸辺綾音、内山浩志、桜宮桃花こと田中幸子、黒木煌貴、大光寺茉莉だ」
「なんですって! バカなの? どうしてわたしが入っているのよ」
 茉莉は呆れた。
 綾音先輩も入っている。どうして? あ、わたしも?
「一応だよ、一応」
 野口は慌てた。
「わたし、刺されたのに? なんで?」
「桃花も一応」
 野口は視線を合わせない。
 ひどい。わけわかんない。退院してすぐなのに、殺人なんかできっこないじゃない。
 桃花は野口を軽くにらむ。
「ところで、桃花の相方はずいぶん普通なんだな。桃花は派手なメイクに奇妙な服なのに」
 あ、わたしの『さん』付けが消えてる。
桃花は指摘すると面倒になりそうなのでそのままスルーすることにした。
「梨美はスタイルがいいし、人と少しだけ違うという服が好きなんです。普通じゃないですよ。それにわたしの服が奇妙ってどういうことですか。聞き捨てならないんですけど。この格好、可愛くないですか?」
「まあ、可愛いというか。個性的というか。遠くからも一目見ただけでわかるな」
 野口は苦笑する。
「好きな服、可愛い服、気分が上がる服しかを着ないことにしているんです。きょうは着物と洋服のミックスコーデです。このコルセット、可愛くないですか? ちょっと短いので、おはしょりはなしなんですよ」
 桃花がコーデの説明を一生懸命始めた。
「ああ、そうなんだな。うん、いい感じだ」
とりあえず褒めておく大作戦で、野口は桃花の攻撃をかわした。
「相方はどんな人なんだ?」
「梨美は、例えば一見ただの黒い服ですけど、一点ものの服を着ています。デザインにこだわりがあるんですよ」
「え? いや、服じゃなくてだな。性格とか人間性を聞いているんだが」
 野口はメガネのつるを持ち上げた。
「服は人間性を表しますから。ちなみに梨美の服は、スコーピオンという服屋さんのものが多いです。一点ものしか扱わないところですよ。梨美はわたしの面倒も見てくれる、優しい人で、とてもおしゃれさんですね。いい人なんですよ」
「なるほど。桃花が面倒をかけていると。しかし、今の大学生はすごいな。俺が大学の時は白いTシャツにジーパンだったぞ。それが爽やかさを演出してくれる、モテると信じていた。その前はケミカルジーンズが流行ったときもあったな」
「いつの話をしているんですか。そんな時代は終わりましたよ。いまは、自分を主張するか、しないかのコーデですね。みんなおしゃれに敏感ですからね。目立ちたい人は目立つ服を。目立ちたくない人は目立たないコーデにします。わたしたちは動画を配信しているので、なるべく人に刺さる、つまり興味を持ってもらえそうな服を着ることにしているんです」
「なるほどな。じゃあ、大河原梨美も一見普通そうだが、目立ちたいって気持ちもあって、性格に一癖あるってわけか」
野口はニコリと笑って、メモを閉じた。
「梨美は優しくて、思いやりがあるんですよ。どうして悪口いうんですか」
 桃花は憤慨する。
「桃花、犯人を捜そうとして、無理するなよ。なにかやらかしそうだからな。茉莉さんを巻き込むなよ」
「エービーコミュニケーションズも首になったので、大学で勉強してますよ」
 桃花は口を尖らせた。
「なんだ、エービーコミュニケーションズを首になったのか。岸辺綾音はエービーコミュニケーションズから独立したらしいぞ。知っているか?」
「ええ! 綾音先輩、独立ですか! いつですか」
 桃花はスマホの芸能ニュースを検索する。
ネットニュースでは写真入りトップ見出しで『岸辺綾音、事務所をやめて独立。タレントデビューか』と載っていた。
自分で事務所を作っちゃったんだ。さすが。綾音先輩、尊敬します。
 桃花は目を輝かせた。
「本当にアイドルをやめてタレントになっちゃうなんて、すごいですね」
 桃花がつぶやく。SNSの予想は当たっていた。
「あら、桃花さんはアイドルになりたかったの? それともタレント?」
 茉莉さんがスマホを覗き込んだ。
「小さい頃はアイドルになりたかったんですよ。少し大きくなってからはヨーチューバーです。なので、動画クリエイターになれて嬉しいんです。アイドルではないんですけどね」
「テレビの芸能人とインターネットの動画クリエイターは似てるけど、違うわよね。アイドルは、テレビの中にいる、手の届かない偶像って感じがするけど、動画クリエイターは、一般の人との距離が近い感じがするもの。例えるなら、特別なというより、普段からよく使う、ちょっといいもの的な感じ?」
「あは。茉莉さん、例えが上手いです。クラスで三番目くらいにモテる女子みたいな。ちょっとモテるくらいの」
「そうそう。一番でも二番でもなくて三番なのよね」
 茉莉は肯いた。
「一番も二番も三番もモテるんだから、大して変わりないじゃないか」
 野口は突っ込んだ。
「いえいえ。大きく違いますから。一番は高根の花。二番は実質クラスで一番のモテ子。三番は手が届く好感度の高い女子です」
 桃花が指摘する。
「さっぱりわからん。好きな人から好かれればいいじゃないか」
 野口は首をひねる。
 微妙なところが野口には伝わらないらしい。桃花はスルーする。
「綾音先輩は独立かぁ。わたしたち、どうしようかな。梨美もエービーコミュニケーションズをクビになったんですよ。だからきっと不安なんじゃないかな。わたしが綾音先輩の肩を持ったから」
「遅かれ早かれアイドル恋愛論争は勃発していたわよ。時代の流れよ。気にすることはないわ」
 茉莉は肩をすくめた。
「そうかもしれませんけど。梨美は就職活動にシフトするかもっていうし。わたしがもし事務所をつくったら、梨美も動画クリエイターを続けるかなあ」
「どうかしらねえ。桃花が事務所をつくっても、梨美さんに他にやりたいことがあるかもしれないしね。聞いてみるしかないわね」
 茉莉が桃花を慰める。
「とにかく、二人は一応容疑者なんだから、おとなしくな。ぜったい捜査に首を突っ込むなよ」
野口はしつこく念を押して帰っていた。
「ピンポーン」
 また野口警部? と思ったら、今度は黒木だった。
「あ、黒木さん。きょうはどうして? 茉莉さんに用事ですか?」
 桃花が玄関を開けた。
「当たり。茉莉さんに会いたくて」
 照れる黒木を前に、玄関に出てきた茉莉はめんどくさそうな顔をした。
 あ、黒木さんのシューズって。
 桃花は気が付いた。
「そこは、建前でも桃花に会いに来たって言わないとダメよ。やり直し」
 茉莉はドアを閉めようとする。
「あ、どうして。ちょっと待って。もちろん桃花さんの傷も確認したいから来たに決まっているじゃないですか」
 黒木は上目遣いで微笑む。
 茉莉は仕方なく黒木を部屋へ上げた。
 桃花はリビングで脇腹の傷の様子を見てもらう。
「うん、傷口も綺麗。激しい運動はまだしないでね。めまいとか、他に変わったことはない?」
「大丈夫です。だるいくらいです」
「無理はしないようにね?」
黒木に念を押される。
綾音先輩とはどんな関係なんだろう。茉莉さんのことが好きみたいだけれど。容疑者の一人にカウントされているし。
「黒木さんはその後は何もないですか?」
「え? 僕? 何もないよ」
「だって第一発見者じゃないですか」
 桃花は黒木にお茶を出す。
「まあ、茉莉さんと一緒だったからね。茉莉さんが疑われているなら、僕も疑われるだろうと思っていたけど。僕のアリバイは正面玄関から入って、エレベーターに乗っているから防犯カメラの映像があるんだよ」
 黒木はカップを優雅に持つ。
「なるほど」
「茉莉さんのアリバイは、僕がここに一緒にいたしね」
 黒木は茉莉を甘く見つめた。茉莉は居心地が悪そうに、視線を逸らす。
「あの、黒木さんって、綾音先輩の恋人じゃないんですか?」
「僕が? どうして綾音ちゃんの恋人なの?」
 黒木は目を丸くした。
「週刊誌に撮られたのって、うちの附属病院じゃないですか。大学の庭のあたりだし。黒木さんってシューズ好きですよね? きょうのシューズって、写真を撮られた時のものと同じじゃないですか? ソールに特徴ありますよね」
「靴か。そんなことでわかっちゃうのか。参ったな。そう、あれは僕だよ。でも迷惑なんだよね」
 黒木は小さく息を吐いた。
「綾音先輩とは、どんな関係なんですか?」
「どんな関係もないよ。綾音ちゃんが小さいころ、近所に住んでいただけ」
「いわゆる幼なじみ?」
「そんな甘い響きじゃなくて、近所の人って感じ」
 黒木は苦笑する。
「でも、綾音先輩はそんな感じじゃなさそうですけど」
「そう? 僕は近所の子くらいにしか思ってないよ。近くに来たからって、綾音ちゃんがたまに病院に会いに来てくれるけど」
「え?」
「ふつう、会いに行かないよね」
 桃花と茉莉は頷きあう。
「東京で友達がいないから、寂しくなると会いに来るって言っていたな」
「それって、好きってことなんじゃ?」
 桃花が投げかけると
「いやあ、向こうはアイドルさんだしね。綾音ちゃんをそんなふうには見ることはないね」
 黒木は言い切った。
「でも、向こうはあるんですって」
 桃花が説明する。
「僕は茉莉さんに興味があるから」
 黒木は茉莉の手を握った。
「わたし、バツイチ子持ちの四十二歳ですから」
「僕は三十五歳ですよ。歳は近いよ。茉莉さんは年下はお嫌いですか?」
「もう子供は産めませんよ」
「僕は茉莉さんがいいんです。一目見て、この人が運命の人だと思いました。子どもは茉莉さんが望むならやぶさかではありません。がんばりますよ」
 盛大な告白が始まった。
 いたたまれなくなり、桃花はそっと離脱を試みる。
「桃花さん! ちょっと」
 茉莉に呼ばれ、ビクンと桃花は止まった。
「あのね、黒木さん。隣の桃花さんの部屋で殺人事件があったし、桃花さんを刺した犯人も見つからないし。恋愛なんてしてる暇はないんです」
「じゃあ、解決したら、付き合ってくれますか?」
 グイグイきますね、黒木さん。本当に綾音先輩とは何でもないらしい。週刊誌で撮られていた写真、綾音先輩が黒木さんにまとわりついているようにも見えなくもない。
「え?」
 茉莉は目を丸くした。
「わかりました。僕が事件を解決してみせます」
 黒木はにこりと笑う。
「時間の無駄だから、僕もこのマンションに引っ越ししようかな」
 黒木はつぶやいたが、茉莉たちは聞こえないふりをした。


きょうも青空が広がっている。何もする気にならないので、ソファーで二度寝、三度寝をしていたところだ。そろそろ茉莉さんも仕事が終わる時間。五限の授業があるので大学に行かないといけない。とりあえずお昼でも準備しようかと桃花はのそりと起き上がると、インターフォンの鳴る音がした。
「また来たんですか。茉莉さんはまだ仕事ですよ。もうすぐわたしも出かけるんです」
 桃花は呆れた声をだす。
「まあな。事件の調査だし。元妻のところに様子を見に来て何が悪い?」
 野口は開き直った。
「そうですよね。野口さんも心配ですよね。茉莉さん、モテてますし」
「はあ? 茉莉がモテてる? 誰に?」
「ええ? それをわたしに聞きます?」
「うるさいわよ。仕事に集中できないじゃない」
 茉莉さんの声がドア越しに聞こえた。
「すいませーん。静かにします」
 桃花が茉莉に謝罪する。
「ほら、野口警部のせいで怒られちゃったじゃないですか。もうすぐ午前の取引がおわりますから、静かにしてください」
「桃花がうるさいんだろう?」
「野口さんがうちに来るからですよ」
「まあ、そういうなよ。心配なんだ」
「そうですか。でも茉莉さんが付き合うなら若い方がいいと思うんですよ」
 桃花の返答に野口の顔が引きつる。お洒落が大好きな人に悪い人はいない。むしろしっかり自分を持っていると思うのだ。黒木さんは靴が好きだから、黒木さんはいい人なんだと思う。野口さんは元旦那さんなわけで。何かがダメだったから別れたんだろう。復縁は難しいんじゃないかな。
「桃花、それはどういうことかな?」
「わたしは口が堅いですから。言いませんよ」
「そんなこと言わずに? ね?」
「だって、容疑者のわたしにメリットはないですから。何か面白い話とか、捜査状況とか聞かせてくれるなら別ですけど。離婚に至った話でもいいですよ」
 桃花はつんと顎を出して見せた。
 野口の拳が震える。
「じゃ、どうして俺たちが離婚したのか話す」
 野口は真剣な眼差しで桃花を見る。
「そこは犯人は誰とかじゃないんですね。でも、そんなプライベートのこと、話していいんですか?」
「仕方ない。話す代わりに、黒木の話を教えろ。スパイになってくれ」
「まあ、内容次第ですね」
「聞くも悲惨な話だ」
「わかりました」
 桃花は目を輝かせる。
 野口は顔を顰めて、語りだした。

 茉莉が大学に入ってきてすぐのことだ。俺と茉莉は出会った。俺は大学院生で、ゼミの手伝いをしていた。
 最初は茉莉の方からアプローチがあったんだ。茉莉は今も可愛いだろ? 昔はもっと素直で可愛かった。すぐに頬を染めてさ。
「そんな回想どうでもいいんですけど」
「まあ、聞け」
 野口は続けた。
 俺と茉莉は付き合うことになって、茉莉が大学を卒業してすぐに結婚した。俺たちは仲が良かったから、すぐに子どもができた。
「ところが、若かった俺はモテたんだ。モテたことが悲劇だった」
「モテ自慢って、うざいんですけど。飛ばせませんか?」
「うるせえな。飛ばせないよ」
 野口は咳払いする。
 ある日、大学院に進学した茉莉の友達が俺に声をかけてきた。
「あの、野口先輩、お時間ありますか?」
「どうした?」
 茉莉の友達だから気を許していたのもある。茉莉にいい顔がしたくて、茉莉の友達なら親切にしてやろうくらいは思っていた。誓って言うが、俺は茉莉一筋で、茉莉以外の女はどうでもよかったんだ。
 「相談に乗ってください。できたら二人で。先輩じゃないとダメなんです。恥ずかしいので茉莉には言わないでください」
 茉莉の友達がそういうので、仕方なく二人で飲みに行った。もちろん茉莉にも「後輩に相談されたから飲みに行く」と報告してあった。
 素面じゃ相談できないというから、二、三杯飲んだろうか。急に眠気がきてな。まずい。やばいなって思った。
具合が悪いから帰ると言ったところまで覚えている。
 で、気が付いたら裸でホテルのベッドに寝ていたんだ。
「は?」
 桃花は眉根を寄せた。
「やってない」
「やってないって、裸で? 最悪。妊娠中の浮気ですか。この場合、不倫?」
「ちげーよ。男はな、やったかやってないかなんか、わかるもんだ。ぜったいやってないと確信していた。が、隣で裸で茉莉の友達も寝ていた。まずいって思った」
「あああ、アウトですね」
 桃花はじろりと野口を睨む。
「俺はあわてて服を着て、家に帰ったんだが、茉莉は家からいなくなっていたんだ」
「茉莉さんにバレてたんですか」
「うん。茉莉の友達が裸で寝ている俺の写真を茉莉に送り付けたようだ。帰ったらテーブルの上に印刷した写真が置いてあった」
「それで茉莉さんは? 茉莉さん、何て言ったの?」
「ああ。絶対やってない。薬を盛られたに違いない。あれははめられたんだって俺が言ったら、茉莉も思い当たる節があったようでな。あの子ならやりかねないって言ってくれて。俺の信頼は地に堕ちたが、結婚生活は継続してくれるとなった」
「よかったですね! じゃあ、なんで離婚? やっぱり、まさか、本当はやっていたパターン?」
 桃花は首を傾げた。
「違う。断じて違う。でも、そのあと、茉莉の友達が妊娠したから責任を取ってくれって家に押し掛けてきた」
「はあ? やってないのに? どうして? 茉莉さんは?」
「グレーなんだから、責任取りなさいって言って、離婚だ。俺はやってない、無実だっていっても聞いてくれなかった」
「ええええ」
「結局、彼女は妊娠していなかった。どうしてこんなことをしたんだって聞いたら、彼女は笑いながら、茉莉の結婚生活を壊したかったって言っていたよ。茉莉のことが気に入らなかったらしい」
 茉莉さん、妬まれていたんですね。しかし、女の嫉妬は怖すぎる。
「それって別れ損じゃないですか。復縁しないんですか」
 桃花は顔をしかめた。
「な? そう思うだろ? 俺もそう言っているんだけど」
 野口は桃花の応援を得たので、嬉しそうな顔をする。
「バカね。自分の下半身の管理ができないなら、離婚よ、離婚。だいたい女と二人きりで飲みに行くことを正直に連絡してないのも悪いし、油断していたんでしょ。あの子と飲みに行くって言ってくれたら、危ないって警告したわ。それなのに女の罠にひっかかるなんてね」
 午前の株式市場が終わり、茉莉さんが仕事部屋から出てきた。
「たしかに」
「たしかにじゃねえよ。おまえ、俺の味方じゃなかったのか」
 野口は桃花の方を恨みがましく見る。
「いつ味方に?」
「人生は短い。一緒にいるなら、裏切るかどうか分からない相手よりも、信頼できる人がいいわよ」
 茉莉は首をすくめた。
「これ、差し入れだ」
「あら、気が利くわね。ありがとう」
 茉莉がにこりと笑う。
「ただ来るだけじゃ怒られそうだからな」
 野口は茉莉に笑いかけた。
 だから、信頼回復のために茉莉さんちに通っているのか。納得である。ってことは、二十年? 二十年も通っているの?
 お子さんがわたしと同じ歳だって言っていたもの。子どもに会いに来るというのもあるだろうけど。野口さんの執念もすごい。
 桃花は腕組みをする。
 黒木さんに勝ち目はあるんだろうか。黒木さんのメリットは、若くて新しい男ってことだ。まだ裏切っていないからなあ。期待大だ。それに比べ、野口警部は浮気未遂をやらかしている。信頼はゼロ。この二十年間で払しょくできているのか疑問だ。
 桃花は野口と茉莉の顔を交互に見た。
「それで? きょうはどういうご用件?」
 茉莉は自分の分のお茶をいれた。
「岸辺綾音はエービーコミュニケーションズをやめて自分で事務所をつくったから、内山マネージャーもエービーコミュニケーションズをやめたらしい。岸辺綾音と共同事務所にしたかったらしいが、岸辺綾音が軌道に乗るまで雇えないって、内山の申し出を断ったみたいだ」
「へえ。内山マネージャー、綾音先輩のところにいきたかったんだ」
 そんなに綾音先輩に固執していたんだ。意外だった。内山マネージャーはいつもわたしのことを睨んでいるのように見えるので、正直苦手だ。
 わたし、どうしようかな。もう大学三年生だし、これを機に動画配信することをやめることもありだろう。でも、就職活動をして、会社勤めしている自分が想像できない。
わたしは自分が感じたことや疑問におもったことをみんなに問いたいし、どんどん住みやすい世の中にしたい。
仕事をするならそういう職業につきたいって思う。やっぱりわたしにはこの動画配信の仕事しかないのかな。梨美はインターンも考えているって言っていた。梨美とのコンビは一ヶ月後に解散するようになるかも。一人でやる? 
やっぱり動画配信、あきらめたくない。
桃花は決意した。
「茉莉さん、わたしは一人で動画配信を続けるつもり」
「桃花は人気があるから、それでいいんじゃない? 発信力もあるし」
 茉莉は小さく笑った。
「おまえは動画クリエイターが向くと思うよ。サラリーマンは無理だ。相方のほうは、会社勤めもできそうだが」
 野口と茉莉が賛成する。
「梨美だってクールビューティーって言われて、注目されてますよ。ヨーチューバー、梨美も続ければいいのになあ」
 桃花は残念がる。
「梨美さんはぱっとしないわ。突出した個性がないのよ。でも桃花は違う。ヨーチューバー、、いいと思うわ。むしろ就職してサラリーマンの方が向かないわよ」
 茉莉が桃花を見る。
「ああ、俺もそう思う。桃花は派手というか、とにかく目立つんだよ。そんな会社員なんていないぞ。それはそうと、事務所ってあった方がいいんだろう? どこかの事務所に入るのか?」
 野口が桃花の服を見る。
「いえ、わたしも自分で事務所も作ろうかなと考えているところです。あ、すいません。そろそろ大学に行きますね」
 桃花は茉莉と野口に挨拶をすると、あわてて家を出た。

「そこ! なんだその大きな髪飾りは。派手じゃないのか」
 先日、桃花の帽子を注意した教授がまた桃花に指を刺した。
 えええ? まさか、また、わたし? 
きょうは花飾りが耳元についているけど、帽子ではない。これが不愉快ってこと? 
本日のファッションは、レース仕立ての着物を短めに着て、下にレースのロングスカートを着ている。着物の感じを残したくて、和風のかんざしっぽい花飾りを頭に挿している。七五三や成人式にならないように、そんなに大きい花ではない。けれど、着物ミックスコーデを嫌がる人は一定数いるんだよなあ。
 もしかすると、教授は着物ミックスが嫌いなのだろうか。
「おまえのことを言っているんだ」
「わたしですか?」
 桃花が席を立つ。
 桃花の顔を見ると、教授は先日のことを思い出したようだ。
教授の顔がひきつっている。
「もういい。座りたまえ」
 教授はくるっと背中を向け、板書に文字を書く。
「先生、不愉快なら髪飾りを取りましょうか?」
「いいって言っているだろ」
 教授は桃花と目を合わせないようにして授業を進め始めた。
(なんだか傷つくなあ)
着たい服をきて、お化粧して楽しんでいるけど、人を不愉快にさせることがないように気を付けているつもりだ。着物ミックスコーデは大学ではやりすぎなんだろうか。あとでSNSでアンケート調査してみるか。動画にして、反応を見てもいいかな。
 その後は、桃花は静かに授業を受けた。
 無事授業が終わると、梨美からメールが来ていることに気が付いた。待ち合わせして、食堂で会うことにする。食堂は、お昼時など混んでいるとき以外は、自由に利用してもいいとされている。
「そっか、桃花は事務所をつくることを考えているのね。わたしはやっぱり就職かな。普通の幸せが欲しいから。ごめんね」
 梨美の発言に驚く。
「普通の幸せ?」
「こんな仕事をしていると、金銭感覚も時間も普通の人とズレちゃうでしょ」
 そうなのかな。わからない。
桃花が黙っていると、
「桃花はマイペースだからなあ。妬みもお金も関係ないか。それが通常モードだもんね」
 梨美が寂しそうにする。
「そう?」
 動画クリエイターは視聴者登録数や視聴回数に振り回される。コメント欄が荒れたりすると、メンタルもきつくなる。独立して自分ですべてやるなら、広告収入も考えないといけない。画角も構成も考えることになる。うまくいけば、今より収入は増えるが、賭けとなる。自由は手に入るが、作業は増える。
(儲かっている人たちは派手にお金を使っているみたいだけどね)
「桃花は自分を見失わず、大丈夫そう」
 梨美は寂しげに笑った。 
「そうかな。梨美なら定時で作業するとか決めて、しっかりやりそう。就職して、動画配信続ける? もったいないもの」
「ううん。わたしはだめ。たぶん向いてない。感情で動いちゃう」
「梨美、顔色が悪いみたいだけど」
 梨美の頬がこけているように見える。悩んでいるんだろうか。
「それとも、梨美も事務所をつくる? わたしと共同経営する? すぐ潰れちゃうかもしれないけどさ」
 桃花は冗談めかして打診する。
「誘ってくれてありがとう。でも、わたしはもう全てておしまいにするわ」
 梨美は小さく笑った。
 解散はあとひと月後に決まった。


内山は、岸辺綾音から白い封筒を受け取った。表には退職願と書いてある。自分の顔が引きつっていくのが分かる。
「綾音が辞める? どうして? これはどういうことだ」
 封筒を持つ手が小刻みに震える。
「え? 見ての通り。退職願よ」
綾音はさらりと答えた。電話やパソコンの音がなくなった。
 事務所の中にいる全員の注目が集まっていた。
「だから、どういう意味だ? エービーコミュニケーションズをやめるのか?」
「ええ、やめるわ」
 綾音は冷めた目で内山を見る。
「なぜ?」
「なぜって? 週刊誌に黒木さんのことがバレた時、エービーコミュニケーションズは応援してくれなかったじゃない。わたしを首にしろって声もあったみたいね。知っているのよ。別にこんなところ辞めてあげるわ。困るのはこの事務所。看板スターがいなくなるんだから」
 綾音は肩をすくめた。
「それは、そういう意見もあったというだけで、誰も本当に辞めさせようとは思ってない。機嫌を直してくれ」
 内山は慌てて打ち消す。
「週刊誌によると、事務所はわたしの扱いに困っているとか、辞めさせたいと思ってるとか書いてあったけど? それに、以前からアイドルはをもう卒業したいって、わたしは相談していたわよね?」
「まだ卒業の時期じゃないって、事務所が判断したんだ。ファンだって、アイドル卒業なんて納得しないだろう。まだまだお前は人気がある」
「わたしは今が脱アイドルのタイミングの時だと思うの。だからタレントに転身するわ。エービーコミュニケーションズは、汚れたアイドルなんていらないでしょ?」
 綾音は自虐的に笑う。
「汚れてなんかない。だいたい付き合ってなんかいないじゃないか。あの男は綾音の恋人とは違うだろう?」
 内山は否定した。
「汚れてないって言ってくれるのはマネージャーだけよ。桃花に公開禊の機会も奪われちゃって、派手な転身もできなくなっちゃったし。災難よ」
「ああ、桃花か」
 内山は苦々しい顔をした。
「ほんと余計なことしてくれちゃって。何が『あこがれの綾音先輩!』よ。虫唾が走るわ。後輩でもないわ、あんな子」
「そうだな」
 内山がうなずいた。
「断髪式でイメチェンして、ワイドショーやネットニュースに取り上げてもらう予定だったのに」
 タレントとして生きていくには、どうしても女性、しかも主婦層の支持がいる。汚れたアイドルのことを主婦層は嫌う。だから、あえて断髪式をして、全女性の同情を誘う予定だった。
「ああ、そうだったな」
 内山の表情もさえない。
「不倫ではないから、たいして汚れているわけじゃないんだけど。だからこそ、純愛を貫く清純派タレントとして主婦に受け入れられると踏んだのに。桃花のせいで丸つぶれ」
 綾音は苦々しい顔をする。
「それに何なの、どうして黒木さんがあの子のそばにいるの?」
「黒木は桃花に気があるのかもしれないな?」
 内山はニヤニヤする。
「まさか? 桃花が好きとか、女の趣味が悪すぎ」
綾音は不機嫌そうに黙った。
綾音は、この前の告白したことを思い出す。
「黒木さん、あなたが好きなの。ずっと好きだった」
「そういう気はない。ごめん」
 あっさりと黒木に振られた。
 あり得ないと思った。このわたしがフラれるなんて……。
「わたしとなら、きっと釣り合うわ」
「そういう目で、綾音のことを見たことはないから。ごめん」
綾音は目に涙を溜めて、黒木を見た。
「わかった。でも、これからも会いに来ていい?」
「え?」
「あきらめるまで、時間がかかるから」
「ああ」
 黒木はしかたなさそうに頷いた。
綾音はあきらめきれなかった。一か月に一回。しつこくならない程度と決めて、黒木のいる大学病院に差し入れにいき、お茶を一緒に飲む。
そのうち、わたしの存在を受け入れてくれるだろう。
「もういいだろう? こういうことはやめてくれ」
 黒木に何度か言われたが、黒木は幼なじみのわたしを冷たくあしらうことはなかった。
 きっともう少しで黒木さんはわたしのことを好きになるはず。だって、わたし、アイドルだもの。わたしにぴったりなのは黒木さんだけ。
 ああ、黒木さんに会いたい。
 桃花が内山マネージャーの車にぶつかった日。黒木を呼び出さなければよかった。そうすれば黒木と桃花は出会わなかった。桃花が居候するマンションに黒木が通うこともなかった。
 どうしてこうなってしまったんだろう。
綾音は奥歯をかみしめる。
黒木は桃花のことが好きなんだろうか。優しいから、事故に居合わせたことを気にして様子を見に行っているだけだろうか。
 綾音は歯ぎしりした。
ああ、腹が立つ。桃花なんていなければいい。邪魔ばかりして。この世から消えてなくなってほしい。
「綾音、怖い顔をしているよ」
 内山がそっと綾音の腕を撫でた。
「そう?」
 綾音は粟立つ腕をそっと隠し、薄暗い笑顔を浮かべた。
「メタモルフォーゼは邪魔だな。綾音の華麗なるリデビューを潰しやがった。業界からいられなくしてやろうか。そうすればずっと一緒にいられる?」
内山が口角を上げる。
「こんなに君のことを理解しているのに、どうして僕を雇わないんだい? なんだったら僕が事務所を経営してもいいんだよ?」
内山が笑った。
気持ち悪い。あんたのそういうところは大嫌い。いい機会だから、わたしと離れてほしい。
 綾音はそんな気持ちをおくびにも出さずうっすらと営業スマイルを浮かべた。
「タレントとして稼げないかもしれないのに、敏腕な内山マネージャーをつれていくわけにはいかないわ」
「君は本当に優しいね。僕のことを考えてくれたんだね。大好きだよ」
 内山は綾音を抱き寄せようとするが、綾音はかわして、すっと右手を出す。
「ええ。ありがとう。これからも応援してね」
 綾音は内山の手を数秒間だけ握った。
 内山は頬を染めた。
「あら? この絆創膏は?」
 内山はサッと右手をひっこめる。内山の右手の甲に二枚ほど絆創膏が貼ってあった。
「どこかでひっかいたらしい」
「内山マネージャーでもそういうことがあるのね」
 綾音は口角を上げて、内山の手を見つめた。

「きょうは晴れていなくて残念ですね」
 六本木のタワーマンションにも雨は降る。桃花が窓の外を覗くと、シトシトと小雨が降り続いていた。
「雨が止んだら、散歩に行きたいわ」
「いいですね。天気予報ではもう少ししたら止むみたいです」
 スマホ天気予報を茉莉に見せる。
「大学は?」
「きょうは休みなんですよ。それなのに雨」
 桃花はわざと頬を膨らませた。
「植物にとっては恵みの雨だけど、桃花さんにとっては最悪なのね」
「ショッピングでも行こうと思っていたのに」
「行けばいいじゃない?」
「雨の日に荷物が多いのっていやじゃないですか。お気に入りの靴もよごれちゃうし」
「たくさん買って、靴が汚れるのが前提なのね」
 茉莉が笑った。
「ねえ、茉莉さん。わたし、これからどうしようかな」
「ええ? 人生相談?」
「まあ、そういう類です。独立しようと考えていましたが、大学のみんなが就職活動の準備をしているのを見ると、これでいいのかなって不安になっちゃって」
「わたしに答えられるかしら」
 茉莉がほほ笑んだ。
「茉莉さん、わたしに事務所を設立することってできるとおもいますか?」
「そうねえ。どうかしら」
 茉莉は顎に手をやる。
「綾音先輩が独立したって聞いて、わたしも自分で事務所を構えて仕事したいって思ったんです。でも、もし動画クリエイターを続けないなら、来年は大学三年だから、就活をするの準備をしないといけないですし」
「就活って、どこに就職するつもりなの? 何がしたいの?」
「えええ? それはこれから考えるつもりですけれど」
 桃花は全く考えたことがなかった。
会社に就職して、やりたいことはない。そもそも受からないと思うので、受かったところに就職すればいいと思っていた。
「いい? 桃花さん。働くっていうのは、自分の時間を使うのよ? どんな仕事でもいいってわけないじゃないわよね。やりたくない仕事をするってけっこうつらいわよ? もちろん、お金をもらうためだからって割り切れる人もいる。でも、桃花さんはそういうタイプじゃないわよね?」
 たしかにそのとおりである。でも、お金がないと生活ができないんだから、その考えは現実的ではないんじゃないか。それが大人になるってことだと思っていた。
 寝ないで編集したり、カメラに向かってレポートするのは、きつい時もあるけれど楽しい。就職すると、動画を配信することもなくなるだろう。副業禁止のところもあるし、SNSを推奨しない職場もある。
本当にわたしは会社という組織で働けるのだろうか。また動画をつくりたくなったりするんじゃないか。
「桃花さんには動画クリエイターの仕事があるし、やっていける環境もある。だから、そのまま突っ走ればいいんじゃない?」
「でも、ずっと動画クリエイターとしてやっていけるか、自信がないんです」
 桃花の言葉に茉莉が苦笑する。
「誰だって、ずっと同じところで働けるかどうか、不安だわ。わたしだって、ずっと株や暗号資産の取引で暮らしていけるなんて自信はないもの」
「茉莉さんも? でも、自分で事務所を設立するって、大変そうだし。将来を動画クリエイターに決めてしまっていいのか不安です」
「大変かもしれないけど、大学生で会社を興す人だっているじゃない? やる気になったらできるわよ。いざとなったら、動画を作る会社に就職すればいいじゃない」
「そうですかねえ」
 桃花は首をひねった。
「野口と離婚してね、就職しようと思ったとき、赤ちゃんがいたの。だから仕事がなかなか決まらなくってねえ。世の中は厳しかったわ」
「そうなんですね」
 桃花は小さく頷く。
「経営者側にたてば、小さな赤ちゃんがいる女性を雇う不安な気持ちもわかる。でも、わたしも生きていかないといけない。赤ちゃんも育てなくてはいけないし。でも、自分に向かない仕事はできないと思ったの」
 桃花は顔をあげた。
「慰謝料はもらっていたので、最初は食いつぶすしかなかったわ。たまたま暗号資産がもてはやされる頃だったから、やってみよう。えいって慰謝料を投資したのよね。それがなかったら、今ごろどうなっていたかわからないわね」
 茉莉は空を見上げる。
「よく投資できましたね」
「もうね、やぶれかぶれ。ほんとイチかバチかよ? おすすめはしないわ。でも、それをやれる環境があったのよ」
 茉莉がほほ笑んだ。
「桃花さん。動画を作る仕事って、手に職と同じだと思うのよ。それにね、人生は何とかなるわ。わたしだって何とかなったんだもの。やりたいことがあるなら、やってみたら?」
 茉莉は桃花を励ます。
「とりあえず、住むところはありますからね。やるだけやってみてもいいかもしれません」
「そうよ。あら、雨が止んだみたい。暇なら一緒に散歩に行く? 植物観察でも行きましょうか」
 茉莉が桃花を誘う。
「大樹がね、あ、わたしの息子ね。小さいとき、あれは? これは? って何でも聞いてくるので、ポケット植物図鑑を片手に公園にいったのよ。大樹の聞きたがりは大変だったの。なるべく正確に教えてあげたくってね」
 茉莉は思い出し笑いをする。
「だから、茉莉さんは植物に詳しいんですね」
 桃花は茉莉と一緒に外へ出た。
湿気が肌に張り付いてべとつく。雲の合間から太陽が見えてきた。マンションをでて数分のところにある公園につく。雨に洗われた若葉がまぶしい。
「これこれ。きょうはタチアオイが見たかったの」
「タチアオイですか?」
 茉莉は薄いピンク色のグラデーションの花を指さした。高さは一五〇センチくらいあるだろうか。
 一本の茎にたくさんのつぼみがついている。
「梅雨の時期に咲くからツユアオイともいわれてるわ」
「よく道路際に咲いていたような気もします」
「きっと誰かが育てていたのね」
 茉莉は花を覗き込む。
「フリルのような花びらが可愛らしいでしょ? さて、問題です。この真ん中のは、おしべでしょうか、めしべでしょうか?」
「ええ? めしべ?」
 桃花は首を傾げた。
「残念。タチアオイは、最初はおしべ、次は時間差でめしべが出てくるの。めしべは真ん中から糸みたいなものよ。同じ花の中で受粉しないようになっているんですって」
「へえ。変わってますね」
「殺された女装の被害者は、桃花さんのようになりたかったのかもね」
「そうなんですかねえ」
 桃花はそれより桃花のパジャマを握っていたのかが気になっていた。下着泥棒ならぬパジャマ泥棒だったのではないか。でも、よくよく考えれば、普通、狙うとしたらパジャマより下着の方がじゃないんだろうか。なぜパジャマなんだろう。
「その後、桃花さんのストーカーはどう?」
「しつこくインターネットでつぶやいている人はいませんね」
「きっと、女装の方だったのよ。ストーカーは」
 茉莉がうんうんと頷く。
「ゴンザレスさんがストーカーですか?」
「そうそう。ゴンザレスさん。最初は桃花さんの普通のファンだったけれど、だんだん桃花さんのように自分もふるまってみたかったのかもね」
「真似ても、自分は自分なのに」
 桃花はつぶやく。
「憧れの人を真似ると、自分もできる気がするじゃない」
「まあ、そういうこともありますけど。でも、自分が変わろうとしないと、何も変わりませんよね」
「桃花さんならこうするって考えて、勇気をもらっていたんだと思うわ。背中を押してもらえれば、変わるきっかけになるというか」
 桃花はそう言われて頷いた。
「証拠はそのうち野口警部がもってくるわ。ネットのストーカーに関しては、プロバイダーに個人情報の開示請求して調べればわかることでしょ」
 茉莉はにこりと笑顔になった。
「やっぱり、わたし、自分の事務所を作ろうと思います」
「そう」
 茉莉は黙って聞いている。
「動画配信、好きなんです。うまくいくかわからないので、梨美は誘えませんが」
「そうねえ。梨美さんにも独立するって報告はした方がいいと思うけど」
「もちろんです」
「あなたのように自分を大事にすることができる人は、個性を殺して働くのに向いていないわ」
「どういう意味ですか」
「だから、動画クリエイターに向いているってことよ」
「なんだかバカされたような気もする」
「そんなことないわ。適材適所ってこと」
 茉莉はふふふと笑った。



茉莉さんの料理は大皿料理が多い。きょうの夕飯は回鍋肉と麻婆豆腐だ。
「以前は息子が一緒に住んでいたから大皿料理なの。男子高校生の食べる量が恐ろしいのよ」と茉莉さんは言っていた。だから自分の食べられる分だけ食べてもらうスタイルらしい。
「中年女性が男子高校生と同じ量を食べたら、あっというまに糖尿病に高血圧、高脂血症で病院通いよ。余った分は次の日の朝食か、昼食に回せばいいの。無理に食べないでね」
 茉莉さんは笑みを浮かべる。
「おいしい! この味付け、お店みたい。白いご飯がいくらでもはいってしまいます」
調子に乗って食べ過ぎてしまった。ヨーチューバーなのに美意識が高くなくてごめんなさい。
桃花は反省した。お腹がいっぱいで動けなくなった。
「大丈夫? 桃花さん。きょうは特別に片付けもしてあげるわよ」
茉莉が鼻歌まじりに、食べたお皿を片付ける。
「ありがとうございます」
「いっぱい食べてくれる人がいるっていいわね。一人で食べるよりおいしいもの。デザートは桃だけど、食べられる?」
「はい」
 桃花はつい返事をした。お言葉に甘えてソファーに座り、お腹を撫でてから、ノートを取り出す。このノートには事件で分かっていることを書きだしてある。
 初めはわたしが刺されたことだ。
 桃花はノートの文字を読み進める。
結局、わたしの部屋で殺されたゴンザレスさんは何がしたかったんだろう。ゴンザレスさんだってこれから社会に出ていろいろやりたいことがあったに違いない。全然知らない人だけど、彼を殺すほどのことがあったんだろうか。
この世のどこかに殺人犯がいる。
わたしを刺した人もいる。
わたしを襲って得する人なんているだろうか。謎だ。
もしかすると、わたしを刺した人と、ゴンザレスさんを殺した人が同じってこともあり得る。
桃花が唸っていると、茉莉さんが桃をのせた皿を持ってきた。ふんわりと甘い匂いが漂う。
冷えた桃の果肉が口の中で消えていく。
「甘い桃、産毛によって守られる」
「どうしたの? いきなり俳句?」
 茉莉さんが変な顔をしている。
「昔、ほおずりして痛かった、桃の産毛を思い出していたんです」
「わかるわ。桃の産毛って、意外に刺さるんだよね。ふわふわだと思いきや、頬にスリスリなんかしたら大変よ。しばらく痛いからね」
 茉莉さんも御存じとは! 仲間だ。
 桃花と茉莉は笑った。
「このとげは虫よけでしょうかね?」
「昔、大樹に聞かれたことがあったので調べたことがあるわ。桃の毛は虫から守るための他に、雨や日差しからも実を守るって書いてあったわよ」
「なるほど。攻撃態勢なんですね」
 二人の胃袋に桃の実二つが消えていった。
 ゴンザレスさんは住居侵入罪になってつかまってしまうのに、なぜわたしの部屋に入ったんだろう。入らないといけないことがあったんだろうか。パジャマが欲しかったというのもあるのかもしれないけど。全くわからなかった。
 桃花はスマホを取り出して、ゴンザレスのSNSのアカウントを探す。検索すると、まだ削除されていなかったようで、すぐに見つかった。ラッキーである。
六月一日、『正しい推し活とは?』『彼女の命が危ない』『彼女に言わないといけない』と連続でつぶやいていた。
彼女って、わたしのことだよね?
桃花は読み進める。
『彼女にはどうしても言えなかった。やっぱり待ち伏せするしかない』『推しを守るのがファンの役目だ』と六月十日に書いていた。
 彼はわたしに何か伝えたかった? そういうこと? 警告がしたかった?
 ストーカーは、ゴンザレスさんであっていたらしい。
 彼は頻繁にある女性の発言に『いいね!』をつけていた。
誰なんだろう。
確認すると、わたしそっくりの服を着て、化粧をする男性のアイコンがあった。どうやら、ゴンザレスさんの女装姿らしい。
「これって、もしかしてゴンザレスさんの裏垢?」
 目元や鼻の形がやっぱりゴンザレスさんだ。
裏垢とは、本当のアカウントは別に作られた、もう一つのアカウントのことだ。例えば本垢はプライベート、裏垢は趣味の話をつぶやくなど、区別をして使っている人が多い。
ゴンザレスさんはわたしに何か伝えたくて待ち伏せしていた。よいストーカーというのもおかしいが、正義感のある人だったんだろう。ゴンザレスさんは何を伝えたかったのか。危険が迫っているならぜひ教えてほしかった。
「あら、この人、桃花さんそっくりね」
 唸りながら考えていたら、茉莉がパソコンの画面をのぞいてきた。
「ゴンザレスさんです。この前、隣のわたしの部屋で亡くなった方ですよ」
「ああ、死体の方ね」
 茉莉は眉を顰める。
「ゴンザレスさんはわたしに何かを警告したかったみたい。それでうちに来たみたいなんです。でも、殺されてしまった」
「そうなのね」
 桃花と茉莉は黙り込む。
ゴンザレスさん、ぜひ理由を教えてほしかった。
「あ、そうだ。きょうはお客が来るのよ。同じ歳で同じ大学の桃花さんに会わせたかったの」
 ピンポーン。
 玄関の呼び鈴がなった。
「お帰り、大樹。桃花さんもいるわよ」
 茉莉さんは微笑んだ。


六月二十日。きょうも暑い。梅雨はどこに消えたんだろう。大学はエアコンが効いていて涼しいけれど、一歩外に出るだけで熱気が襲ってくる。
桃花はハンカチで汗を拭いた。わざわざハンカチで汗を拭くには理由がある。手で拭ったら、その手は服で拭くことになる。大事な服を汚すことはできなかった。
「あれ?」
正門前で、梨美と綾音先輩の姿を見つけた。綾音先輩は美脚を露わにしたミニ丈のフレアスカート、梨美はハイネックのサマーニットを着ていた。二人とも立ち姿も美しかった。周囲の学生たちも見惚れている。
「梨美、綾音先輩」と手を振ろうとしたが、二人が何やら真剣に話し合っている雰囲気。声がかけづらく、そっとその場を離れることにした。
(わたしのせいでトラブルになってなければいいんだけど)
 事務所や動画の件などでいくつか心当たりがある桃花は、二人のことが心配になる。
あとで聞いてみようかな。でも、梨美は言わないかも。梨美は弱みを晒すタイプではない。打ち明けてくれるのを待つしかないか。
最近、梨美の顔色が悪いのも気になる。体重も減っているんじゃないかな。
眉根を寄せて、桃花はスマホを確認する。梨美から連絡は来ていなかった。
「ただいま」
「おかえりなさい」
 茉莉さんがリビングのドアから顔を出した。
「桃花さん、あとちょっとだから、休んでいて」
リビングはエアコンが効いていて涼しくなっていた。桃花はすぐに夕飯の準備ができないくらい疲れていた。夏の暑さは身体に応えるのだ。
冷蔵庫にあった冷えた麦茶をいっぱい飲んでのどを潤すと、身体の熱が下がったのが分かった。桃花はソファにだらしなく座る。
スマホをいじりながら最近のヨーチューバーの動画をチェックしていたら、インターフォンがなった。「最近、来客が多いんだよね」と桃花はつぶやいた。
午後の株式市場が終わり、茉莉さんも部屋から出てきた。
桃花が応答すると、モニターには野口連の胡散臭い笑顔があった。
「こんにちは。ちょっとお話聞かせてください」
 うさんくさいアンケートの人みたいだけれど、野口は警部である。
「もううちには用事はないでしょ。早く事件を解決してください」
 野口の声に、茉莉が応えた。
「そう冷たくしないで、茉莉さん。きょう来た理由を聞いたら、きっと驚くと思うよ。俺と話してよかったって思うから」
 茉莉は右眉をピクリとさせた。
「しかたないわね。早く言いなさいよ」
 茉莉はしぶしぶ野口を部屋へあげる。
「せっかちだなあ。僕を求めてくれるなら嬉しいんだけど」
「求めないわ。ぜったいにない」
「ひどい。俺は茉莉さん一筋だって、信用してよ」
 野口は眉を八の字にして目を潤ませた。顔がいい分、破壊力のある攻撃だ。しかし、茉莉はめんどくさそうに見ていた。
「はいはい。それで?」
「内山マネージャーが死体で発見されたよ。寝室で頭から血を出して倒れていた」
「ええ?」
「どうして?」
 桃花と茉莉が驚きの声をあげた。
「ほら、俺が来てよかったでしょ。茉莉さん、このこと知らなかったでしょ?」
 野口は両手を腰にあてて威張る。
「いつ殺されたの?」
「推定死亡時刻はきのうの午後九時くらい。何度も頭を殴打されているようだ。寝室の床に血だまりがあった」
「なるほど」
 茉莉は肯く。
「死亡推定時刻ってどうしたらわかるんですか?」
 桃花は疑問に思ったことを聞いてみた。野口ならきっと教えてくれるだろう。
「直腸の温度が分かればすぐに出るぞ。一時間に〇・八度ずつ体温が下がっていくからな。三十七度から直腸の温度を引いて、〇・八で割ればいい。ただし例外もあるけどな」
「そんなふうに死亡推定時刻って出すんですね。知らなかった」
 意外なところでも数学を使うんだなと感心した桃花だった。
「で、死因はわかったんですか?」
「えええ? まあな。これ以上言うと怒られるからダメだよ」
 野口はわざとらしく口を閉じる。
「そんな。ここまでしゃべったのに?」
 桃花は不満げな顔をした。
「内山さんの部屋を見たいなあ。ねえ、ちょっとだけ見せて。ちょこっとでいいから。だって桃花さんは被害者なのよ」
 茉莉がにこりと微笑む。
「いや、それはなあ……」
 野口が渋る。
「あなたにしか頼めないの。お願い」
「んんんん。茉莉さんがそういうなら」
茉莉に頼まれ、野口は満面の笑みだ。どこにも触らない、静かにしていることを条件に内山の部屋を見せてもらうことになった。本当にいいのかなどは野暮な質問だ。ダメに決まっているだろう。
「桃花さんの周りは事件が多いわねえ。残念な星回りなのかしら」
「茉莉は占いなんて信じないだろ?」
 野口が突っ込む。
「だって、もう二人が亡くなっているのよ」
 茉莉は眉を八の字にする。
「わたし、そんなに恨まれていたんですかねえ」
桃花は首をひねる。そんなに恨まれるようなことをした覚えはないんだが。
「バレたらクビだが仕方がない。茉莉のため、茉莉のため」と野口はぶつぶつ言いながら、桃花と茉莉に白い手袋をくれた。
「星占いってロマンチックでしょ」
「じゃあ、もし俺と再婚した方がいいって占いがでたら、再婚してくれる?」
 野口が茉莉の瞳を覗き込む。
「ううん、ない。しないわよ」
 茉莉は秒殺した。
「やっぱり」
 野口は悲し気に首をすくめた。
「だって、あなた、占い師を買収しそうだもの」
 茉莉さんは呆れたように言った。
そんなに茉莉さんが好きなら、離婚騒動のとき別れなきゃよかったのに。
桃花は二人のやりとりで思う。
でも、わたしがもし妊娠中で、例え浮気未遂だったとしても、ひと晩女性と過ごしたなら、やっぱりその後の結婚生活の継続はないかな。野口さんにはいろいろお世話になっていて、味方になれずに悪いけど。
桃花は手袋をはめ、野口がドアのカギを開けた。
「内山の部屋を見ても驚くなよ。それからほんとうにベタベタ触るなよ。約束だからな」
 野口が周りを確認しながら案内する。
 内山マネージャーが住んでいたのはごく普通の五階建てのマンションの一LDKだった。
芸能事務所のマネージャーってそんなにお金持ちでもないのかもしれない。玄関の飾り棚には鍵入れがあるだけで、飾り気のない部屋だ。電化製品は大きくも小さくもないテレビとレンジ、冷蔵庫などがあるだけ。何とも素っ気ない。
内山マネージャーは、この部屋に寝に帰っていただけなのかもしれない。生活の匂いがあまりなかった。
「一見代わり映えしない男の一人暮らしって感じだろ。だがな、寝室兼書斎を見てみろ」
 野口に言われ、廊下の途中にあるドアを開けてみる。中を開けてびっくりだ。
壁一面に岸辺綾音のポスターが貼ってあり、ガラスの大きなショーケースには岸辺綾音のグッズが所狭しと飾ってある。
ずいぶん熱心なマネージャーなんだな。うちの元マネージャーもこんな感じだったんだろうか。いや、ないな。わたしが刺されたというのに、すぐに首を宣告する非情な奴だ。やはり内山マネージャーが変なのかも? 正直、ちょっと気持ち悪いわ。
桃花は眉を顰める。
 ベッドには岸辺綾音の等身大抱き枕と顔写真のついた枕が置いてあった。夜の添い寝として使用されていたのだろうか。
「ここまで固執されると、ちょっと気味が悪いわね」
 茉莉の顔はひきつっていた。
 クローゼットの扉を開けると、桃花の写真がダーツの的に張り付けてあった。顔の部分は穴だらけになっていて、目鼻は見えない。
「ひど! なんで?」
 桃花はショックを受けた。
 隣には梨美の写真も貼ってあった。梨美の写真には大きく黒のマジックペンでバツが書いてある。
 どうして私たちの写真が? 
桃花は唇をぎゅっと引き締めた。
クローゼットの引き出しを茉莉が開け始める。
「おい、あんまり触るなよ」
「内山を殺したのは、誰なのかしらって思って。この辺にヒントとかないのかしら」
 茉莉はクローゼットの扉をそっと閉めて元通りにした。
 わたしだけでなく、梨美までターゲットだったの? わたしはまだ何もされていないけど、梨美は大丈夫だったのだろうか。
桃花の胸に不安がよぎる。
綾音先輩が独立し、一緒に働くことを断られた内山マネージャーは落胆したのだろう。もしかしてメタモルフォーゼのせいだと思ったのかもしれない。
桃花は顔をしかめた。
なぜ内山マネージャーが殺されたのか。
内山マネージャーは綾音先輩にかなり傾倒していたようだ。それに気が付いた綾音先輩が内山マネージャーのことを殺したって線もある。
どうだろう。ちょっと気持ち悪い変態だけど、自分の味方の元マネージャーを綾音先輩は殺すだろうか。最大の理解者とみることもできる。
桃花は首をかしげる。
 黒木さんの可能性もある。本当は綾音先輩のことが好きで、綾音先輩を奪い合いになり、内山マネージャーのことをうっかり殺してしちゃったとか?
 問題は、黒木さんは茉莉さんのことが好きなんだよね。
 桃花は思考を止めた。わからないものはわからないのである。
「さ、もういいだろ?」
 野口に促され、茉莉と桃花は外に出る。
 ダーツの的にするくらいだ、わたしを襲ったのも、内山マネージャーかもしれない。桃花は腕を組んだ。
あ、それは無理だ。だって、わたしは内山マネージャーとの車にはねられたんだっけ。
 じゃ、誰がわたしを襲ったのだろうか? 不思議だ。
「そうそう、桃花の部屋で見つかった女装死体のほうは解決できそうだぞ」
 野口が明るい表情になった。
「どういうことですか?」
「鑑識の結果によると、ご遺体の爪の中から、内山の皮膚片が見つかった。内山の手の甲にもひっかき傷があった。おそらくゴンザレスを殺したホシは内山できまりだ」
 野口が内山の部屋のカギを閉め、周りを確認した。幸運なことに警察関係者はいなかった。
野口はほっと一息ついていた。
 桃花はよきストーカー・ゴンザレスさんのご冥福をそっと祈った。

十一
昨日は晴天で暑かったのに、今日は雨が降ったりやんだり。今は止んでいるみたいだけれど。
「はああ」
 思わず桃花はため息をつく。
この時期は何を着ていいのか迷うよね。湿気でジメジメするなら、思い切って半袖でもいいかもしれない。だけど、急に寒くなる可能性もある。
桃花がクローゼットの前で悩んでいたら、茉莉が「大学に遅刻するわよ」とあきれられた。
つまらない服は着たくない。自分が着たい、心ときめく服を着ることにしている。見た目で判断されることも多いのだから、ちゃんと自己主張したいと思うのだ。だから毎日の洋服選びは時間がかかってしまう。
桃花はマオカラーのノースリーブに透け感のあるシャツを羽織り、パニエの上にひだがたっぷりとってあるエメラルドグリーンのスカートを履いた。予想通り、玄関を開けると、ムァっと湿気が襲ってくる。
空は黒っぽい雲で覆われていた。しばらくすればまた雨が降るだろう。そうしたら、たぶん冷えてくるかもしれない。
梅雨寒にならなくても、このシャツは透け感もあるし、いくらか涼しいだろう。冷房もあるしね。
授業の休み時間に食堂に行くと梨美の姿を見つけた。手を振りながら駆け寄ると、人の気配に気が付いた。
わたし、誰かにつけられている?
そっと後ろを振り向くと、見たことのない男と女がいた。
尾行よね? わたし、初めて尾行されてるわ。本当に後をくっついてくるのね。
桃花の気分は少し昂った。
友達でも知り合いでもない。そもそも仲がよい友達自体少ないのだ。考えられるのは、刑事さん。警察かぁ。本格的に私が疑われているのかな。悲しい。
でも、内山マネージャー殺しもゴンザレスさん殺しもわたしが犯人じゃないんだけどな。どうして尾行されているのだろう。
向こうも仕事だし、わたしのことなんかなんとも思ってはないんだろうけど。
「桃花、もうケガの具合はいいの?」
 梨美が心配そうに尋ねた。首元のスカーフを指先でいじっている。
 スカーフなんてめずらしい。よく見ると、おとなしめのデザインのワンピースだ。就職するから、服装の路線を変えたのかな。
 桃花は少しさびしい気持ちになった。
「うん、ケガは順調に治ってきてるよ」
 桃花が説明する。
「よかったわ」
 梨美は安心した顔つきになった。
「あのさ、いろいろ考えたんだけど。わたし、自分で事務所を立ち上げて動画クリエイターとしてやっていこうかと思うんだ」
 桃花は恐る恐る梨美の反応を伺う。
「桃花はそうした方がいいと思うわ」
 梨美はあっけらかんとして笑った。
「そうかな? 本当にそう思う?」
「思うわよ。だいたい、桃花みたいな人が会社勤めできるとは思わないし。会社に入ってもストレス溜めて、すぐに辞めそうだもの」
 たしかにその通りである。梨美にはかなわない。桃花はぽりぽりと頬をかく。
「梨美は、これからどうするの?」
「そうねえ、どこか就職できればいいけど」
「梨美ならできるよ。だって、礼儀正しいし、ひとあたりもいいじゃない」
 桃花が励ます。
「そうかな。できたらお給料のいいところがいいなあ」
「スタイルもいいし、オシャレだし。モデルだって、アイドルにだって転身できそう。そうだ、アナウンサーとかどう? テレビうつりもいいと思うし。わたしじゃ、無理だけど」
 桃花はわざとらしく自分の身体を見た。
「桃花ったら、わたしのこと買いかぶりすぎ」
 梨美が眉を八の字にして困った顔で笑った。
「梨美が羨ましい。わたし、身長が低いし、嫌われることも多いしね」
「桃花は個性が強いからね。そこがいいところだけど」
「否定してよ、もう」
 桃花は梨美の肩を軽く叩く。梨美の身体が以前より細くなったような気がした。
「桃花は大丈夫よ。悪運も強いし」
「やだ、悪運とか。幸運がいいな」
「運がいいのは同じよ。本当にあなたが羨ましい」
 梨美が顔を一瞬ゆがませた。
「明日からわたし一人で動画を配信する」
 桃花は決意を語る。
「うん。桃花ならできる。わたしの分も頑張って」
「それで、相談なんだけど」
「なに?」
「きょう、ゲストとして来てくれない?」
 梨美は桃花のお願いに吹き出した。
「やだもう、おもわず吹いちゃったじゃない。ごめんね、もう動画には出ないって決めたのに、すぐにゲスト?」
「そうだよね。無理だよねえ。ねえ、梨美、痩せた?」
 桃花は寂しそうな顔をした。
「ううん、痩せてないよ」
「顔色も悪くない?」
「そう? 気のせいよ」
 いたたまれない雰囲気が二人を包む。
「桃花なら大丈夫よ」
 梨美が口角を上げた。
「よ! 何しているんだ?」
「あ、大樹くん」
 桃花が手を振った。梨美は少し驚く。
「この人は、大樹くん。茉莉さんの息子だよ。同じ大学の二年生」
「うん、知ってる。人気の勉強系ヨーチューバーだよね。びっくり。あ、どうも。はじめまして」
 梨美の目が輝いた。
「いま、新番組にゲストとして梨美が応援に来てと、口説いていたんだけど。断られちゃった」
「ごめん。引退するって決めたし、きょうは用事があってね……」
 梨美は申し訳なさそうな顔をする。
「じゃ、俺でどう? 俺、暇だし」
 大気が笑顔を見せる。
「え? 大樹くん、わたしのチャンネルに遊びに来てくれるの?」
「いいよ。コラボしよう。その代わり、今度こっちにも来てよ」
「ほんと? たすかる。もちろん遊びに行きます」
 桃花は嬉しそうに笑った。
「編集合宿とか、いろいろやろうよ。桃花さんたち、カット割りがうまいよね」
 カット割りとは、撮影した動画をシーンでカットし、繋げることである。
「そう? テンポ悪くなると、動画を閉じられちゃうから、スピード感は重視してるかな。編集合宿、流行ってるもんね。やりたいね。梨美もお手伝いってことでその時は来てくれる?」
「忙しくなかったらね。考えておくわ。なんてったって大樹くんとだもの。わたし、ファンだったんだよね。どうやって知り合ったの?」
「大家さんである茉莉さんの息子さんだったのよ」
「すごいね」
 梨美は目を丸くする。
「えー、早く出会っていればよかったね。梨美さん、動画クリエイターをやめちゃうの? ヨーチューバーの中でも二人のことが話題になってるよ」
 大樹が残念そうな顔をした。
「うん。将来のことを考えてね。ああ、ツイテないわ。大樹くんとコラボしたかったな。でも、もう表には出ないって決めたの。撮りダメしてある動画でおしまいかな」
「なんで? もったいないな」
 大樹が惜しむ。
「もう大学三年生だし、就活しないとね」
 梨美は肩をすくめた。
「そうなんだね。そういう考えもあるよね。就職活動、頑張ってください」
 同じ歳でも一学年下の大樹は大きく頷いた。
 梨美は「またね」と荷物を肩にかける。
「明日、配信できるよう徹夜で編集するから。梨美も見てね」
 桃花の言葉に梨美はわずかにうなずいた。

 大学が終わり、茉莉さんの家で撮影が始まった。大樹くんの部屋にお邪魔して、本棚を背景にする。本棚には赤本や受験で使った問題集もたくさん置いてあった。
「きょうはサプライズゲストに大樹くんが来てくれました。大樹くんの部屋にお邪魔してます」
「どうも。大樹です」
「かっこいいですね」
「いや、そんなことないっすよ」
 大樹が大きな笑顔になる。
「実はですね、わたしはこれから単独で動画を配信していくことになりました。いろいろご心配をおかけしていますが、今後とも応援お願いします。そういうこともあって、大樹くんが初めての単独配信に応援にきてくれたのです。本当にありがとう」
「いやあ、役に立てればいいな」
「このお礼は、コラボっていうことで」
 二人の掛け合いは続く。あとは編集で「わぁー」という効果音や拍手の音を入れて、カット割りしていけばいいだろう。オープニングは上手くいった。
 桃花はちらりと構成を確認する。
「大樹くんは勉強系ヨーチューバーなんですよね」
「はい。自分は勉強が苦手だったので、勉強が苦手な人の助けができたらなと思ったんですよ」
「塾の講師とかは考えなかったの? バイトの定番でしょ」
「塾の講師や家庭教師も考えたんですけど、それよりも、もっと多くの人に勉強するときのコツやつまずきがちなところを伝えたくって。それも受験が終わったばかりの今、忘れないうちに言いたいという思いがありまして」
 大樹くんは自作の資料を見せた。