「この服、桃花が動画で着ていた服そっくりよ」
茉莉は眉をひそめた。
そばに男のものであろう、ウィッグが落ちていた。
「簡単にいえば、こんな感じだ」
野口が口角をあげた。
「ええ? わたしそっくりの服を着た男性がわたしのパジャマを持っていたんですか?」
「ああ。そういうことだね」
 えええ。キモイ。やだ、どうしよう。変態では?
 桃花は顔をひきつらせた。


これから部屋に鑑識が入ると野口が言っていた。
せっかく帰ってきたのに。冷蔵庫が……。きっと全部腐るな。桃花は大きなため息をついた。
茉莉さんの隣には野口さんがくっついている。
不思議な関係……。桃花は野口を興味深そうに見た。
野口さんは茉莉の元夫さんなんだよね。どうみても、茉莉さんのことが大好きに見えるけど、なんで茉莉さんと別れたんだろう? 
茉莉から野口の話は、一度も聞いたことはなかった。
バツイチで同じ年の息子がいるとは教えてもらったけど。黒木さんと野口さんは茉莉狙いだ。茉莉さんは、四十二歳。肌なんか皺もシミもない、スタイルもいいし、年下の恋人がいてもおかしくない。
黒木さんと茉莉さん、お似合いだなあ。もちろん野口さんでもいいけど。野口さんは元夫だって言うし、ちょっとチャンスは少ないかな。
桃花は野口と黒木を交互に見た。
「茉莉さんが殺されないでよかった。ところで、桃花さん、経過はどうですか? 元気そうでよかったです」
「ああ、大丈夫です」
 ついでとばかりに、様子を聞かれた。
 黒木は野口を挑発するように見る。
「茉莉は俺の元妻なんだけどね」
「呼び捨てですか。元妻ってことは、今は他人なんですね。無関係ってことで」
「いや、俺には関係ある」
 野口が威張って言い返す。
「蓮とはもう関係ないから。でも、黒木さんとも何ともないからね。桃花さんが考えてることはわかるわよ。」
 茉莉はワクワクしている桃花をたしなめた。
「野口さんも黒木さんも茉莉さんのことが好きみたい。茉莉さん、モテてますよ」
 桃花がこそっと耳打ちすると、
「桃花さん、後学のために教えておくわ。いくらイケメンで、優しくてもね、寄ってきた女の子の誘いを断れないならやめておきなさい」
 茉莉が片眉を吊り上げ、握りこぶしを作って力説する。
「たしかに。そうですよね。浮気や不倫する男はいりませんよね」
桃花は同意した。茉莉の顔は強張っている。そっと野口が視線をそむけた。
 聞いちゃいけない案件だったらしい。そっとしておこう。
 桃花は心に決めた。
「なんてことしてくれるのかしら。人が死んだとか、不動産の価値が下がっちゃうじゃないの。どうしてうちのマンションで殺人事件が起きるのよ」
 茉莉の眉根が寄った。
「たしかに、本当ですよね。困りますよね」
 桃花は肯いた。
わたしの部屋なのに、どうしてくれよう。死体があったとか、ちょっといやなんだけど。この部屋は売るべきだろうか。茉莉さんの言う通り、売買価格が安くなってしまうだろう。まいったなあ。
桃花は腕を組んだ。
捜査が終わるまでこの部屋には住めないから、いっそのこと、動画クリエイターから足を洗って、茉莉さんの弟子になろうかな。
 茉莉さんから暗号資産や株式売買を教わって、稼ぐのもいいかもしれない。パソコンもあるし、ネット環境もあるから、できないこともないだろう。
「じゃ、もういいのかしら。事件の説明が終わったなら帰ってね」
 茉莉は野口と黒木を追い出した。
「ごめんなさいね、桃花。黒木さんも追い出してしまって」
「いえいえ、大丈夫です」
 桃花は首を横に振る。
「ここの部屋、使っていいから」
 茉莉は手早く客室を片付けた。
「ありがとうございます」
 桃花はさっそく病院から持ってきた荷物を少しずつ解いて、パソコンを取り出した。きょうはもう更新はしなくてもいいだろう。疲れてしまった。
 ヨーチューブの登録者数をチェックすると、数百人増えていた。
 桃花はパソコンの画面を見つめる。
「アイドルだって、恋をしてもいいと思いませんか」
 ゲストとして呼ばれた朝の情報番組でテレビで訴えた。自分の動画でも訴えてきた。
「もし好きな人ができたら、わたしだって付き合いたいって思う」
アイドルだって動画クリエイターだって人間だ。
思わず熱く綾音のことを語ってしまったけれど、本当は綾音が自分で言うべきことだったのではないか。
桃花はふと思う。
 綾音がやると決めたことは、断髪式だ。トゥイッターをみると、綾音はアイドルを卒業するつもりではないかとささやかれていた。禊ぎをすることで、タレントとして芸能界復帰を考えているんじゃないかと予想しているファンもいる。
芸能界に復帰なんて、断髪しなくてもできるはずだ。もし綾音先輩が自分で「どうして恋愛しちゃいけないんですか」と言っていたら、どうなったんだろう。大炎上だろうか。恋愛好きとしてイメージが悪くなっていたかもしれない。
黒木さんは、綾音先輩とどんな関係なんだろう。黒木さんは茉莉さんのことが好きみたいだ。じゃあ、綾音先輩とは恋愛ではない? 
もしや週刊誌は間違っていた?
 綾音先輩は黒木さんが好き。でも黒木さんは茉莉さんが好き。
 綾音先輩は片思いなのか。これはわたしでもどうにもできない。いくら推しの幸せが見たいからと言っても、無理である。
んん? どういうことだろう? 誰かが嘘をついている?
 わからないわ。情報が足りなさ過ぎて、全体がつかめない。考えても無駄みたい。
桃花は軽く目を閉じて、ごろっと横になった。畳のイ草がいい匂いだ。ちょっとだけ今はない実家を思い出す。
アイドルっだって人間だ。ご飯だって食べるし、トイレにも行く。結婚して子供も産む。それなのに恋愛をしたら、仕事を続けるために禊をしないといけないのか。
アイドルという職業だからなのか。でも、それくらいでファンが離れるなら、そんなファンはファンじゃないと言えるんじゃないか。
だって、ファンだって、結婚するし、アイドルとは別腹で恋人作るじゃないか。
 頭の中で堂々巡りだ。
芸能人として人気絶頂の時期なのか、年齢にもよるんだろうな。綾音先輩は、二十二歳。アイドルにしては大御所だ。
 わたしがしたことは余計なお世話だった?
桃花は「まさか、そんなはずはない」と首を横に振る。
綾音先輩はあの恋人記事をターニングポイントに使おうとしていた? やはりタレントデビューの邪魔をしてしまったんだろうか。
インターネットの掲示板やSNSを見ていくと、アイドルの恋愛について大激論が交わされていた。ファンはアイドルに恋人がいないから好きになるのか。本当のファンなら推しの幸せを願うべきなんじゃないのか。いろいろな意見が出されていた。
 綾音先輩の大ファンだから、綾音先輩を擁護したことに後悔はない。綾音先輩には幸せになってほしかった。
 桃花はため息をつく。
「何してるの?」
 茉莉がパソコンの画面をのぞき込む。
「簡単に言えば、エゴサーチです」
「精神衛生上、悪いことしてるわねえ」
「はあ」
「ちょっと付き合いなさい」
 茉莉が桃花を外に連れ出した。
 きょうは退院して、殺人事件に巻き込まれるなどあったが、まだ夕暮れ時だ。
「こんなところに公園?」
 桃花が不思議そうにたずねる。
「遊具はないけどね。桃花さんには縁遠いところね」
 小さく笑いながら茉莉が桃花に案内する。
 六本木のマンションに囲まれた公園だ。芝生の小さな山がいくつかあって、公園らしさを演出するベンチがいくつかある。町内会の札が立てられている花壇にはあじさいの花が咲き始めていた。
すっかり青葉になってしまった桜の木の下にあるベンチには、スマホをいじっている若い人の姿もある。遊歩道は整えられているので、気晴らしに歩くのにちょうどよさそうだった。
「ここはわたしの散歩コースなの。趣味よ、趣味」
 茉莉がほほ笑んだ。
 茉莉さんは暗号資産で億り人になったと聞いたことがある。パソコンやインターネットを駆使して最先端を行くというイメージなのに? 
桃花は意外そうな顔をした。
「もともとわたしは主婦だったのよ。大学で好きな人を見つけ、卒業後に結婚したわ。すぐに子どもにも恵まれた。好きな人と結婚して幸せだったわ」
 桃花は茉莉の元夫の野口の顔を思い出す。
夫婦に何があったのか。不思議だったんだよね。
桃花が観察するに、野口は茉莉に未練がある。
「ま、すぐに離婚したんだけどね」
 桃花は何と反応していいのかわからなかった。
「わたしは雑草みたいに名もなき存在だけどね、結婚した時は幸せだったし、今も満足しているわ」
「はあ」
 離婚の話がメインではないのか。
桃花は少しがっかりする。
桃花の目下気になることは茉莉の離婚の経緯である。
「雑草にも一つ一つ名前があるのよ。雑草の名前を探すのは、結構時間がかかったわ。これはアカザ。こっちはシロザ。これはタケニグサ。知ってた?」
「全く知りませんでした」
 茉莉さんは何が言いたいのだろうか。
 桃花はちらっと茉莉の顔を見る。
「アカザとシロザの違いって分かる? 新芽のところを見るの。ほら、こっちは赤いでしょ? だからこれはアカザ」
「なるほど」
 たしかに新芽の茎が赤い。
「タケニグサはね、雑草扱いされているけど、園芸種として扱われている国もあるの。ほら、花を見て? 小さくて可憐でしょ。きっとあなたのことを好きだっていってくれる人がいるし、必要と思ってくれる人がいるわよ。心配しないで、人生は長いわ」
「本当ですね。可愛い。花火みたい」
 茉莉と桃花はタケニグサの小さな白い花を見つめる。
「好きな気持ちをあきらめないで。あなたなら大丈夫よ」
「茉莉さんに言われて勇気が出ました」
 やっぱりアイドルの綾音先輩が好き。首になっちゃったけど、普通に就職するのは、り無理。わたしには向かない。動画を配信することが好きだから、動画クリエイターとして生きていきたい。
 桃花の胸が熱くなる。
「わたし、がんばります」
「そうよ。世間が何を言おうが、貴方が好きならいいのだから」
「はい。そうですよね。わたしが好きならいいんですよね」
 桃花は茉莉の両手を握る。
「ありがとうございます。わたし、がんばります」
「う、うん? そうね、がんばって」
 茉莉は怪訝な顔をした。
「おい、何やっているんだ?」
 野口が二人を見つけ、手を振る。
さっき茉莉さんに追い返されたはずなのに、まだいたのか。なんだか哀れな大型犬のように見えてきた。茉莉さんへの好意が駄々洩れだ。
野口の視線はまっすぐ茉莉に向かっている。
「茉莉さん、ひとりで散歩?」
 隣にいるわたしが見えないのだろうか。
桃花は小首をかしげる。
わたしは透明人間? 恋する男の瞳は不思議だ。わたしに挨拶はないのか? お前の目は節穴かと問いたい。
「見てわかるでしょ。桃花さんと散歩よ」
「ああ、桃花さん。いたのか」
 野口には本当に見えていなかったらしい。意外にポンコツな人なのかもしれない。
「殺人事件もあったんだから、気をつけないと。茉莉さんが狙われたら大変。ずっと家にいてほしい」
「いや、わたしは部外者でしょ」
「茉莉さんはそういうけど。第一発見者? いや、第二発見者なんだから、一応警察に調べられているんだよ。なにか見ているかもしれないでしょ」
「疑われているの?」
 茉莉は嫌そうな顔をする。
「そ、そうはいってないよ。僕は茉莉さんを信じている」
「そういうの、どうでもいいんだけど」
「えー、ひどい、茉莉さん」
 いちゃつく野口を茉莉が冷たくあしらう。
何でも言える関係もいいな。でも離婚しているんだよね。
桃花は茉莉にあしらわれる野口を憐れんだ。
「で、またうちに来て……、いったい何の用よ?」
「ひどいなあ」
 野口は肩をすくめた。
「用事がないなら来ないでいいのよ」
「捜査のために来たんだよ。仕事だよ、仕事」
 野口が威張る。
「本当に仕事しているのかしら」
 茉莉が首をひねる。