寂しさを抱えながら、桃花は病院の玄関口でタクシーをつかまえて、自宅へ向かった。
やっぱり家がいいわ。
 桃花はマンションを見上げる。
久しぶりに帰るから、冷蔵庫の中身が心配である。、荷物を置いたら、とりあえず買い物に行こう。
 桃花はエレベーターで自室のある八階のボタンを押す。
茉莉さんにはご挨拶しなきゃね。お菓子を買っておけばよかったな。家に何かあっただろうか。ちょっと食糧庫を見てから、茉莉さんのところに行こう。今ならきっと時間が空いているはずだ。
桃花は家に着いてからの段取りを考える。
 エレベーターのドアが開くと、廊下がなんだか騒がしい。人だかりができていた。
 嫌な予感がする。
何かあった? まさか?
 桃花は眉を顰め、振動で傷が痛まないように歩く。
「あの~」
 桃花が声をかけると、一斉に周りの人たちが道を開けた。どうやら騒ぎの元は桃花の部屋らしい。
嫌な予感は的中。どういうこと?
なぜか桃花の部屋のドアは開いていた。視線を一身に浴びながら、恐る恐る桃花は部屋に入る。
「桃花さん、お帰り。あなたの部屋から死体がでたのよ!」
 リビングの真ん中には困り顔の茉莉さんがいた。そして茉莉の隣には黒木がいた。

 死体って、死んでいる体ってことだよね。ちらりと横目で警察官を見る。やっぱり本物の警察官だった。
 ええと、どうしてこうなったんだろう。退院してきたばかりなのに。
 桃花はうつろな目をした。
今は桃花は茉莉さんの部屋にいる。
 刑事が桃花と茉莉の顔を交互に見た。
「ええと、あなたが田中幸子さんだね。芸名は桜宮桃花で合ってるかな?」
「はい。できたら桜宮桃花のほうで呼んでください。本名は好きでないんです」
 桃花の言葉に刑事は苦笑いする。
「先日、大学構内で刺された動画クリエイターの桃花さんだね?」
「はい。きょう病院から退院してきました」
「それはよかった」
 刑事はにこりと笑った。眼鏡がよく似合っているハンサムさんだ。タレントや俳優さんにいそうなくらい顔が整っている。
「ええっと、野口蓮警部、いいから早く説明しなさいよ」
 茉莉が刑事の脇腹を小突く。
刑事の名前は野口蓮というらしい。刑事にその態度はどうなんだろう。さすが茉莉さんというべきか。もしかすると、知り合いなのかもしれない。
 桃花は二人を交互に見る。
「痛い。茉莉さん、痛いから」
「うるさいわね。早く結論から言いなさいよ」
 茉莉が不機嫌な顔をした。
「すいませんね。茉莉さんは僕の元嫁でして」
 野口警部は嬉しそうに茉莉を見る。
「もう離婚して二十年になるわよ。他人よ、他人」
野口警部は、四十代後半。優しそうで落ち着いている感じ。背も高く、細マッチョ。ぜったいモテるだろう。
「そんなに経ったっけ」
「大樹が二十歳だもの」
 野口は「そっかあ。そんなに経つのか」と相槌をうつ。
「桃花さんの部屋で本日、死体が見つかりました」
「はあ」
 桃花はどう反応していいのかわからなかった。
 なぜ死体? 意味が分からない。頭がくらくらした。
「第一発見者はアイドルの岸辺綾音、そのマネージャーの内山、それから茉莉さんと黒木さん」
「正確に言えば、わたしは来客中だったんだけど、桃花の部屋が騒がしいから見に行ったのよ。鍵が開いているし、桃花さんの声と違うじゃない? 留守を預かる身としては心配になって、ドアを開けたら綾音さんと内山マネージャーが死体を見つけていたのよ」
 茉莉は桃花に説明する。
「僕は茉莉さんに会いに来たんですけど。隣の部屋が騒がしいというので、茉莉さんと一緒に見に行ったんです。桃花さんがもう退院してきたんじゃないかと思ったから、様子見も兼ねて」
 黒木は桃花に軽く会釈した。
 わたしの刺し傷を現場で最初に確認してくれたお医者さんだ。
「なるほど」
 野口はメモをとる。
「わたしは身内がいないので、何かあった時のために茉莉さんに合い鍵をもってもらっているんです。茉莉さんは無実です」
 桃花が茉莉をかばう。
「誰も茉莉さんが殺したなんて言ってないよ。面白いね、桃花さんは」
 野口が笑った。
「だって、第一発見者が殺人犯っていうじゃないですか」
「確かにね、言うね」
 野口は笑顔になった。
「でも、第一発見者は綾音先輩と内山マネージャーでしたっけ?」
「これから岸辺綾音と内山宏には任意で詳しく事情を聴くつもりだよ。で、どうして茉莉さんに黒木さんが会いに来たのかな?」
 野口の目が鋭くなった。
「僕は茉莉さんに会いに来たんです。桜宮さんの様子も気になったし」
 黒木は美しく微笑んだ。
 野口はギロッと黒木を睨む。
 野口もイケメンだけれども、黒木も負けていなかった。黒木は野口より若く、三十五歳くらいだ。王子様っぽい甘い雰囲気が漂っているし、医者だし、きっと大モテだ。茉莉さん、どっちがタイプかな。
 ちらりと茉莉さんを見るが、茉莉さんはつまらなそうな顔をしていた。
「おい、貴様。茉莉さんって、呼んでいるのか!」
「ええ。呼んでますよ。大光寺茉莉さんっていうの、長いでしょ。普通フルネームで呼びませんからね」
「じゃあ、大光寺さんっていえばいいじゃないか。許可を取ったのか」
「名字を呼ぶなんて、距離が遠い感じがするでしょ。許可を取ればいいんですか? 茉莉さん、茉莉さんのことを名前で呼んでもいいですか」
 黒木は頬を染めながら、茉莉の方をみる。
「おまえは距離が遠くていいんだよ」
 警部さんと黒木さんは茉莉さんのことが好きなんだろうな。鈍いわたしでもわかる。しかし、今、ここで争うことでもないだろう。殺人事件の現場なのに。 
桃花は呆れた顔をした。
「茉莉さんで構わないわ。蓮、話を先に進めなさいよ」
 茉莉に怒られ、野口は顔を一瞬ゆがめた。
「今、蓮って呼んだよね。俺らも仲が良いよね?」
野口は笑みを浮かべた。「蓮」と呼ばれたのが嬉しかったようだ。わかりやすい男である。
 マウントをとられた黒木はムッとした。
「あの、すいません。きょう退院してきたんですけど、わたしは自分の部屋に入れるんでしょうか?」
 黒木と野口の小競り合いは続きそうなので、とりあえず聞いてみた。
「ごめんね、しばらく入れないよ。捜査にご協力ください」
 野口の言葉にがっくりする。
「桃花さんはうちに泊まればいいわ。犯人だって捕まっていないじゃない。物騒だからね。少なくとも事件が解決するまで一緒にいましょう。」
 茉莉が口角をキュッと上げた。
「え、でも……」
「行くところ、あるの?」
「ないです。エービーコミュニケーションズをクビになりました。相方や友達のところに厄介になるわけもいかないので、有難いですけれど……」
「そうでしょう? 見たわよ、あのアイドルだって恋していいじゃないってやつ」
「はあ。すいません」
「あれでクビになったんでしょ」
「そうなんです。よくわかりましたね」
「だてに四十過ぎまで生きてないわよ。テレビで桃花の事件を大きく扱っていたわね。面白かったわよ。それに海外のマスコミも出てきてたじゃない? 桃花、有名人ね。でも殺人未遂はこわいわ。物騒だし。桃花さんは娘同然だもの、心配だわ。うちにいらっしゃい」
 茉莉は肩をすくめる。
「本当に泊っていいんですか?」
「もちろん。家事を手伝ってくれればいいわよ」
 茉莉は小さく笑った。
桃花は茉莉の家の一室を借りることにした。
「綾音先輩って、本当に可愛いんです。だから恋人がいたっておかしくないと思うんです」
 桃花は動画について語りだす。
「まあね。でもアイドルでしょ。日本じゃ、アイドルの恋愛ってご法度じゃない」
「そうなんですけど。でも、そもそもアイドルがなぜ恋愛をしちゃいけないんでしょうということなんです」
「岸辺綾音の断髪式予告は海外でも話題になっていたわね。アーティストだって人間だし、恋愛が芸術に悪影響を及ぼすとは言えないものね」
「そうなんです。さすが茉莉さん」
「あの、まだその話題続く? 事件の話がしたいんだけど」
 野口に言われ、桃花と茉莉さんはおしゃべりを止めた。
「まず、桃花さんの刺された事件のことから。君を襲った犯人は防犯カメラに映っていたよ。黒ずくめの服装で、マスクもしていた。君を襲った後、大学構内の抜け道を使って逃げて行っていた。そのことから大学内部をよく知る人間と思われる。凶器はまだ見つかっていない。桃花さんは五限目の授業がなくなったから、大河原梨美さんと食堂で打ち合せの後、帰ろうとしたで合ってるかな?」
「あ、帰ろうとしたのではなく、エービーコミュニケーションズに行こうとしていたんです。動画の配信許可を撮ろうと思って。駐車場でマネージャーの迎えを待つつもりでした。結局マネージャーは遅刻してきたみたいですけど」
 野口はメモから顔を上げた。
「何か気が付いたことはある?」
「駐車場に綾音先輩と内山マネージャーがいたことくらいですかね。あとは、エゴサーチしていたら、ストーカーみたいな書き込みがあって、いやだなと思ったくらいです」
「そうですか。先ほど桃花さんの部屋で発見された死体ですが、実は女装しているんです」
 野口が詳細を語り始めた。
 女装? 女装っていったいどういうこと? 
「桃花さん、あなたに女装する男性のお知り合いはいますか?」
 たぶん、おそらく、私が知っている限り、女装する男性に知り合いはいない。
 野口の質問に桃花は思いっきり頭を横に振った。
「なるほど。次は、事件の経緯ですが、今わかっている分だけだけど、内山宏と岸辺綾音の話をまとめると……」
 野口はメモを見ながら話し始めた。

 内山宏と岸辺綾音が言うには、退院した桜宮桃花のお見舞いに訪れたのだという。桃花がケガをしたのは、綾音の恋愛騒動の記事で綾音の味方をしたせいだ。岸辺綾音は桃花に申し訳ないって感じていたと話していた。
内山も綾音のやらかした記事のせいで綾音を擁護した桃花が刺され、騒ぎになっていると考え、綾音と一緒にお見舞いに来たと言っていた。
桃花の部屋の呼び鈴を鳴らすと、内で人の気配がした。
「ゴンって音がしたような気がしたの」
「そ、そうなんですよ、警部さん。けっこう大きな音でした」
内山は大きく頷いた。
「人の気配がするのに、玄関に出てこないっておかしいって思ったんです。もしかすると桃花が急に具合が悪くなっているのかもと心配になったわ。脳のダメージはゆっくりでてくるって、テレビでやっていたし、部屋の中で倒れていたら大変って思って」
 綾音が顔をゆがめた。
「桜宮桃花が心配だったんだ」
内山が綾音を見ながら頷く。
それから二人は中に入ってみることにした。玄関のカギがしまっていたら、管理人を呼ぼうと思っていたらしい。
内山がゆっくりとドアノブに手をかける。
「鍵が開いている」
 内山と綾音が顔を見合せる。
「桃花? 大丈夫? 中に入るわよ」
 内山と綾音が慌てて桃花の部屋に入る。
「リビングはなんともない。桃花はいない」
 荒らされている形跡はなかった。
どこに桃花がいるんだろう。具合が悪くてでてこれないのかもしれない。
 綾音がキッチンや風呂場を探すが、見つからない。
 内山が桃花の寝室を見に行った。
「ドン」
 大きな音がした。
「うわああああ」
 内山が壁際にくっついて、大声を出した。
「どうしたの? 内山? 大丈夫?」
 綾音が寝室へ向かう。
「来るな。綾音は見ない方がいい」
「桃花に何かあったの? 桃花、大丈夫?」
 綾音が覗くと、女装をした男性が桃花のものらしいパジャマを握りしめ、倒れている姿が見えた。内山は青い顔だ。
「キャー」
 思わず綾音も甲高い悲鳴をあげた。
 隣の部屋の茉莉と黒木は、悲鳴や物音が聞こえたので、様子を見にいくと、綾音が桃花の部屋から慌てて飛び出してきた。
綾音と内山の様子を見て、ただ事ではないことがわかった。
もしかすると、桃花に何かあったのではないか。
茉莉と黒木も桃花の部屋に入って確認する。
桃花の寝室のドアが開いていたので、覗いてみると女装の男が倒れていた。