動画クリエイターは探偵になれない


「その君!」
 もしかして、わたし? また?
 桃花は周りを見る。
「おい、そこ! 帽子を取りなさい」
桃花はぐるりと教室を見回した。
教授は桃花を指さしている。白髪が目立ち、眼鏡をかけている。見た目は人のよさそうな初老の男性だ。
教授は不機嫌そうにステージの教壇に立っていた。この教授は、好き嫌いが激しく、気に入らない学生の服装をよく注意するため人気がない。しかし、世界経済の授業は必修のため、多くの生徒が教室に座っていた。
 やっぱりわたしのことか。この教室でわたしのほかに帽子をつけている人はいない。
 桃花は意を決して立ち上がる。
 わたしは服が好きだ。自分を表現するものだと思っている。だから、気に入った服を着ている。もちろん、好みは別れると思うけど、人を不愉快にさせるようなふぁっしょんではない。
 きょうは白いワンピースの上に黒のシースルーの上着を羽織っている。ポイントは白のミニベレー帽。手の平サイズで、右側の耳上にちょこんと乗せている。わたしにしてはシンプルなコーデだ。露出も少ないし、とても学生らしいと思う。これなら文句を言われないだろうと思ったんだけど……。
 教授は桃花の方を見ると、眉をひそめた。
 教授と目が合った。
「この帽子はファッションです。それに女性の帽子は室内でもかぶっていいことになっているのでは?」
 桃花は教授に食いついた。
 ファッションはわたしにとって大事な要素の一つ。なぜ注意されたのかわからなかった。説明してもらいたい。
「ここは俺の教室だ。帽子を取れ」
 教授の顔が赤くなる。
「この帽子は髪飾りです。帽子の機能はありません」
 なぜかこの教授に嫌われているので、毎週いちゃもんをつけられている。
 生徒たちの中にまた始まったという空気が漂った。
「じゃ、授業を受けなくていい。でていけ」
「わたしはここの生徒です。授業を受ける権利があります。学生課に聞いてください。履修登録もしていますし、学生証もあります。先生は帽子をかぶっている人を見るとすべての人にここは俺のいる場所だから帽子を取れと乱暴なことを言うのですか。それにこれはピンでとめる、髪飾りです」
「ううう」
 教授は顔をしかめる。
「そもそも、女性の帽子は機能性というよりもファッションです。授業を妨害する、先生や黒板を見えづらくするなどの理由があるならば、帽子を取りますが、これは飾りです。その可能性はないですよね」
「そんなのは関係ない。気に入らない」
 教授は声を大きくした。教室はしーんとしていた。
「帽子をかぶることで授業を妨害することはないと思います。」
 桃花の声が教室中に響く。
「俺に敬意を払え。帽子を取れ」
 教授が発言を変えることはなさそうだ。
「そうですか。先生が不愉快なら仕方がありません。先生に敬意を表して、帽子を取ります」
 桃花はため息を殺して、耳上の小さな飾りを取って座った。
 顔が真っ赤な教授は、「授業を始める」と言って、教科書を手に取った。
 これってアカハラ? わたしのことが気に入らないからって、ひどいわ。可愛くして何が悪いの? きょうは災難だわ。
桃花は下を向いてこっそりため息をついた。学生たちは教授が怖いため、桃花のほうを見なかった。
 この授業、一年間も受けるのか。やだなあ。
 桃花は気落ちした。揉めてしまったからには、教授のテストやレポートではちゃんといい点数を取らねばならない。ファッションばかり気にしているから、バカなんだといわれるのは我慢できない。
桃花は気合を入れなおして、ノートを取り始める。
「キーンコーンカーンコーン」と授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。息苦しさもあって、学生たちはいっせいに教室からいなくなる。
 はあああ。最悪だった。
桃花はブルーな気持ちを引きずったまま食堂に移動していると、大河原梨美を見つけた。
「梨美! ちょっと聞いてよ」
手を振ると、梨美も応えてくれた。
「さっきの授業で、この帽子が気に入らないって、教授に文句いわれたんだよ」
「え? そんな小さな髪飾りで怒られるの? バカじゃない?」
 梨美は眉根を寄せた。
「やだなあ」
「桃花、目立つからね」
「そういうつもりはないんだけど」
 好きな服を好きなように着る。ただそれだけなのに。
桃花は肩をすくめた。
「梨美のファッション、素敵ね。黒のパンツがハイウェストで足長く見える。梨美のスタイルのよさが引き立つわ」
 とりあえず、愚痴って気が済んだ桃花は大河原梨美のファッションを褒めた。
「そう? ありがとう。これもね、スコーピオンってお店で買ったの」
「いつも梨美が買っている、一点ものを扱うお店だよね?」
 桃花がたずねる。
「そうそう。ちょっとお値段が高いけど、凝ったデザインのベーシックなアイテムが揃ってるの。人とかぶらないものをおいてあるから好きなのよね」
「そうだよね。服って人を表すものね」
 さっきの教授は、サイズの合っていない、肉感を拾っている超タイトなシャツに出っ張ったお腹のせいでウエストが落ちているズボンを履いていたことを思い出した。誰か似合う服を、せめてサイズの合った服を選んであげればいいのに。
 桃花は同意する。
「きょうのパンツは後ろの小さめのポケットと、ここのタックがポイント。この二つがスタイルをよく見せるのよ」
 梨美はポケットを指差した。
一六八センチのモデル体型の梨美によく似合っていた。やっぱり梨美はかっこいい。
桃花は肯いた。
桜宮桃花と大河原梨美は、「メタモルフォーゼ」という名のコンビを組んで、インターネットのヨーチューブに動画を配信している。桃花と梨美はともに灯京大学の三年生だ。
桃花の本名は田中幸子。本人いわく本名が地味すぎてコンプレックスなので、「桜宮桃花」という通称を使っている。ロリータや着物ミックスのファッションにはまっていて、古着屋さんや着物屋さんに通い、普段のコーデにも少しずつ取り入れている。
ヨーチューブの動画配信をしていることもあり、最近では「桜宮桃花」と呼ばれることが多くなった。
梨美は反対に本名でヨーチューブに出ている。うらやましいことに梨美の本名は「大河原梨美」という。ドラマチックな名前だ。
昨日出した動画の反応を確認すると、コメント欄に荒らしがきていた。
「あ、またチビとかブスとか言っている奴がいる。似合わないとか余計なお世話。これは個性! アンティークレースを使って可愛くしているの。失礼だなあ」
 桃花はつぶやいた。
桜宮桃花は一五七センチ、ごく普通の体型だ。梨美と並ぶとデコボコしているが、座っていれば、目立たない、はずである。
桃花は姿勢を正した。
「言いたい奴には言わせておけばいいのよ」
 梨美が学食の日替わりランチのボタンを押した。きょうは山菜うどんに白身フライだ。
 桃花も同じ日替わりランチのチケットを購入して、列に並んだ。
「メタモルフォーゼ」は現役大学生によるキャンパスライフの紹介や大学生の悩みや考えをリアルに紹介。今どきの女子大生の生態がわかると好評だ。人気が出てからは、大河原梨美は個人のショート動画を出していて、ライフスタイルやファッションのインフルエンサーの仕事も請け負うようになった。
 イマドキの子は揉めるのが嫌いだ。他者に疑問を投げたり、意見を述べることを避ける傾向がある。ただし、それは現実社会に生きる場合だ。ネット上では別人格があったりもする。炎上させたり、バズらせたりと、他人の行動に便乗するのが好きな人もいる。
 視聴者や視聴率に振り回されるのはよくないっていくけど。やっぱり気になるのよね。反応がよかったはずなのに、風向きが突然変わることがあるから、コメント欄は注視している。
桃花は「桃花の独り言」という個人チャンネルを開設、動画をアップしていたが、衝突を恐れず、率直な意見を言う桃花がすごいとウケていた。
リアルでは我慢していて、誰かがズバッと言ってくれるのを待っていたのだろう。
昨日、「桃花の独り言」でアップした動画の内容は、大好きな先輩アイドルの岸辺綾音が男性と一緒にいる姿を週刊誌にすっぱ抜かれた記事を読んだ感想だ。
五月二十八日、岸辺綾音の恋愛を芸能オンラインがすっぱ抜いた。
『ラストアイドルの秘めた愛』『もうアイドルは卒業?』と見出しに書かれ、アイドル岸辺綾音は窮地に立たされた。
岸辺綾音は、顔が小さくて、潤んだ大きな瞳、つやつやの唇。サラサラのロングヘア。清く正しいラストアイドル、今世紀最大のアイドルとも言われている。
女の子なら一度は憧れるスーパーアイドルで、桃花も昔から推していた。芸能事務所が同じになった縁で、時々話しかけてもらえるようになった。桃花にとって岸辺綾音はまさに神アイドルなのである。
その神アイドルに浮いた話が出た。
(綾音先輩を守らなきゃ。アイドルを続けてほしい)
桃花は考えた。
「アイドルだって、恋したっていいじゃない? 芸能人が恋愛して何が悪いの? 恋することは悪いことじゃない。幸せになってほしいな」
桃花は「桃花の独り言」で自分の意見を配信し、反応が良かったこともあり、「メタモルフォーゼ」の方でも、「緊急企画! アイドルだって恋愛したい」というタイトルの動画をエービーコミュニケーションズに内緒で発表した。
スマホにネットニュースの配信が届いていた芸能ニュースはどこも岸辺綾音の恋人報道でいっぱいだった。報道記事の下の方にヨーチューバー・桃花のコメントが引用されていた。
「アイドルだって、恋をしてもいいと思いませんか」
 たしかにきのうヨーチューブで発言した。大したことをいったつもりはなかったんだけどなあ。締めの言葉に使われるなんて光栄だけど。
コンビのチャンネルと個人のチャンネル両方、ヨーチューブの視聴回数も、トイッター、エンスタも爆発的にいいねボタンが押されている。
芸能オンラインの綾音先輩の写真を眺めていたら、やっぱり可愛かった。相手の男性について追及がないのは一般人だからか。この男性、お洒落なシューズを履いているなあ。お金持ち? さすが綾音先輩の恋人(仮)。どんな人なのか知らないけれど。
桃花は首をひねる。
「桃花のチャンネル、すごいバズってるね。桃花はみんなが疑問に思いながら無視している出来事に光を当てるのが得意だよね。その嗅覚、さすがだと思う」
 梨美が笑った。
おまけに「メタモルフォーゼ」の動画のコメント欄にも様々な意見が書き込まれていた。
「推しの綾音先輩のことだったしね。こんなつまらない動画を出すなってお叱りコメントを書き込むなら、見ないでくれって思う。べつに絡んでほしいわけじゃないから」
「それでも見てしまうのは、桃花の意見が聞きたいんだよ。みんなの気になることを桃花が素直に代弁してくれてるって思っているんじゃない? それにヨーチューバーだから目立ってなんぼじゃない?」
 梨美が桃花の肩を叩く。
「わたしは、ただ綾音先輩がアイドルをやめちゃうかもしれないって心配して、動画をアップしただけなのになあ。推しなんだもの」
「で、テレビに出るの?」
 梨美が心配そうな顔をする。
今朝、トイッターのダイレクトメールで、テレビ局からテレビ出演しないかとオファーが来ていたのだ。正直迷っている。こんなに反応があると思ってみなかったのだ。事務所に内緒でやったことというのも引っかかっている。
「梨美はどう思う?」
 桃花は腕を組んだ。
 梨美はしばらく考えていたが、
「わたしにオファーがきたわけじゃないから決めるのは桃花だよ。桃花がみんなに言いたいこと、伝えたいことがあるなら、出てもいいんじゃない? うちらはヨーチューバーだし。仮にテレビで失敗しても、ヨーチューブがあるから大丈夫だよ」
「そうかな……」
 桃花は不安そうな顔をした。
「それに今回の件は、テレビの方が桃花の意見が日本中に届きやすいよ。結果的に私たちのチャンネル登録者数も増えると思うしね」
「そうね。わかった。推しのためにやってみる」
 桃花は梨美に背中を押され、朝の情報番組に出演することにした。

「朝は苦手なんだよね」
 桃花はまだ暗いうちにスタジオに入る。
朝の情報番組って大変。オンエアが朝の五時だから、その前の時間に打ち合わせもあるし。毎日出ているMCさんやコメンテーターさんはすごい早寝早起きだわ。
「今日の特集は、芸能人、アイドルの恋愛についてです」
「ゲストは、ヨーチューバーの桜宮桃花さんです」
 MCさんから呼ばれ、桃花は挨拶する。
「だれだって幸福になる権利があると思うんです。アイドルが恋愛したっていいじゃないですか?」
「ありがとう。桃花ちゃん」
 ゲストで呼ばれていた綾音先輩がお礼を述べる。
「でもね、アイドルは疑似恋愛を提供する職業だと思うんですよ。ファンを裏切ったとおもいませんか?」
スタジオには従来の意見を述べてくる男性コメンテーター、鈴木東矢がいた。イケメンで男性優位の保守的思想。男性からも人気のあるタレントだ。
「アイドルも一人の人間なんです。幸せを追求したっていいじゃないですか。恋愛すると、芸ができなくなるわけではないでしょ?」
 桃花は反論する。
「アイドルは僕らファンの恋人ですよ」と、違うコメンテーターが顔をゆがめた。
「もちろん、アイドルとは疑似的な恋人の要素もあるのかもしれません。でもそれも芸の一つ。アイドルが恋愛をし、成長すれば、人間として深みが出ます。もっと素晴らしい芸をみせてくれるでしょう」 
「恋愛したいなら、アイドルなんてやめてしまえばいいだろう」
 男性コメンテーターが暴言を吐いた。
「では、あなたがコメンテーターをやめてください。多様な生き方をみとめられないなら、コメンテーターとして失格ですよ」
 うっかりきつくいってしまった。
 テレビではっきり言ったのがまずかったのか、よかったのか。
 もう後に引けない。どうにでもなれ。
 やばい。やっちゃったと思いながら、桃花は持論を展開する。
「もし好きな人ができたら、わたしだって付き合いたいって思います。あなたは恋人はいないんですか。コメンテーターなら恋愛していいんですか。コメンテーターにファンはいないんですか? テレビに出るコメンテーターは芸能人やアイドルとどこが違うんですか」
疑問を正直に話をしたのがよかったらしい。スタジオの雰囲気が桃花に傾いた。
桃花は知らなかったのだが、この男性コメンテーターは元アイドルだったらしい。黙ってしまった。
「アイドルだって、ヨーチューバー、動画クリエイターだって人間です。恋に落ちることだってあるんですよ」
 桃花は熱量を持って訴えた。
「桃花ちゃん、もういいの。わたし、けじめをつけようと思います。禊として髪の毛を短く切ります」
瞳を潤ませ、綾音が長い髪に手をやる。公開断髪式予告だ。
「綾音先輩は、そんなことをする必要はありません。アイドルだって恋をしていいんですから。堂々としていてください」
神アイドルの髪の毛を切るなんて! 先輩は何も悪くない。切らないで!
 桃花は燃えた。ぜったい推しを守るのだ。
綾音の宣言は桃花の声ですぐにかき消された。桃花は泣きじゃくる綾音の肩に手を置いて励ます。
世論を変えるべく、桃花は番組が終わっても、トゥイッターやエンスタを使って、積極的に連続投稿した。

 ああ、朝からパワーを使ってしまった。疲れた。
桃花は緊張から解き放たれ、肩の力が抜ける。生の推しと共演できたのは嬉しかった。やっぱり綾音先輩は可愛かった。
「あ、桃花! テレビ、みたわよ。桃花のパワー、すごいわね。綾音先輩の禊宣言はなくなったも同然じゃない」
 テレビ局から直接大学に来た桃花を見かけ、梨美が呼び止めた。
「だって、綾音先輩にアイドル続けてほしかったし」
 桃花は口をとんがらせた。
 二人は食堂へ移動することにした。食堂はお昼前の時間でテーブルは空いていた。
「桃花の発言の後、海外メディアの、「日本のアイドルが恋してはいけないというのは異常だ」と報じているっていう記事が出たのもよかったわね。ほんと、運がよかった」
 梨美がほほ笑むと、桃花は「たしかに」と頷いた。
テレビ番組の後、ヨーチューブの個人チャンネル「桃花の独り言」も、コンビでやっているチャンネル「メタモルフォーゼ」も登録者数がさらに増えていた。
「テレビの影響ってすごいわね」
 桃花と梨美がスマホで登録者数を確認すると、三百万人になっていた。
「メタモルフォーゼ」の「アイドルの恋愛について」の動画の視聴回数はどんどん増えていた。
他の動画の動向は? ヨーチューバーたちは何を取り上げている? 非難されていない?
スマホで視聴回数が多い順に並べ替え、今キている動画をチェックする。
自分の意見に対抗する動画は出ていなかった。
桃花はホッとした。個人の動画チャンネル「桃花の独り言」も確認するが、特段荒れていなかった。
「桃花の独り言」で人気なのは、「桃花の部屋の案内」だ。アイドルの恋愛について語った動画ほどではないが、意外に視聴者数が伸びていた。おそらくインテリアに興味がある視聴者層が見てくれたのだろう。
この動画は、桃花の部屋の、色やレースにこだわっているカーテンやカーペット、雑貨などを紹介している。一人暮らしにあこがれる同じ年ごろの若者にインテリア系の動画は人気があるのだ。「突撃!お宅訪問」のようなものである。 
一応綺麗に部屋を片付けて撮影に臨んだが、部屋の動画の反応は変わっているだろうか。
 コメント欄を一つずつ見ていく。アンチやからかいのコメントにはスルー対応と決めている。こっちのメンタルがやられてしまうからだ。ただし、限度があるけどね。
「キーカバーケースが可愛い」という感想が書き込まれていた。
 動画を見返すと、たしかに小さく映っていた。
 視聴者は本当に細かいところまでチェックする。わたしも推しに対しては追及するからね。気持ちはわかる。
 桃花は肯いた。
「桃花らしい部屋」、「レースやフリルが可愛いね。カラフルな洋服や小物がいっぱい」とコメントが来ていた。「レースのお花のついたキャンパス地のバッグはどこの?」「ヘッドドレス好きなの?」など質問も来ていた。
 自分が可愛いと思った洋服や小物を集めたクローゼットだ。ファンに受け入れられて嬉しい。概要欄にショップやブランドのリストを書いて、一つ一つ丁寧に返信する。
 動画クリエイターは、インターネットの世界でも現実の世界でも目立つ分だけアンチも多い。テレビのアイドルになるよりも動画クリエイターならすぐになれると思われているからか、「ブス」「デブ」「死ね」というワードはSNSでよく書かれる。
悪口ワードは見慣れているとはいえ、傷つくのでやめてほしい。匿名で書くことができるとはいえ、今は調べれば身バレする。
 有名なんだから我慢できるかというと、そうでもない。動画クリエイターだって人間なのだ。嫌なものは嫌だ。
「脅迫めいたアンチとは断固戦います。裁判もおこします」と桃花がチャンネル概要欄に記してから、メタモルフォーゼや桃花個人に対するいわれなき悪口は減った。戦う姿勢を見せるのって大事なのかもしれない。
「桃花ちゃんの部屋、可愛い」、「大好き」と熱烈なワードを並べるファンもいたので救われた。愛はウェルカムだ。
インターネットの動画は、テレビより扱いが軽い。嫌なら見なきゃよい。それがインターネットの動画と視聴者の距離。それなのに、嫌いなのにわざとつきまとうものもいる。インターネットを通して仕事をする場合、匿名のアンチやストーカー気質の人には特に気をつけないといけない。
ファンのコメントは続いていた。たくさん反応されていたので嬉しくなる。
「昨日の衣装かわいかった。今までの桃花ちゃんの衣装を探して、全部揃えてます。鍵もおそろにしたい」、「車で帰るとき、化粧をしていないんだね。すっぴんのほうがいい」というコメントや「お昼はカレーだったね」、「大学の授業が休みだったんだね」というコメントもあった。おまけに「ヒールでコケないようにね」とか言われている。
たしかに昨日、大学の授業が一コマ休みで、ウキウキしていたら転びそうになった。カレーも食べた。どこで見られていたんだろう。
桃花は怖くなった。大学内でも私を見てくれている人がいる。悪いことをするつもりはないけれど、悪いことはできない。身が引き締まった。
「おとといの動画でしていた桃花ちゃんの化粧は、アイシャドーはオンメイクの五〇〇番、リップはワイベの六四八番だと思うよ」とまで書かれている。
 繰り返し見ることができる動画では、あっという間に使っている化粧品までバレてしまう。ファンというのは、推しを見つけると愛が深い。
ただ、最近一部のファンは愛が濃すぎるような気がする。背筋がゾッとするコメントもちらほらある。
桃花は、エービーコミュニケーションズからそろそろファンクラブをつくって、ファン同士のトラブルがないようにしなさいと言われていた。
「ファンクラブか。まだいいかなって思っていたけど」
「わたしも桃花と同じ意見。ずっとヨーチューブをやるか決めてないし」
 梨美も悩んでいるようだ。
「でも、「桃花の独り言」のコメントをみると、ちょっと行き過ぎのような気がする。なんとかしたほうがいいんじゃない? 綾音先輩のことを擁護したし」
「やっぱりそうだよね」
 桃花は渋い顔をした。
衣装をそろえていると書き込んだ女性っぽい人と、大学事情まで知っているという、おそらく男性。ストーカーっぽくて、気持ちが悪い。
メタモルフォーゼは若者との距離が近いことが特徴だ。ファンあっての動画クリエイターだけれど、行き過ぎた行為は困る。ああ、面倒だ。
桃花は頭を掻いた。
コンビを組んでいる大河原梨美のほうにはこの手のファンはいないらしい。全くもってうらやましい。梨美いわく、わたしは目立つからそういうファンがつきやすいんだとか。
桃花は顔をしかめた。
「着たい服を着て、可愛いと思う格好をしているだけ。世の中で気になったことを話し、どうしたらいいか考えるきっかけにしてほしいとは思っているけど、インフルエンサーになりたいわけじゃないんだけどな」
「世の中、桃花みたいに強い人ばっかりじゃないよ。他人にどうみられるかを考えて、着るものを選び、話すことを考える人だって多いと思う。思ったことをそのままいうと、嫌われるんじゃないかって考えるのよ。ヨーチューブで叩かれることだって、普通は怖いのよ」
 梨美のいうことはわかるけど、それじゃ面白くない。自分の人生なのに生きていない感じじゃないか。まず、テンション上がらない。もしかしてみんな我慢して生活しているの?
 桃花は目を丸くする。
「ストーカーに襲われたら大変なんだから、少しは考えなよ」
梨美が呆れた顔をし、桃花は肩をすくめた。
 コンビで動画配信をするようになったのは、個性的な外見、強気な発言の桃花とセンスのいい着こなしをする優等生な梨美のズレたおしゃべりが面白いといわれたからだ。試しに動画を数回出してみたら、視聴者登録数が伸びたので、継続して配信している。
「大学の掲示板みた? 就職相談会のお知らせ来てたね。梨美は出る?」
「うん、大学三年だし、一応出る予定。桃花は?」
「どうしようかな。就職とか考えたことなかったんだよね」
「桃花はいいのよ。だって、個人チャンネルも上手くいっているじゃない。わたし個人のチャンネル登録者数は伸び悩んでいるのよね。向かないのかなって思うんだ。いつまでも動画配信とかやってられないだろうし。インターンを考えるならそろそろ動かないとね。あ、五限目の授業が休みよ」
 梨美が苦笑いをする。
今までフォロワー数など気にしないでやっていたが、大学を卒業しても動画クリエイターとして生計をたてられるだろうか。
梨美は就職も考えているようだ。
これから一人? どうしよう?
四年生になったら就職活動や卒論もある。就職活動をするなら、おそらくSNSも企業側もチェックするだろう。動画配信をしていたことがプラスに思われないかもしれない。
動画の反応からも梨美は真面目で常識があるとファンに思われている。企業側の印象もきっといいはず。就職する気なら就職できるだろう。
(わたしは就職は無理かもしれないな)
言いたいことは言ってしまうし、今更いい子ぶることは無理だ。会社勤めをしたら、万人受けする服を着ないといけない。
わたしはロリータファッションも着物ミックスも大好き。就職活動用のスーツは着たくない。ロリータ系スーツとかあるんだろうか。着てもいいの? 今度調べてみよう。
就職すると窮屈になりそうだ。
桃花はため息をついた。
 次に配信する動画のテーマは、「十万円あったら何を買うか」だ。取材オーケーの大型雑貨店で一時間のうちに十万円を使い切るという、ヨーチューバーの中でも人気のある企画だ。すでに撮影済みで、桃花が編集し、梨美の許可も取ったので、あとはマネージャーに提出するだけ。
エービーコミュニケーションズのOKが出たら、アップして公開だ。エービーコミュニケーションズがまずい箇所があったら指摘してくれるし、視聴者がつかないときはアドバイスもしてくれるので、ありがたかった。
 動画クリエイター一年生のときは、撮影時間と視聴者の登録者数の相関も考えず、迷走していた。最近では、いつ視聴者が視聴をやめたのかなどを研究して、視聴者が「メタモルフォーゼ」や「桃花の独り言」で何を求めているのかがわかるようになってきた。
「動画、マネージャーに渡しておいてね。お昼に来るの?」
梨美が桃花に念を押す。
「五限がないからマネージャーの車でエービーコミュニケーションズまで行く予定。そろそろ駐車場に行くね。次回はカフェとか学生でもお洒落なところでランチ企画もいいかなって思うんだけど」
「そうね。うちの大学の食堂紹介でもいいけどね」
「たしかに。まあ、ちょっと考えておいて」
「うん、じゃ、マネージャーによろしく」
 食堂はおなかをすかせた学生でいっぱいになりつつある。桜宮桃花は大河原梨美と別れた。
「さて、うちのマネージャー、駐車場のどこに車停めたかな」
 駐車場は、灯京大学と灯京大学附属病院の裏手にある。食堂の外へ通じるドアから出てすぐの細い通路をまっすぐ歩く。この道はあまり使われていないが、駐車場に出るには一番近い。
 数メートルおきにハナミズキの木が植えてあり、通路に木蔭をつくっていた。すこしだけ涼しい風が吹いている。
 もうすぐ夏だ。じんわりと日差しが肌を焼く感覚がした。
そろそろ本格的に衣替えをしないといけないな。桃花が考え事をしていると、足音がうしろから聞こえたような気がした。
 振り向くと誰もいないが、目の端で木蔭に隠れている人影をみつけた。
 気持ち悪い。やだな。ストーカーかも。コメント荒らしの人?
 急ぎ足で歩く。後ろから足音が迫ってくるのを感じた。桃花は、いっそのこと誰なのか顔を見てやると覚悟を決めた。
後ろを振り向くと同時に
「痛い!」
激痛が走った。思わず背中に近い脇腹に手をやる。黒い人影がわたしのそばに立っている。
怖い。あなた誰? 顔を見せなさいよ。あれ、なんで手が濡れているの?
 手を見ると、真っ赤になっていた。
 え? なんで?
 今まで体験したことのない痛さだ。
 桃花は地面に崩れ落ちそうになるが、視界の端に黒い影が。再び後ろをみると、黒い人がまた襲ってきた。
「やだ。だ、誰か助けて」
 刺された側の脇腹を押さえながら、駐車場へ逃げる。
 殺されるのかも。怖い。心臓がバクバクする。
 きらりと刃物の刃が光ったのが見える。黒い服を着た人が追いかけてくる。黒い帽子に黒いマスクで、男か女かもわからない。
「やめて」
 もしかしてあれで刺されたの? 怖い。怖い。助けて。わたし、殺されちゃう
 桃花は脇腹を押さえながら走った。
 駐車場にマネージャーがいるかもしれない。助けて。
「ドン」
大きな衝撃を受けた。
よくわからないけれど、空が青い。身体が、浮いている。ええ、まさか私、飛んでいるの? どうして?
身体が空中に投げ出された。車の中にいた綾音先輩と綾音先輩のマネージャーの内山さんと目が合った。
 背中も痛いけど、お腹側も痛い。やだ、なんだか頭の中が真っ白。グルグル目が回るんだけど。
わたし、もう死ぬのかもしれない。最後に推しの綾音先輩に会えてうれしかった。もし次に生まれるなら、綾音先輩のような顔に生まれたい。そっと神様にお願いする。
今度は下に向かって落ちていく感じがした。
「ドサッ、バキバキ」
桃花は気が付くと植込みの上に倒れていた。
思ったより痛くない。チクチクするけど、どうやら生きている感じがする。
桃花はそっと目を開けた。
天国でも地獄でもない。青い空に白い雲が見える。死んだ父と母が迎えに来たわけではなさそうだ。アスファルトの匂いに花の甘い匂いがする。
ここはまだ大学の駐車場。私、生きているわ。
桃花はほっとした。
でも、さっき車にぶつかったのでは? あれ? そうだ、刺されたんだっけ。まずいんじゃない?
桃花は手の指を動かしてみる。
動いた。足もゆっくりだが動く。首を動かすと緑が見えた。赤いツツジの花が顔の横に見える。頭も無事らしい。
「キャー」
誰かの叫び声がする。
 わたし、殺されそうだったんだっけ。助けて。助けて。誰か助けて。
「あ、そのまま、動かないで」
 知らない男性の声がした。
「ええ? わたし、刺されているんです」
 もう黒い人はいないんだろうか。助かったの? あ、でも、このままだとツツジの木が折れちゃうんだけど。
 のろのろと身体を起こそうとする。
「いいから、気にしないでいい。刺された? 背中か」
 白衣を着た男性がにっこりとした。
 あとで植え込みに肥料でもあげよう。本当にツツジさん、ごめんなさい。
「あ、黒木さん」
 綾音先輩が駆け寄ってきた。
ミニスカートを翻すあたりが、アイドルだなあ。相変わらず綾音先輩はかわいい。
 内山マネージャーは逆に顔色が悪い。
わたしを撥ねちゃったからだね。申し訳ないことをしたなあ。
この人、黒木さんはお医者さんかも。白衣着ているし。もしかして、綾音先輩と週刊誌に写真を撮られた人? この靴、絶対にそうだ。週刊誌の写真の男性が履いていた靴そっくりだもん。綾音先輩、お幸せに。祈ってますね。
 服が赤くなっているのが見えた。こんなに汚れちゃったら落ちないよね。血だし。ああ、がっかり。シースルーの長袖もレースが裾についたワンピースもダメにしちゃった。なんだか瞼が重い。
「ああ、君ね、目を閉じないでね。ぜったい起きていて?」
「はい」
 黒木に返事をするが、眠いものは眠い。
桃花の目の焦点は合わなかった。
「今日はどうしたの? 何があったの? 教えてくれる?」
 黒木が声掛けを続ける。優しい声だ。
「あの、わたしの顔は無事ですか?」
 桃花は顔をなでる。顔からは痛みは感じない。
「うん、顔にケガはないよ。でも脇腹から血が出てる」
「さっき誰かに刺されたんです。逃げていたら、車にぶつかっちゃって」
「なるほど」
 男性は桃花の脇腹を診ていた。
「内臓は大丈夫みたいだね。傷も浅いしね。詳しくは検査しないとわからないけど」
「ありがとうございます。よかったです」
「名前は? 名前は言える?」
「名前? ええっと、くうらあああむうう」
 なんだろう。言えない。口が回らなくなってきた。
 桃花の眉が八の字になる。
「大丈夫。落ち着いて。今はろれつが回らないだけだからね。頭の方も確認するね。あとでちゃんと名前が言えるようになるからね」
 桃花は小さく頷いた。
あれ、梨美がいる。綾音先輩と内山マネージャーもわたしを見ていた。きょうは特に綾音先輩と会う約束はしていないのになあ。あ、黒木さんに会いに来たのか。うちのマネージャーの姿も見えた。
「頭に外傷はないね」
 黒木のほっとしたような声が聞こえた。
 もう無理。寝かせて。眠いの。
「おーい、こっち! ケガ人はこっちだ」
 遠くで声がした。足音も聞こえてきた。身体が重い。きっともう大丈夫。
 桃花は意識を手放した。

桃花は隣の大学附属病院に運ばれ、すぐに手当てされた。
こういう時、附属病院付の大学は便利だ。普通、大学構内で刺されることはないので、あまり役立つ機会はないかもしれないけれど。
(検査と入院か。どうしよう、配信が遅れちゃう)
桃花は大きく息をついた。
「うちのマネージャーに動画渡してないよ。梨美に連絡してお願いしておかないと」
 電話は通じなかったが、梨美はすぐにメールを返してくれた。『刺されて交通事故って聞いたけど大丈夫? エービーコミュニケーションズに連絡してあるよ』とある。ほっとした。さすが、情報が早い。もう梨美は知っていた。
動画クリエイターにとって動画を更新しないことは生命線に関わる。チャンネル登録者が離れて行ってしまうからだ。まず、まめに更新して、存在を知ってもらい、覚えてもらう。動画を楽しんでもらって、友達に紹介してもらい、動画を拡散していく。多くのヨーチューバーの中から選んでもらい、がっちり登録者の心を離さないようにしなくてはいけない。
 テレビをつけたら、昼の情報番組で「大学構内で殺人未遂事件が起きた」と報じていた。病室のテレビはベッドでも見ることができるように動かすことができる。チャンネルを変えても、「大学構内で刃物を持った不審者が出現」とテロップが出ている。
それって、わたしのこととだよね。
他人がわたしのことで動画を作っている。報道される側の気持ちってこんな気持ちなのか。桃花は不思議な気持ちになる。
病院の窓から大学の正門を見たら、マスコミが来ていて大騒ぎになっていた。
「ただの動画クリエイターなのに、びっくり。わたしって意外に有名人?」
 桃花は乾いた笑みを浮かべた。
「トントン」
ドアのノック音が聞こえた。
「おとなしく寝てる? 休んでないとだめだよ」
 梨美が顔を出した。
「だって、暇なんだもん。テレビくらいいいじゃん」
「刺されたでしょ。痛くないの?」
 梨美は心配そうな顔をした。
「すぐに治療してもらったから大丈夫。ところでさ、わたし、ここで動画配信してもいいかな?」
「ええ? 病院でやるの? ちょっとやりすぎじゃない?」
 梨美がしかめっ面をする。
 こんなこと一生に何度もあることじゃないしね。それに気になることもある。
「わたし個人のチャンネルのほうでやるよ。一応、梨美には断っておこうと思ってさ。そうそう、刺された時、綾音先輩を駐車場で見たの」
「……」
 梨美は無言で肯いた。
「内山マネージャーもいた」
「桃花がぶつかった車は内山マネージャーの車だもの」
「うちのマネージャーは?」
「うちのマネージャーは、遅刻してきたわ。桃花が刺されたって知って、あたふたしてたわよ」
 梨美が肩をすくめた。
「ところで、なんでわたし、刺されたんだろう? 知ってる?」
 梨美に聞いてみる。
「思い当たる節は? 恨まれていたんじゃない?」
「まったくないよ。悪いことしてないもの」
 桃花の返答に梨美はきゅっと口を結んだ。
「きっと目立つからよ。大したことないのにムカつくとか思われたんじゃない? だから、気を付けてって言ったじゃない」
 梨美は眉根を寄せた。
「どうしてこんなことになったんだろう。でもさ、わたしやっぱり動画を配信したい。病院に怒られるかな」
「怒られるって。病院から追い出されるよ。動画の配信はやめておいたら? 犯人だって、捕まってないのよ。危険よ。桃花、これって殺人未遂なんだよ? わかっている?」
 梨美が怒った口調になった。
 心配かけちゃった。ごめん。
桃花は目を伏せていたが、顔を上げた。
「だからこそ、配信したいんだよ。暴力では何も解決できないって伝えたいの。刺されたのはやっぱり『アイドル恋愛擁護論』のせいかな。わたしはただ綾音先輩を守りたかっただけなんだけどな」
 桃花は動画を配信したこともテレビ出演したことも後悔していなかった。
現在、岸辺綾音の禊はまだ行われず、あやふやになったままになっている。
 新聞やインターネットは海外の芸能人たちの恋愛や意見を紹介。その甲斐あって、世の中の雰囲気が「アイドルだって人間だよな、恋愛くらいしたっていいよな」という方向になってきたところだった。
 そして桃花は大学で刺され、車にはねられ、入院することになった。
「もう少しおとなしくできない?」
 梨美はあきれ顔だ。
「わたしは負けないもん。屈しない」
 桃花はきっぱりという。
「はいはい、でもどうなっても知らないわよ? エービーコミュニケーションズに言わないで動画をアップするんでしょ? ぜったいトラブルになるわよ。すでにメタモルフォーゼの動画は、桃花が退院するまで、事務所命令で配信を止めることになったのよ」
 梨美は渋い顔をした。
「わかった。梨美、ごめんね。でも、わたしは皆にホットなうちに言いたい」
「そういうと思った。わかったわよ。桃花は止められないものね」
 梨美は苦笑いした。

 高い機材があればそれに越したことはないが、ヨーチューブの動画は、スマホでも簡単に撮影できる。
音声をクリアにするためにスマホ用のマイクがあった方がいいけれど、探したら、バッグの中にあったし、小さな三脚とスマホを固定する雲台も入っていた。許可が下りたら、いつか大学構内でライブ配信しようと考えて、持ち歩いていたんだよね。えらいぞ、わたし。
 桃花はベッドのそばにあるテーブルにスマホをセットし、ライブ配信開始ボタンを押した。
「みなさん。こんにちは。桜宮桃花の桃花の独り言、始まります。きょうは、なんと、病院から中継してます」
 桃花は笑顔を見せる。
「ニュースで見た人もいるかな。実は、わたしは大学で何者かに刺されまして、入院することになりました。でも、わたしは暴力には負けません。大丈夫です。」
 息を整えて、まっすぐスマホのカメラを見る。言いたいことは言わないと。
「どうしてもお話したいことがあって、生配信することにしました。一つは、同じ事務所の岸辺綾音先輩のことです。綾音先輩はアイドルです。でも一人の人間として恋をしました。それは悪いことじゃないと思うのです」
 スマホのバイブが鳴っている。
 おそらくエービーコミュニケーションズからだろう。病室に踏み込まれる前に言わないと。
「綾音先輩、断髪式はやめてください。そんなことしなくてもいいんです。アイドルだって恋愛する権利があるんですから」
 パタパタとドアの前で足音が止まり、ノックの音と同時にドアが開く。
「田中さん、ちょっと病室で撮影は困ります」
 看護師が注意する。
「あ、名前は桜宮桃花でお願いします。すいません。すぐ終わりにします。もう一つは、刺されても元気ですってみんなに言いたかったの。心配かけてごめんね。では、そろそろ終わります。元気になったら、また動画を配信しますね。皆さん応援してくれてありがとう。またお会いしましょう」
「桃花、早く消せ! 配信を止めろ」
 マネージャーも飛び込んできた。
(もう中継しちゃったもんね)
桃花は心の中で舌を出す。
 桃花は病院の人からもこっぴどく説教をされ、マネージャーからも怒られたが、ちっとも心に響いてこなかった。
いま、言うべきことを言っただけだ。気分はすがすがしい。
個室とは言え、騒がしくしてしまったのは申し訳ないと思うけど、主にうるさかったのはマネージャーだと思う。ドアを開けっぱなしで怒鳴るから、廊下にも声が響いていた。
その点は入院している方々に迷惑をかけてしまった。ごめんなさい。
 とりあえずマネージャーの気分が良くなるまで聞いているふりをし、桃花は頷いていた。
 マネージャーは顔を真っ赤にして、帰っていった。
『桃花、かっこいい』、『そうだよな、アイドルだって人間だもん」とコメント欄に好意的な書き込みもあれば、『アイドルって職業なんだから、徹底的に恋人は隠すべき』、『ファンが恋人であるべきだ』という意見もある。インターネット上で白熱した議論となっていた。
「ほら、桃花のせいでまた炎上しちゃった」
 梨美がスマホにSNSのスクショを見せた。
「だって、わたしがやらなかったら、綾音先輩がアイドルやめないといけなくなっちゃうから仕方がないでしょ。髪の毛を切るのをどうしても止めたかったんだもん」
 推しが丸刈りなんてぞっとする。
「トントン」
 病室がノックされた。
「はい。どうぞ」
「元気そうね。なんだかずいぶん大学の前もにぎやかだったわよ」
大光寺茉莉が顔を見せる。大光寺茉莉は六本木のマンションの桃花の隣の部屋に住んでいる中年女性だ。桃花が引っ越ししてきたときからお付き合いしている。なんやかんや言いながら、着替えなど桃花の部屋から持ってきてくれる親切な美人だ。いや、美魔女というのだろう。もうすぐ四十三歳になるとは思えない。桃花とは年齢は離れているが、妙にうまが合うので、時々お茶をしたりランチをする関係だ。
「そうなんですね。茉莉さん、いろいろ頼んでしまってすいません」
「あなたねえ、これ以上面倒を持ち込まないでね。この前だって、あなたのファンの人がマンションの入り口にいたから、警察を呼んだのよ」
大光寺茉莉が呆れながら桃花の荷物を持ってきた。
「えええ! だって刺されちゃったんだもん」
「痛かったねえ。でも生きていてよかった。鉄板仕立ての服でも着なきゃいけない世の中だね」
茉莉の言葉に桃花は笑った。
桃花がこのマンションの一室に住むようになったのは、父と母が亡くなり、相次いで祖父も亡くなって、遺産が転がり込んだからだ。孤独で落ち込んだ時、励ましてくれたのは茉莉だった。
茉莉さんには息子がいて、わたしの一つ下と言っていた。だから、わたしのことをまるで娘のようにかわいがってくれている。ごめんなさい。
桃花は心配をかけてしまったと反省した。
「ところで、桃花、刺されるようなことしたの?」
「してないと思うけど」
「してないなら刺されないでしょ。心当たりないの?」
 茉莉は胡散臭そうに桃花を見た。
 全くない。全然ない。ああ、アイドル恋愛擁護論は展開しているけど、これって刺されるほどのこと? そんなことないよね。
 桃花が首をかしげる。
「荷物はこれで足りる?」
「ありがとう、茉莉さん」
「さっさと治しなさいよ。退院するとき、連絡くれたら迎えに行くわよ?」
「トントン」
 ドアがノックされた。
 茉莉は桃花に「お大事に」といって去っていく。すれ違うように黒木が病室に顔を見せた。
「様子を見に来たんだけど、元気そうだね?」
「はい、その節はお世話になりました」
「綾音に何かされたわけじゃないんだよね?」
 黒木は心配そうに聞く。
「はい。綾音先輩はわたしの推しですから」
「そうか……。あ、さっきの女性は誰?」
「茉莉さんですか? マンションの隣に住んでいる女性で、お見舞いに来てくれたんです」
 黒木さんは茉莉さんのことが気になっている?
 わたしは小首をかしげる。黒木の目が輝いているように見えた。
「茉莉さんっていうんだ。あまり無茶しないでね。お大事に」
 黒木はふらふらと帰っていった。
 茉莉さんに用事があった? 桃花には分からなかった。
「さっきの誰?」
 梨美は不思議そうに聞いた。
「黒木さん? それとも茉莉さんのこと? 茉莉さんはマンションの隣の部屋の人だよ、親切で仲良しなんだ」
 うっかり隣の部屋のおばさんと言おうとして、言い換える。どこで茉莉さんが聞いているからわからない。うっかり余計なことを言って、怒られるのはごめんだ。茉莉さんの名誉のためにもう一度いうが、茉莉さんはスタイルがいいし、知的で整った顔をしている。
「黒木さんは、駐車場で桃花の手当てをしてくれたお医者さんよね。茉莉さんってすごい美人だね。都会で近所づきあいって、わたしには無理だわ」
「茉莉さん、いい人だよ。うちのマンションの人たちは、挨拶くらいはするよ」
 桃花の言葉に梨美は肩をすくめた。
 つけっぱなしになっていたテレビでは、ニュースが始まった。
「『アイドルだって恋愛していいじゃない?』と発言して一躍有名になった、動画クリエイターの桜宮桃花さんが大学で後ろから刺され、重傷を負いました。桜宮さんはアイドル岸辺綾音さんの熱愛報道を受け、加熱するマスコミに対し『アイドルだって人間だ。恋愛してもいいと思う』と発言。アイドルとファンの新しい在り方について論じる動画を配信していました。警察は事件について詳しく調べています」
「ほら、もっと有名人になっちゃった」
 梨美は目を細めた。
「へへへ。ごめん」
 桃花は頭を掻いた。
「あ、電話だわ。帰るわね。おとなしくしているのよ」
 梨美はあわてて病室を去っていく。
「ああ、つまらないな」
 桃花はベッドに横になった。
 スマホをいじって、暇つぶしでもするか。ヨーチューブの徘徊をしていたら、電話が鳴った。
嫌な予感がする。
ホーム画面にはエービーコミュニケーションズと書いてある。
「え? ええ? わたし、クビ? クビですか?」
(あらまあ、クビになっちゃった。どうしよう。)
 桃花は頭の中が白くなった。




「これ以上面倒をみきれないので、事務所をやめてほしい」
 マネージャーの声が冷たく耳に響く。
桃花はエービーコミュニケーションズから最後通牒を突き付けられた。
どうしよう。と、とりあえず、梨美に連絡しないと。
 電話をすると、梨美がすぐに出た。
「ごめん、わたしクビになっちゃった」
 桃花が言うと、
「わたしもよ」
 梨美がため息をついた。
「ごめん、わたしのせいで梨美もクビになったんだね」
「まあ、そうかもしれないけど」
 そこで否定しないんだね。その通りなんだけど。
 梨美の冷静な答えに桃花は悲しい気持ちになる。
「エービーコミュニケーションズにかけあうよ。梨美は関係ないって言うから」
「でも、桃花の暴走を止められなかった責任はわたしにもあるわ。仕方ないよ」
 梨美はくすりと笑った。
「ごめん」
 桃花は申し訳なくなって下唇を噛む。
「ちょうどいい機会かも。先のことを考えなくちゃいけなかったから。桃花は気にしないで」
 梨美が落ち着いた声で言う。
 梨美が怒っていなくてよかった。
 桃花は少し安心する。
「わかった。でも、本当にごめん」
「なんとかなるわ。とりあえず、桃花はケガを治して。それから考えよう?」
 梨美に励まされて、桃花は電話を切った。
 刺されて、引かれて、仕事まで失った。踏んだり蹴ったりだ。梨美にも迷惑をかけてしまった。
 桃花はうなだれるしかなかった。
 十日後。桃花は車にぶつかったところも、刺されたところも順調に回復しているとして、退院することになった。
 まだ少し体勢を変える時、刺されたところがいたかったので、茉莉さんに手伝ってもらおうかと考えたが、やめておいた。茉莉は暗号資産と株の取引を生業としているので、日中は忙しい。お金は大事だ。健康もだけれど。
「エービーコミュニケーションズもクビになったしねえ。マネージャーの迎えもないか。仕方がない、タクシーで帰ろう」
寂しさを抱えながら、桃花は病院の玄関口でタクシーをつかまえて、自宅へ向かった。
やっぱり家がいいわ。
 桃花はマンションを見上げる。
久しぶりに帰るから、冷蔵庫の中身が心配である。、荷物を置いたら、とりあえず買い物に行こう。
 桃花はエレベーターで自室のある八階のボタンを押す。
茉莉さんにはご挨拶しなきゃね。お菓子を買っておけばよかったな。家に何かあっただろうか。ちょっと食糧庫を見てから、茉莉さんのところに行こう。今ならきっと時間が空いているはずだ。
桃花は家に着いてからの段取りを考える。
 エレベーターのドアが開くと、廊下がなんだか騒がしい。人だかりができていた。
 嫌な予感がする。
何かあった? まさか?
 桃花は眉を顰め、振動で傷が痛まないように歩く。
「あの~」
 桃花が声をかけると、一斉に周りの人たちが道を開けた。どうやら騒ぎの元は桃花の部屋らしい。
嫌な予感は的中。どういうこと?
なぜか桃花の部屋のドアは開いていた。視線を一身に浴びながら、恐る恐る桃花は部屋に入る。
「桃花さん、お帰り。あなたの部屋から死体がでたのよ!」
 リビングの真ん中には困り顔の茉莉さんがいた。そして茉莉の隣には黒木がいた。

 死体って、死んでいる体ってことだよね。ちらりと横目で警察官を見る。やっぱり本物の警察官だった。
 ええと、どうしてこうなったんだろう。退院してきたばかりなのに。
 桃花はうつろな目をした。
今は桃花は茉莉さんの部屋にいる。
 刑事が桃花と茉莉の顔を交互に見た。
「ええと、あなたが田中幸子さんだね。芸名は桜宮桃花で合ってるかな?」
「はい。できたら桜宮桃花のほうで呼んでください。本名は好きでないんです」
 桃花の言葉に刑事は苦笑いする。
「先日、大学構内で刺された動画クリエイターの桃花さんだね?」
「はい。きょう病院から退院してきました」
「それはよかった」
 刑事はにこりと笑った。眼鏡がよく似合っているハンサムさんだ。タレントや俳優さんにいそうなくらい顔が整っている。
「ええっと、野口蓮警部、いいから早く説明しなさいよ」
 茉莉が刑事の脇腹を小突く。
刑事の名前は野口蓮というらしい。刑事にその態度はどうなんだろう。さすが茉莉さんというべきか。もしかすると、知り合いなのかもしれない。
 桃花は二人を交互に見る。
「痛い。茉莉さん、痛いから」
「うるさいわね。早く結論から言いなさいよ」
 茉莉が不機嫌な顔をした。
「すいませんね。茉莉さんは僕の元嫁でして」
 野口警部は嬉しそうに茉莉を見る。
「もう離婚して二十年になるわよ。他人よ、他人」
野口警部は、四十代後半。優しそうで落ち着いている感じ。背も高く、細マッチョ。ぜったいモテるだろう。
「そんなに経ったっけ」
「大樹が二十歳だもの」
 野口は「そっかあ。そんなに経つのか」と相槌をうつ。
「桃花さんの部屋で本日、死体が見つかりました」
「はあ」
 桃花はどう反応していいのかわからなかった。
 なぜ死体? 意味が分からない。頭がくらくらした。
「第一発見者はアイドルの岸辺綾音、そのマネージャーの内山、それから茉莉さんと黒木さん」
「正確に言えば、わたしは来客中だったんだけど、桃花の部屋が騒がしいから見に行ったのよ。鍵が開いているし、桃花さんの声と違うじゃない? 留守を預かる身としては心配になって、ドアを開けたら綾音さんと内山マネージャーが死体を見つけていたのよ」
 茉莉は桃花に説明する。
「僕は茉莉さんに会いに来たんですけど。隣の部屋が騒がしいというので、茉莉さんと一緒に見に行ったんです。桃花さんがもう退院してきたんじゃないかと思ったから、様子見も兼ねて」
 黒木は桃花に軽く会釈した。
 わたしの刺し傷を現場で最初に確認してくれたお医者さんだ。
「なるほど」
 野口はメモをとる。
「わたしは身内がいないので、何かあった時のために茉莉さんに合い鍵をもってもらっているんです。茉莉さんは無実です」
 桃花が茉莉をかばう。
「誰も茉莉さんが殺したなんて言ってないよ。面白いね、桃花さんは」
 野口が笑った。
「だって、第一発見者が殺人犯っていうじゃないですか」
「確かにね、言うね」
 野口は笑顔になった。
「でも、第一発見者は綾音先輩と内山マネージャーでしたっけ?」
「これから岸辺綾音と内山宏には任意で詳しく事情を聴くつもりだよ。で、どうして茉莉さんに黒木さんが会いに来たのかな?」
 野口の目が鋭くなった。
「僕は茉莉さんに会いに来たんです。桜宮さんの様子も気になったし」
 黒木は美しく微笑んだ。
 野口はギロッと黒木を睨む。
 野口もイケメンだけれども、黒木も負けていなかった。黒木は野口より若く、三十五歳くらいだ。王子様っぽい甘い雰囲気が漂っているし、医者だし、きっと大モテだ。茉莉さん、どっちがタイプかな。
 ちらりと茉莉さんを見るが、茉莉さんはつまらなそうな顔をしていた。
「おい、貴様。茉莉さんって、呼んでいるのか!」
「ええ。呼んでますよ。大光寺茉莉さんっていうの、長いでしょ。普通フルネームで呼びませんからね」
「じゃあ、大光寺さんっていえばいいじゃないか。許可を取ったのか」
「名字を呼ぶなんて、距離が遠い感じがするでしょ。許可を取ればいいんですか? 茉莉さん、茉莉さんのことを名前で呼んでもいいですか」
 黒木は頬を染めながら、茉莉の方をみる。
「おまえは距離が遠くていいんだよ」
 警部さんと黒木さんは茉莉さんのことが好きなんだろうな。鈍いわたしでもわかる。しかし、今、ここで争うことでもないだろう。殺人事件の現場なのに。 
桃花は呆れた顔をした。
「茉莉さんで構わないわ。蓮、話を先に進めなさいよ」
 茉莉に怒られ、野口は顔を一瞬ゆがめた。
「今、蓮って呼んだよね。俺らも仲が良いよね?」
野口は笑みを浮かべた。「蓮」と呼ばれたのが嬉しかったようだ。わかりやすい男である。
 マウントをとられた黒木はムッとした。
「あの、すいません。きょう退院してきたんですけど、わたしは自分の部屋に入れるんでしょうか?」
 黒木と野口の小競り合いは続きそうなので、とりあえず聞いてみた。
「ごめんね、しばらく入れないよ。捜査にご協力ください」
 野口の言葉にがっくりする。
「桃花さんはうちに泊まればいいわ。犯人だって捕まっていないじゃない。物騒だからね。少なくとも事件が解決するまで一緒にいましょう。」
 茉莉が口角をキュッと上げた。
「え、でも……」
「行くところ、あるの?」
「ないです。エービーコミュニケーションズをクビになりました。相方や友達のところに厄介になるわけもいかないので、有難いですけれど……」
「そうでしょう? 見たわよ、あのアイドルだって恋していいじゃないってやつ」
「はあ。すいません」
「あれでクビになったんでしょ」
「そうなんです。よくわかりましたね」
「だてに四十過ぎまで生きてないわよ。テレビで桃花の事件を大きく扱っていたわね。面白かったわよ。それに海外のマスコミも出てきてたじゃない? 桃花、有名人ね。でも殺人未遂はこわいわ。物騒だし。桃花さんは娘同然だもの、心配だわ。うちにいらっしゃい」
 茉莉は肩をすくめる。
「本当に泊っていいんですか?」
「もちろん。家事を手伝ってくれればいいわよ」
 茉莉は小さく笑った。
桃花は茉莉の家の一室を借りることにした。
「綾音先輩って、本当に可愛いんです。だから恋人がいたっておかしくないと思うんです」
 桃花は動画について語りだす。
「まあね。でもアイドルでしょ。日本じゃ、アイドルの恋愛ってご法度じゃない」
「そうなんですけど。でも、そもそもアイドルがなぜ恋愛をしちゃいけないんでしょうということなんです」
「岸辺綾音の断髪式予告は海外でも話題になっていたわね。アーティストだって人間だし、恋愛が芸術に悪影響を及ぼすとは言えないものね」
「そうなんです。さすが茉莉さん」
「あの、まだその話題続く? 事件の話がしたいんだけど」
 野口に言われ、桃花と茉莉さんはおしゃべりを止めた。
「まず、桃花さんの刺された事件のことから。君を襲った犯人は防犯カメラに映っていたよ。黒ずくめの服装で、マスクもしていた。君を襲った後、大学構内の抜け道を使って逃げて行っていた。そのことから大学内部をよく知る人間と思われる。凶器はまだ見つかっていない。桃花さんは五限目の授業がなくなったから、大河原梨美さんと食堂で打ち合せの後、帰ろうとしたで合ってるかな?」
「あ、帰ろうとしたのではなく、エービーコミュニケーションズに行こうとしていたんです。動画の配信許可を撮ろうと思って。駐車場でマネージャーの迎えを待つつもりでした。結局マネージャーは遅刻してきたみたいですけど」
 野口はメモから顔を上げた。
「何か気が付いたことはある?」
「駐車場に綾音先輩と内山マネージャーがいたことくらいですかね。あとは、エゴサーチしていたら、ストーカーみたいな書き込みがあって、いやだなと思ったくらいです」
「そうですか。先ほど桃花さんの部屋で発見された死体ですが、実は女装しているんです」
 野口が詳細を語り始めた。
 女装? 女装っていったいどういうこと? 
「桃花さん、あなたに女装する男性のお知り合いはいますか?」
 たぶん、おそらく、私が知っている限り、女装する男性に知り合いはいない。
 野口の質問に桃花は思いっきり頭を横に振った。
「なるほど。次は、事件の経緯ですが、今わかっている分だけだけど、内山宏と岸辺綾音の話をまとめると……」
 野口はメモを見ながら話し始めた。

 内山宏と岸辺綾音が言うには、退院した桜宮桃花のお見舞いに訪れたのだという。桃花がケガをしたのは、綾音の恋愛騒動の記事で綾音の味方をしたせいだ。岸辺綾音は桃花に申し訳ないって感じていたと話していた。
内山も綾音のやらかした記事のせいで綾音を擁護した桃花が刺され、騒ぎになっていると考え、綾音と一緒にお見舞いに来たと言っていた。
桃花の部屋の呼び鈴を鳴らすと、内で人の気配がした。
「ゴンって音がしたような気がしたの」
「そ、そうなんですよ、警部さん。けっこう大きな音でした」
内山は大きく頷いた。
「人の気配がするのに、玄関に出てこないっておかしいって思ったんです。もしかすると桃花が急に具合が悪くなっているのかもと心配になったわ。脳のダメージはゆっくりでてくるって、テレビでやっていたし、部屋の中で倒れていたら大変って思って」
 綾音が顔をゆがめた。
「桜宮桃花が心配だったんだ」
内山が綾音を見ながら頷く。
それから二人は中に入ってみることにした。玄関のカギがしまっていたら、管理人を呼ぼうと思っていたらしい。
内山がゆっくりとドアノブに手をかける。
「鍵が開いている」
 内山と綾音が顔を見合せる。
「桃花? 大丈夫? 中に入るわよ」
 内山と綾音が慌てて桃花の部屋に入る。
「リビングはなんともない。桃花はいない」
 荒らされている形跡はなかった。
どこに桃花がいるんだろう。具合が悪くてでてこれないのかもしれない。
 綾音がキッチンや風呂場を探すが、見つからない。
 内山が桃花の寝室を見に行った。
「ドン」
 大きな音がした。
「うわああああ」
 内山が壁際にくっついて、大声を出した。
「どうしたの? 内山? 大丈夫?」
 綾音が寝室へ向かう。
「来るな。綾音は見ない方がいい」
「桃花に何かあったの? 桃花、大丈夫?」
 綾音が覗くと、女装をした男性が桃花のものらしいパジャマを握りしめ、倒れている姿が見えた。内山は青い顔だ。
「キャー」
 思わず綾音も甲高い悲鳴をあげた。
 隣の部屋の茉莉と黒木は、悲鳴や物音が聞こえたので、様子を見にいくと、綾音が桃花の部屋から慌てて飛び出してきた。
綾音と内山の様子を見て、ただ事ではないことがわかった。
もしかすると、桃花に何かあったのではないか。
茉莉と黒木も桃花の部屋に入って確認する。
桃花の寝室のドアが開いていたので、覗いてみると女装の男が倒れていた。
「この服、桃花が動画で着ていた服そっくりよ」
茉莉は眉をひそめた。
そばに男のものであろう、ウィッグが落ちていた。
「簡単にいえば、こんな感じだ」
野口が口角をあげた。
「ええ? わたしそっくりの服を着た男性がわたしのパジャマを持っていたんですか?」
「ああ。そういうことだね」
 えええ。キモイ。やだ、どうしよう。変態では?
 桃花は顔をひきつらせた。


これから部屋に鑑識が入ると野口が言っていた。
せっかく帰ってきたのに。冷蔵庫が……。きっと全部腐るな。桃花は大きなため息をついた。
茉莉さんの隣には野口さんがくっついている。
不思議な関係……。桃花は野口を興味深そうに見た。
野口さんは茉莉の元夫さんなんだよね。どうみても、茉莉さんのことが大好きに見えるけど、なんで茉莉さんと別れたんだろう? 
茉莉から野口の話は、一度も聞いたことはなかった。
バツイチで同じ年の息子がいるとは教えてもらったけど。黒木さんと野口さんは茉莉狙いだ。茉莉さんは、四十二歳。肌なんか皺もシミもない、スタイルもいいし、年下の恋人がいてもおかしくない。
黒木さんと茉莉さん、お似合いだなあ。もちろん野口さんでもいいけど。野口さんは元夫だって言うし、ちょっとチャンスは少ないかな。
桃花は野口と黒木を交互に見た。
「茉莉さんが殺されないでよかった。ところで、桃花さん、経過はどうですか? 元気そうでよかったです」
「ああ、大丈夫です」
 ついでとばかりに、様子を聞かれた。
 黒木は野口を挑発するように見る。
「茉莉は俺の元妻なんだけどね」
「呼び捨てですか。元妻ってことは、今は他人なんですね。無関係ってことで」
「いや、俺には関係ある」
 野口が威張って言い返す。
「蓮とはもう関係ないから。でも、黒木さんとも何ともないからね。桃花さんが考えてることはわかるわよ。」
 茉莉はワクワクしている桃花をたしなめた。
「野口さんも黒木さんも茉莉さんのことが好きみたい。茉莉さん、モテてますよ」
 桃花がこそっと耳打ちすると、
「桃花さん、後学のために教えておくわ。いくらイケメンで、優しくてもね、寄ってきた女の子の誘いを断れないならやめておきなさい」
 茉莉が片眉を吊り上げ、握りこぶしを作って力説する。
「たしかに。そうですよね。浮気や不倫する男はいりませんよね」
桃花は同意した。茉莉の顔は強張っている。そっと野口が視線をそむけた。
 聞いちゃいけない案件だったらしい。そっとしておこう。
 桃花は心に決めた。
「なんてことしてくれるのかしら。人が死んだとか、不動産の価値が下がっちゃうじゃないの。どうしてうちのマンションで殺人事件が起きるのよ」
 茉莉の眉根が寄った。
「たしかに、本当ですよね。困りますよね」
 桃花は肯いた。
わたしの部屋なのに、どうしてくれよう。死体があったとか、ちょっといやなんだけど。この部屋は売るべきだろうか。茉莉さんの言う通り、売買価格が安くなってしまうだろう。まいったなあ。
桃花は腕を組んだ。
捜査が終わるまでこの部屋には住めないから、いっそのこと、動画クリエイターから足を洗って、茉莉さんの弟子になろうかな。
 茉莉さんから暗号資産や株式売買を教わって、稼ぐのもいいかもしれない。パソコンもあるし、ネット環境もあるから、できないこともないだろう。
「じゃ、もういいのかしら。事件の説明が終わったなら帰ってね」
 茉莉は野口と黒木を追い出した。
「ごめんなさいね、桃花。黒木さんも追い出してしまって」
「いえいえ、大丈夫です」
 桃花は首を横に振る。
「ここの部屋、使っていいから」
 茉莉は手早く客室を片付けた。
「ありがとうございます」
 桃花はさっそく病院から持ってきた荷物を少しずつ解いて、パソコンを取り出した。きょうはもう更新はしなくてもいいだろう。疲れてしまった。
 ヨーチューブの登録者数をチェックすると、数百人増えていた。
 桃花はパソコンの画面を見つめる。
「アイドルだって、恋をしてもいいと思いませんか」
 ゲストとして呼ばれた朝の情報番組でテレビで訴えた。自分の動画でも訴えてきた。
「もし好きな人ができたら、わたしだって付き合いたいって思う」
アイドルだって動画クリエイターだって人間だ。
思わず熱く綾音のことを語ってしまったけれど、本当は綾音が自分で言うべきことだったのではないか。
桃花はふと思う。
 綾音がやると決めたことは、断髪式だ。トゥイッターをみると、綾音はアイドルを卒業するつもりではないかとささやかれていた。禊ぎをすることで、タレントとして芸能界復帰を考えているんじゃないかと予想しているファンもいる。
芸能界に復帰なんて、断髪しなくてもできるはずだ。もし綾音先輩が自分で「どうして恋愛しちゃいけないんですか」と言っていたら、どうなったんだろう。大炎上だろうか。恋愛好きとしてイメージが悪くなっていたかもしれない。
黒木さんは、綾音先輩とどんな関係なんだろう。黒木さんは茉莉さんのことが好きみたいだ。じゃあ、綾音先輩とは恋愛ではない? 
もしや週刊誌は間違っていた?
 綾音先輩は黒木さんが好き。でも黒木さんは茉莉さんが好き。
 綾音先輩は片思いなのか。これはわたしでもどうにもできない。いくら推しの幸せが見たいからと言っても、無理である。
んん? どういうことだろう? 誰かが嘘をついている?
 わからないわ。情報が足りなさ過ぎて、全体がつかめない。考えても無駄みたい。
桃花は軽く目を閉じて、ごろっと横になった。畳のイ草がいい匂いだ。ちょっとだけ今はない実家を思い出す。
アイドルっだって人間だ。ご飯だって食べるし、トイレにも行く。結婚して子供も産む。それなのに恋愛をしたら、仕事を続けるために禊をしないといけないのか。
アイドルという職業だからなのか。でも、それくらいでファンが離れるなら、そんなファンはファンじゃないと言えるんじゃないか。
だって、ファンだって、結婚するし、アイドルとは別腹で恋人作るじゃないか。
 頭の中で堂々巡りだ。
芸能人として人気絶頂の時期なのか、年齢にもよるんだろうな。綾音先輩は、二十二歳。アイドルにしては大御所だ。
 わたしがしたことは余計なお世話だった?
桃花は「まさか、そんなはずはない」と首を横に振る。
綾音先輩はあの恋人記事をターニングポイントに使おうとしていた? やはりタレントデビューの邪魔をしてしまったんだろうか。
インターネットの掲示板やSNSを見ていくと、アイドルの恋愛について大激論が交わされていた。ファンはアイドルに恋人がいないから好きになるのか。本当のファンなら推しの幸せを願うべきなんじゃないのか。いろいろな意見が出されていた。
 綾音先輩の大ファンだから、綾音先輩を擁護したことに後悔はない。綾音先輩には幸せになってほしかった。
 桃花はため息をつく。
「何してるの?」
 茉莉がパソコンの画面をのぞき込む。
「簡単に言えば、エゴサーチです」
「精神衛生上、悪いことしてるわねえ」
「はあ」
「ちょっと付き合いなさい」
 茉莉が桃花を外に連れ出した。
 きょうは退院して、殺人事件に巻き込まれるなどあったが、まだ夕暮れ時だ。
「こんなところに公園?」
 桃花が不思議そうにたずねる。
「遊具はないけどね。桃花さんには縁遠いところね」
 小さく笑いながら茉莉が桃花に案内する。
 六本木のマンションに囲まれた公園だ。芝生の小さな山がいくつかあって、公園らしさを演出するベンチがいくつかある。町内会の札が立てられている花壇にはあじさいの花が咲き始めていた。
すっかり青葉になってしまった桜の木の下にあるベンチには、スマホをいじっている若い人の姿もある。遊歩道は整えられているので、気晴らしに歩くのにちょうどよさそうだった。
「ここはわたしの散歩コースなの。趣味よ、趣味」
 茉莉がほほ笑んだ。
 茉莉さんは暗号資産で億り人になったと聞いたことがある。パソコンやインターネットを駆使して最先端を行くというイメージなのに? 
桃花は意外そうな顔をした。
「もともとわたしは主婦だったのよ。大学で好きな人を見つけ、卒業後に結婚したわ。すぐに子どもにも恵まれた。好きな人と結婚して幸せだったわ」
 桃花は茉莉の元夫の野口の顔を思い出す。
夫婦に何があったのか。不思議だったんだよね。
桃花が観察するに、野口は茉莉に未練がある。
「ま、すぐに離婚したんだけどね」
 桃花は何と反応していいのかわからなかった。
「わたしは雑草みたいに名もなき存在だけどね、結婚した時は幸せだったし、今も満足しているわ」
「はあ」
 離婚の話がメインではないのか。
桃花は少しがっかりする。
桃花の目下気になることは茉莉の離婚の経緯である。
「雑草にも一つ一つ名前があるのよ。雑草の名前を探すのは、結構時間がかかったわ。これはアカザ。こっちはシロザ。これはタケニグサ。知ってた?」
「全く知りませんでした」
 茉莉さんは何が言いたいのだろうか。
 桃花はちらっと茉莉の顔を見る。
「アカザとシロザの違いって分かる? 新芽のところを見るの。ほら、こっちは赤いでしょ? だからこれはアカザ」
「なるほど」
 たしかに新芽の茎が赤い。
「タケニグサはね、雑草扱いされているけど、園芸種として扱われている国もあるの。ほら、花を見て? 小さくて可憐でしょ。きっとあなたのことを好きだっていってくれる人がいるし、必要と思ってくれる人がいるわよ。心配しないで、人生は長いわ」
「本当ですね。可愛い。花火みたい」
 茉莉と桃花はタケニグサの小さな白い花を見つめる。
「好きな気持ちをあきらめないで。あなたなら大丈夫よ」
「茉莉さんに言われて勇気が出ました」
 やっぱりアイドルの綾音先輩が好き。首になっちゃったけど、普通に就職するのは、り無理。わたしには向かない。動画を配信することが好きだから、動画クリエイターとして生きていきたい。
 桃花の胸が熱くなる。
「わたし、がんばります」
「そうよ。世間が何を言おうが、貴方が好きならいいのだから」
「はい。そうですよね。わたしが好きならいいんですよね」
 桃花は茉莉の両手を握る。
「ありがとうございます。わたし、がんばります」
「う、うん? そうね、がんばって」
 茉莉は怪訝な顔をした。
「おい、何やっているんだ?」
 野口が二人を見つけ、手を振る。
さっき茉莉さんに追い返されたはずなのに、まだいたのか。なんだか哀れな大型犬のように見えてきた。茉莉さんへの好意が駄々洩れだ。
野口の視線はまっすぐ茉莉に向かっている。
「茉莉さん、ひとりで散歩?」
 隣にいるわたしが見えないのだろうか。
桃花は小首をかしげる。
わたしは透明人間? 恋する男の瞳は不思議だ。わたしに挨拶はないのか? お前の目は節穴かと問いたい。
「見てわかるでしょ。桃花さんと散歩よ」
「ああ、桃花さん。いたのか」
 野口には本当に見えていなかったらしい。意外にポンコツな人なのかもしれない。
「殺人事件もあったんだから、気をつけないと。茉莉さんが狙われたら大変。ずっと家にいてほしい」
「いや、わたしは部外者でしょ」
「茉莉さんはそういうけど。第一発見者? いや、第二発見者なんだから、一応警察に調べられているんだよ。なにか見ているかもしれないでしょ」
「疑われているの?」
 茉莉は嫌そうな顔をする。
「そ、そうはいってないよ。僕は茉莉さんを信じている」
「そういうの、どうでもいいんだけど」
「えー、ひどい、茉莉さん」
 いちゃつく野口を茉莉が冷たくあしらう。
何でも言える関係もいいな。でも離婚しているんだよね。
桃花は茉莉にあしらわれる野口を憐れんだ。
「で、またうちに来て……、いったい何の用よ?」
「ひどいなあ」
 野口は肩をすくめた。
「用事がないなら来ないでいいのよ」
「捜査のために来たんだよ。仕事だよ、仕事」
 野口が威張る。
「本当に仕事しているのかしら」
 茉莉が首をひねる。
「ちゃんとしてるから。出世もしてるし。いつでも復縁できるからね。待ってるから。それにこの事件、俺がちゃんと解決して見せるから、任せておいて」
野口が胸を張った。
 茉莉は聞こえないのか、しゃがみ込んで地面を見ている。
「ちょっと、茉莉さん? いま、口説いていたんですけど。聞いてる?」
 野口ががっかりする。
 全く聞いてなさそうですよ。
桃花はちょっとだけ野口が哀れになった。
茉莉はポケットから虫眼鏡を取り出した。
「茉莉さん? 何を見ているんですか」
「ああ、ツメクサよ」
「つめくさ?」
「うん、アスファルトのひびとかに生えている、この芝っぽいみどりのやつ」
「ツメクサっていうんですか」
「そうなの。花が咲いているのよ」
「ほんとだ」
 桃花に虫眼鏡を渡す。
「あのね、もしもし? 茉莉さん、事件の話がしたいんだけど?」
 野口は遊歩道のベンチに座るように茉莉と桃花にお願いする。
「あのストーカー、やっぱり桃花さんのストーカーだったようだよ」
 野口はカバンからペットボトルを取り出して一口飲んだ。
「SNSのプロバイダに発信者情報開示請求をした。それで彼の個人情報が分かったんだ」
 野口の説明を聞きながら、茉莉がじっとペットボトルを見ている。
意外に外が暑く、少し歩いただけでのどが渇いた。茉莉さんもそうみたい。
「コーンスープじゃなくて悪いけど」
 茉莉の視線に気が付いた野口は、笑いながらカバンから二本ペットボトルをとりだした。
「茉莉さん、どっちがいい? 麦茶と緑茶」
「麦茶がいい」
「桃花さんは緑茶でいい?」
 異論はない。野口さんのご厚意のおこぼれだけど、水分補給できるのはうれしい。
「コーンスープは熱いですからね。冬がいいですよね」
 桃花は突っ込んだ。
「でも、人気だっただろ? あのシーン」
 テレビドラマで当て馬役の優しい男性がヒロインにコーンスープを差し出すシーンがあった。
 茉莉はテレビドラマを見ていなかったらしく、無反応だ。
 野口はコホンと咳をして、メモを読む。
「彼は桃花推しで有名でね。男性名と女性名二つのニックネームをインターネット上で名乗って使い分けていたらしい。男性名はゴン。女性名はサイレスだったかな。彼の本名がゴンザレスという名前だったから、そこからとったのかもしれないね」
 ストーカーさんは、ゴンザレスさんか。外国人? 日本の人?
桃花は眉をぴくりと上げた。
「ゴンザレスは父がメキシコ人で母が日本人だ。日本で生まれ育っている。身長百六十センチ。三十二歳になるんだが、小学生のころからいじめにあい、中学も途中から行かなくなったそうだ。アルバイトをして生計を立てていたが、一つのところで長くは続かなかったようだね」
 ゴンザレスさん、苦労していたんだなあ。
 桃花は肯いた。
「彼の部屋からは化粧道具も多数見つかっている。インターネットの履歴から君のメイクアップ動画を熱心に見て、練習していたようだ」
「そうですか」
 どうりでわたしそっくりの顔になっていたはずだ。あれはびっくりした。ゴンザレスさんが生きていたら直接会ってみたかったな。しかし、どうしてわたしの部屋で死んでいたんだろう?
「死因は絞殺。第一発見者らが見つけたのは、殺された直後だったようだよ」
 第一発見者は、内山マネージャーと綾音先輩だ。ゴンザレスさんが殺された直後に二人はわたしの部屋に飛び込んだってことになる。
なぜゴンザレスさんはわたしの部屋にはいれたの?
 桃花は首をひねった。
「いったい誰が殺したのかしらね? ゴンザレスさんって、何時くらいに桃花さんの部屋にはいったの? 綾音と内山マネージャーだって、もしかすると殺されてしまう可能性があったってことでしょ? 怖いわね」
 茉莉が渋い顔をした。
「まあね。綾音と内山マネージャーが桃花の部屋に入った時間は午後四時ごろって言っているけど。二人とも正面の入り口から入ってないので、防犯カメラに映っていないんだよ。おまけに通用口の防犯カメラにも映っていない」
「そんなことあり得るんですか?」
 桃花は疑問をぶつけた。
「監視カメラの角度によって死角ができてしまうからね。何者かが事前に監視カメラの角度をいじっていたら、映らないよね」
 野口は「ほんといやになるよ」とつぶやいた。
「内山と岸辺にどうして監視カメラに映ってないのかって聞いたら、『映っていなかったのは運がよかったからだろう』といっていた。まったくふざけているよ。ゴンザレスも内山マネージャーも岸辺綾音も映っていないって、偶然があるのかねえ。まあ、ゴンザレスのほうはマンションの前で立っていた防犯カメラの映像はあったけどな」
 野口は肩をすくめる。
 もし早く退院していたら、犯人と鉢合わせしてわたしが殺されていた可能性だってあった。身代わりにゴンザレスさんが殺されたってこと?
 桃花はぞっとした。
「茉莉さんも桃花さんも何か思い出したら連絡して」
 野口は茉莉の顔を優しく見る。
「桃花さん、君は刺されたばかりなんだから無茶はしないこと。犯人探しとかしないでね」
 野口はほとんど桃花の顔を見なかった。
こんなに明らかに好意の差をみせつける人っているんだね。
桃花は苦笑する。
 野口は「じゃ」と片手をあげて去っていった。途中振り返りながら、茉莉に大きく手を振っていた。
桃花は野口の必死さが面白かった。
大人も恋をするんだなあ。元妻を追いかけているなんて、なんか不毛ではあるけど。ぜひ茉莉さんを口説くのを頑張ってほしい。
「いったいどこから入ったのかしらね。マンションの入り口には防犯カメラがあるから、いつ忍び込んだのかなんて簡単に分かるはずなのに」
 茉莉はマンションの入り口の大きなガラス扉の監視カメラに手を振った。
「ほかに入り口といったら、自転車置き場?」
「ああ、たしかに」
 小さな扉を開けてみる。
 監視カメラの向きは扉と自転車置き場の通路をうつしている。
「あれ、この向きだとカメラの真下は映らないかも」
「もしかしてこの死角から入ったのかしら。もうちょっと角度をずらしたらきっと完璧に映らないわね」
 茉莉が腕を組む。
「そうかもしれないですね。ということは、綾音先輩と内山マネージャーもここから入った?」
「そういうことよね」
「なぜわざわざ通用口から入ったのかしら。やましいことでもあったのかしらね。普通お客様なら正面玄関から入るわよね。自転車に乗ってきたんじゃなければ」
 あの二人はお客としてきたわけじゃない? やましいことを考えていた?
 何かわたしにしようとしていたってこと?
 あり得ない。だってわたしの大好きな綾音先輩だよ。
「警察もゴンザレスさんを殺害した犯人のことはまだ分かってないんですよね?」
「たぶんね。野口は何も言っていなかったし」
「わたし、自分で犯人を捕まえます。犯人はわたしに言いたいことがあるんですよ。直接聞いてみたい」
「危険よ?」
 茉莉が脅す。
「じゃ、茉莉さん、一緒に捕まえましょう」
 桃花は茉莉の手を握る。
「いやよ。わたし、関係ないもの。遠慮しておくわ。その代わり、うちの部屋に桃花さんがずっと住んでくれて構わないから」
「関係大有りじゃないですか。だって第一発見者」
「ええ? 第一発見者じゃなくて、正確には第二発見者よ。それにわたしは犯人じゃないし。仕事もあるし、忙しいんだから、捜査の手伝いはしないわよ。野口に任せればいいじゃない?」
「そんなあ。茉莉さん、乗り掛かった舟でしょ。助けてくださいよぅ」
 茉莉の容赦ない拒絶に桃花は情けない声をだした。



五 
空梅雨っていうんだろうか。もう夏という感じだ。自分の部屋の窓から見る景色と茉莉さんの部屋から見る景色が違うんだなと思うと同時に、殺人事件があったことを思い出した。
「ゆっくりしていらっしゃい」
 茉莉さんは仕事をしに、部屋にこもってしまった。
 なんだかだるい。いろいろなことが起きすぎて、何も考えられなかった。ごろごろしているうちに時間は過ぎ、いつの間にか寝ていたらしい。
 インターフォンの鳴る音で、飛び起きた。
「まだここにいるのか」
 野口警部が開口一番に桃花に言った。
 ひどいやつである。
「いますよ。ここに住んでるんですから。家賃もだしてますよ。だいたい、昨日事件があって、一日しか経ってません。わたしの部屋の調査はおわったんですか?」
桃花は不機嫌そうにする。
「いや、まだだ」
 それで追い出そうと?
 桃花が目で訴えると、野口は肩をすくめた。
「事件の捜査のことだが、まだ犯人は捕まってない」
「そんなのわかってるわよ。昨日の今日なんだから。ここに来ないでもいいから、はやくつかまえなさいよ」
 茉莉さんが部屋から出てきた。野口さんは茉莉さんの姿を見て目を輝かせた。わかりやすい人である。
茉莉はリビングの野口を玄関先へ追い払うように追い立てる。
「茉莉さん、そんなこといわないで。ちょっとだけ事件のこと教えるから。ねえ、会話をしようよ。毎日茉莉さんに会わないと、具合が悪くなるんだよ」
 野口は頼み込んだ。
「そんな病気、ありません」
 茉莉さんはつれない。
「えええ。なんですか? 聞きたいです」
 桃花が返事をすると、
「そこは茉莉さんに反応してほしかった」
 野口はつぶやいた。
「茉莉さんのことが好きなのはわかりますけど、わたしは一応被害者ですよ。色々教えてくださいよ。犯人とか、誰が怪しいとか」
「被害者は犯人探しとかしないでおとなしくしてろ」
 野口は忌々し気にいう。
 なんかムカつきますけど。桃花は野口を睨む。
「犯人を捜そうとしていることがなんでバレたんでしょう?」
 桃花は茉莉にこそっと聞く。
「マンションの管理人に頼んで、防犯カメラを見せてもらったからじゃない?」
「なるほど。ここの管理人がおしゃべりなんですね」
「管理人は日本の警察に協力してくれた善良な市民だ。一般市民は探偵の真似事などやめておけ。危険だ」
 野口は眉根を寄せて注意する。
「わたしたちだって善良よね? 知る権利があるわ」
 茉莉さんが桃花に同意を求める。
「茉莉さんは危ないことはしないでね? 心配になる。桃花さんも警察が犯人を捕まえるまでおとなしくしていなさい。ケガだって治っていないだろう?」
「うう。はい」
 桃花は仕方なく頷いた。
「桃花さんの部屋で死んでいた被害者は小島ゴンザレス。三十二歳。現在は無職。ほとんど家から出ない、引きこもりだったが、家族によると、桃花のファンになって外に出るようになったそうだ」
 そっか。やっぱりファンだったか。わたしそっくりの女装していたもんね。
 茉莉と桃花は黙って聞く。
「容疑者は固まったの?」
「まあな。いまのところ、岸辺綾音、内山浩志、桜宮桃花こと田中幸子、黒木煌貴、大光寺茉莉だ」
「なんですって! バカなの? どうしてわたしが入っているのよ」
 茉莉は呆れた。
 綾音先輩も入っている。どうして? あ、わたしも?
「一応だよ、一応」
 野口は慌てた。
「わたし、刺されたのに? なんで?」
「桃花も一応」
 野口は視線を合わせない。
 ひどい。わけわかんない。退院してすぐなのに、殺人なんかできっこないじゃない。
 桃花は野口を軽くにらむ。
「ところで、桃花の相方はずいぶん普通なんだな。桃花は派手なメイクに奇妙な服なのに」
 あ、わたしの『さん』付けが消えてる。
桃花は指摘すると面倒になりそうなのでそのままスルーすることにした。
「梨美はスタイルがいいし、人と少しだけ違うという服が好きなんです。普通じゃないですよ。それにわたしの服が奇妙ってどういうことですか。聞き捨てならないんですけど。この格好、可愛くないですか?」
「まあ、可愛いというか。個性的というか。遠くからも一目見ただけでわかるな」
 野口は苦笑する。
「好きな服、可愛い服、気分が上がる服しかを着ないことにしているんです。きょうは着物と洋服のミックスコーデです。このコルセット、可愛くないですか? ちょっと短いので、おはしょりはなしなんですよ」
 桃花がコーデの説明を一生懸命始めた。
「ああ、そうなんだな。うん、いい感じだ」
とりあえず褒めておく大作戦で、野口は桃花の攻撃をかわした。
「相方はどんな人なんだ?」
「梨美は、例えば一見ただの黒い服ですけど、一点ものの服を着ています。デザインにこだわりがあるんですよ」
「え? いや、服じゃなくてだな。性格とか人間性を聞いているんだが」
 野口はメガネのつるを持ち上げた。
「服は人間性を表しますから。ちなみに梨美の服は、スコーピオンという服屋さんのものが多いです。一点ものしか扱わないところですよ。梨美はわたしの面倒も見てくれる、優しい人で、とてもおしゃれさんですね。いい人なんですよ」
「なるほど。桃花が面倒をかけていると。しかし、今の大学生はすごいな。俺が大学の時は白いTシャツにジーパンだったぞ。それが爽やかさを演出してくれる、モテると信じていた。その前はケミカルジーンズが流行ったときもあったな」
「いつの話をしているんですか。そんな時代は終わりましたよ。いまは、自分を主張するか、しないかのコーデですね。みんなおしゃれに敏感ですからね。目立ちたい人は目立つ服を。目立ちたくない人は目立たないコーデにします。わたしたちは動画を配信しているので、なるべく人に刺さる、つまり興味を持ってもらえそうな服を着ることにしているんです」
「なるほどな。じゃあ、大河原梨美も一見普通そうだが、目立ちたいって気持ちもあって、性格に一癖あるってわけか」
野口はニコリと笑って、メモを閉じた。
「梨美は優しくて、思いやりがあるんですよ。どうして悪口いうんですか」
 桃花は憤慨する。
「桃花、犯人を捜そうとして、無理するなよ。なにかやらかしそうだからな。茉莉さんを巻き込むなよ」
「エービーコミュニケーションズも首になったので、大学で勉強してますよ」
 桃花は口を尖らせた。
「なんだ、エービーコミュニケーションズを首になったのか。岸辺綾音はエービーコミュニケーションズから独立したらしいぞ。知っているか?」
「ええ! 綾音先輩、独立ですか! いつですか」
 桃花はスマホの芸能ニュースを検索する。
ネットニュースでは写真入りトップ見出しで『岸辺綾音、事務所をやめて独立。タレントデビューか』と載っていた。
自分で事務所を作っちゃったんだ。さすが。綾音先輩、尊敬します。
 桃花は目を輝かせた。
「本当にアイドルをやめてタレントになっちゃうなんて、すごいですね」
 桃花がつぶやく。SNSの予想は当たっていた。
「あら、桃花さんはアイドルになりたかったの? それともタレント?」
 茉莉さんがスマホを覗き込んだ。
「小さい頃はアイドルになりたかったんですよ。少し大きくなってからはヨーチューバーです。なので、動画クリエイターになれて嬉しいんです。アイドルではないんですけどね」
「テレビの芸能人とインターネットの動画クリエイターは似てるけど、違うわよね。アイドルは、テレビの中にいる、手の届かない偶像って感じがするけど、動画クリエイターは、一般の人との距離が近い感じがするもの。例えるなら、特別なというより、普段からよく使う、ちょっといいもの的な感じ?」
「あは。茉莉さん、例えが上手いです。クラスで三番目くらいにモテる女子みたいな。ちょっとモテるくらいの」
「そうそう。一番でも二番でもなくて三番なのよね」
 茉莉は肯いた。
「一番も二番も三番もモテるんだから、大して変わりないじゃないか」
 野口は突っ込んだ。
「いえいえ。大きく違いますから。一番は高根の花。二番は実質クラスで一番のモテ子。三番は手が届く好感度の高い女子です」
 桃花が指摘する。
「さっぱりわからん。好きな人から好かれればいいじゃないか」
 野口は首をひねる。
 微妙なところが野口には伝わらないらしい。桃花はスルーする。
「綾音先輩は独立かぁ。わたしたち、どうしようかな。梨美もエービーコミュニケーションズをクビになったんですよ。だからきっと不安なんじゃないかな。わたしが綾音先輩の肩を持ったから」
「遅かれ早かれアイドル恋愛論争は勃発していたわよ。時代の流れよ。気にすることはないわ」
 茉莉は肩をすくめた。
「そうかもしれませんけど。梨美は就職活動にシフトするかもっていうし。わたしがもし事務所をつくったら、梨美も動画クリエイターを続けるかなあ」
「どうかしらねえ。桃花が事務所をつくっても、梨美さんに他にやりたいことがあるかもしれないしね。聞いてみるしかないわね」
 茉莉が桃花を慰める。
「とにかく、二人は一応容疑者なんだから、おとなしくな。ぜったい捜査に首を突っ込むなよ」
野口はしつこく念を押して帰っていた。
「ピンポーン」
 また野口警部? と思ったら、今度は黒木だった。
「あ、黒木さん。きょうはどうして? 茉莉さんに用事ですか?」
 桃花が玄関を開けた。
「当たり。茉莉さんに会いたくて」
 照れる黒木を前に、玄関に出てきた茉莉はめんどくさそうな顔をした。
 あ、黒木さんのシューズって。
 桃花は気が付いた。
「そこは、建前でも桃花に会いに来たって言わないとダメよ。やり直し」
 茉莉はドアを閉めようとする。
「あ、どうして。ちょっと待って。もちろん桃花さんの傷も確認したいから来たに決まっているじゃないですか」
 黒木は上目遣いで微笑む。
 茉莉は仕方なく黒木を部屋へ上げた。
 桃花はリビングで脇腹の傷の様子を見てもらう。
「うん、傷口も綺麗。激しい運動はまだしないでね。めまいとか、他に変わったことはない?」
「大丈夫です。だるいくらいです」
「無理はしないようにね?」
黒木に念を押される。
綾音先輩とはどんな関係なんだろう。茉莉さんのことが好きみたいだけれど。容疑者の一人にカウントされているし。
「黒木さんはその後は何もないですか?」
「え? 僕? 何もないよ」
「だって第一発見者じゃないですか」
 桃花は黒木にお茶を出す。
「まあ、茉莉さんと一緒だったからね。茉莉さんが疑われているなら、僕も疑われるだろうと思っていたけど。僕のアリバイは正面玄関から入って、エレベーターに乗っているから防犯カメラの映像があるんだよ」
 黒木はカップを優雅に持つ。
「なるほど」
「茉莉さんのアリバイは、僕がここに一緒にいたしね」
 黒木は茉莉を甘く見つめた。茉莉は居心地が悪そうに、視線を逸らす。
「あの、黒木さんって、綾音先輩の恋人じゃないんですか?」
「僕が? どうして綾音ちゃんの恋人なの?」
 黒木は目を丸くした。
「週刊誌に撮られたのって、うちの附属病院じゃないですか。大学の庭のあたりだし。黒木さんってシューズ好きですよね? きょうのシューズって、写真を撮られた時のものと同じじゃないですか? ソールに特徴ありますよね」
「靴か。そんなことでわかっちゃうのか。参ったな。そう、あれは僕だよ。でも迷惑なんだよね」
 黒木は小さく息を吐いた。
「綾音先輩とは、どんな関係なんですか?」
「どんな関係もないよ。綾音ちゃんが小さいころ、近所に住んでいただけ」
「いわゆる幼なじみ?」
「そんな甘い響きじゃなくて、近所の人って感じ」
 黒木は苦笑する。
「でも、綾音先輩はそんな感じじゃなさそうですけど」
「そう? 僕は近所の子くらいにしか思ってないよ。近くに来たからって、綾音ちゃんがたまに病院に会いに来てくれるけど」
「え?」
「ふつう、会いに行かないよね」
 桃花と茉莉は頷きあう。
「東京で友達がいないから、寂しくなると会いに来るって言っていたな」
「それって、好きってことなんじゃ?」
 桃花が投げかけると
「いやあ、向こうはアイドルさんだしね。綾音ちゃんをそんなふうには見ることはないね」
 黒木は言い切った。
「でも、向こうはあるんですって」
 桃花が説明する。
「僕は茉莉さんに興味があるから」
 黒木は茉莉の手を握った。
「わたし、バツイチ子持ちの四十二歳ですから」
「僕は三十五歳ですよ。歳は近いよ。茉莉さんは年下はお嫌いですか?」
「もう子供は産めませんよ」
「僕は茉莉さんがいいんです。一目見て、この人が運命の人だと思いました。子どもは茉莉さんが望むならやぶさかではありません。がんばりますよ」
 盛大な告白が始まった。
 いたたまれなくなり、桃花はそっと離脱を試みる。
「桃花さん! ちょっと」
 茉莉に呼ばれ、ビクンと桃花は止まった。
「あのね、黒木さん。隣の桃花さんの部屋で殺人事件があったし、桃花さんを刺した犯人も見つからないし。恋愛なんてしてる暇はないんです」
「じゃあ、解決したら、付き合ってくれますか?」
 グイグイきますね、黒木さん。本当に綾音先輩とは何でもないらしい。週刊誌で撮られていた写真、綾音先輩が黒木さんにまとわりついているようにも見えなくもない。
「え?」
 茉莉は目を丸くした。
「わかりました。僕が事件を解決してみせます」
 黒木はにこりと笑う。
「時間の無駄だから、僕もこのマンションに引っ越ししようかな」
 黒木はつぶやいたが、茉莉たちは聞こえないふりをした。


きょうも青空が広がっている。何もする気にならないので、ソファーで二度寝、三度寝をしていたところだ。そろそろ茉莉さんも仕事が終わる時間。五限の授業があるので大学に行かないといけない。とりあえずお昼でも準備しようかと桃花はのそりと起き上がると、インターフォンの鳴る音がした。
「また来たんですか。茉莉さんはまだ仕事ですよ。もうすぐわたしも出かけるんです」
 桃花は呆れた声をだす。
「まあな。事件の調査だし。元妻のところに様子を見に来て何が悪い?」
 野口は開き直った。
「そうですよね。野口さんも心配ですよね。茉莉さん、モテてますし」
「はあ? 茉莉がモテてる? 誰に?」
「ええ? それをわたしに聞きます?」
「うるさいわよ。仕事に集中できないじゃない」
 茉莉さんの声がドア越しに聞こえた。
「すいませーん。静かにします」
 桃花が茉莉に謝罪する。
「ほら、野口警部のせいで怒られちゃったじゃないですか。もうすぐ午前の取引がおわりますから、静かにしてください」
「桃花がうるさいんだろう?」
「野口さんがうちに来るからですよ」
「まあ、そういうなよ。心配なんだ」
「そうですか。でも茉莉さんが付き合うなら若い方がいいと思うんですよ」
 桃花の返答に野口の顔が引きつる。お洒落が大好きな人に悪い人はいない。むしろしっかり自分を持っていると思うのだ。黒木さんは靴が好きだから、黒木さんはいい人なんだと思う。野口さんは元旦那さんなわけで。何かがダメだったから別れたんだろう。復縁は難しいんじゃないかな。
「桃花、それはどういうことかな?」
「わたしは口が堅いですから。言いませんよ」
「そんなこと言わずに? ね?」
「だって、容疑者のわたしにメリットはないですから。何か面白い話とか、捜査状況とか聞かせてくれるなら別ですけど。離婚に至った話でもいいですよ」
 桃花はつんと顎を出して見せた。
 野口の拳が震える。
「じゃ、どうして俺たちが離婚したのか話す」
 野口は真剣な眼差しで桃花を見る。
「そこは犯人は誰とかじゃないんですね。でも、そんなプライベートのこと、話していいんですか?」
「仕方ない。話す代わりに、黒木の話を教えろ。スパイになってくれ」
「まあ、内容次第ですね」
「聞くも悲惨な話だ」
「わかりました」
 桃花は目を輝かせる。
 野口は顔を顰めて、語りだした。

 茉莉が大学に入ってきてすぐのことだ。俺と茉莉は出会った。俺は大学院生で、ゼミの手伝いをしていた。
 最初は茉莉の方からアプローチがあったんだ。茉莉は今も可愛いだろ? 昔はもっと素直で可愛かった。すぐに頬を染めてさ。
「そんな回想どうでもいいんですけど」
「まあ、聞け」
 野口は続けた。
 俺と茉莉は付き合うことになって、茉莉が大学を卒業してすぐに結婚した。俺たちは仲が良かったから、すぐに子どもができた。
「ところが、若かった俺はモテたんだ。モテたことが悲劇だった」
「モテ自慢って、うざいんですけど。飛ばせませんか?」
「うるせえな。飛ばせないよ」
 野口は咳払いする。
 ある日、大学院に進学した茉莉の友達が俺に声をかけてきた。
「あの、野口先輩、お時間ありますか?」
「どうした?」
 茉莉の友達だから気を許していたのもある。茉莉にいい顔がしたくて、茉莉の友達なら親切にしてやろうくらいは思っていた。誓って言うが、俺は茉莉一筋で、茉莉以外の女はどうでもよかったんだ。
 「相談に乗ってください。できたら二人で。先輩じゃないとダメなんです。恥ずかしいので茉莉には言わないでください」
 茉莉の友達がそういうので、仕方なく二人で飲みに行った。もちろん茉莉にも「後輩に相談されたから飲みに行く」と報告してあった。
 素面じゃ相談できないというから、二、三杯飲んだろうか。急に眠気がきてな。まずい。やばいなって思った。
具合が悪いから帰ると言ったところまで覚えている。
 で、気が付いたら裸でホテルのベッドに寝ていたんだ。
「は?」
 桃花は眉根を寄せた。
「やってない」
「やってないって、裸で? 最悪。妊娠中の浮気ですか。この場合、不倫?」
「ちげーよ。男はな、やったかやってないかなんか、わかるもんだ。ぜったいやってないと確信していた。が、隣で裸で茉莉の友達も寝ていた。まずいって思った」
「あああ、アウトですね」
 桃花はじろりと野口を睨む。
「俺はあわてて服を着て、家に帰ったんだが、茉莉は家からいなくなっていたんだ」
「茉莉さんにバレてたんですか」
「うん。茉莉の友達が裸で寝ている俺の写真を茉莉に送り付けたようだ。帰ったらテーブルの上に印刷した写真が置いてあった」
「それで茉莉さんは? 茉莉さん、何て言ったの?」
「ああ。絶対やってない。薬を盛られたに違いない。あれははめられたんだって俺が言ったら、茉莉も思い当たる節があったようでな。あの子ならやりかねないって言ってくれて。俺の信頼は地に堕ちたが、結婚生活は継続してくれるとなった」
「よかったですね! じゃあ、なんで離婚? やっぱり、まさか、本当はやっていたパターン?」
 桃花は首を傾げた。
「違う。断じて違う。でも、そのあと、茉莉の友達が妊娠したから責任を取ってくれって家に押し掛けてきた」
「はあ? やってないのに? どうして? 茉莉さんは?」
「グレーなんだから、責任取りなさいって言って、離婚だ。俺はやってない、無実だっていっても聞いてくれなかった」
「ええええ」
「結局、彼女は妊娠していなかった。どうしてこんなことをしたんだって聞いたら、彼女は笑いながら、茉莉の結婚生活を壊したかったって言っていたよ。茉莉のことが気に入らなかったらしい」
 茉莉さん、妬まれていたんですね。しかし、女の嫉妬は怖すぎる。
「それって別れ損じゃないですか。復縁しないんですか」
 桃花は顔をしかめた。
「な? そう思うだろ? 俺もそう言っているんだけど」
 野口は桃花の応援を得たので、嬉しそうな顔をする。
「バカね。自分の下半身の管理ができないなら、離婚よ、離婚。だいたい女と二人きりで飲みに行くことを正直に連絡してないのも悪いし、油断していたんでしょ。あの子と飲みに行くって言ってくれたら、危ないって警告したわ。それなのに女の罠にひっかかるなんてね」
 午前の株式市場が終わり、茉莉さんが仕事部屋から出てきた。
「たしかに」
「たしかにじゃねえよ。おまえ、俺の味方じゃなかったのか」
 野口は桃花の方を恨みがましく見る。
「いつ味方に?」
「人生は短い。一緒にいるなら、裏切るかどうか分からない相手よりも、信頼できる人がいいわよ」
 茉莉は首をすくめた。
「これ、差し入れだ」
「あら、気が利くわね。ありがとう」
 茉莉がにこりと笑う。
「ただ来るだけじゃ怒られそうだからな」
 野口は茉莉に笑いかけた。
 だから、信頼回復のために茉莉さんちに通っているのか。納得である。ってことは、二十年? 二十年も通っているの?
 お子さんがわたしと同じ歳だって言っていたもの。子どもに会いに来るというのもあるだろうけど。野口さんの執念もすごい。
 桃花は腕組みをする。
 黒木さんに勝ち目はあるんだろうか。黒木さんのメリットは、若くて新しい男ってことだ。まだ裏切っていないからなあ。期待大だ。それに比べ、野口警部は浮気未遂をやらかしている。信頼はゼロ。この二十年間で払しょくできているのか疑問だ。
 桃花は野口と茉莉の顔を交互に見た。
「それで? きょうはどういうご用件?」
 茉莉は自分の分のお茶をいれた。
「岸辺綾音はエービーコミュニケーションズをやめて自分で事務所をつくったから、内山マネージャーもエービーコミュニケーションズをやめたらしい。岸辺綾音と共同事務所にしたかったらしいが、岸辺綾音が軌道に乗るまで雇えないって、内山の申し出を断ったみたいだ」
「へえ。内山マネージャー、綾音先輩のところにいきたかったんだ」
 そんなに綾音先輩に固執していたんだ。意外だった。内山マネージャーはいつもわたしのことを睨んでいるのように見えるので、正直苦手だ。
 わたし、どうしようかな。もう大学三年生だし、これを機に動画配信することをやめることもありだろう。でも、就職活動をして、会社勤めしている自分が想像できない。
わたしは自分が感じたことや疑問におもったことをみんなに問いたいし、どんどん住みやすい世の中にしたい。
仕事をするならそういう職業につきたいって思う。やっぱりわたしにはこの動画配信の仕事しかないのかな。梨美はインターンも考えているって言っていた。梨美とのコンビは一ヶ月後に解散するようになるかも。一人でやる? 
やっぱり動画配信、あきらめたくない。
桃花は決意した。
「茉莉さん、わたしは一人で動画配信を続けるつもり」
「桃花は人気があるから、それでいいんじゃない? 発信力もあるし」
 茉莉は小さく笑った。
「おまえは動画クリエイターが向くと思うよ。サラリーマンは無理だ。相方のほうは、会社勤めもできそうだが」
 野口と茉莉が賛成する。
「梨美だってクールビューティーって言われて、注目されてますよ。ヨーチューバー、梨美も続ければいいのになあ」
 桃花は残念がる。
「梨美さんはぱっとしないわ。突出した個性がないのよ。でも桃花は違う。ヨーチューバー、、いいと思うわ。むしろ就職してサラリーマンの方が向かないわよ」
 茉莉が桃花を見る。
「ああ、俺もそう思う。桃花は派手というか、とにかく目立つんだよ。そんな会社員なんていないぞ。それはそうと、事務所ってあった方がいいんだろう? どこかの事務所に入るのか?」
 野口が桃花の服を見る。
「いえ、わたしも自分で事務所も作ろうかなと考えているところです。あ、すいません。そろそろ大学に行きますね」
 桃花は茉莉と野口に挨拶をすると、あわてて家を出た。

「そこ! なんだその大きな髪飾りは。派手じゃないのか」
 先日、桃花の帽子を注意した教授がまた桃花に指を刺した。
 えええ? まさか、また、わたし? 
きょうは花飾りが耳元についているけど、帽子ではない。これが不愉快ってこと? 
本日のファッションは、レース仕立ての着物を短めに着て、下にレースのロングスカートを着ている。着物の感じを残したくて、和風のかんざしっぽい花飾りを頭に挿している。七五三や成人式にならないように、そんなに大きい花ではない。けれど、着物ミックスコーデを嫌がる人は一定数いるんだよなあ。
 もしかすると、教授は着物ミックスが嫌いなのだろうか。
「おまえのことを言っているんだ」
「わたしですか?」
 桃花が席を立つ。
 桃花の顔を見ると、教授は先日のことを思い出したようだ。
教授の顔がひきつっている。
「もういい。座りたまえ」
 教授はくるっと背中を向け、板書に文字を書く。
「先生、不愉快なら髪飾りを取りましょうか?」
「いいって言っているだろ」
 教授は桃花と目を合わせないようにして授業を進め始めた。
(なんだか傷つくなあ)
着たい服をきて、お化粧して楽しんでいるけど、人を不愉快にさせることがないように気を付けているつもりだ。着物ミックスコーデは大学ではやりすぎなんだろうか。あとでSNSでアンケート調査してみるか。動画にして、反応を見てもいいかな。
 その後は、桃花は静かに授業を受けた。
 無事授業が終わると、梨美からメールが来ていることに気が付いた。待ち合わせして、食堂で会うことにする。食堂は、お昼時など混んでいるとき以外は、自由に利用してもいいとされている。
「そっか、桃花は事務所をつくることを考えているのね。わたしはやっぱり就職かな。普通の幸せが欲しいから。ごめんね」
 梨美の発言に驚く。
「普通の幸せ?」
「こんな仕事をしていると、金銭感覚も時間も普通の人とズレちゃうでしょ」
 そうなのかな。わからない。
桃花が黙っていると、
「桃花はマイペースだからなあ。妬みもお金も関係ないか。それが通常モードだもんね」
 梨美が寂しそうにする。
「そう?」
 動画クリエイターは視聴者登録数や視聴回数に振り回される。コメント欄が荒れたりすると、メンタルもきつくなる。独立して自分ですべてやるなら、広告収入も考えないといけない。画角も構成も考えることになる。うまくいけば、今より収入は増えるが、賭けとなる。自由は手に入るが、作業は増える。
(儲かっている人たちは派手にお金を使っているみたいだけどね)
「桃花は自分を見失わず、大丈夫そう」
 梨美は寂しげに笑った。 
「そうかな。梨美なら定時で作業するとか決めて、しっかりやりそう。就職して、動画配信続ける? もったいないもの」
「ううん。わたしはだめ。たぶん向いてない。感情で動いちゃう」
「梨美、顔色が悪いみたいだけど」
 梨美の頬がこけているように見える。悩んでいるんだろうか。
「それとも、梨美も事務所をつくる? わたしと共同経営する? すぐ潰れちゃうかもしれないけどさ」
 桃花は冗談めかして打診する。
「誘ってくれてありがとう。でも、わたしはもう全てておしまいにするわ」
 梨美は小さく笑った。
 解散はあとひと月後に決まった。


内山は、岸辺綾音から白い封筒を受け取った。表には退職願と書いてある。自分の顔が引きつっていくのが分かる。
「綾音が辞める? どうして? これはどういうことだ」
 封筒を持つ手が小刻みに震える。
「え? 見ての通り。退職願よ」
綾音はさらりと答えた。電話やパソコンの音がなくなった。
 事務所の中にいる全員の注目が集まっていた。
「だから、どういう意味だ? エービーコミュニケーションズをやめるのか?」
「ええ、やめるわ」
 綾音は冷めた目で内山を見る。
「なぜ?」
「なぜって? 週刊誌に黒木さんのことがバレた時、エービーコミュニケーションズは応援してくれなかったじゃない。わたしを首にしろって声もあったみたいね。知っているのよ。別にこんなところ辞めてあげるわ。困るのはこの事務所。看板スターがいなくなるんだから」
 綾音は肩をすくめた。
「それは、そういう意見もあったというだけで、誰も本当に辞めさせようとは思ってない。機嫌を直してくれ」
 内山は慌てて打ち消す。
「週刊誌によると、事務所はわたしの扱いに困っているとか、辞めさせたいと思ってるとか書いてあったけど? それに、以前からアイドルはをもう卒業したいって、わたしは相談していたわよね?」
「まだ卒業の時期じゃないって、事務所が判断したんだ。ファンだって、アイドル卒業なんて納得しないだろう。まだまだお前は人気がある」
「わたしは今が脱アイドルのタイミングの時だと思うの。だからタレントに転身するわ。エービーコミュニケーションズは、汚れたアイドルなんていらないでしょ?」
 綾音は自虐的に笑う。
「汚れてなんかない。だいたい付き合ってなんかいないじゃないか。あの男は綾音の恋人とは違うだろう?」
 内山は否定した。