「ところがだ。桃花さんがアイドルだって恋愛していいとひっくり返し始めた。岸辺綾音の存在は薄くなり、メタモルフォーゼの桃花が目立ち始めた」
 野口が説明を続ける。
「なんとかして、桃花の口を閉じさせたい。でないと、綾音のタレントとしてのデビューが怪しくなると考えた。だから、内山と岸辺綾音が桃花さんの部屋を訪れた」
 野口が桃花に説明する。
「おそらく、ゴンザレスさんは内山と岸辺綾音とどこかで鉢合わせしたか、もしくは二人が桃花さんの部屋に入るのを見つけたんだと思う。そこで、桃花さんを守るために跡をつけ、殺された。そんなところでしょうか」
 黒木が野口の続きを話した。
「茉莉さんも黒木さんも事件のことがわかっていたんですね。すごい!」
 桃花は目を輝かせる。
「そうですか、桃花さんは当事者ですからね、気が付かないのかもしれませんね」
 黒木が言いづらそうにしている。
「案外、気が付かないものなのかもしれないわね」
 茉莉は苦笑した。
「わたし、もしかして、憎まれていました?」
 桃花が問いかけると、茉莉と黒木、野口が桃花から視線を逸らす。
ショック。嫌われて、憎まれていたなんて。じゃなければ、ダーツの的にしないか。
桃花はがっくりとした。
「どうして彼らが桃花さんの部屋にはいれたのか。そこが謎なんですけどね」
 野口が肩をすくめた。
「どこかで鍵を盗まれたこととかない?」
「ええ? 鍵を亡くした記憶は全くないですけど」
 野口が聞く。
「席を外した時、鍵をコピーされたとか」
「綾音先輩とは事務所は同じだったけど、わたしが一方的に好きだっただけで、お茶とかしてもらえなかったですからねえ」
 野口は左手で顎を撫でた。
「内山マネージャーとは?」
「嫌われていたからでしょうか。会釈くらいしかしたことがなかったです」
「うーん」
 茉莉が唸った。
「もしかして、鍵の動画とか公開したりしてない?」
黒木が口を開いた。
「鍵の動画とかは出していないですけど、部屋の動画は出しました。プライベートを公開とかすると、視聴回数が増えるんですよ」
「ファン心理ですね」
 黒木がうなずく。
 動画を確認すると、鍵もチラッと映っている。
「もしかすると、ここから鍵を複製したのかもしれません。拡大してみればわかると思うんですが、メーカーと鍵の番号が見えるんです。この動画は削除した方がいいと思いますよ」
 黒木が眉をひそめた。
「それだな。鍵の複製はメーカーと鍵の番号が分かれば、できてしまうんだよ。だから、動画やSNSに載せると危険なんだ」
 野口はため息をつく。
「桃花さんがあの部屋に戻る時、鍵を変えないといけないわね。大丈夫よ、管理人さんにたのみましょう」
 青ざめた桃花を茉莉が慰める。
驚きのあまり、口もきけなかった。
わたしの動画のせいで、殺されたのか。ゴンザレスさん、ごめんなさい。
茉莉は震える桃花を抱きしめた。
茉莉の体温は温かった。


十四
気持ちのいい日差しが窓から差し込んできた。
「おはようございます」
 茉莉さんの家は、朝は各自勝手に作って食べるスタイルだ。桃花がキッチンを覗くと、いつも早起きなのにめずらしく茉莉さんは起きていなかった。
 桃花はちょっと寂しくなりながら、お湯を沸かす。一人暮らし歴も長いのに、茉莉との暮らしは楽しくて快適。相性が良かったのだろう。茉莉の顔を見ないとなんとなく落ち着かなかった。
食糧庫から美味しそうなイングリッシュマフィンを見つけた。半分に切って、バターをのせ、トーストで焼く。イングリッシュマフィンが焼ける匂いとバターの香りが漂ってきた。溶けかけのバターがパン生地にしみこんでいく。
冷蔵庫の中は好きに使っていいと茉莉さんから言われている。食べてはダメなものには名前を書くルールだ。無記名のヨーグルトを見つけたので、ありがたくいただくことにする。
 コーヒーの香りがキッチンからあふれてきたころ、茉莉さんが玄関から入ってきた。朝寝坊ではなく、出かけていたらしい。勤勉な人である。
「おはよう。いい匂い。朝ご飯はコーヒーとパン?」
 茉莉が目を輝かせる。
「茉莉さんのコーヒーもありますよ。よかったら、先に半分ですけど、イングリッシュマフィン食べます? またあたためますから。あとヨーグルトも」
「ありがとう。うれしいわ」
 茉莉は嬉しそうに桃花の誘いにのった。
 イングリッシュマフィンの表面にはコーングリッツという粉がついている。表面が焦げないようにするために必要な粉らしい。もちもちして美味しいパンになるには、工夫がある。桃花はコーングリッツをこぼさずイングリッシュマフィンを食べるため皿を出した。
「ねえねえ、桃花さん。ネットの記事みた?」
「いえ、まだ起きたばかりなので」
「そうなのね」
 茉莉はスマホを触っている。
「茉莉さん、ネットの記事とか読むんですか」
「読むわよ。情報収集しないと、暗号資産や株が扱えないもの。新聞も数社読むし、インターネットのニュースサイトもチェックするわ。もちろん信頼できるところのニュースよ。フェイクやでたらめのところもあるからね」
「意外。わたしたちの世代はインターネットで記事を読むのは当たり前ですけど、茉莉さんの世代でも活用されているんですね」
「やだあ。そんな年寄り扱いして。インターネットが好きでないっていう人もいるだろうけど、ビジネスの場面ではそんなこと言っていられないわ。インターネットの記事は玉石混交だから、よく見分けないといけないけれど。インターネットはスピードが違うもの。株式や暗号資産はスピードが大事だからね」
「ああ、動画配信とテレビ番組のようなものですね」
「そうね。似てるかもしれないわね」
 桃花は「なるほど」と頷きながら、イングリッシュマフィンをかじる。バターがじんわりと染み出て、塩っ気が美味しい。
「そうそう。これ、このネット記事、見て」
 茉莉に促され、桃花もスマホで検索する。
「ええ? これって」
 桃花は絶句する。
 綾音先輩がまたスクープされている。このシルエット。この服は、きのうの黒木さんだ。うちの大学のベンチに座っている。
綾音の熱愛報道の記事によると、大学病院勤務の医師が綾音に夢中だと書いてある。黒い目隠しはされているものの、黒木の顔は、不愉快そうな表情だ。
あ、シュークリーム食べてる?
「きのうのお土産は、綾音先輩からもらったシュークリームのおすそ分けみたいですね」
「そうみたいね」
「この写真でも、綾音先輩の差し入れのシュークリームを食べているけど、座っている綾音先輩とは距離がありますねえ。やっぱり恋人じゃないですね」
「恋人との距離とは、違うわね」
 茉莉は苦笑いだ。
「それに恋人からもらったら、おすそ分けとかしたくないですよね」
 記事によると、綾音は「彼は大好きな人です」と隠すこともなく記者に話したとある。
綾音は「アイドルが恋愛してごめんなさい。断髪します」とは、全く違う方向にかじ取りをしたのか。報われない片思いアピールか。それともぞっこんアピール? これならたしかに女性から反感を買わないだろう。
桃花は綾音の変わり身に衝撃を受けた。
「彼は幼なじみなんですぅ」と小さいころの写真も記者に見せてアピール。「優しいお兄ちゃんって感じで大好きなんです。熱愛とか、嬉しいです。わたしたちずっと仲良しなんですよ。彼のご家族ともお付き合いがあるのです。お付き合いですか、うまくいくように祈っていてください」と笑顔の岸辺綾音。熱愛報道にも見えるし、ただのご近所の家族ぐるみのお付き合いと理解もできる。綾音はうまく立ち回っていた。
「世間の注目を引っ張っておきたいんでしょ。タレントに転身したばかりだし」
 茉莉は説明しながら、冷蔵庫からきのうのシュークリームを取り出してパクつく。
「ちょっと皮が湿ってしまったけど、やっぱり美味しいわ。桃花さんも食べる?」
 のんきに感想を述べているけど、黒木さんのこと、茉莉さんはもやもやしないんだろうか。
「あ、はい。いただきます。朝からシュークリーム。朝シュ―とか、贅沢ですね。前の熱愛報道の時の涙は、なんだったんでしょう? わたし、アイドルなのにすいませんって感じでしたよね」
 茉莉の顔色を見たが、わからなかった。
 桃花としては、アイドル恋愛擁護論で刺されたのだから、釈然としない。
「生き残るための戦法よね。旗色をみてすぐに方向転換。芸能界だもの。仕方がないわよ」
「まあ、そうですけど」
 綾音先輩を救うために身体を張ったのに、なんだったんだろう。
 むなしくなった桃花は、冷蔵庫の中に顔を突っ込んだ。
「電気代、高くなるから。いじけるならベッドにしてね」
 茉莉さんの容赦ない言葉が飛んできた。
「はーい」
 桃花はラスト一口ほおばった。


十五
学食はいつでも学生がいっぱいだ。サークルの会合をしている人たちもいる。大学の学食は一般開放されているので、近所に勤めているサラリーマンも学食を利用しているらしい。
安いし、美味しいしね。商売繁盛だ。
桃花は今日のメニューの看板の前で止まった。
A定食のチキンのチーズポテト焼きにするか。B定食のアナゴの天ぷら丼にするか。これは悩ましい。
「俺だったらアナゴかな」
「大樹くん。アナゴ、美味しいよね。迷うわ」
「コラボ、すごい人気だね。桃花さんのおかげで登録者が増えたよ。ありがとうね」
「いやいや、こちらこそ。わたしのほうでもいい反響だよ」
「茉莉さん、アナゴを料理するの、好きじゃないんだよね。メニューにでてこないでしょ?」
 大樹が笑う。
「そうなんだ。じゃ、アナゴにしよう」
 すぐに決定した。
「桃花さん、一緒に食べていい?」
「もちろん。大樹くん、友達は?」
「ああ、きょうは大丈夫。桃花さんと話したいな」
「そ、そう?」
 二人は静かそうな窓際の奥に席をとる。
「大樹くんはさ、どうして動画を配信をしているの?」
「そうだなあ。自分は塾とかほとんど行かなかったからかな。でも、勉強には躓くわけよ。そのとき、友達や学校の先生に聞いたりするんだけど、今すぐ教えてほしいと思うけど相手の都合でダメだったりもあるし。次に何を勉強すればいいのかもわからなかったんだよね。そういう時に動画を見てヒントになってもらえたらいいなと思ったんだ」
「そうだよね。たしかに大学受験って、ほんと大変だもん」
「ちょっとだけでいいから誰かに頼りたいって思っている子たちって多いと思うんだ。だから手助けができたらって。動画を見て、自分は塾や予備校に行った方がいいって思ったら、行けばいいし。茉莉さんってさ、たぶん頭がいいんだよ。この大学入ってるし」
「え? そうなの? どうかな」
 大学にはいれたのは、勉強するのが得意だったからだ。頭がいいかはまた別かもしれないとは思うが、桃花は否定しなかった。
「勉強で苦労してなさそう」
「一応、これでも勉強はしたんだよ。勉強はやればできるんじゃないかって思ってて、自分でやればできるかもって思っていたの。塾や予備校に行くという感覚がなかったんだよね。大樹くんもそうなんじゃない?」
「桃花さんは本当に頭がいいタイプの人なんだね。俺は限界を感じて予備校に行ったんだ。勉強の仕方が分からない人や独学が難しい人は、効率よく勉強するっていうことでつまずくんだよ」
「言いたいことはなんとなくだけどわかる」
 桃花は自分が高校二年生の時を思い出す。夏休みが過ぎると、クラスの子たちがピリピリし始めた。
わたしは自分のやり方が決まっていたから、迷わなかったけど。
「そんな体験も交えて、誰かのためになれたらという思いと、あと動画配信に興味があったんだよね」
「なるほど。誰でもいまは動画投稿できるから、投稿する人が多いよね。高校の同級生でもダンスのショート動画とか、メイク動画とか出しているよ」
「けっこうみんな出してるよね」
 桃花と大樹は笑いあう。
 ショート動画とは動画を短くまとめたものだ。短いから作りやすく、視聴しやすい。そのため長編動画の宣伝的効果も期待できる。