「ううん。そんなことない。動画配信、楽しかったわ。桃花と一緒にできてよかった。今までありがとう」
 梨美はふわっと笑った。首元が気になるみたいで、チョーカーのトップをいじっている。
「わたし、迷惑をかけていたのかもしれないって思ってさ。ごめん」
「え? どうして?」
 梨美は不思議そうな顔をする。
「内山マネージャーは、わたしたちのことを邪魔だって思ってわけじゃない?」
「正確に言うと、邪魔って思われていたのは主に桃花で、わたしは巻き添えって感じだと思うわ。綾音先輩は心配無用よ。彼女、腹黒だし、神経が図太いからね。断髪式をやって、華麗にタレントへ転身とか、内山マネージャーから逃げるとか計画していたみたいだけど。ま、断髪式は桃花が潰しちゃったけどね」
 梨美は笑った。
「やっぱり? そういうことだよね。あああ、やっぱり綾音先輩からもわたしは恨まれていたってことよね。推しに恨まれるファンって、どうよ」
 桃花はへこんだ。
「そうだね。たぶん、き・ら・い?」
「ひどい。ひどいわ、梨美」
 梨美はショックを受けている桃花を面白そうに見る。
「わたしのこともあいつら嫌っていたけどね」
 梨美は悲しそうな顔になる。
「何かあった? 大丈夫?」
 桃花は問いかけるが、他の学生たちのお喋りの声で聞こえなかったようだ。予鈴が鳴り始め、梨美は桃花に「次の授業があるから」といなくなってしまった。
「あああ、綾音先輩によかれと思ったのに、推しの活動を邪魔をしてしまったのか。何をしているの、わたしって」
 桃花はぼやいた。

 授業が終わり、桃花は隣の大学病院へ急ぐ。
午後の診察予約は三時だ。でも、五分前に大学をでても、間に合ってしまうのが素晴らしい。きょうは傷の経過を診てもらう日だ。午後の診察も一段落を終えたのだろう。会計の機械に列ができていた。
 待合室で座っていると、黒木が声をかけてきた。
「傷はどう? 痛んだりする?」
「ううん、大丈夫です。痛くはないです」
「よかったね。順調そうだ」
 考えれば、主治医より黒木の方が顔を合わせている。病院で知り合いの医者に会って、桃花は顔を綻ばせた。
「はい、ありがとうございます」
「きょうの夜に茉莉さんのところに行くから。よろしく言っておいて」
 んん? 茉莉さんのところに行く? ケガの確認という意味ではなさそうだ。やっぱり黒木さんって、茉莉さんが好きなんだね。綾音先輩は片思い決定か。
桃花は首を傾げた。
「じゃあね」
 黒木は爽やかな笑顔を浮かべる。
 茉莉さんって、なんだかんだ言いながら世話を焼いてくれるし、優しいし。四十過ぎたって言っていたけど、肌なんかきれいだし。モテるのも分かる。
 茉莉さんが幸せになれるなら、黒木さんでもいいかもしれない。
 桃花は黒木の背中を見送り、踵を返す。
「あなた、黒木さんのことが好きなの?」
 突然声をかけられてビクッとした。顔を上げると、綾音先輩が立っていた。
「いえ。別に。そういうわけには」
 きょうも綾音先輩は美しかった。両腕を組んで怒っている姿もなかなかだ。
「黒木さんは、誰にでも優しいの。あなたなんか、ただ事故の時に居合わせたから心配しているだけ。勘違いしない方がいいわ」
 綾音が牽制する。
「そうですよね。わたしもそう思います」
「わかっているならいいわ。わたしたちの邪魔しないでね」
 この「邪魔しないでね」は、わたしたちの恋の邪魔をするなってことなんだろう。しかし、現役アイドル、あ、今はタレントだっけ。綾音先輩は怒っても可愛い。スタイリストさんとか、メイクさんとか自分で手配しているんだよね。独立したから大変だろう。ちょっと同情する。というのも、靴が服と合っていなかった。顔は可愛いから、いいんだけど。
 桃花はしみじみと綾音先輩の顔を見る。
 チークの色も場所も少し変わっていたので驚いた。。スタイリストをつける余裕もなく、自己流なんだろう。
「先輩、どこの化粧品使っているんですか」
「もうあなたの先輩じゃないわ。エービーコミュニケーションズから独立したから」
「えええ。そんなことを言わず、教えてくださいよ」
 桃花はもう少し下からチークを入れた方がいいとアドバイスするか迷っていた。
「うっとうしいわ」
岸辺綾音は嫌な顔をした。
「ちょっと、ここは病院ですよ」
 もめていたら、看護師さんに怒られた。
「すいません」
 桃花が謝っているうちに、綾音は少し大きめな紙袋を持ちながら、どんどん廊下を歩いていく。
「先輩、どこ行くんですか。それ、有名な洋菓子屋さんの紙袋ですよね」
 綾音は振り向かない。桃花は意地になった。
「先輩!」
「うるさいわよ」
「そんなこと言わず。せっかくここで会ったんですから、仲良くしてくださいよ」
 できたら綾音先輩の華麗なるタレント転身の邪魔をしたことを謝罪したかった。叶わぬなら、チークの話でも。でもとりつくしまもない。
「黒木さんのところに行くから、忙しいの」
「なるほど」
 たしかに報道された通り。綾音先輩は黒木さんが好きなんだ。
 桃花がうなずいていると、綾音の姿が小さくなっていく。
「綾音先輩、さようなら」
 桃花は綾音先輩の背中に声をかけた。綾音にはその声は届いているのか、届いていないのかわからない。ただ、ヒールの音が勇ましく響く。
 綾音先輩は黒木さんが好き。黒木さんは茉莉さんが好き。野口警部は茉莉さんの元夫で茉莉さんが好き。内山マネージャーは綾音さんが好き。
 桃花は相関図を思い浮かべる。複雑に絡み合っている。そしてふと、残念なことに自分に恋の矢印がないことに気が付いた。
青春の無駄遣いとはこのことか。
桃花は心の中でボヤく。
自分の恋はまた違う時に考えるとして、いまは殺人事件のことだ。
 桃花は頭を横に振る。
 ゴンザレスさんはわたしに危険を知らせるために内山に殺された。内山を殺す動機を持つものは、誰なのか。
 直接内山マネージャーを嫌がっていたのは綾音先輩くらい?
 でも、綾音先輩がわざわざ内山マネージャーを殺すだろうか。芸能界で生きていくと決めた元アイドル、現タレント。事務所絡みのトラブルはテレビの仕事を閉ざすことになってしまう。犯人は綾音先輩じゃないのかな。
 桃花はため息をついた。
黒木煌貴はやっていないと思う。
黒木は綾音の幼なじみだが、綾音に恋愛感情はないと言っていた。ただ、近所の子だから親切にしていただけ。黒木さんは茉莉さんのことが好きだし。
しかし、何がきっかけで人が恋に落ちるのかなんてわからないものだな。ほんと、人生何があるかわからない。わたしも刺されて、交通事故に遭い、女装死体と遭遇したもんね。びっくりだ。
傷も治ってきていると診察も無事に終え、帰宅すると、テーブルナチョスが用意されていた。テーブルナチョスとは、テーブルにアルミホイルを敷いて、ナチョスが展開されているもので、一時期ヨーチューブで流行っていた料理だ。
「茉莉さん、これからパーティー? だれか来るの?」
「最近ぱっとしないから。桃花さんとなんか楽しいことしようと思って。黒木さんが話があるって言っていたから、来るくらいかしら」
 茉莉さんが冷蔵庫から一・五リットルのコーラを用意する。よく磨かれているグラスがアニメのようにキラリと光った。
「茉莉さん、わたしはお酒、飲めますけど。コーラですか」
 桃花はニヤリと笑った。
「わたしが飲めないから、この家にはアルコールはないのよ。あしからず」
 茉莉さんが笑った。
「コーラがあるだけ上等です」
「クラフトコーラも買ってあるわよ。炭酸水はこっちにあったはず」
 茉莉が冷蔵庫を漁っていると、玄関の呼び鈴が鳴った。予告通り黒木かと思ったら、野口が顔を出した。
「きょうも来たんですか」
 桃花は呆れる。
「茉莉さんの健康確認と、桃花の無事を確認しに来た」
「ほとんどの理由は茉莉さんですね」
「まあな」
 野口は全く悪びれず、唇の両端をあげた。
 リビングに通していたら、呼び鈴が再び鳴った。
 そろそろくると思ったわ。きょうは荒れそうだ。黒木である。
「あ、俺が出るよ」
 野口が呼び鈴の応答ボタンを押す。
「ありがとう」
 レタスやトマトを切っていて、何も知らない茉莉が答えた。
「こんにちは。黒木です」
 インターフォンのモニターに黒木さんの強張った笑顔があった。
「なんだ、おまえ。帰れ」
「勝手なこと言っちゃだめじゃないですか、野口さん。茉莉さんのお客さんですよ」
 桃花はあわてて黒木を部屋にあげる。
「あら、黒木さん。いらっしゃい」
 茉莉さんはエプロンで手を拭きながら、玄関に向かった。
「黒木さんがお話ししたいというから、ぜひ一緒にナチョスでもとお誘いしたの」
 茉莉はにっこりと笑った。
「ああ、そうなのか?」
 野口の顔は引きつった。
「知り合いからたくさんいただいたので」
 黒木が大きな紙袋を茉莉に渡した。
「まあ、とろけるシュークリームね。並んだでしょ? わざわざありがとうございます。もしかして、黒木さんもシュークリームがお好き?」
 茉莉は上機嫌で冷蔵庫にしまう。
「昔からシュークリームに目がなくって」
「わたしもシュークリーム大好きなの。嬉しいわ。シュークリーム好きに悪い人はいませんからねえ」
 どんな理屈だ? と桃花は思うが、つっこまなかった。ここの家主は茉莉さんである。細かいことは気にしてはいけない。
黒木さんの知り合いって綾音先輩だろうか。ということは、これは綾音先輩が買ってきたシュークリームか。病院であった時、そういえば大きな紙袋を持っていたな。
桃花は綾音をすこし憐れんだ。
 黒木はソファーに案内され、桃花と野口、黒木と座る。リビングは微妙な空気が流れていた。
「はい、お待たせ」
 茉莉さんが取り皿を配り、ナチョスパーティが始まった。
 ナチョスにはチーズソースをかかっている。豆腐を使ったワカモレソースもある。
 黒木さんと野口さんは互いに口もきかない。
「茉莉さん、おいしいです」
「ふふふ。ありがとう」
 茉莉はうれしそうに微笑んだ。
「おいしいですね」
 黒木さんと野口さんは同時にかぶって感想を言う。
 面白過ぎる。笑っていたら、野口さんににらまれた。
くう。むせちゃうじゃないですか。
 桃花はあわててコーラを飲む。
「あの、どうしてもわからないことがあるんですけど」
 桃花は空気を割った。
「何がだい?」
 黒木さんが優しげに笑う。
「どうして内山さんが殺されたのか。どうしてわたしが刺されたのか。考えてもわからなくって」
「そういうのは、こいつじゃなくて俺に聞くべきだろう」
 野口さんがムッとした。
「だって、野口警部は聞いたって教えてくれないでしょ」
 野口は黙り込んだ。
「そりゃ、捜査状況は話せないわよね? 桃花さん、犯人わからないの?」
 逆に茉莉さんはわかるんですか?
 桃花は目を見開く。
「内山マネージャーはあなたのことを邪魔だって思っていたのよ」
 茉莉が説明する。
「そうですよね。本日二回目の確認です。わかってます」
 あんなに綾音先輩のことを考えて、アイドルだって恋愛していいと主張したけど、邪魔をしていただけだった。
「桃花さん、内山マネージャーは綾音先輩の恋愛についてはきっと苦々しく思っていたと思うわ。たぶんだけどね。でも、岸辺綾音をアイドルから脱却させて、芸能界で長く活躍できるようタレントにしようとしていたから、いい機会だとも考えていたと思うの」
「はあ」
「タレントとして生きていくのに、知名度って大事でしょ? アイドルのファンとは対象年齢も性別も違うじゃない? でも、興味を持ってもらわないといけない」
「そうですね」
「だから、断髪式をして、禊をしてみんなに知ってもらって、タレントとして生きて行けるように計画していたのではないかしら。断髪式を思い立ったのは、もしかすると本当の気持ちからだったのかもしれないけれど、利用してもっとタレントとしてのファンをふやしたかったのかもね」
「やっぱりそうですよね」
 桃花の顔が曇る。