始まりはキタハシ美容室

 坂下通りにあるキタハシ美容室は、美容師である父の成幸と、雑用を任されている祐介の二人で成り立っている。
 壁や床など、白で統一された空間の美容室は小さいが、地元の小さな雑誌に掲載されたことがある。
 店主の北橋成幸と、高校二年生の息子である祐介の二人の写真も、「お店の方のコメント」と一緒に載せてもらった。
 祐介はその時の雑誌を今でも部屋の本棚に置いている。
 今日も今日とて、開店の十五分前に祐介が顔を覗かせると、見知った人物がおり、思わず本音が出てしまった。

「げっ、浮田」

 祐介は成幸の隣にもじもじと立っている、クラスメイトの浮田薫を見て顔を歪めた。
 もさもさのぼさぼさ頭で地味な男。
 なんでこいつなんだよ。
 そんな思いが顔に出てしまい、成幸に頭を軽く叩かれる。
 己の右腕に巻かれている包帯が恨めしく、祐介は無意識に舌打ちをした。
 歓迎していない祐介の態度に、薫は目を泳がせる。
 薫が二人の前に姿を現すきっかけになったのは、ほんの三日前のことだ。


 キタハシ美容室で、祐介は毎日手伝いをしている。
 一階が美容室、二階と三階が二人で暮らす家であるため、暇さえあれば店に立っていた。
 態々家を出てアルバイトへ行かなくても、一階に下りればそこが成幸の職場であるため、祐介は小遣い稼ぎとして雑用をこなす日々。
 しかし夏休みに入る前日に、祐介は右腕を骨折した。全治三か月と医者に告げられ、その間は安静にしなければならない。成幸は骨折した祐介の代わりを見つけるため、三日前にアルバイトの募集をかけた。
 そうしてやってきたのが、薫だった。


 祐介は眉間にしわを寄せ、薫をつま先から頭までじっくり眺める。
 クラスメイトである薫のことを詳しく知っているわけではない。しかし、いつも一人でいて目立たない薫を根暗なやつだと決めつけるのに、時間はかからなかった。
 家が美容室ということもあり、祐介は他人の髪型に敏感だった。
 薫の髪はもさもさで、毛量が多く長い。顔周りの髪で目は隠れているし、どんな骨格をしているのかさえ分からない。
 何か月もカットしていないだろうということはすぐに分かる。
 クラスの男子の中で、一番髪に頓着がない奴。それに加えて根暗。その要素が祐介にマイナスの印象を与えた。
 祐介は将来、美容師になろうとは思っていないが薫の髪を見ると、その髪を引っ張って切り落としてやりたい衝動に駆られる。髪を切ったところで根暗が治るわけではない。
 教室の隅でぽつんと座っている薫の姿を思い出す。
 同類の根暗クラスメイトと固まることなく、ただ座っている。
 祐介はクラスでも目立つ方で、明るいクラスメイトたちと毎日騒がしくして過ごしている。
 毎日一人で過ごし、地味だと揶揄されている薫とは関りがない。
 自分とは対極的な薫に苦手意識どころか、少なからず嫌っていた。

「何で応募したんだよ」
「ぼ、募集してたから」

 そりゃそうだ。
 三日前、店の扉にアルバイト募集の張り紙を出したのだ。
 こんな小さな美容室が最低賃金の時給、交通費なしの条件でアルバイトを期間限定で募ったところで応募なんてこないだろう。そう思っていたが、予想を裏切り薫がやってきた。

「じゃ、祐介、教えてやってくれよ」

 成幸がそう言うと、タイミングよく扉が開いた。

「あのぉ、十時に予約してた日下部です」

 四十代くらいの女性が入店し、成幸が接客する。祐介は店の隅に薫を連れて行き、ペンとメモ帳を渡す。

「これでメモれ」
「あ、持ってきてる」
「あっそ」

 差し出したペンとメモ帳を近くのテーブルに投げ置く。

「じゃあメモれ」
「は、はい」

 薫は急いでポケットからメモ帳とペンを取り出す。

「うち、完全予約制だから予約してない客は受け付けない。美容師は親父一人で、普段は俺が雑用やって手伝ってんの。んで、今日からお前が俺の代わりの雑用係。親父一人だから、同じ時間に客を二人も受け入れられない。予約受けるときはそれに気をつけろ」
「予約を受けるって、どうやって……」
「は? 電話だよ電話。ネット予約なんてできないし」
「そ、そうだよね」
「見りゃ分かるだろ。こんなに狭い美容室だぞ」

 キタハシ美容室は、街にあるようなきらびやかな美容室ではない。
 美容師が一人しかいない美容室だ。規模が小さくなくては、やっていけない。
 祐介は一通り店のことを伝え、どんな雑用をするのかをざっくりと説明した。説明を聞くよりも、やった方が早い。
 そう思った祐介は細かく教えなかった。というのもあるが、本音は長く薫と会話をしたくなかった。
 嫌いな相手とは、一分一秒でも離れたい。
 祐介は「まっ、そんな感じ」とまとめ、成幸の傍に行くように指示した。薫はペンとメモ帳をポケットにしまい込み、祐介に言われたとおり、成幸の後ろに控えた。
 教室での様子や、あの見た目からして、仕事ができなさそうな奴だ。
 祐介は棒立ちになっている薫に失笑した。
 きっと今回が初めてのアルバイトだろう。男一人で切り盛りしている小さな美容室なら、自分でも働けると思ったのかもしれない。美容師が一人だから客は少ないはずだ、と思って応募してきたのだと推測した。
 間違いではない。完全予約制なので、飛び入りの客はいないし、成幸の都合で店内にいる客は常に一人だ。一応、客四人を同時に接客できるよう、四人分のスペースはある。だが客が四人同時に、店内にいたことはない。そんな小さな美容室ではあるが、「自分でもここなら働けそうだ」と下に見るような考えでやって来たことは腹が立つ。
 まるで監督のように、祐介は椅子に座って薫を監視する。

「浮田くん、電話に出てくれる?」

 店内の電話が鳴り、薫は恐る恐る電話に出る。その仕草さえ祐介は苛立つ。

「はい、キタハシ美容室です。はい、はい。はい、確認しますのでお待ちください」

 おどおどしながら電話に出るのかと思いきや、意外としっかりした声で対応する薫に、祐介は驚いた。
 電話の内容を聞くための祐介は薫の元へ行く。

「何、予約?」
「う、うん」
「そこのパソコンで予約表作ってるから」

 薫はパソコンを操作して表を確認し、電話に戻る。

「お待たせいたしました。その時間でしたら空いております。予約内容はどのようなものでしょうか?……カットとカラーですね、承知しました。それではお待ちしております」

 慣れたような対応に、祐介は目を見開く。
 電話を切った薫は何かを思い出したように、「あっ」と声を上げた。

「あの、カットとカラーということは、時間がかかるってことだから、この方の後に予約が入ってる方と時間が少し被ったり……」

 しまった、という顔で祐介を見る。
 祐介は予約を確認し、「こんくらいなら平気」と返した。
 薫は胸をなでおろす。
 その後、客が帰っていくと切った髪を掃除したりと、薫はきびきび働いた。
 その働きぶりは成幸も感心し、時折「ほう」と感嘆した。祐介はそれが面白くなく、むすっとした表情で薫を睨みつける。
 店が閉店すると、成幸は満面の笑みで薫を褒めた。
 この調子で明日も頼むよ、と声を上げながら笑っている。
 薫も満更ではない様子で頬を掻く。打ち解けている二人が気に食わない祐介は二人の間に立った。

「思ったよりは動けるみたいだけど、まだ初日だからな」
「お前は何でそんなに偉そうなんだ? 薫くん、気にしないでくれ」
「か、薫くんだと?」

 今日一日、浮田くんと呼んでいたのがいつの間にか薫くん呼びに変わっている。
 どうやら成幸は薫を気に入ったらしい。
 気に入らない薫に鋭い視線を送ると、薫はびくりと反応した。機嫌を窺うような眼差しを向けられ、祐介の眉は吊り上がっていく。

「薫くん。ここ座って」

 成幸が薫に座るよう促す。
 薫は言われるがまま座ると、成幸は薫の髪を切るべく準備を進める。

「お、親父」

 まさか無料で髪を切ってやるのか。祐介は成幸を止めようとするが、成幸は無遠慮に薫の髪を触る。

「少しだけ短くして、梳こうか」
「え、あ、はい」

 薫は抵抗することなく、慌てながらも大人しくされるがままだ。

「親父、何してんだよ」
「薫くん、長い間美容室に行ってないだろ。この暑さだから、切った方がいいんじゃないかと思って」
「だからって」
「駄目だったかな、薫くん」

 祐介を無視し、成幸は鏡に映る薫を見つめてにこやかに笑う。
 薫は首を振り、「お願いします」と小さく呟いた。

「おいお前、図々しいだろ」

 祐介がそう言うと薫が焦ったように振り向き、成幸と目を合わせる。

「今日から働いてもらうんだからこれくらいさせてもらわないと。それに」

 成幸はちらっと薫の顔を見た後、にっこり笑いながら言った。

「さすがにこの頭で接客は駄目だったな、ここは美容室なんだから」

 薫の心にぐさっと棘が刺さった。

「一理あるな。その頭はダサすぎ。根暗を根暗にしてる原因の一つだ」

 祐介は同調するように頷く。
 薫は耳を真っ赤にし、視線が下がっていく。

「短髪にはしないから。そうだな、こんな感じ」

 成幸は雑誌を取り出し、薫に見せた。
 その長さならば許容範囲である。薫は三回頷いた。
 シャキシャキという音と共に薫の黒髪がはらはらと床に落ちる。
 鏡で進捗を確認するのは気恥ずかしく、終わってから鏡を見ようと、薫の視線は下がったままだった。
 三十分が経過すると、成幸が「できた」と楽しそうな声を上げてタオルとカットクロスを外す。
 祐介は鏡に映る薫を目にし、息をするのも忘れて魅入っていた。
 髪の毛量が多かったため、今まで顔の造形が分からなかった。顔よりも髪に目がいき、どんな顔をしているかなんて、気にも留めていなかった。

「わぁ、すっきりしました。ありがとうございます」

 薫は鏡で髪を確認すると、成幸に礼を言った。
 成幸は「薫くん、イケメンだったんだなー」と笑い、二人の間に和やかな空気が流れる。

「いやいやいや、おい!」

 祐介は薫の肩を掴み、顔を自分の方へ向けさせる。
 突然の出来事に薫は「ひゃっ」と声を上げた。

「これが俺!? みたいな反応しろよ! どう見たってイケメンに仕上がってんだろ!」
「えっ、あ、うん。綺麗な髪型にしてもらって……」
「じゃなくて、めっちゃ美形じゃん! イケメンじゃん! 髪型変えただけで顔まで変わるかよ、意味分かんね」

 薫の顔を穴が開く程見つめていると、薫は恥ずかしさのあまり手で顔を覆った。祐介はその両手を片手で容赦なく掴み、上にあげる。薫の綺麗な顔に顔を近づけ、じっくり眺める。

「ちょ、北橋くん」
「うっわ、肌真っ白じゃん。お前、モデルか何かやった方がいいぞ」

 薫への苛立ちはどこかへ飛んでいき、今、祐介の心を占めているのは薫の綺麗な顔だけである。
 睫毛は長く、瞳の色素が薄い。髭は綺麗に剃っているのか、元々生えにくいのか、毛穴すら見当たらない。鼻筋はすっと通っていて、顔の造形、パーツ、すべてが整っている。
 こんな美人を見たのは初めてだ。
 思い返せば、毛量が多かった時も、鼻や顎の形は綺麗だった。

「お、親父。眉毛も整えてやれよ」
「そうだな」

 薫は大人しく二人に従い、成幸に眉毛を任せた。
 視界の端にいる祐介をちらっと盗み見る。
 薫から目を離さない。薫だけを見ている。
 祐介から向けられる視線を意識すると、顔に熱が集まった。

 成幸に眉毛を整えてもらったが、薫にはその良さがいまいち分からなかった。
 最初よりは綺麗な眉毛になっているが、毛が短くなったくらいである。よく見ると、形も先程よりは整っているような気もするが、どうなのだろう。

「眉毛の形を綺麗にするなら、サロンの方がいいかもね」
「さろん、ですか?」

 成幸から発せられた聞きなれない言葉に薫が訊き返すと、祐介は「そんなことも知らないのか」と失笑した。
 成幸は「こら」と軽く叱り、薫に笑みを向ける。

「うちはカット程度しかできないから、しっかり整えたいならサロンで施術してもらうのがいいよ。人の顔っていうのは、眉毛で印象が変わるからね」
「へぇ、そうなんですね」

 薫が感心していると祐介が「ふん」と口角を上げて近寄る。

「サロンだと料金がうちの倍以上になるからな。あと、ハズれのサロンに行くと変な眉毛になって無駄金になるから覚えとけよ。最近多いんだよな、そういうところ」

 自分の知識をひけらかすように言うが、薫はまったく気にせず「そうなんだ、教えてくれてありがとう」と真面目な表情で礼を言った。
 その反応が面白くなく、祐介は舌打ちをする。
 こいつ、嫌味とか通じない奴だな。祐介はそう確信した。
 祐介は薫との会話が終わった後も、無意識に薫をじっと見つめていた。
 正面からも横からも、どこから見ても綺麗としか言いようのない容姿であるため、視線を逸らすことができなかった。
 薫はそんな祐介からの視線に耐え切れず、立ち上がる。

「きょ、今日はありがとうございました。か、帰ります」

 いそいそと帰る支度を始める。成幸が「気を付けて帰れよ」と声をかけると、薫は深く一礼をして逃げるように店を出た。

「なんだあいつ、感じ悪いな」

 薫がいなくなると、祐介はそうこぼした。
 顔を顰めている祐介に、成幸はにやにやしながら声をかけた。

「薫くんの顔が気に入ったのか? 薫くんが可哀想になるくらい、見つめてたもんな」
「は、はぁ?」
「分かるぞ。ものすごい綺麗な顔だからな」
「そんなんじゃねーし!」

 祐介は怒りや羞恥で顔を赤く染め、二階へ上がった。
 どすどすと足音で感情を表す祐介に、成幸は小さく微笑んでいた。
 翌日、祐介は店の隅で不貞腐れていた。
 昨日も思ったが、薫はてきぱきと動く。薫のことを地味で根暗だと思っていたのに、よく働くし、外見は根暗とは無縁になっている。
 祐介は教室で騒がしい男子の部類に入っていて、女子とよく話す方だった。クラスの中心的存在と言っても過言ではない。それは自覚しているし、女子から言い寄られることも少なくない。
 一言で表すと、人気者である。
 一方、薫は根暗で祐介とは対照的な立ち位置にいた。誰とも話すことなく一日を終える。クラスに友達はいない。誰かと一緒にいるところを、見たことがない。
 そんな薫が、実はとてつもなく美形で、てきぱきと動くような人間であることを知り、陽介の心境は複雑だった。
 容姿はケチのつけようがないため認める。昨日、成幸に言われたように、薫のことをじっと眺めている自分がいるのだ。それくらい、薫の容姿は祐介の心を掴んでいた。
 しかし、夏休み前までは自分と対極地にいた男が、今では自分と並んでいるかのように思え、つい眉間にしわが寄る。
 気にも留めていなかった人間が、自分とは無縁であったタイプの人間が、急に変貌したのだ。気に入らないやら驚きやら、様々な感情が渦を巻き、祐介の心を複雑にしている。

「薫くん、カラーチャート持ってきて」
「これ洗ってくれる?」
「業者さんからシャンプー受け取っておいて」

 成幸は薫に何度も雑用を頼み、その度に薫は「はい」としっかり返事をする。
 指示がない時は掃除をしたり、予約を確認したり、何かしら動いている。時には客と成幸と三人で雑談をし、接客のため笑顔を浮かべる。笑った顔がまた美しく、客の女性は何度も恰好いいと褒めるのだった。

「お前、女から告白されたことあるのか?」
「えっ、あ、ある、けど」
「何回?」
「わ、分からない」
「分からないくらい告白されたのか?」
「で、でも、多分罰ゲームとかそういうのだと思う」

 その告白した女たちを憐れんでしまう。
 勇気を出して告白したにもかかわらず、想いが伝わっていないどころか、嘘の告白だと思われている始末だ。この調子だと、彼女すらできたことはないだろう。そう思うと、祐介の中にあった薫への苛立ちが半減した。
 祐介には交際経験がある。いくら薫が美形といえども、女性と交際経験がないのであれば、男として格上なのは祐介である。

「北橋くんは、二組の大島さんと付き合ってたんだよね?」

 薫に言われ、祐介は驚いた。

「北橋くんは目立つから、皆知ってるよ」
「そりゃそうだな」

 二人の間に沈黙が走った。
 祐介は注目を浴びやすく、前の恋人である大島沙穂との関係が広まっていても不思議ではない。ただそれを、薫が指摘したことに驚いたのだ。
 ざわり、と胸のあたりが動いた。自分でも分からない感情が一瞬顔を出したが、すぐに消えた。

「北橋くんは将来、美容師になるの?」
「は?」
「ほ、ほら、お父さんが美容師だから」
「美容師に興味はない」
「そ、そっか」
「お前はなんでうちに応募したんだよ」

 自分の髪にすら興味がなかったくせに、他人の髪なんてもっとどうでもいいだろうに。
 それに、アルバイト募集の張り紙は店の扉にしかしていない。つまり、店の前を通らなければバイトの応募なんてできないのだ。
 薫の家がどこにあるのか知らないが、祐介は今まで帰り道に薫を見かけたことはない。
 最低賃金で、交通費は支給されない。条件がいいとは思えないアルバイトに、何故応募したのか。
 大して意味もなく質問したが、考えれば考える程、応募理由が気になった。
 薫は視線を泳がせ、言いにくそうに口をもごもごと動かす。
 頭の中で話す内容がまとまったのか、きゅっと結んでいた口が開かれた。

「正直、特に理由があったわけじゃないんだ。ただ、その、なんとなく」
「俺の家だと思わなかったのかよ」

 祐介の家が美容室であることはクラスで知られていることである。
 隠す理由もなく、きっかけは「祐介は何のバイトしてるんだ?」という会話からだった気がする。
 洒落た美容室ではなく、小さなところで完全予約制だと伝え、友達には客として来ないように念押しした。
 友達が客としてやって来たら、気まずい。

「それよりもバイトの方が気になったというか」
「あっそ」

 祐介と目を合わせないようにしているのか、終始目がきょろきょろと動いている。
 見た目が変わっても、中身は変わらないもんな。
 祐介は相変わらず根暗な挙動をする薫を軽く嗤った。

「北橋くんの腕は、いつ治るの?」
「んあ? これか? 三か月」
「じゃあ、張り紙にあった三か月間っていうのは、北橋くんの腕が治るまでってことなんだ」
「見りゃ分かるだろ。そういうこった」
「だ、だよね」

 薫は苦笑すると、言いにくそうに祐介を見上げる。
 それは覚えがある光景だった。
 女子が好意を持たれようと見上げる仕草。祐介は自分の外見を、人並みよりは優れている方だと思っている。まったくモテないわけではないが、モテ男と評されるほどではない。だが、クラスでモテる男ランキングがあるのなら、自分は上から五番目以内には入っている自信がある。祐介は鈍感ではない。女子から好意を抱かれ、アプローチをかけられることもり、その際は「あ、俺のこと好きなのかな」と自覚する。その一つとして、首を少し傾けながら見上げる、という動作がある。薫のその仕草は女子のそれによく似ていた。

「その、三か月経ってもアルバイトを続けることって、できるのかな?」

 しかし薫のそれは、女子のものとは異なる。
 女子にされたときは「あ、俺のこと好きなのかな。まぁ、この子となら付き合ってもいいかな」という思考になり、特別好きというわけではないが、悪くないから付き合ってみようと思うことばかりだった。
 そこにときめきはなく、「悪くないし、まあ、いいか」という妥協がある。
 女子の仕草でさえそう思うのだから、男子に同じ仕草をされたなら、笑いながら気持ち悪いと切り捨てるはずだ。そうするべきだ。それなのに、祐介の胸が、一瞬でもときめいたのだ。
 どき。
 そう高鳴った瞬間、「は?」と自分の胸に手を当てた。
 数秒そうしていると、先ほどの高鳴りは嘘であったかのように静かになった。
 気のせいだろうか。いや、気のせいだ。
 男相手にときめくなんて、どうかしている。これはきっと、綺麗な顔で見つめられたからに違いない。
 薫が女性のようにも見えて、思わず反応してしまっただけだ。
 それか、急に上目遣いをされて驚いてしまっただけだ。そうだ、きっとそうだ。
 納得のいく理由を探し、落とし込んだ。

「北橋くん? 大丈夫?」

 心配そうに見上げる薫から視線を逸らし、「あぁ」と短く返した。

「三か月後のことなんて知るかよ」
「そ、そうだよね」
「お前は俺の代わりなんだから、俺の腕が完治したらいらなくね?」

 薫から返答がない。気になった祐介は隣を確認する。肩を落として落ち込んでいる薫に、祐介は罪悪感を抱く。
 クソ、なんで俺が悪いみたいになってんだ。
 祐介は内心そう愚痴る。

「まだ二日しかやってないだろ、そんなにここで働きたいのかよ」
「うん!」

 途端に瞳を輝かせ、祐介の方へずいっと身を寄せる。

「ばっ、近ぇ!」
「ごめん」

 薫は祐介から距離をとり、頬を赤く染める。まるで好きな男に触ってしまった女子のようだ。
 本当はこいつ、女じゃないのか。
 祐介は薫の性別を疑う。顔は中性的で整っており、祐介よりも小さな体格、そして薫という名前。むしろ男である要素の方が少ないのではないか。

「そ、そんなに見ないで」

 まじまじと薫を見つめていると、薫は恥じらいながらそんなことを言った。
 まるで恋する乙女のような反応に、祐介はカッと首から上が赤くなる。

「お、お前、気持ち悪いんだよ!」

 薫の隣から飛び退き、大声で叫ぶ。
 すると、薫はとても傷ついたように眉を下げ、唇を噛んだ。
 あ、言いすぎたかも。
 少し後悔してしまうほどで、祐介は謝ろうかどうしようかと悩んでいると、頭に衝撃があった。

「お前は何を言ってるんだ」

 ため息を吐きながら、成幸が祐介の後ろに立っていた。
 頭への衝撃は、成幸が持っていた箒だった。

「いってぇ」
「あ、いらっしゃいませー。ったく、ちゃんと謝れよ」

 来店した客の対応をする成幸を睨みつけ、祐介は「ふん」と鼻から息を出した。
 祐介と薫は互いに気まずくなり、先に逃げ出したのは祐介だった。

「買い出し行ってくる」

 買うものは何もないが、薫と一緒にいたくなかった。
 薫は何も言わず、成幸の手伝いをしようと背後に控えた。
 祐介は薫に謝ることなく横を通り過ぎ、美容室を出た。


 近所のスーパーまで徒歩五分である。
 何かを買ったとしても十五分程度で美容室に戻ってしまう。もっと長い時間、外に出ていたかったため、少し遠いスーパーへ向かった。
 夏の日差しが強く、帽子を被ってこなかったことを悔やむ。
 最近舗装作業が終わったばかりの道路は、太陽の照り返しが激しい。
 歩きやすくなったアスファルトをスニーカーで踏み、なるべく顔に直射日光が当たらないよう、俯く。

 先程、薫に気持ち悪い、と言ってしまったが、そんな言葉よく使うだろう。
 それを何故あんなに傷ついたような表情をしていたのか、祐介には理解できない。
 あれが友達であったなら「うぜー」「うわ、傷ついた」「お前こそキモいし」と返すことだろう。本気で受け止め、傷つく奴はいない。
 薫は友達がいないから、そういうノリが分からないのだ。
 そう結論を出すと、すっきりした。

「男のくせに女みたいなこと言いやがって」

 はは、と笑ってみるが、すぐに表情は戻る。
 女みたいだから、という理由だけであんなに大声で叫ばない。
 祐介は胸の辺りを掴む。どき。と、動いたのだ。この心臓が。
 恥じらう女子のような仕草が心の底から気持ち悪かったのではなく、それによって動いた自分の心臓を誤魔化したくて、声を上げた。
 あの顔だ。あの顔がいけないのだ。
 まるでAIが作成した人間の絵のような、同じ人間とは思えないような綺麗さに、心が動いただけなのだ。

「あー、もう!」

 髪を切る前までは根暗の地味浮田だと思っていたのに、成幸の手によって髪型が変わった途端、手のひら返しをするかの如く心臓が動くのだ。
 いつだったか、友達に言われたことがある。
 「お前って顔がいい女としか付き合わないよな」と。
 その時は何と返したか。恐らく「顔がいい女しか寄ってこないんだよ」というようなことを得意げに答えたと思う。
 特に自覚していなかったが、薫のことでやっと気づいた。
 男女問わず、顔が整っている人間を意識してしまうのだ。
 そして薫は、祐介が出会った中で群を抜いて美しい。
 だからきっと、薫を上回る美女が現れたなら、祐介はその美女に関心を寄せるだろう。
 記録を塗り替えればいいのだ。しかし。

「そんな女、いるのかよ」

 いない気がする。絶望的だ。
 三か月は、薫が傍にいる。
 二日目でこんな状況なのだ。三か月も一緒にいたら、間違って恋愛感情を抱いたりしないだろうか。
 さすがにそんなことはないだろう。ないだろうが、言い切れるだろうか。
 薫を根暗だと決めつけていたけれど、実はとてつもなく綺麗な顔であったと知ったばかりだ。祐介は顔が青くなる。
 このままではいけない。
 祐介はこれからのことを考えながら、歩を進めた。
「おい、ここ埃があるだろ」
「馬鹿野郎、雑誌はちゃんと揃えろ」
「これもっと綺麗に洗えよ」

 翌日から、まるで小姑のように、重箱の隅をつつくように、薫に駄目出しをする。
 薫は祐介の指摘を真面目に受け取り、言われるがまま素直に行動する。
 目に余る祐介の態度に、成幸は接客中にもかかわらず「おい祐介」と小言を言うが、薫はまったく気にせず、むしろ嬉しそうに動いている。
 そんな薫の様子を見ていた成幸は「友情の形は様々だよな」と思い直し、薫が気にしていないのならいいだろう、と放っておくことにした。

「あら、あの子イケメンじゃない?」

 薫が働いていると、常連客の女性が成幸に言った。その会話は祐介にも聞こえ、思わず耳を澄ます。

「最近雇ったバイトなんですよ」
「モデルさんか何か?」
「いえ、息子の同級生でして」
「私がもっと若ければねぇ」

 若ければなんだ。若ければ付き合ったのに、だろうか。
 祐介は五十代前半の常連客の、言葉の続きを想像して鼻で笑う。
 若かったとしても、薫の隣には立てまい。
 祐介は、薫の顔に関心があると気づいてから、自分の感情を理解できるようになった。
 今、常連客に抱いている感情は「浮田と釣り合わない」である。「俺が認めたイケメンを安く見積もるな」という感情もある。

「北橋くん、ここの掃除はこれでいいかな?」
「はぁ? もっとしっかりやれ」
「分かった」

 こうしていちゃもんをつけるのは、「浮田の顔を気に入っていると、気づかれたくない」からである。
 ついこの前まで教室の隅でぽつんと座っていたのだ。もさもさでぼさぼさの髪を持ち、誰とも話すことなく学校生活を過ごす薫。
 それに対して祐介やクラスメイトは良い評価をしなかった。
 祐介のプライドが邪魔をし、今更仲良くなることはできない。
 目は口程に物を言う。
 否定なことばかり言いながらも、視線はずっと薫を追いかける。
正面もいいけれど、横から見ても綺麗だ。
 監視という名目で、一日中薫を眺めていた。
 観察しているとたくさんのことに気づく。
 例えば、薫の指は細くて長い。男性のように関節がごつごつしているのではなく、太くもない。爪は卵型で、祐介のような団子の形をした爪ではない。
 髪のケアはしているようで、以前のように傷んでおらず、窓から差し込む光で天使の輪ができている。
 働いているときはてきぱきとした言動であるが、祐介と話すときは、よくどもる。
 元々、薫のことをよく知っていたわけではない。関りがなかったので、教室にいるときの薫しか知らない。
 祐介は無意識のうちに薫ことを知ろうと、前のめりになって観察した結果、二人で買い出しへ行くこととなった。
 二人並んで歩道を歩く。
 食い入るように薫を観察していた祐介を気遣い、成幸が二人に買い出しを頼んだのだ。
 昨日の「気持ち悪い」発言の件で、謝罪する機会を窺っているのだろう。そう解釈した成幸の配慮だった。
 特に話すことがなく、薫は自分よりも高い位置にある祐介の顔をちらちらと窺う。
 視界の端でそんな動きをされ、祐介は苛立ったように「なんだよ」と睨みつける。

「あ、ご、ごめん。その」
「は?」
「いや、なんでもない」
「なんなんだよ。言いたいことあるなら言え」

 本当にこいつ、反応が女みたいだな。
 祐介はそんなことを思っていると、薫は爆弾を落とした。

「な、なんか、デー……ト、みたいだなって」

 思わず足が止まり、固まってしまう。
 薫は小さく震え、そっぽを向いている。
 またしても「気持ち悪い!」と言いたいが、薫を見るとそんな言葉も出てこない。
 その表情があまりにも人間離れしている。
 神やら女神やら、そういった神々しい類のものを連想させる。
 恋する乙女だなんて、そんな陳腐なものではない。
 祐介は、何か言おうと口を開くが言うべき言葉が見当たらず、そのまま閉じた。
 二人は何事もなかったかのようにまた足を動かす。
 祐介は訳が分からなかった。
 何だ、この空気は。
 先程、薫は何と言っただろう。デートと言わなかっただろうか。
 男二人が歩いていて、どうしてデートという単語が出てくるのだ。
 もしかして、薫なりの冗談だろうか。
 「何言ってんだ」と笑うべき場面だっただろうか。
 薫の渾身の冗談を無視した形になっているのだろうか。分かりにくい冗談である。
 今更その冗談を掬い上げるのは如何なものかと思い、祐介はスーパーへたどり着くまで何も言わなかった。
 薫も同様に、言葉を発することはなかった。


 美容室へ戻ると、薫は持っていたビニール袋を客から見えない場所で開き、購入した物を袋から出した。

「悪いね、暑かっただろう」

 成幸が薫を気遣い、雄介ははっとした。
 現在、外の気温は三十二度。祐介と薫は帽子を被らずに外へ出た。
 祐介は昨日、外へ出た際に「帽子を被ってくればよかった」と後悔したばかりである。
 この気温の中、いくら目的地が近いといえども、薫の顔を守るためにも帽子を持って行くべきであった。考えが至らなかった自分に苛立つ。
 成幸は若い女性客と楽しそうに話す。
 この客はカットとカラーの予定であるはずだ。それならば、今の内に昼食を済ませた方がいい。
 祐介は薫を呼び、部屋の隅で昼食をとることにした。

「お前、そんなんで足りるのかよ」

 祐介は薫が選んだものを見て眉を寄せる。
 おにぎり一つと、小さなサラダが一つ。
 丁寧におにぎりを守っているプラスチックを外す薫。やはり女子のようだと思う。
 昼食のチョイスもそうだが、海苔がぱらぱらとこぼれないように、テーブルの上にハンカチを敷いているのも女子のようだ。
 こいつ、この顔じゃなかったら結構やばい奴だな。
 そんな失礼なことを考えた後、唐揚げ弁当の蓋に唐揚げを一つ置き、薫に差し出す。

「やる」
「え、いいよ」
「食え」
「あ、ありがとう」

 そんなに細いと、変質者から身を守れないだろうに。
 そんなひ弱な体で、何かあったときに対応できるのか。
 口を動かしながら薫の横顔を眺める。おにぎりを食べるその一口が小さく、やはり性別を間違えて生まれてきたのではないかと思ってしまう。
 これをクラスメイトに知られたら、きっと陰口を叩かれ、嗤われ、いじめられるのではないか。しかしそれは、薫の顔が守るだろう。イケメンだから、という理由で許されるはずだ。
 男子からのウケは悪そうだが、女子からは人気が出ることだろう。
 そこまで考え、はっとした。
 そうだ、学校。
 夏休みが明けたら、当然学校へ行かなければならない。三日前と今では、薫の見た目は大きく違う。クラスメイトが知っている浮田薫はもういないのだ。きっと手の平を返すだろう。今の祐介のように。
 自分のことを棚に上げ、嫌だと思った。
 夏休み明けの教室は薫の話題でいっぱいだろう。
クラスの人気者になる。
 その想像をしてみるが、人と上手に会話をしている場面が想像できない。
 接客は上手くやれているようだが、あれは仕事モードだからだ。現に、祐介に対してはどもっている。
 人気者になったところでクラスメイトと上手くコミュニケーションをとり、人間関係を築くことができるわけではない。
 薫の顔目当てで女子が殺到する。不覚にも、「俺が守るべきだろうか」などと考えてしまった。
 そんな義理はないのに。
 しかし、薫の容貌に惚れて集まる女子を想像すると、その間に割って入る自分も一緒に想像してしまう。
 綺麗なものを独り占めしたい。そんな感覚に似ている。

「二人とも、次は十六時からだから、それまで休憩ね」

接客が終わった成幸はそう言って二階へ上がっていった。
 食べたものを片付けると、暇になった。
 太陽の光が窓から入り、鏡に反射して目が痛い。
 祐介はブラインドをおろして太陽の光を遮断した。
 することがないので椅子で寝ようと、楽な体勢を探す。
 アラームをセットしようとスマホを操作するが、突き刺さる視線が鬱陶しく、薫の方を向いた。

「なんなんだよ」

 面倒くさそうに顔を上げる。
 薫は目を泳がせながら、口を動かす。

「腕、どうしたの?」
「はぁ?」
「どうして怪我したのかなって」
「今更かよ」

 その質問をずっとしたかったかのように、祐介の返答を待っている。
 色素の薄い瞳に見つめられ、祐介はぱっと視線を外した。

「別に、言うほどのことじゃないし」
「そ、そうだよね」

 しょんぼりと肩を落とすので、祐介は頭をくしゃくしゃと掻き、溜息を吐いた。

「夏休みになる前の日、人助けしたんだよ」
「人助け?」

 話の続きが聞きたい、と薫の瞳が訴えている。
 骨折した原因を話すのは躊躇ってしまう。全治三か月なんてダサいことになった話をしたくはない。
 聞きたい、知りたい。そんな眼差しを向けられて、祐介は再度溜息を吐いた。

「ナンパされてた知り合いを助けたら、こうなったんだよ」

 これ以上は言いたくない。
 本当は、コンビニに入ろうとしたところ、元カノが男三人と言い合っているところに遭遇した。男三人に言い寄られていたというよりは、その内の一人に執着されていたようで、助けに入ったのだ。突然現れた祐介に敵対心を抱いた男は、祐介に突っかかり、取っ組み合いの喧嘩になった。そして、骨折というダサい結果に終わったのだ。
 元カノからは感謝されたが、腕が痛いなどとは口が裂けても言えず、家に帰ってすぐ病院へ行った。
 ダサさ満載の話を薫にできるはずもなく、ただ一言で済ませた。
 すると、薫は何かにピンときた様子で、「もしかして」と低い声色を出す。

「その知り合いって、元カノだったりして」

 付き合ったことないくせに、勘がいいな。そう茶化そうとしたが、薫の表情を見て息を呑む。
 造り物のような顔に、何の表情もない。
 一切の表情を捨て去り、置物のようである。
 ウィッグという、成幸がカットの練習でたまに使っている、首から上のマネキンに似ている。

「ま、まあな」

 肯定すると、薫の瞳はすっと細められた。
 何故、責められている気分になるのか。
 悪いことをしたわけではない。むしろ、人助けをしたので善行である。
 褒められるべきであり、責められる筋合いはない。

「な、なんだよ。悪いかよ」
「北橋くんは、元カノが五人いるんだよね」
「なんで知ってんだよ」
「目立つから、僕の耳にもすぐ入ってくるんだよ」

 未だに薫の瞳は、祐介を責めている。
 交際経験が五人。これは少なくない方だと、指摘されたことがある。
 普通に生きていれば告白はされるものであり、悪くなければ付き合うものだ。可愛い子に告白されて、断る理由なんてない。そんな調子で五人と付き合っただけだ。

「北橋くんは恰好いいから、当然か」

 静かな空間での薫の呟きは、祐介にも届いた。
 恰好いいから。
 顔立ちが素晴らしく整っている薫にそう言われ、悪い気はしない。けれど、それと同時に「馬鹿にしてるのか」という感情も沸く。
 薫を相手にすると、祐介の心は複雑になる。
 薫が背を向けて離れて行くと、祐介は胸の辺りをくしゃっと掴んだ。
 本当に、一体なんなのだ。
 初日からてきぱきと動いていた薫であったが、何日もアルバイトをしていると成幸が求めていることも理解できるようになり、雑用係であったはずが助手のような存在になっていた。
 カットが終わりそうになるとカラーのための道具を用意したり、言わずとも動く薫を成幸は大層気に入っていた。
 そんなある日、成幸は二人におつかいを頼んだ。

「これ」

 成幸は二人に鋏を一本差し出す。
 成幸が普段仕事で使っているような、美容師が持つ鋏だ。

「駅前の美容室があるだろう、ヘアーソラってところが」

 HairSola。
 祐介は駅前にある、キタハシ美容室の倍以上の規模の美容室を思い出した。
 美容室、というよりはサロンと呼ぶべき外観と内装。
 洒落た店内は若者に人気があり、美容師も若者ばかり。テレビでも紹介されるような、人気の美容室だ。

「そこの店長とこの間会った時、これを忘れて行ってな。今から渡しに行ってくれ」
「えー」
「鋏は美容師の命なんだぞ」
「その命を忘れていく美容師がいるのか」
「とにかく頼んだからな」

 祐介は文句を垂れながら、薫と二人で外に出た。
 今回は忘れずに帽子を被り、駅までの道のりを重い足取りで歩く。
 隣を歩く祐介は乗り気ではない。
 そう気づいた薫は、その理由を訊ねた。

「俺、あの美容室好きじゃないんだよ」

 その言葉は薫にとって意外なものだった。
 目を見開いたまま、無意識に「意外だ……」と本音がぽろりとこぼれた。
 慌てて口元を押さえるが、祐介はその本音を不快に思うことなく続ける。

「無駄に豪華で目が痛い。落ち着かない」
「ぼ、僕も、流行りの美容室は好きじゃなくて。洒落た店ってガラス張りになっているところが多いから人に見られるし、僕とは正反対の性格をした美容師さんが話しかけてくるし、耐えられないんだ」
「だから美容室行かずにあんな髪だったのか?」
「う、うん」

 キタハシ美容室はそういう客にも需要がある。
 規模や外観から高齢女性の客が多いと思われがちだが、意外と年齢層は幅広い。十代、二十代、三十代の男女も来店する。
 理由は薫同様、洒落た美容室に行くのが嫌だから、である。
 キタハシ美容室はガラス張りではないため、外を歩く人々に見られることはない。店主一人とその息子のみが働いていて、客は一人。その空間が落ち着くのだと、若い客と成幸が話しているのを何度か耳にした。

「でも、なんだか嬉しいな」
「は?」
「き、北橋くんも僕と同じ、そういう美容院に行くのが苦手だなんて」

 ぽっ、と照れる薫を目にし、祐介は勢いよく薫とは反対側に首を動かす。
 目を大きく開き、歯を食いしばる。
 突如高鳴り始めた胸を押さえ、薫に悟られないよう必死に深呼吸をする。

「ど、どうしたの? 熱中症?」

 薫は心配そうに祐介の顔を覗き込もうとするが、顔を背けるばかりである。
 無視をされた気分になり、薫の表情は曇っていく。
 祐介は「あー、クソ」と小さく呟き、意を決して話す。

「お前、自分のその顔面のこと分かってんのか?」
「顔?」
「めちゃめちゃ綺麗な顔なんだから、それくらい理解しとけよ」
「……えっ」

 思わぬ発言に、薫はぼぼっとトマトのように顔を赤くする。

「そ、それだよ、それ」
「ど、どれ?」
「お前が照れると、ちょ、調子が狂うだろうが」
「......えっ」

 二人の顔に熱が集中し、無言になる。
 ガードレールの外側で走る車の音がうるさく耳を突く。

 クソ、なんだよこの空気。これじゃまるで。
 その先は想像もしたくない。
 祐介は頭を振るが、何も消えやしない。
 この空気が、無言が、二人の熱を上げている。祐介はそれを破るように口を開く。

「暑いな」
「な、夏だからね」

 薫の言葉を肯定するように、蝉が一斉に鳴き始めた。


 鋏を届けに行った日から、何かとHairSolaへ行く機会が多くなった。
 貸してもらったあれを返しに行ってほしい、と成幸に頼まれたり、シャンプーのサンプルがあるなら欲しい、とHairSola側から頼まれたり。その度に行き来するのは祐介と薫である。二人で行く必要なんてないだろ、と祐介は眉を寄せていたのだが、HairSola側が薫に会いたいのだと察してからは、自ら「俺も行く」と薫について行くことにした。

「あ、二人とも来た来た」

 HairSolaの扉を開けて中に入ると、スタッフの猪原がにっこり笑いながら近寄ってきた。
 「二人とも」と言いながら猪原の視線は薫のみに注がれており、下心が丸見えである。
 猪原は若く、女性らしい笑顔で薫に話しかける。

「毎回ごめんね、これを北橋さんに渡してほしくて」

 そう言って薫に差し出したのは、有名な百貨店の名前が載っている紙袋だった。

「店長から、皆で食べてって」
「あ、ありがとうございます。あの、これ」
「ありがとう! 店長に渡しておくね」

 薫が渡した書類を大事そうに抱える姿に、祐介は小さく鼻を鳴らした。
 書類が一枚入っているだけのファイルである。それをあざとく抱えずともいいだろうに。
 もやもやと猪原に対して、負の感情が芽生える。
 隣に祐介がいるというのに、見向きもしない。
 猪原は「店長から」と言って紙袋を薫に渡したが、それはHairSolaの店長からキタハシ美容室の店長への贈り物だろう。ならば息子である自分に手渡すのが普通ではないだろうか。祐介はちくちくと猪原に棘を刺す言葉を言いそうになる。

「本当に恰好いいね、薫くんは彼女いるの?」
「え、い、いません」
「そっかぁ、じゃあ私が立候補しよっかな。なんちゃって」
「え? あ、ハハ......?」

 どういう返しをすればいいか分からない薫はとりあえず笑ってみる。
 口元を引き攣らせる薫を見て、祐介は満足げに笑う。
 こんな薫を見るのは初めてだ。きっと迷惑しているのだ。
 嫌だ、と薫の横顔からでさえ伝わってくる。正面にいる猪原からも見えているはずだが、気づいていないのか。
 祐介は「あー」と何かを思い出したように声を上げた。

「もうこんな時間か。じゃ、それ店長に渡しておいてください」

 祐介は猪原にそう言うと、さっさと店を出た。薫も急いで後を追い、来た道を戻る。

「お前なぁ、嫌なら断れよ」

 祐介は呆れたように、けれどどこか嬉しそうに、薫へ伝えた。
 薫は大きく息を吐いた。

「ありがとう、助かったよ。僕、苦手なんだ」
「だから断れって」
「そ、そうだよね」
「いくら断るのが苦手だからってな、このままだといつか事件に巻き込まれるぞ」
「あ、そうじゃなくて」
「なんだよ」

 頭上から降り注がれる熱は、帽子を被っていても容赦がない。
 近くのコンビニでアイスでも買って帰るか。
 そんな小さな計画を立ていると、薫から「女性が」という小さな声が聞こえた。

「は?」
「女性が、苦手なんだ」
「は、はー、そう」

 女性が苦手。
 だから猪原に対して引き気味だったのか。それならば、彼女ができる日は遠いだろうな。
 と、考えて気づいた。
 彼女とは、女性である。女性が苦手というならば、女性と恋愛ができない。ということはつまり、男性が恋愛対象ということだろうか。
 祐介は目を瞬かせる。
 さすがに「お前って男が好きなの?」という無神経なことは聞けない。もし肯定されたとして、何と返せばいいのかも分からない。言いふらす趣味はないが、重大な秘密を打ち明けさせた罪悪感が芽生えそうだ。
 いつか薫に「気持ち悪い」と言ったことがある。
 しかし、男性が好きなのかもしれないと思った今、気持ち悪いとは思わなかった。
 薫は人間として綺麗だ。男性とも女性とも言い難い美しさがあり、性別を感じさせない。そんな薫の恋愛対象が男性であっても不思議ではない。

「ぼ、僕、本当は、女の人じゃなくて」

 何か重大な事実を打ち明けるような、真剣な表情で言葉を紡ぐので、祐介は慌てて「待て待て待て」と遮った。

「お前、やめとけ」
「……どうして? 僕が何を言うか、分かるの?」

 この流れだと、何を言おうとしているか分かってしまう。
 言いたいことはきっと、祐介が考えていたことと同じだろう。

「俺が言いふらしたら、どうすんだよ」

 眉間にしわを寄せる祐介に、薫は驚いたがすぐに笑みを浮かべた。

「な、なんだよ。そういうのは大事なことなんだろ? アウティング、だっけか? 俺がそんなことしたら、どうすんだよ」

 アウティング。
 性的趣向などを本人の同意なく暴露する行為のことだ。
 近年、性的趣向や性自認に関するニュースがあちこちで聞こえてくる。
 祐介は興味すらなかったが、「知人の〇〇は同性愛者で、△△のことが好きらしい」と暴露した人間が法で裁かれたとテレビで知り、そこでアウティングについて議論されていたのだ。
 秘密を暴露すると、罪になる。
 同性愛に微塵も興味はなかったが、秘密は守るべきなのだと再認識した瞬間だった。

「そっか、じゃあ、言わない」
「おう、そうしろ」

 言ったも同然であるが、薫の口から直接聞いたのではない。すべては祐介の想像なのだ。
 祐介は薫のことを「男が好きなのかもしれない」と勝手に思っているだけで、本当のことは知らない。
 祐介はそれを、態度で示した。
 薫はおかしそうに、くすくす笑った。
 炎天下の中、二人は並んで歩く。
 歩道が狭く、並んで歩くと互いの手が触れ合ってしまう。
 それでも二人は並んで歩いた。

「好きだな」

 薫のその小さな一言は、車が走る音にかき消され、祐介には届かなかった。
 夏休みが終わる。
 祐介は項垂れて天井を見上げた。

「北橋くん、どうかした?」
「もう夏休みが終わるなと思って」

 夏休み前と今では、薫の外見が大きく変わった。
 夏休み明けに学校へ行くと、薫は恐らく色んな人間に囲まれるだろう。

「そういえば、お前、女が苦手な割にはちゃんと接客できるんだな」

 女性客は当然やってくる。その客に対し、薫は口元を引き攣らせることなく接客している。

「ここでしか会わないし、それに、飲食店と違って美容院は毎日来るようなところじゃないから」
「あー、なるほど」

 完全予約制というのもいいのかもしれない。
 飛び入りで変な客が来ることはないし、神々しい顔を持つ薫はここで働くのが一番楽だろう。
 最近、熱心にカラーチャートを眺めたり、成幸の仕事ぶりを観察したり、美容師に興味があるような行動をしている。
 もし美容師になりたいのなら、いつかこの店を継げばいいのではないだろうか。
 祐介は美容師になる気はないし、成幸に従業員を増やす気はない。店を継ぐとすれば、どこの馬の骨とも分からない美容師だろう。店を辞めたい成幸と、開業したい馬の骨。互いの利が一致したとき、店は明け渡されるだろう。
 それよりは、薫に継いでもらった方がいい。
 楽観的に考えたが、割といい提案なのではないか。

「お前、美容師になりたいのか?」

 立ちながらカラーチャートを眺めている薫に向けて、祐介は訊ねた。
 薫は目をぱちぱちと動かし、難しい表情をした。

「うーん、よく分からない」
「まあ、そうだよな」
「でも、美容師になるなら専門学校へ行くんだよね。今年中には決めないと、受験のこともあるし」

 真剣な表情で先のことを考えこむ薫。
 どうやら選択肢の一つとして、美容師があるようだ。

「北橋くんはどうするの?」
「俺は別に、どっかテキトーな大学に行くかな」
「そっか、じゃあ卒業したらあまり会えなくなるね」

 悲しそうにする薫だが、祐介は意味が分からずきょとんとする。

「は? お前、ここでバイトするんだろ?」

 何言ってんだ、と鼻で笑う。
 思いもよらない返答に、薫は面食らい、ぎゅっと唇を噛んだ。

「う、うん!」

 花が咲いたように笑うので、祐介の心臓は大きく動いた。
 薫がころころと表情を変える度、祐介の心も同じようにころころ変わる。
 薫が肩を落としているとずきっと心が痛み、笑っているとどきっと高鳴る。
 「僕、本当は」と打ち明けようとする薫が脳裏を過る。
 もしかして、自分も。
 いや、違う。薫の顔が綺麗なせいだ。
 綺麗なものを見ると、心が動かされる。そういう現象が起きているだけだ。

「僕はここでバイトさせてもらうから、高校を卒業しても一緒にいられるね」

 風がふわっと、祐介の心の中に吹いた気がした。
 認めてしまいそうになるのをぐっと堪え、知らない振りをする。

「それより、登校日気をつけろよ」

 心の内を悟られないように、ふいっと薫から顔を隠す。

「お前、綺麗なんだから、色んな人間が群がってくるぞ」
「大袈裟だなぁ」
「はぁ、美醜の分からん奴だな」

 祐介に綺麗だと言われると、薫は頬を赤くする。
 言われ慣れていない故だろうが、これからは毎日、数多の人間から言われることになるであろう。
 そして、嫌でも己の容姿が優れているのだと気づくはずだ。
 大袈裟だな、と薫は本心で言ったのだが、それが大袈裟ではないということを、登校日に身をもって知ることとなる。


 夏休みが終わり、久しぶりの登校となった。
 心配になった祐介は成幸に笑われながらも「一緒に登校するから、うちまで来い」と薫に命令した。
 制服に身を包んだ二人は通学路を歩き、高校へ向かう。
 校門に近づくと、制服を着た生徒たちの視線を集めた。当然、その視線は薫に集中しており、大勢から注目されることに慣れていない薫は髪で顔を隠そうとするが、以前のように長くないため、多方面から刺さる視線をガードすることはできなかった。
 頭の中に疑問符を浮かべたまま教室へ入ると、クラスメイトがざわついた。
 「あれ誰だ?」「えっ、イケメン」「転校生?」などと、薫に直接言いに行くわけではなく、こそこそと周囲の生徒と会話をしている。
 祐介は自分の席に着く前に「ほらな」と薫の肩を叩いた。
 クラスメイトの視線が自分に注がれている。気分の良いものではない。
 机に鞄を置き、椅子に座るとクラスは今まで以上にざわついた。

「えっ、あれ浮田?」
「浮田が学校を辞めて、転校生が来たってこと?」
「いや、浮田でしょ」

 こそこそ話すことをやめ、薫にも聞こえる声量でクラスメイトは話し始めた。
 祐介の言う通り、注目の的になってしまった。
 夏休み前とは別人だ、という話があちこちでされている。薫としては、髪を切っただけで顔は変わっていない。見慣れている顔なのだが、クラスメイトは興奮した様子で薫から目を逸らさない。
 嫌だな。
 そう思っている薫のことなど露知らず、スクールカースト上位の女子たちが薫に話しかける。

「浮田、髪切った? 似合うね」
「そっちの方がいいよ」
「夏休みの宿題やった? よかったら教えてくれない?」

 彼女たちが話しかけたことで、我も我もと近寄るクラスメイト。
 薫は作り笑いすらできず、口元を引き攣らせていた。
 餌を貰おうと口をぱくぱくさせて集まる鯉みたいだ。
 祐介は薫に群がる女子たちから、そんな印象を受けた。

「なぁ、祐介。何で浮田と登校してきたんだ?」

 男子は女子ほど薫に興味がないが、気にはなるのだろう。
 変貌を遂げた薫に視線を向けている。
 祐介は話しかけてきたクラスメイトの田中に、どや顔で答えた。

「俺ら友達だから」
「うわ、その顔腹立つ。もしかして髪切ったのって、祐介のとこ?」
「俺の親父、すげえだろ」
「どう見たってすごいのは浮田の顔面だろ」

 わはは、と笑う二人を、薫は遠巻きに眺めていた。
 女子からの質問に対し、まともに答える気力はなく「まあ」「そうなんだ」と軽く流していると、半分の女子は「中身はやっぱ浮田じゃん。観賞用だね」と去って行った。離れて行ったことで安堵したが、まだ数人の女子が薫を囲んでいる。その残った女子たちの相手をするのが嫌になり、薫はついに、首を振るだけの機械となった。
 肉食の女子たちはホームルームが始まるまでずっと薫から離れることはなく、一時限目に突入する頃、既に薫は辟易していた。


「で、どうよ」

 祐介はにやにやしながら、キタハシ美容室で掃除をする薫に向けて感想を訊ねた。
 訊かずとも分かる。
 眉を寄せて口をへの字に曲げている薫は、「最悪だ」と語っているも同然である。
 苦手な女子に囲まれ、話しかけられ、突かれ、触られ、一層苦手になったのだ、とオブラートに包んで祐介に伝えた。

「だろうな」
「はぁ、嫌だな」

 心の底から嫌がっている薫に、祐介は良いことを思いついた。

「彼女がいるって言えば?」
「そ、そんなこと言えないよ」
「何で?」
「だって、いないし、僕は女の人苦手だし」
「時には嘘も必要なんだよ。彼女がいるって言えば、諦めてお前に話しかけなくなるだろ」

 祐介が薫の立場であれば、そうしている。
 薫は箒を動かす手を止めて、口をとがらせた。

「嘘でも、女の人を好きって言うのは、ちょっと……」
「ふうん、そういうものか」
「恋愛対象が女です、って公言したくないというか……」

 その発言は「僕の恋愛対象は男です」と言っているようなものだ。
 祐介は察しているから、薫はこうして言うのだろう。しかし、もう少し気を付けて発言してほしいものだ。

「まあ、何かあったら言えよ。愛が憎しみに変わるって、よく言うだろ」

 恋愛が絡んだ事件に発展する前に、どうするか対策を立てなければならないのだ。
 薫の容姿はそういうことを危惧するほど、美しいのだから。
 薫は祐介の言葉に感動するが、接客が終わった成幸がにやけた笑みで祐介の頭をぽんぽんと叩く。

「恰好いいこと言うなぁ、さすが俺の息子だなぁ?」
「しょ、しょうがねーだろ、こいつがぼんやりしてんだから!」

 成幸の手を叩き落とし、薫を指さす。
 薫は微笑ましいと言わんばかりの表情で祐介を見守る。
 それを見た祐介は恥ずかしさで耳まで赤くさせ、大きな足音を立てて二階へ上がった。
 成幸と薫は顔を見合わせて微笑んだ。
 薫の容貌が校内で知れわたり、知らない生徒はいないほど有名になったある日のこと、
祐介は田中から聞いた話に「はぁ!?」と声を荒げた。
 昼休み、いつもクーラーをつけっぱなしにしている第二理科室で、田中とパンを食べていた祐介は、口の中に入っていたパンのカスを田中の顔に飛ばしてしまった。

「きったねー」
「悪い、で、なんだって?」
「だから、お前の元カノが浮田に告白したらしいんだって」
「どの元カノだよ!」
「その台詞、俺も言ってみたいわ。大島だよ、二組の大島」

 大島沙穂。
 祐介の元カノの一人で、祐介が骨折する原因となった女子だ。垂れ目が特徴的な女子で、見た目はおっとりとしている。流行や美的センスに敏感であるため誕生日プレゼントを買う際は苦労した記憶がある。
 その沙穂が薫に告白をした。
 祐介はもやもやと黒い感情が起き上がるのを感じた。

「いつの話だよ」
「昨日だと」

 薫からそんな話は聞いていない。

「やっぱ嫌だよな、元カノが友達に告白するのって」

 そう言われて、はたと気づく。そうか、そういう考え方もあるのか。
 祐介の動きはぴたりと止まる。
 そういう考え方もある。
 では、今、自分は何を考えていたのか。

「祐介? どうした?」
「いや、別に」
「やっぱりまだ大島に情があるのか? それともまだ好きなのか?」

 特にない。
 コンビニ前で助けに入ったのだって、無視できなかったからだ。
 沙穂のことが好きだから、情が残っているから助けたのではない。誰だって目の前で知り合いが困っていたら助けるだろう。特別な理由があって助けたのではない。
 沙穂はもうどうでもいい。誰を好きになろうが誰と付き合おうが、知ったことではない。
 ただ、浮田薫は駄目だ。それだけは駄目だ。

「まあ、複雑だよな」
「複雑?」

 そうだ、薫のこととなるといつも複雑になる。心穏やかではない。
 だが、沙穂と薫の件はどうだろうか。複雑なのだろうか。
 沙穂が薫に告白する現場を思い浮かべる。
 恥じらいながら上目遣いで、薫に告白する沙穂。それを驚きながらも、人から好意を向けられて悪くないと思う薫。
 あぁ、嫌だ。
 複雑ではない。単純だ。
 俺以外を受け入れないでほしい。それだけを思う。
 違うのだと蓋をしてきた感情が一気にあふれ出す。
 思えば、最初からだ。薫の顔をはっきりと見た、アルバイト初日。あのときから惹かれていたのだ。顔が好きなだけだと思っていたが、どうやら違うらしい。
 どくんどくんと、心臓が暴れ始めた。
 あぁ、嫌だ。
 普通だったはずなのに。
本当に嫌なのだろうか。
 普通とは何だろうか。
 自問自答が止まらない。
 こんなはずではなかった。
 一体これは、誰に相談すればいいのだろう。

「あああ!」
「うわっ、何だよ急に。そんなに大島が好きなのか?」

 田中は見当違いなことを言うが、祐介には聞こえていない。

「はぁ、仕方ないよな」
「あ、あぁ、仕方ないさ。人の気持ちは変わるものだからな」
「俺、子孫残せねーよ」
「何の話だよ」

 食べ終えたパンの袋を投げ、祐介は両足を抱いて蹲る。
 何度も溜息を吐き、時折「あああ」と声を出す祐介を、田中は珍獣を見るかのような目で眺めていた。


 自覚すると、嫌でも意識をしてしまうもので、祐介は今まで通り薫に接することができなかった。
 美容室では一度も目を合わせることができず、薫に話しかけられても簡単な返事しかできない。
 どう接していいか分からない祐介は、薫を避けていた。祐介は意識して避けることで自己嫌悪に陥る。
 美容雑誌を読んでいる薫を盗み見て、溜息を吐く。
 日曜日であるが、今日の予約は少ない。次の予約は二時間後だ。
 薫は美容師になることを決めたようで、そっち方面の勉強を始めた。専門学校に入るのは簡単らしく、試験勉強をせずにずっと美容について学んでいる。
 どうにかしなくては。そう思うが、薫を前にすると胸が高鳴り、戸惑い、逃げ出したくなるのだ。
 初恋か、と自分で突っ込みを入れたくなる。
 しかし大目に見てほしい。今まで女子としか付き合ってこなかったのだ。それが突然、男を見てときめくようになった。まさか自分が男をそういう目で見る日がこようとは、夢にも思わないだろう。
 それに、付き合ったところでどうするというのだ。誰にも言えない。手をつないで外を歩くなんてできるのか、親に打ち明けられるのか。
 悩み事は尽きない。
 祐介が両手で頭を抱えていると、薫と視線が絡まった。
 慌てる祐介から、薫はふいっと視界から祐介を消した。
 あ、無視された。
 想像以上にショックを受ける。しかし、これは祐介が薫にしたことでもある。
 ときめくからと、薫を避け続けたのだ。薫だって、無視をされたと傷ついたことだろう。
 祐介は両手で拳を握り、大股で薫の元へ近寄った。

「おい」

 薫は雑誌から顔を上げた。
 久しぶりにちゃんと見た薫の顔は、相変わらず綺麗だった。
 こてんと首を傾げる薫に、祐介の胸はきゅんと音を立てる。

「買い出し、行くぞ」
「え?」

 買うものなどない。
 ここにいると、いつ成幸が二階から降りてくるか分からない。
 外へ出て二人になる口実だった。
 薫は頷いて美容雑誌を置く。
 OPENと下手な字で書かれた木の板を揺らしながら、扉は閉まった。
 温暖化が進み、秋に突入しようという頃になってもまだ真夏のような暑さである。春夏秋冬とはいうが、夏冬だけで十分だ。去年は十一月まで暑さは続き、十二月になって急に寒くなった。今年も恐らく、同じようになるだろう。
 紫外線は美肌の敵だ。
 薫に帽子を被せ、祐介は狭い歩道故に触れてしまう薫の手から、体温を感じた。
 祐介は覚悟を決めて、薫に話しかける。

「あのさ、聞いた話だけど沙穂に告白されたって話、本当か?」
「さほ?」
「二組の、大島沙穂」
「二組の大島……」

 沙穂、という名前に心当たりはないが、大島という苗字は思い当たる人物がいる。
 祐介の元カノ。
 薫は大島という祐介の元カノに告白された記憶がある。

「本当に告白されたのか?」

 どうしてそんな質問をするのだろう。もしかして、まだ好きなのだろうか。
 薫から表情がなくなる。

「なんで、そんなこと聞くの?」

 質問に質問で返した。
 告白されたのは本当だよ。と、返せばよかったのだが、先に過った疑問が口から出てしまった。
 祐介は気まずそうに目を泳がせ、「それは、いや、だから」と言葉を探している。
 祐介からの答えを待つ薫と、言葉が見つからない祐介。
 無言の二人を責めるように、熱風が吹いた。

「そういえば、北橋くんが怪我した原因の知り合いって、大島さんのこと?」
「えっ、あぁ、まあ、うん」

 ただの直感だった。
 未だに首から吊られている右腕と、大島沙穂の話題で、ふとそう思ったのだ。
 元カノが忘れられない。よくある話だ。結局、女子には勝てない。
 薫は薄い雲が泳いでいる空を見上げ、目を瞑った。


 変だな、と思ったのは薫が小学四年生の頃だった。
 当時、誰が誰を好き、という恋愛話は男女の間で流行っていた。
 そして男女は敵対心を持ち、男子対女子の図は毎日のようにあった。
 一人でいる男子を見かけると女子数人が囲い込み、「好きな人誰? 教えてくれたら解放してあげる」と、強引に好きな女子を聞き出す。
 男子は女子の私物を取り上げ、「好きな奴誰だよ。言わねーとこれ返してやらねー」と物取り合戦が始まる。
 薫がその中に入ることはなかった。
 昔から顔が整っていた薫は、クラスメイトから一線を引かれていた。
 いじめの標的になるでもなく、悪乗りに加わることを強いられることもない。
 綺麗なものを汚してはいけない、そんな意識がクラスメイトにあった。トイレ掃除になると必ず誰かが代わってくれ、家庭科の授業で包丁を握らせてくれることはなく、運動会の組体操は汚れないポジションで、体育のドッジボールではボールを当てられたことがない。
 そんな扱いをされていた薫だったが、男子の間で恋愛の話になったとき、誰かに言われたのだ。

「浮田くんはクラスの女子で誰が好き?」

 本人は何気なく聞いたのだが、他の男子は興味津々で薫の返答を静かに待った。

「女子?」
「うん。誰が好き?」
「好き?」

 言われて、初めて女子の中で誰が好きかを考えたが、誰も好きではない。
 そもそも、そういう目で女子を見たことがない。
 女子は女子で、それ以上でも以下でもないのだ。

「うーん、女子は別に好きじゃない」
「えー、じゃあ好きなタイプは?」
「タイプ?」
「俺はね、字が綺麗な女子がいいと思うんだ。浮田くんは?」

 何故、字が綺麗な「女子」なのだろう。
 薫の後ろの席の岩倉隆真も字が綺麗なのに、何故岩倉を含まず女子限定なのだろう。
 薫は理解できなかった。

「よく分からないけど、うーん」

 好きなタイプと言われても、よく分からない。
 この人いいな、と思うのはどういう人なのかという話だろうが、すぐには出てこない。薫は少し悩んで答えた。

「相手のことを思いやる人がいい人だと思う」

 薫の返答を聞き、周囲の男子は「どの女子のことだ?」「佐藤じゃないか?」「村西じゃないな、あいつは女子なのに狂暴だから」と、薫のタイプがどの女子に当てはまるのかを話している。
 だから、どうして女子なのだろう。
 正直、薫の言った「相手のことを思いやる人」は学級委員長の吉田信平が頭に浮かんだので、吉田の人間性として答えたものだ。
 吉田は相手を傷つけないような物言いをする。率直に「やめろ」とは言わず「こうした方がいいよ」と言ったり、泣いているクラスメイトがいたら皆に知られる前に保健室へ連れて行ったり、思いやりのある言動をする。
 それを薫は、いいと思った。
 それなのに、何故すぐに女子と結び付けて考えるのだろう。
 男子が「一組の朝山じゃないか?」「あいつ優しいもんな、思いやりもありそうだ」「クラスの女子って話だろ?」と、薫のタイプ探しに熱くなっている。
 変なの。
 男子とか、女子とか、変なの。
 人を好きになるのに、性別で分けないといけないなんて。変なの。
 ずっとそう思っていた。けれど、変なのは自分だということに、六年生になって気づいた。
 男子は女子を好きになり、女子は男子を好きになる。それは常識であり、誰もが疑っていないことだった。
 国語の教科書に載っている小説も、ドラマも、先生たちも、男女で恋愛をするものだと主張する。
 薫は自分が置いてけぼりのように感じ、恋愛について語るクラスメイトが怖くなった。

「女子の中で誰が好き?」
「どんな女子がタイプ?」
「どの女子と結婚したい?」

「女子は? 女子は? どの女子がいい?」

 吐きそうだった。
 恋愛話は毎回女子について。その度に違和感があり、けれどその違和感はその場で自分しか持っていない。
 周りが恋愛の話をすると、自分がおかしいのだと浮彫になる。それが嫌だった。
 恋愛=男女の方程式を突き付けられる不快さ、そして何より、中学生になると毎日のように寄って来る女子。それは全部、恋愛=男女の方程式を持っている女子たち。その女に自分を当てはめ、男に薫を当てはめようとする。
 小学生の頃はその方程式を突き付けられるだけだったが、中学生になると、そこに薫を入れ込もうとするのだ。なんと不愉快で失礼で、図々しいことだろう。
 薫は女子だけでなく、人と関わることが億劫になり、目立たないよう、見られないよう、気づけば髪の毛でシャットアウトするようになった。
「浮田?」

 昔のことを思い出していたが、祐介に呼ばれて我に返る。

「大丈夫か?」

 片方の眉を下げて気遣う祐介に、薫はふっと笑った。

 祐介のことは、最初から好きだったわけではない。きっかけも、特にあったわけではない。気づいたら好きだった。
 高校二年生になって始めて同じクラスになり、騒がしい人だなと思っていた。
 クラスの中心にいる。よく女子と絡んでいる。授業を真面目に聞いていない。そんな印象だった。
 それでも一応、進学校に入学しただけあって勉強ができないわけではなさそうだった。授業は真面目に聞いていないようだけど、テストの結果は悪くなく、友達から「なんでノー勉で良い点とれるんだよ」と文句を言われていた。
 体育の授業では誰がどう見ても運動神経抜群で、落ちているプリントを拾ってあげるときはプリントを手で払ってから手渡す優しさもあった。
 いつも賑やかな場所の真ん中にいて、うるさいだけの人間かと思いきや、人を思いやる心もある。
 北橋祐介はどんな人だろうという疑問が沸きあがるよりも前に、自然と祐介に目がいった。
 いつの間にか祐介について詳しくなっており、つい目で追ってしまう対象となった。
 祐介を恋愛対象として意識した日のことは覚えていない。
 だが、もしかして自分は北橋祐介に好意を抱いているのではないかと気づいたのは、祐介の元カノの存在を知ったときだった。

「なぁ、あれ祐介の元カノだろ?」
「あぁ、大島? 可愛いよな」
「祐介の好みは分かりやすいわー」
「とにかく面食いだからな」

 廊下を歩いているときにそんな会話を耳にした。
 大島、と呼ばれた女子は二組の教室へ入って行った。柔らかい雰囲気の優しそうな女子だった。
 面食いと言われただけあって、可愛らしい顔立ちの女子。
 そうか、あれが元カノか。
 やはり恋愛対象は女子なのか。
 いや、もしかすると女子と男子の両方が恋愛対象になっている可能性もある。
 そんな淡い期待は、廊下にいた男子たちの話の続きで打ち砕かれた。

「大島って、祐介の何人目だっけ?」
「五人目だろ」
「五人の女子と付き合ったのかよ」
「歴代の元カノ、全員可愛い」
「羨ましい!」

 楽しそうに話す男子の声が遠く聞こえる。
 祐介が今まで付き合ったのが全員女子だと知り、ショックを受けた自分がいた。
 恋愛対象が男子ならよかったのに。そうであれば、自分にも機会があったかもしれない。
 自分は、機会がほしかったのだ。
 祐介に好かれる機会、祐介と付き合える機会。
 祐介を、恋愛対象として見ているのだ。
 そう気づいたと同時に、失恋した。
 自分は祐介の恋愛対象にはなれない。何故なら、性別が男だからだ。
 祐介の方程式は恋愛=男女なのだ。皆と同じ、普通の方程式だ。
 虚しい。
 滑稽なことに、祐介を好きだと自覚すると、今まで以上に祐介を目で追い、祐介の言動が気になり、胸の鼓動がはやくなる。
 こっちを向いてほしい。この想いに気づいてほしい。やっぱり、気づかないでほしい。
 振られると分かっているのに、想いを伝えたくはない。
 きっと自分のことなんて、名前しか知らないだろう。
 教室の隅で誰とも話すことなく、大人しくしているクラスメイト。そんな認識だろうから、卒業すればすぐに忘れ去られてしまう。いや、卒業まで待たず、来年になれば忘れているだろう。卒業アルバムは、三年生のクラスで作成される。同じクラスにならなければ、時が過ぎても「そういえばこいつ、同じクラスだったな」という感想すら抱かれない。
 失恋は確定している。想いを伝えようとは思わない。けれど、少しでいいから、こっちを向いてほしい。その視界に映してほしい。
 祐介の家が美容院だということは、クラスの全員が知っている。
 薫はスマホで検索をし、祐介の家を突き止めた。
 そして、行ってみることにした。
 ストーカーという自覚はなく、ただ偶然を装って、会えたらいいなと思っていた。
 キタハシ美容室の前を通ると、天は薫の味方をした。
 アルバイト募集の張り紙があったのだ。
 これだ、と思った。
 扉の前で佇んでいると、美容室の中から店長らしき人物が箒とちりとりを持って出て来た。

「あ、あの、アルバイト募集なんですけど」
「あぁ、もしかして、希望者かい?」
「は、はい」

 優しそうな男性で、薫は安堵した。
 キタハシ美容室は店長とその息子の二人でやっている美容室だと、小さな雑誌に書いてあった。つまりこの男性が、祐介の父である。

「明日から働ける?」
「はい!」

 時給や条件をよく読んでいないが、雇ってもらえるなら何でもいい。

「名前は?」
「浮田薫です」
「じゃあ、とりあえず明日来てもらおうかな」
「ほ、本当ですか!?」

 そうして薫は、キタハシ美容室でアルバイトをすることとなった。
 アルバイトの初日、祐介の第一声が「げっ、浮田かよ」であったのは少々傷ついたが、話したことのないクラスメイトがアルバイトとしてやってきたら、気まずいと思ってしまうのは仕方のないことだ。


 少し前の出来事なのに、一年も前のような感覚だ。
 こうして祐介の隣を歩けるのはとても嬉しい。
 あの日、行動に移してよかったと心から思う。

「なんだよ、じっと見て」

 じろり、と睨まれるが、本気で怖いと思ったことはない。
 口はむっと閉じられ、なんだか子どものようで可愛い。

「ううん、なんでもない」

 大島沙穂のことを聞いてきたのは、まだ祐介の中で消化できていないからだろうと薫は推測した。

「心配しなくても、大島さんのことは断ったよ」
「は?」
「ほら、僕、女の人は苦手だから」
「知ってるけど」
「あ、うん」

 互いに無言になる。
 買い出しに行くと言って薫を連れ出したが、スーパーに用はない。
 太陽から降り注がれる熱に耐え切れず、止まった足を動かして日陰へと移動する。
 建物の陰に自らの陰を隠し、太陽の熱から逃れたところで話を再開させる。

「何て言って断ったんだ?」

 詳細まで知りたい祐介に、薫は正直に言ってもいいものか悩んだ。
 どう断ったかを聞いて、祐介が傷つきはしないだろうか。
 言いにくそうにしている薫をじれったく思い、「なんだよ、言えよ」と催促する。

「大島さんのことは好きじゃないから。って、断ったよ」
「それでもいいから付き合おうとは言われなかったのか?」
「う、うん。分かった、って」
「そうか」

 ほっとした表情の祐介に、薫の胸はちくりと痛んだ。
 何を安心したのだろう。
 酷い言葉で振らなくてよかった。他の男と付き合わなくてよかった。
 そんな感じの安心だろうか。

「やっぱり、元カノには僕なんかと付き合ってほしくないもんね」

 言ってから後悔した。嫌味のように聞こえたことだろう。すぐに手で口を隠すが意味はない。

「は?」

 ぽかんとする祐介。
 言ってしまったものは仕方がない。薫は溜まっていたものを吐き出すように、息を吐いた。

「好きだった人が,僕みたいなのと付き合うの、嫌でしょ?」
「は?」

薫に恋人を作って欲しくなかっただけの祐介は面くらい、「いや、別に、そういうんじゃ」と曖昧な返答をする。
元カノの告白のことで、あんなに問い詰めていたのに、今更何を否定しているのだ。

「お、俺はお前が、告白されたって知って……」
「うん」
「だから、もしかしたら、俺の元カノに気を遣ってお前が告白を受け入れるんじゃないかとだな。お前が付き合うんじゃないかと……」

 期待はしない方がいい。
 祐介の方程式は皆と同じなのだから。
 分かっているのに、薫は期待してしまう。
 薫と合わせない視線。紅潮した顔。震える声。
 薫はごくりと喉を鳴らした。
 これ以上は言えず、気まずくなった祐介は「知るか!」と耳まで真っ赤にさせて、その場を去ろうと薫に背を向けた。
まさか、と期待した薫は逃がすまいと祐介の腕を強く掴んだ。
引き止められると思わなかった祐介の顔は驚愕の色に染まり、目を丸くして薫を見た。
 祐介の腕を引っ張り、直射日光に当たっている祐介の体を日陰へと戻す。
 期待しても、祐介が女子と付き合った事実は消えない。方程式は変わらない。想いを告げようとは考えていなかった。だけど、今の祐介を見るとどうしても期待してしまう。
 祐介は周囲から「面食い」だと言われている。そして祐介は、薫を綺麗だと言った。
 薫は都合のいい様に想像してしまう。
 勘違いかもしれない。ただの妄想かもしれない。それでも、チャンスがあるなら掴みたい。
 祐介の腕に、薫の緊張が伝わる。

「僕、実は、好きなんだ」
「は?」
「北橋くんが、好きなんだ」

 互いの体温が上昇する。太陽から隠れているというのに、まるで日差しが全身に注がれているようだ。

「お、お前」

 薫は目をぎゅっと瞑り、祐介の左腕を掴む手は震えている。
 何言ってんだよ、冗談言うなよ。そう言いたくなるのをぐっと堪えた。
 どこからどう見ても、勇気を出して告白している。祐介の恋愛対象は女だと認識しているだろうに、その上で今、想いを吐き出したのだ。
 祐介はその気持ちを真正面から向き合わなければ、と思った。
 大きく深呼吸し、薫に言う。

「俺も」

 薫はびくりと反応し、そっと目を開ける。
 長い睫毛が揺れ、元々大きな瞳が一層大きくなった。
 薫の口から「え」と掠れた弱弱しい声が出ると、祐介は掴まれていた左腕を薫の背中にまわして、顎を肩にのせた。

「クソ、どうしてくれるんだよ」

 薫は震えて、涙が一粒零れ落ちた。
 両手をそっと祐介の背中にまわして、実った恋を噛み締めた。
 数秒そうしていると、ここが外であることを思い出し、祐介から離れた。なくなった祐介の体温に寂しさを覚えたが、祐介が薫を見つめる瞳に熱が宿っていることに気づく。

「なぁ、男同士で手をつなぐのって変じゃね? 普通なのか? あと、俺もお前も彼氏ってことになんのか? 友達にこの関係は言っていいのか? 俺、全然知らんぞ」
「僕も」
「は?」
「僕、人を好きになるの、北橋くんが初めてだから」

 照れる薫に、祐介の胸はきゅんと鳴った。

「帰ったらネットで調べるか」

 買い出しへ行くと言って出てきたが、スーパーへ行くことなく来た道を戻る。
 手をつないで外を歩くものなのか。よく分からないので、二人は今まで通りただ並んで歩いた。
 狭い歩道は、互いの手や腕が触れ合ってしまう。
 二人は、もっと、といつもより距離を縮めた。

「暑いな」
「今年の秋は、もう少し先になるんだって」

 体中が熱くなるのを感じながら、二人は無言のまま触れ合う手に意識を集中させた。

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