「おい、ここ埃があるだろ」
「馬鹿野郎、雑誌はちゃんと揃えろ」
「これもっと綺麗に洗えよ」

 翌日から、まるで小姑のように、重箱の隅をつつくように、薫に駄目出しをする。
 薫は祐介の指摘を真面目に受け取り、言われるがまま素直に行動する。
 目に余る祐介の態度に、成幸は接客中にもかかわらず「おい祐介」と小言を言うが、薫はまったく気にせず、むしろ嬉しそうに動いている。
 そんな薫の様子を見ていた成幸は「友情の形は様々だよな」と思い直し、薫が気にしていないのならいいだろう、と放っておくことにした。

「あら、あの子イケメンじゃない?」

 薫が働いていると、常連客の女性が成幸に言った。その会話は祐介にも聞こえ、思わず耳を澄ます。

「最近雇ったバイトなんですよ」
「モデルさんか何か?」
「いえ、息子の同級生でして」
「私がもっと若ければねぇ」

 若ければなんだ。若ければ付き合ったのに、だろうか。
 祐介は五十代前半の常連客の、言葉の続きを想像して鼻で笑う。
 若かったとしても、薫の隣には立てまい。
 祐介は、薫の顔に関心があると気づいてから、自分の感情を理解できるようになった。
 今、常連客に抱いている感情は「浮田と釣り合わない」である。「俺が認めたイケメンを安く見積もるな」という感情もある。

「北橋くん、ここの掃除はこれでいいかな?」
「はぁ? もっとしっかりやれ」
「分かった」

 こうしていちゃもんをつけるのは、「浮田の顔を気に入っていると、気づかれたくない」からである。
 ついこの前まで教室の隅でぽつんと座っていたのだ。もさもさでぼさぼさの髪を持ち、誰とも話すことなく学校生活を過ごす薫。
 それに対して祐介やクラスメイトは良い評価をしなかった。
 祐介のプライドが邪魔をし、今更仲良くなることはできない。
 目は口程に物を言う。
 否定なことばかり言いながらも、視線はずっと薫を追いかける。
正面もいいけれど、横から見ても綺麗だ。
 監視という名目で、一日中薫を眺めていた。
 観察しているとたくさんのことに気づく。
 例えば、薫の指は細くて長い。男性のように関節がごつごつしているのではなく、太くもない。爪は卵型で、祐介のような団子の形をした爪ではない。
 髪のケアはしているようで、以前のように傷んでおらず、窓から差し込む光で天使の輪ができている。
 働いているときはてきぱきとした言動であるが、祐介と話すときは、よくどもる。
 元々、薫のことをよく知っていたわけではない。関りがなかったので、教室にいるときの薫しか知らない。
 祐介は無意識のうちに薫ことを知ろうと、前のめりになって観察した結果、二人で買い出しへ行くこととなった。
 二人並んで歩道を歩く。
 食い入るように薫を観察していた祐介を気遣い、成幸が二人に買い出しを頼んだのだ。
 昨日の「気持ち悪い」発言の件で、謝罪する機会を窺っているのだろう。そう解釈した成幸の配慮だった。
 特に話すことがなく、薫は自分よりも高い位置にある祐介の顔をちらちらと窺う。
 視界の端でそんな動きをされ、祐介は苛立ったように「なんだよ」と睨みつける。

「あ、ご、ごめん。その」
「は?」
「いや、なんでもない」
「なんなんだよ。言いたいことあるなら言え」

 本当にこいつ、反応が女みたいだな。
 祐介はそんなことを思っていると、薫は爆弾を落とした。

「な、なんか、デー……ト、みたいだなって」

 思わず足が止まり、固まってしまう。
 薫は小さく震え、そっぽを向いている。
 またしても「気持ち悪い!」と言いたいが、薫を見るとそんな言葉も出てこない。
 その表情があまりにも人間離れしている。
 神やら女神やら、そういった神々しい類のものを連想させる。
 恋する乙女だなんて、そんな陳腐なものではない。
 祐介は、何か言おうと口を開くが言うべき言葉が見当たらず、そのまま閉じた。
 二人は何事もなかったかのようにまた足を動かす。
 祐介は訳が分からなかった。
 何だ、この空気は。
 先程、薫は何と言っただろう。デートと言わなかっただろうか。
 男二人が歩いていて、どうしてデートという単語が出てくるのだ。
 もしかして、薫なりの冗談だろうか。
 「何言ってんだ」と笑うべき場面だっただろうか。
 薫の渾身の冗談を無視した形になっているのだろうか。分かりにくい冗談である。
 今更その冗談を掬い上げるのは如何なものかと思い、祐介はスーパーへたどり着くまで何も言わなかった。
 薫も同様に、言葉を発することはなかった。


 美容室へ戻ると、薫は持っていたビニール袋を客から見えない場所で開き、購入した物を袋から出した。

「悪いね、暑かっただろう」

 成幸が薫を気遣い、雄介ははっとした。
 現在、外の気温は三十二度。祐介と薫は帽子を被らずに外へ出た。
 祐介は昨日、外へ出た際に「帽子を被ってくればよかった」と後悔したばかりである。
 この気温の中、いくら目的地が近いといえども、薫の顔を守るためにも帽子を持って行くべきであった。考えが至らなかった自分に苛立つ。
 成幸は若い女性客と楽しそうに話す。
 この客はカットとカラーの予定であるはずだ。それならば、今の内に昼食を済ませた方がいい。
 祐介は薫を呼び、部屋の隅で昼食をとることにした。

「お前、そんなんで足りるのかよ」

 祐介は薫が選んだものを見て眉を寄せる。
 おにぎり一つと、小さなサラダが一つ。
 丁寧におにぎりを守っているプラスチックを外す薫。やはり女子のようだと思う。
 昼食のチョイスもそうだが、海苔がぱらぱらとこぼれないように、テーブルの上にハンカチを敷いているのも女子のようだ。
 こいつ、この顔じゃなかったら結構やばい奴だな。
 そんな失礼なことを考えた後、唐揚げ弁当の蓋に唐揚げを一つ置き、薫に差し出す。

「やる」
「え、いいよ」
「食え」
「あ、ありがとう」

 そんなに細いと、変質者から身を守れないだろうに。
 そんなひ弱な体で、何かあったときに対応できるのか。
 口を動かしながら薫の横顔を眺める。おにぎりを食べるその一口が小さく、やはり性別を間違えて生まれてきたのではないかと思ってしまう。
 これをクラスメイトに知られたら、きっと陰口を叩かれ、嗤われ、いじめられるのではないか。しかしそれは、薫の顔が守るだろう。イケメンだから、という理由で許されるはずだ。
 男子からのウケは悪そうだが、女子からは人気が出ることだろう。
 そこまで考え、はっとした。
 そうだ、学校。
 夏休みが明けたら、当然学校へ行かなければならない。三日前と今では、薫の見た目は大きく違う。クラスメイトが知っている浮田薫はもういないのだ。きっと手の平を返すだろう。今の祐介のように。
 自分のことを棚に上げ、嫌だと思った。
 夏休み明けの教室は薫の話題でいっぱいだろう。
クラスの人気者になる。
 その想像をしてみるが、人と上手に会話をしている場面が想像できない。
 接客は上手くやれているようだが、あれは仕事モードだからだ。現に、祐介に対してはどもっている。
 人気者になったところでクラスメイトと上手くコミュニケーションをとり、人間関係を築くことができるわけではない。
 薫の顔目当てで女子が殺到する。不覚にも、「俺が守るべきだろうか」などと考えてしまった。
 そんな義理はないのに。
 しかし、薫の容貌に惚れて集まる女子を想像すると、その間に割って入る自分も一緒に想像してしまう。
 綺麗なものを独り占めしたい。そんな感覚に似ている。

「二人とも、次は十六時からだから、それまで休憩ね」

接客が終わった成幸はそう言って二階へ上がっていった。
 食べたものを片付けると、暇になった。
 太陽の光が窓から入り、鏡に反射して目が痛い。
 祐介はブラインドをおろして太陽の光を遮断した。
 することがないので椅子で寝ようと、楽な体勢を探す。
 アラームをセットしようとスマホを操作するが、突き刺さる視線が鬱陶しく、薫の方を向いた。

「なんなんだよ」

 面倒くさそうに顔を上げる。
 薫は目を泳がせながら、口を動かす。

「腕、どうしたの?」
「はぁ?」
「どうして怪我したのかなって」
「今更かよ」

 その質問をずっとしたかったかのように、祐介の返答を待っている。
 色素の薄い瞳に見つめられ、祐介はぱっと視線を外した。

「別に、言うほどのことじゃないし」
「そ、そうだよね」

 しょんぼりと肩を落とすので、祐介は頭をくしゃくしゃと掻き、溜息を吐いた。

「夏休みになる前の日、人助けしたんだよ」
「人助け?」

 話の続きが聞きたい、と薫の瞳が訴えている。
 骨折した原因を話すのは躊躇ってしまう。全治三か月なんてダサいことになった話をしたくはない。
 聞きたい、知りたい。そんな眼差しを向けられて、祐介は再度溜息を吐いた。

「ナンパされてた知り合いを助けたら、こうなったんだよ」

 これ以上は言いたくない。
 本当は、コンビニに入ろうとしたところ、元カノが男三人と言い合っているところに遭遇した。男三人に言い寄られていたというよりは、その内の一人に執着されていたようで、助けに入ったのだ。突然現れた祐介に敵対心を抱いた男は、祐介に突っかかり、取っ組み合いの喧嘩になった。そして、骨折というダサい結果に終わったのだ。
 元カノからは感謝されたが、腕が痛いなどとは口が裂けても言えず、家に帰ってすぐ病院へ行った。
 ダサさ満載の話を薫にできるはずもなく、ただ一言で済ませた。
 すると、薫は何かにピンときた様子で、「もしかして」と低い声色を出す。

「その知り合いって、元カノだったりして」

 付き合ったことないくせに、勘がいいな。そう茶化そうとしたが、薫の表情を見て息を呑む。
 造り物のような顔に、何の表情もない。
 一切の表情を捨て去り、置物のようである。
 ウィッグという、成幸がカットの練習でたまに使っている、首から上のマネキンに似ている。

「ま、まあな」

 肯定すると、薫の瞳はすっと細められた。
 何故、責められている気分になるのか。
 悪いことをしたわけではない。むしろ、人助けをしたので善行である。
 褒められるべきであり、責められる筋合いはない。

「な、なんだよ。悪いかよ」
「北橋くんは、元カノが五人いるんだよね」
「なんで知ってんだよ」
「目立つから、僕の耳にもすぐ入ってくるんだよ」

 未だに薫の瞳は、祐介を責めている。
 交際経験が五人。これは少なくない方だと、指摘されたことがある。
 普通に生きていれば告白はされるものであり、悪くなければ付き合うものだ。可愛い子に告白されて、断る理由なんてない。そんな調子で五人と付き合っただけだ。

「北橋くんは恰好いいから、当然か」

 静かな空間での薫の呟きは、祐介にも届いた。
 恰好いいから。
 顔立ちが素晴らしく整っている薫にそう言われ、悪い気はしない。けれど、それと同時に「馬鹿にしてるのか」という感情も沸く。
 薫を相手にすると、祐介の心は複雑になる。
 薫が背を向けて離れて行くと、祐介は胸の辺りをくしゃっと掴んだ。
 本当に、一体なんなのだ。