─落花流水─キミの片隅より

 夜、キッチンカウンターで明日買う食材をメモしながらひとり夕食を食べているとちひろが部屋に入ってきた。

ちひろは戸棚からお菓子を取り出すとバスケットに入れていく。

「ねぇちひろ、夜ご飯足りなかったの?」

「ううんこれは先生に出すお菓子。

週に4日家庭教師の先生から勉強を教わってるの」

「えっそうだったの?全然知らなかった」

「今のままだと目指してる大学に行けないの。

僕は両親の会社を絶対に継ぐって決めているからその為にはいっぱい頑張らなきゃなんだ」

そう話すちひろからは強い意志を感じた。

 怖がりでちょっと弱虫なちひろにそんな部分があることを初めて知った。

こうしてここで過ごす中で、知らなかったことをたくさん知っていくのかもしれない。

「真琴にもあるんだよ」

ちひろはテーブルの上にわたしの好きなグミを置くと「じゃあ、僕はお勉強してくるね」と部屋を出て行った。
***

 次の日、瑞樹との約束の時間に公園に行くと、

ベンチに座ってわたしを待つその後ろ姿は憂い帯びていた。

 何も言わず隣に座ると正面を見たまま瑞樹は話し始めた。

「僕の目的そのものが変わるかもしれないんだ。

思いに変化が出てきている」

沈黙はしばらく続いた。

 近くで犬が吠えている。

いつまでもかからないバイクのエンジンの音が鳴り響く。

瑞樹は抑揚のない虚ろな声で話す。

「岬はまた、彼のところに行ってしまったんだね」

瑞樹は黙っては少し話し、また黙っては少し話すを繰り返した。

「僕の死に責任を感じているのならその必要はないと伝えたいよ」
 
「うん」

「岬に幸せになって欲しいっていう気持ちは変わらない」

「うん」

「でもあの彼と一緒にいることを選ぶのなら……もう僕は岬を守ることが出来なくなってしまったから……」
 また長い沈黙が続く。

 犬はさっき飼い主に注意されてから大人しくなった。

バイクのエンジンをかけるのは諦めたようだ。

夜なのにセミのジジという短い鳴き声が聞こえた。

 瑞樹の口からが悲しい言葉が零れる。

「もしかしたら岬にとって僕が死んだことは……ひとつの季節が終わったくらいのことなのかもしれない」

「そんな…」

後に続く言葉が見当たらない。

『そんなことないよ』はとりあえず言ってるだけになって、

『そんなこと言わないでよ』はわたしの希望。

今、瑞樹に必要なのは───。

 あの投稿サイトで見つけた“なつき”の言葉が浮かんだ。

なつきの言葉はこれまで何度もわたしの心を温めてくれた。

そしてわたしに教えてくれた。

こんな時、一番に必要なことは話を聞いて、一緒に考えることだと。

「瑞樹、一緒に考えようよ、これからどうするか」

 瑞樹はようやくわたしに顔を向けると笑みを浮かべる。

「真琴はそんな風に言ってくれるんだね。

本当に、心強いよ」

「だから、何でも話して欲しいんだ」

「わかったよ真琴。僕は真琴の厚意を断れそうにないよ。

僕のタイミングで少しずついろんなことを真琴、君に話していくよ。

それは少しわがままなことかな?」

「瑞樹のタイミングで話すこと?」

「うん」

「ぜ~んぜん」

「それは良かった。だけど、たくさんのことを話していくうちに僕のかっこ悪さが露呈して、

真琴に嫌われてしまうかもしれない」

「嫌いにならないよ、絶対に」

「だといいんだけど」

瑞樹はくすりと笑った。


 夜、ベッドに入るとなつきの詩を見ていた。

【君を救いたいのに
君に代わることも
その苦しみを半分もらうこともできない
だけど教えて、君が抱えているものを
聞かせて欲しいんだ
一緒に考えたいから】
 
なつきがどんな人なのか想像してもぼんやりと男の人のシルエットが現れるだけ。

想像の世界はいつだって朧げだ。

それでもこの世界のどこかになつきは存在していて、

わたしは今日もなつきに恋をしている。
 今日は瑞樹と一緒に老人ホームに来ている。

時間は午後1時30分。

中では岬さんがピアノの演奏をしている。

 今にも雨が降りだしそうな曇り空とは対照的に明るく弾むような軽やかな演奏が聴こえてくる。

毎日瑞樹がどんな気持ちで岬さんに会いに来ているのかは知り得ない。

きっと心の中では葛藤が繰り広げられていて、でもその表情は今日も穏やかだった。

「ねぇ瑞樹?これってボランティア?」

「そうとも言うのかもしれないけど、これは岬にとっても必要なことなんだ」

「ん?」

「岬は自宅で週に4回専属の指導者のもとピアノの練習をしている。それはコンクールで1位を取る為だけの練習なんだ。

岬が原田ピアノ教室やここでこうしてピアノを弾いているのはピアノの楽しさを忘れない為だよ」

「そうなんだぁ。岬さん原田ピアノ教室に通って長いの?」

「そうだね、僕が5歳の時に岬が入ってきたから……もう12年かな」

「えっ瑞樹もピアノやっていたの?」

「うん、でも僕は途中でバイオリンに転向したけど。本当はね、この前のコンクールにバイオリンの部で出る予定だったんだ」

「えっ……瑞樹もあのコンクールに……」

「うん」

「そうだったんだ……」

 あの日瑞樹はどんな気持ちであの会場に居たのだろう。

わたしなんかには到底想像もできない程の努力をしてきたんだ。

それなのに……。

 瑞樹はわたしの気持ちを察するように「ごめん、余計なこと言っちゃったね」と笑う。

わたしは「瑞樹のバイオリン聴いてみたかった」と呟くとピアノの音に耳を傾けた。
「ねぇ瑞樹」

名前を呼んで肩に触れてみた。

手には何となくぼんやりと瑞樹の感触が伝わってくる。

空気を固くしたような弾力のある感触。

「今、岬さんが弾いている曲なんていうの?」

「トロイメライ」

「素敵な曲だね」

「そうだね」

わたしはしばらくその手に瑞樹を感じていた。

 岬さんの演奏が終わると瑞樹は小さく拍手をしながら「ねぇ真琴」と呼ぶと、

拍手する手を止めわたしを見た。

「明日の夜、僕の部屋に来ない?

去年のコンクールで演奏したバイオリンの録画があるから、良かったら」

断る理由はどこにもない。

でも……。

「観たい!けど瑞樹の部屋に入るのちひろから禁止されている……」

「それは僕がいいよって言っても駄目なのかな」

「あっ」

わたし達は顔を見合わせると笑った。
***

 昨日約束した時間に瑞樹の部屋に来たわたしは電気が付いた瞬間目に飛び込んできた光景に驚愕した。

「凄い部屋……だね」

大きな黒い一人掛けのリクライニングソファーに座る瑞樹が、もう一台ある同じソファーに座るよう手で合図した。

「どうぞ」

「うん……」

 天井の埋め込み式照明の柔らかいブラウンに照らされた広い部屋はまるで音楽スタジオのよう。

ソファーに座るともう一度部屋を見渡した。

何と言っても目を引くのが部屋の真ん中で漆黒の光を放つグランドピアノ。

その重厚で気品溢れる佇まいには緊張感がある。

「立派なピアノだね」

「そうだね。バイオリンに転向してからもピアノは毎日弾いてたよ」

それは過去形で告げられる。

瑞樹はここに居るのにこうして会話をしているのにピアノを弾くことも部屋の電気を付けることもできない。

瑞樹が操作できるのはスマホだけ。

だけどわたしにメッセージを送ることはできない。

それは瑞樹が存在していないことを証明しているようで酷く寂しい気持ちになった。
 70インチはありそうな壁掛けのテレビの下にはバイオリンのケースが3つ置かれてあり、

部屋の隅に置かれたイーゼルには裏になっていて見えないけれど絵が立て掛けてあるようだった。

「瑞樹、絵描くの?」

「趣味程度だけどね。本棚の上から3段目に去年の音楽コンクールのDVDが入っているよ」

 本棚の前に行くと瑞樹が言うDVDを探す。

背の高い本棚にはいろいろなジャンルの本が並んでいる。

音楽の本や小説、数学の参考書や星座の本、経済やビジネスに関する本などわたしが手にしたことのない本ばかり。

その中にはスケッチブックのようなものも数冊あった。

DVDを手に取ると次の指示がきた。

「DVDをプレイヤーにセットしてテーブルの上のリモコンで再生して」

「うん」

「僕の出番は一番最後だけど最初から見る?」

「うん、最初から見る。バイオリンのことも全然わからないんだけどいろんな人の演奏を聴いてから瑞樹の演奏が聴きたい」
 演奏が始まりわたしは画面に集中した。

この前のように実際に会場で見るのとは違ってその場の空気を感じ取ることはできないけれど、

それでも、画面を通して緊張感は伝わってくる。

 出場者達は皆、テレビなどで見るバイオリニストが弾いている姿とはまるで違って大きな動きや明るい表情などはなく、

練習してきたことを懸命に披露しているといった感じだった。

───ここは丁寧に、次は静かに入っていく、ここではゆっくりと……そんな声が聞こえてくるようだった。

「次が僕の番」

瑞樹の言葉に画面を見たまま返事をした。

「うん」
 黒の上下に身を包みピアノ奏者と共に瑞樹が現れる。

ステージの真ん中で一礼するとバイオリンを構えピアノ奏者に合図を送る瑞樹。

そして正面を向いた瞬間、瑞樹は今から演奏するその世界に入った。

 ピアノの伴奏が始まり、曲の世界に溶け込んでいくように瑞樹のバイオリンが音を奏でる。

まるで身を委ねるようにバイオリンと顔の距離が近い瑞樹の構えはこれまでの演奏者とはまるで違っていた。

 弾くために必要な動き意外は一切封じ、ただその曲を演奏している。

寵愛するようにバイオリンに頬を寄せ耳を寄せる瑞樹。

曲が進んでいくにつれ響きと奥行きは増していくのに瑞樹の存在は薄れていく。

愛しいものに触れるようにバイオリンに頬を寄せ、バイオリンの美しい音色をもっと聴こうと耳を寄せる。

この曲の素晴らしさと美しい音色以外は何もいらないのだと言うように、

最後まで瑞樹はステージの上で主役になることはなかった。