ふと我に返ることがある。
 どうしてあのとき、ちゃんと答えなかったのか、と。

 放課後の廊下の端から眺める、頬を染めて笑う彼女の知らない顔を見て、情けなくも踵を返したあの日が去来する。

 また、先を越されてしまった。
 また、何も言うことができなかった。
 また、また……――どうしても、呼ぶことができない。

「それなのに、俺は――」



「――では、この後は各自、明日までに考えておくように」

 昼休みを告げるベルの音をかき消すように、ブーイングの声と、椅子を引く音が教室を満たす。
 半袖でも暑かった夏日はつい先週まで、今ではブレザーの下にセーターを着込むまでに気温が下がった世間では、もうすでに冬支度が進んでいる。
 昨今、各クラスの議題は来月に控えた文化祭の出店問題だった。
 問題はメイド喫茶にするのか、屋台小屋にするのか、その二択であったけれど。

「多数決で異議申し立てばかり使ってたらさ、ほんと何も決まらないよな」

「クラスリーダーであるお二人が譲り合わないんだから仕方ないだろ」

 宙で箸先を揺らし、嘆くしかない高二の秋とは、世知辛い世の中になったものだ。
 昼休みに入って早速弁当の包みを広げ、机を突き合わせてきた友人Aの愚痴に付き合うのもそうだが、何もしなかった自分がさりとて悪いとも言える。
 だから、役職を得なかった自身を恨むべきか、はてさて文化祭実行委員に名乗り出た誰かさんを呪うべきなのか。後悔先に立たずとはよく言うが、委員に手を挙げたところで、教卓で右往左往する未来が目に見えているのだから、たられば話は何も得ないものだ。
 それに、明日には担任が介入して決定する懸案事項を一クラスメイトがとやかく言うことでもなかった。

「それより聞いたか、悠人。まーた友坂が告られたって話」

 ――友坂(ともさか)。友坂菜々日(ななか)
 小学校からの幼馴染みにして、近所に住む悪友だった少女は、今ではマドンナの名をほしいがままにするまでに成長していた。
 誰が悪童であった彼女を聖女たらしめる淑女に改心させたのだろう――男友達と遊ぶだけだった小学校から、中学校で仲違いして以来、女子とつるみ始め、彼女の動向を知ることはなかった。
 クラスが被ることはなかったし、何より下手なプライドが邪魔して、友坂と仲直りすることを避けていた自分がいたせいでもある。

「その顔は、知ってたんか?」

「……いや、まあ」

「歯切れ悪いな」

 見ていたし、聞いていたし、告白されることもなんなら事前に知っていたのだから、素直に話すとただ単にストーカーに間違われるのがイヤなのだ。
 奇跡に奇跡が重なってできてしまった、アクシデントの結果なのだし。
 まだ包みさえ広げていなかった弁当に手をつけ、悠人(ゆうと)は息をつく。

「俺が知ってたところで、何も関係ないしな」

「幼馴染みのおまえがそう言うなよ! 噂じゃ、友坂の好きなひ――」

「言うな。言ったところで誰も救われない」

「いやまあ、そうだけども」

 クラス中の男子の視線がこちらを向きかけ、何事もなかったように食事を再開する。
 マドンナなんて古くさい呼び名でもてはやされてはいるが、その名の示す通り、友坂菜々日は誰からも好かれていた。男女分け隔てなく、ライクにラブに関係なく、年齢差もお構いなしに彼女は好かれている。
 ただその反面、熱狂的なファン――大体の男子がそのカテゴリー内だが――の多くはこちらを、相沢《あいざわ》悠人を敵対視していた。

 幼馴染みであり、家族ぐるみの付き合いがあり。
 何より、彼女と一番近くで一番長く共に時間を過ごしてきたことを、友坂の汚点とも言うべき要点を抜かれた状態で、なぜか知れ渡ってしまったのだから。

「でもまぁ、あいつが選り好みするタイプだとは思わなかったな」

 昔から、それこそ悪童として共に悪さを働いていた時から、彼女は一貫していた。

 ――わたしはね、わたしを好きになってくれた人が好きなんだ。

 だからパパも、ママも、悠人だって――と続く彼女の言葉は、いつも自分にとっていいように解釈しかけ、横に振りかぶる首を痛める原因にもなっていた。
 だから、告白してくるほどに自分を好いてくれる人間をフることはないはずだ。
 だってそれが、彼女にとっての好きな人の条件なのだから。

「幼馴染みは、本当になんでも知ってますなぁ? いやあ、惚気を聞かされる身にもなれってもんだよ」

「誰が惚気だよ。詳しくも何も言ってないし。ただ、あいつが……」

 手をすり合わせて媚びを売る悪人顔で目を細める友人Aに呆れ、廊下に目をやったそのとき、噂する当人が教室の前を通りすがるところだった。
 長くなった髪を耳にかけ、片手には弁当を提げて、不思議と昔から変わらない笑顔を浮かべて友達と談笑しながら歩く友坂菜々日の横顔を見たら最後、目を離せなくなる。

 ――ありがとう。でも、まだあなたのこと、知らないから……ええっと、ごめんね?

 手を差し出す少年に向けた、精一杯の笑顔でのお断りの言葉。

 ――それは、好きな人がいるってことですか!?

 ――あー……ははっ、いやまあ、そういうことじゃないんだけど、まあ。

 頭を上げた男子に向けて、友坂は言葉尻を濁しながら退散しようと一歩後ずさる。

 ――友坂さん! 僕はッ!

 そして、斜陽差す二学年の教室が並ぶ廊下によく響く声で、運動部の奴は丸刈りにした頭を下げ、後ろを振り向きかけた彼女の手をつかんでいた。

 ここで逃げられたら終わりだと。
 押し切れなかったら、もうチャンスはないのだと。

 負けん気の強い運動部の輩は、こういうとき、スポーツマンシップを気にしない。
 でも、強引な少年の行動に、どこか嬉しそうに頬を赤らめて笑う、友坂の――菜々日の顔を、一度も傍で悠人は見たことがなかった。
 だから悔しくて……――いや、多分、そうじゃない。

『……ぇ、ゆう――』

 なんとなく、ふと、目が合った気がしてしまったからだ。

「――い、おーい、ゆーとぉ?」

 目の前で振られる箸にようやく気づき、ぼーっとしていたことを思い知らされる。
 たったの数秒、それだけの時間しか今は見ることができない遠い存在になった友坂がいなくなった廊下に何を思い馳せることがあるのか。

「いや、すまない。ちょっとぼーっとしてたわ」

「いいけどよ、女神に目を奪われて我を見失うのはよくないぜ?」

「女神じゃないだろ、あんなやつ」

 元々は近隣住民に迷惑をかけ放題していた悪童一味だったというのに。
 昔を知る人間がここにはいない――地元が数駅離れた高校だから、進学先が一緒になる友人なんてほとんどいなかった。ほとんどが地元の市立と私立の高校に流れていき、なんとなく地元から離れたかった人間以外、他校を受験先に選ぶ輩はいなかったのだ。
 ――そう、友坂以外は。

「その割には、打ち抜かれていたように見えたけどな」

「同郷が友坂しかいないからかもな。そも久々に見たし」

「噂程度なら僕が聞かせる前になんでも先に仕入れている幼馴染みストーカーが何を言ってんだか」

「俺が聞こえるようなところでみんなが喋ってるから悪いんだよ」

 いやいや、と何か言いたそうな友人Aだったが、それ以上は何も聞き入れないと食事に集中した悠人に、続けることはしなかった。腐っても友人であり、幼馴染み二人の関係が面白いからと、おもちゃにして楽しみたいだけなのだろう。

「……?」

 そのとき、スラックスのポケットで、スマホが何かの着信を告げた。