一
ムーシカが終わると椿矢は消えていた。
「あいつ、教えるって言っておきながら……」
「いいじゃん、早く帰ろうよ。濡れた服、着替えたい」
いなくなったものは仕方ない。
柊矢も濡れて身体に張り付いている服を何とかしたいのは同感だったので車に向かった。
「あの、柊矢さん、このペンダント。お祖父様の形見なんですよね。やはり頂くわけには……」
小夜がペンダントを外して差し出した。
柊矢は、
「その手、早く手当てしないとな」
とだけ言って受け取らなかった。
「柊矢さん!」
「俺の物だ。どうしようと俺の勝手だ」
小夜は困って楸矢の方を振り返ると、
「祖父ちゃんの形見ならフルートがあるから」
と両手を挙げた。
「それは柊兄からの愛のプレゼントなんだからさ。貰っておきなよ」
「あ、あ、あ……」
小夜は真っ赤になってどもった。
「楸矢、小鳥ちゃんをからかうな」
「小鳥ちゃんって言うの、やめてください! 私は動物じゃありません!」
「ほう、植物だったのか。それは知らなかった」
「野に咲く可憐な花ってとこかな」
「だから、からかうのやめてください!」
そんなやりとりをしている間に霧生家に着き、ペンダントのことはうやむやになってしまった。
小夜は学校の窓から西新宿の超高層ビルを見ていた。
今もムーシカが聴こえている。
歌うのも楽しいが、こうして聴いているのも好きだ。
女神の歌声のようなソプラノ、天使の話し声ようなメゾソプラノ、大地の精霊の祈りようなアルト、甘く優しいテノール、様々な楽器の音色。それらが絡み合い、春の日差しのように地上を優しく包む。
あの旋律の森。
凍り付いている旋律が溶けて音楽が流れ出したらどうなるだろう。
きっとどの旋律も美しい音色を奏でるだろう。
あの森は一体何なのだろう。
椿矢さんは知ってるみたいだったけど、また会うにはどうしたらいいんだろう。
あの森のことを詳しく聞きたいな。
今日の帰りに中央公園に行ってみようか。
もしかしたら歌ってるかも……。
そこまで考えてはっとした。
このテノール、椿矢さんだ!
中央公園で歌ってるんだろうか。
学校が終わるまでいてくれるだろうか。
柊矢に電話をしようかとも思ったが中央公園にいるとはっきりしているわけではない。もし、いなかったら無駄足を踏ませてしまう。そもそも柊矢にもこの歌声が聴こえているはずだ。
学校が終わって中央公園に椿矢がいることを確かめてから電話することにした。
小夜は午後の授業中ずっとそわそわしていた。が、最後の授業が終わる前に椿矢の声は聴こえなくなってしまった。
柊矢は椿矢のムーシカを聴きながら中央公園に行こうか考えていた。
そのとき、呼び鈴が鳴った。
一日中家にいる者にとって一番煩わしいのが新聞などの勧誘や不要品を引き取ると言ってくる手合いだ。
断ってもしつこく来るのは違う人間なのか、それとも同じヤツなのか。押し売り押し買いの顔などいちいち覚えてないので分からなかった。
それでも柊矢は男だから押し売り押し買いも強引なことはしないで帰っていく。聞くところによると一人暮らしの高齢者にはかなりしつこいらしい。
溜息をつきながらドアを開けると、そこには沙陽が立っていた。
「沙陽。……何の用だ」
「話をしに来たのよ」
「こっちは話なんかない。帰ってくれ」
柊矢がそう言ってドアを閉めかけたとき、
「ムーシコスのこと、知りたくない?」
沙陽が扉に手をかけて止めた。
沙陽と椿矢の口振りからしてこの二人はムーシコスについて詳しそうだった。
だが沙陽が嘘をつかないという保証は?
もう二度と沙陽のことは信用しないと決めた。知り合って間もない椿矢の方がまだ信じられる。
しかし沙陽は何か企んでいるようだ。その計画に柊矢を引き込みたいのなら、それに関しては嘘はつかないかもしれない。
柊矢が迷っていると、
「柊兄、何してるの? って、沙陽!……さん」
「楸矢君、久しぶりね」
楸矢は、なんで沙陽がここにいるんだ、と言う顔で柊矢を見た。
「楸矢君だって、ムーシコスのこと、知りたいでしょ」
「それは知りたいけど……」
あんたからは聞きたくない、と言う顔で沙陽を見た。
沙陽は溜息をついた。
「出直した方が良さそうね。今日は帰るわ」
そう言うと踵を返して帰っていった。
小夜は霧生家に続く道を歩いているところで沙陽に気付いた。
咄嗟に立ち止まって胸元を押さえたが沙陽の方は小夜を覚えてないのか表情を変えることもなく通り過ぎていった。
「ただいま帰りました」
小夜が家に入ると柊矢と楸矢は台所で向かい合って座っていた。
「あ、お帰り、小夜ちゃん」
「沙陽さんが来たんですか?」
「すれ違ったのか」
「はい」
「何もされなかった?」
楸矢が心配そうに訊ねた。
「私のこと、覚えてなかったみたいです」
「そうか」
柊矢はそう答えたものの沙陽がペンダントを持っている小夜の顔を忘れるはずがない。
何に必要なのかは知らないが沙陽にとっては大事なものらしかった。
沙陽はそう言うものは簡単には諦めない。
多分、人の往来がある場所で無茶なことが出来なかっただけだろう。
と言うことは人目がないところでは襲ってくる可能性があるのか?
やはり話だけでも聞くべきだったのか?
しかし追い返してしまったものは仕方がない。
今度椿矢の歌声がきこえたら迷わず中央公園に行くことにしよう。
「しばらく人気のないところは歩くな」
と小夜に言った。
学校の行き帰りはどうする?
送り迎えしてもいいが、変な噂が立つと小夜が困ったことになるだろう。
「え?」
意味が分からず、きょとんとしている小夜を残して柊矢は部屋へ戻った。
柊兄もちゃんと理由を言えばいいのに。
楸矢は密かに溜息をついた。
「小夜ちゃん、今日の夕食、何?」
楸矢の問いに、小夜は冷蔵庫を開けた。
「買い物に行かないと。私ちょっと行ってきます」
「じゃあ、一緒に行くよ」
柊矢の言葉の意味が分かっている楸矢が言った。
「一人で大丈夫ですよ」
柊矢も楸矢も一緒に買い物に行くと荷物を全部持ってくれる。
それが心苦しくてなるべく黙って一人で行っているのだが今日は言わないわけにもいかず答えてしまった。
「夕食リクエストしたいからさ。一緒に行っていいでしょ」
そう言われると小夜も嫌とは言えなかった。
二
数日たったが、いくら待っても椿矢の歌は聴こえてこなかった。
小夜も何事もなく過ごしているので柊矢も楸矢も気が緩み始めた頃だった。
小夜は霧生家のある住宅街を歩いていた。買い物の荷物が重い。こう言うとき荷物を持ってくれる柊矢達の有難さを痛感する。
向こうから男が一人、歩いてきた。他に人気はなかったが住宅街なのだから通行人がいるのは当たり前だ。
小夜がそのまま男とすれ違おうとしたとき、いきなり腕を掴まれた。
「え?」
小夜が目を丸くしていると男が小夜の胸元に手を入れようとした。
「な、何を……」
小夜は袋を落とすと男の胸を押して引き離そうとした。
男は小夜のペンダントを探り当てると思い切り引っ張った。
「きゃ!」
小夜が前のめりに倒れる。途中で鎖が切れた。
「おい! 何してるんだ!」
学校帰りの楸矢が通りかかって声を上げた。
男がペンダントを掴んで走り出す。
「小夜ちゃん! 大丈夫!」
楸矢が倒れている小夜に駆け寄ってきた。
エンジン音がして楸矢が後ろを振り返ると男がバイクに乗って逃げていくところだった。
「痛た……」
小夜が顔をしかめながら身体を起こそうとした。楸矢が手を貸して起き上がらせる。
「首、怪我してるね。とにかく帰ろう。手当てしないと」
「柊兄! 柊兄!」
家へ入ると楸矢が柊矢を呼んだ。
「どうした」
柊矢が二階から下りてきて楸矢に支えられている小夜を見て目を見開いた。
「おい! 何があった!」
楸矢は小夜を台所の椅子に座らせながら柊矢に今見たことを話した。
柊矢は目を閉じて聞いていた。
やはり、学校帰りを狙われたか。
こんなことなら無理にでも送り迎えをするんだった。
「とにかく傷の手当てが先だな」
柊矢がそう言うと楸矢が救急箱を持ってきた。
それを受け取ると小夜の前に膝をつく。
すぐそばにある柊矢の顔に小夜は思わず赤くなった。
オーデコロンかな?
いい匂い。
って、ダメダメ!
そんなこと考えたらますます赤くなっちゃう!
この程度で赤くなったら、またからかわれちゃう。
小夜は赤い顔に気付かれないように俯きたかったが手当をされているのが首だからそうもいかなかった。
そんな小夜の様子を楸矢は横目で見ていた。
「少し染みるぞ」
柊矢が傷の消毒を始めると小夜が顔をしかめた。
「それで、ペンダントを持っていったんだな。それならこれ以上は……」
「あの……」
小夜が手当を受けながら口を開いた。
「あれ、偽物なんです」
「どういうこと?」
「柊矢さん達のお祖父様の形見を盗られたら困ると思って……」
小夜はそう言ってポケットから小さな巾着に入った本物のペンダントを取り出した。
「この前、雑貨店に行ったらそっくりなのが売ってたから買ってきたんです。それを首にかけて、本物はポケットに入れてたんです」
「そうか……」
小夜のことを考えるなら本物を盗られた方がこれ以上狙われることがなくなって良かったのだが、彼女の気遣いを思うとそれは口に出せなかった。
「じゃあ、向こうが偽物だって気付いたらまた狙われるわけだ」
楸矢が言った。
「でも……本物と偽物の違いってなんでしょう」
小夜が言った。
「え?」
楸矢が聞き返す。
「私、見比べてみましたけど、違いはペンダントヘッドと鎖の間の留め具の細かい細工しかありませんでした。宝石なら光り方の違いとかで分かりますけど、これは違うし……」
柊矢と楸矢は顔を見合わせた。
二人は偽物を見てないから何とも言えないが女の子の小夜が見て分からないのなら少なくともアクセサリーとしては大して変わらないものなのだろう。
だが沙陽はムーシコスの帰還に必要なものだと言っていた。
だとしたら何かに使うのだろうし、それは偽物では役に立たない。
小夜が話している間に首と手のひらの手当は終わり、柊矢は膝の手当てをしようとした。
「あ、膝は自分でやります!」
思わずスカートの裾を押さえた。
「子供のスカートを覗く趣味はない」
「こ、子供って……」
小夜が口をぱくぱくさせているうちに柊矢は手早く膝の手当てをした。
「小鳥ちゃん、傷だらけだね。柊兄、全然お守りになってないじゃん」
「楸矢さん、小鳥ちゃんって言うのやめてください。お守りがあったからこの程度で済んだんですよ」
「小夜ちゃんは優しいなぁ」
「手当は終わった。着替えてくるといい」
「有難うございました」
小夜は逃げるように部屋へ戻った。
楸矢が小夜の買い物袋の中を覗き込む。
小夜はすぐに着替えて下りてきた。
「楸矢さん、調理する前のもの食べちゃダメですよ」
「食べないよ。ただ、卵が割れてるなって」
「あ、やっぱり割れちゃってますか。今夜は親子丼にしようと思ってたんですけど」
「親子丼! 俺、大好きなのに! くそ、沙陽のヤツ! ぜってぇ許さねぇぞ!」
「そんなに好きなんですか」
楸矢が自分の好物を口にしたのは初めてだ。
「うん、大好き」
「なら、もう一度卵を買ってきま……」
「いや、行くのは楸矢だ」
柊矢が小夜の言葉を遮った。
「ちょっと行って買ってこい」
「はーい。行ってきまーす」
楸矢は部屋に戻ってジャケットを取ってくると買い物に出ていった。
「柊矢さん、私、買い物くらい行けますよ」
「まださっきのヤツがいるかもしれない。今日は念のため家から出るな。それから明日からは俺が学校の送り迎えをする」
「でも、向こうはもう盗ったって思ってるはず……」
「つべこべ言うなら外出禁止だ」
「柊矢さん!」
柊矢は小夜の抗議を背に受けながら部屋に戻った。
「間違いなくあの小娘が首にかけていたものなんだな」
代々木のマンションの一室で、三十代後半の男はそう言うと鎖の切れたペンダントを見た。
「間違いねーよ」
その言葉に、沙陽は男に金を払った。
男が消えるのを待って、
「晋太郎、それを持っていてもクレーイス・エコーなら邪魔出来るはずよ」
沙陽は言った。
「分かっている。それはまた考える。どうせたかだか三人だろう」
晋太郎の言葉に沙陽は溜息をついた。
これで柊矢は完全に敵に回っただろう。
もう沙陽の言うことに耳を貸してはくれないはずだ。
ペンダントを奪うのは説得に失敗してからにしたかった。
だが十年近く所在が分からなかったクレーイスがようやく見つかったため、気が逸った晋太郎は実力行使に出てしまった。
折角柊矢がムーシコスだと分かったのに。
しかも、クレーイス・エコーだった。
桂ではなく、柊矢の方がムーシコスだと分かったときはムーシコスを装って自分を騙した桂より、ムーシコスだと打ち明けてくれなかった柊矢を恨んだ。
でも柊矢が同じムーシコスで嬉しかったのも事実だった。
柊矢と一緒にあの森に帰れたらどんなにいいか。
柊矢は何も知らないのだ。あの森のことを。
きっとあの森のことを知れば自分と同じ気持ちになってくれるはずだ。
なのに……。
「沙陽、何をしている。早速始めるぞ」
「分かったわ」
沙陽は晋太郎について部屋を出た。
あれ?
小夜は親子丼を作りながら、聴こえてきたムーシカに首を傾げた。
一人で歌ってる。
この歌声、沙陽さん?
重唱も斉唱もない。
演奏も弦楽器が一つだけだ。
なんで他のムーシコスは参加しないんだろう。
「ね~、小夜ちゃん、まだぁ?」
楸矢の甘えるような声に、
「あ、もう出来ます」
今はご飯作るのに専念しなきゃ。
小夜の頭からムーシカのことは消えた。
三
小夜の学校の送り迎えを柊矢は本当に実行に移した。
もしかしたらあの場の勢いで言っただけかもしれない、と思ったのだが甘かった。
「小夜! 見たよ!」
「あの人、誰?」
小夜は教室に入るなり、クラスメイトに取り囲まれた。
「あれ、その包帯どうしたの?」
柊矢のことを聞こうと身を乗り出してきた清美が首の包帯に気付いて訊ねた。
「あ、これは……」
「まさかキスマーク隠してるんじゃ……」
「え~! キスマーク!?」
「あの人とそう言う関係なの!?」
クラスメイト達がどよめいた。
「清美! 変なこと言わないでよ!」
小夜が真っ赤になった。
「じゃ、どうしたの?」
「その、昨日の帰りひったくりに遭って……」
「嘘ぉ!」
「大丈夫だったの?」
「うん、どれもかすり傷」
「小夜、あの人でしょ。お守りくれた人」
小夜の傷が大したことがないと聞いて安心した途端、また柊矢に話題が戻った。
「何? お守りって」
「何のこと?」
クラスメイト達が口々に訊ねる。
清美は小夜が柊矢からお守りをもらったことをみんなにバラしてしまった。
「お守りだけじゃ安心できなくて、送り迎えまで?」
「すごい! 小夜のナイトだね!」
「そんなんじゃないってば……」
「どこに住んでる人なの?」
クラスメイトの問いに、
「小夜と……」
話そうとした清美の口を小夜は慌てて口を塞ぐ。
「あのね、あの人、後見人なの」
「後見人?」
「ほら、私のお祖父ちゃん、死んじゃったでしょ。私、他に身寄りがいないし。だから私が成人するまで保護者になってくれた人なの」
小夜がそう言うと周りにいたクラスメイト達はバツの悪そうな顔になった。
お祖父ちゃん、口実にしてごめんなさい。
小夜は胸の中で祖父に手を合わせて謝った。
それ以上誰かが口を開く前に予鈴が鳴って、みんなそそくさと席に戻っていった。
清美が小夜の手の甲を突いた。手を放せということだろう。小夜はまだ清美の口を塞いでいた。
「清美! これ以上バラさないって約束して!」
「分かった分かった」
小夜は清美から手を放すと席に着いた。
祖父の代わりに保護者になった人、と聞いてみんな柊矢の話をしなくなった。
亡くなった祖父のことに触れてしまうのを恐れているのだろう。
担任の教師から職員室に呼ばれて今朝柊矢に送られてきた事情を聞かれたが、昨日ひったくりに遭ったから後見人が用心のために送り迎えをしてくれている、と答えた。
首と手足の傷を見て信用してくれたのか、それ以上追求されることもなく解放してくれた。
教師達も孤児になった小夜に対して腫れ物を扱うように接していた。
清美達のお陰で予行演習が出来て良かった。
お祖父ちゃん、二度も口実にしてごめんなさい。
小夜は胸の中でもう一度祖父に手を合わせた。
「柊矢さん、私、放課後に友達と買い物とかしたいんですけど」
小夜は迎えの車の中で柊矢に訴えた。
「そう言うときは事前に連絡しろ」
「そうしたら迎えに来ないでくれるんですか?」
「友達と別れたところでまた連絡しろ。そこへ迎えに行く」
小夜は溜息をついた。
しかし自分の為を思ってやってくれていることを考えると、むげに断ることも出来ない。
もっとも、柊矢はどんなに拒絶しても、やると決めたら絶対やり通すだろう。
まだ一緒に暮らし始めてそんなに日数がたったわけではないが、それくらいは分かった。
それに柊矢の送り迎えはホントのことを言うとそんなに嫌ではない。
短い時間だが、柊矢と二人きりで話が出来るのは嬉しかった。
柊矢は一日中仕事をしていてお喋りが出来る機会は少ないのだ。
翌日、早速小夜は友人と出かけると連絡してきた。
ファーストフード店でおしゃべりをするだけだと言っていたし夕食の支度もあるからそんなに遅くはならないだろう。
柊矢はファーストフード店の近くに車を止めると隣の喫茶店に入った。
コーヒーが来て口を付けたとき、
「話を聞いて欲しいの」
沙陽が柊矢の側に立って言った。
「……いいだろう」
柊矢がそう答えると沙陽が向かいに座ってアメリカンを頼んだ。
「最初に言っておくと、あの子を襲わせたのは私じゃないわ」
柊矢はどうでもいいというように肩をすくめた。
馬鹿馬鹿しくて答える気にもなれなかった。
全く関係ないなら襲われたことを知っているはずがない。
ペンダントを持っていることを知っていたのは沙陽だけだし、小夜は制服の下に着けていて外からは見えなかったのだから通りすがりの男が衝動的に盗ったということもあり得ない。
沙陽は柊矢が怒ってないと思ったのか安心したように微笑んだ。
「私達の目的はあの森に帰ることなの」
「どういうことだ?」
「ムーシコスはあの森から来たの」
「俺は東京生まれの東京育ちだ」
「そうじゃなくて!」
沙陽が苛立ったように言った。
「ムーシコスの祖先はあの森に住んでたのよ。理由は分からないけど、ある日ムーシコスは森を離れた」
柊矢は黙っていた。
「私、あの森を見てきたの」
柊矢が小夜に言った、森に入って行ったきり帰ってこなかった人、というのは沙陽のことだ。
コンクールの日、沙陽を病院まで連れていって帰ってきてから超高層ビルのそばで別れ話をした。
コンクールの邪魔をしようとしたことで桂を選んだことは分かった。
仮に、あの時点でまだ桂を選んでいなかったとしても沙陽の音楽に対する拘りはかなりのものだったから、音大を中退しヴァイオリニストになることを放棄したら桂を選ぶだろうと思った。
以前から沙陽が惹かれているのは柊矢自身ではなくヴァイオリニストとしての腕のように感じていた。
桂も音楽家としては抜きん出た才能を持っていたから二股の相手が彼だと知ってその思いは強くなった。
柊矢も桂も男として好きになったのではなく音楽の才能で選ばれたような気がしたのだ。
だが柊矢は元々ヴァイオリニストを目指していたわけではない。周囲の大人達からヴァイオリニストとして将来有望だと言われていたから、それならなってもいいと思っていた程度だ。
演奏をするのが好きだから弾いていただけだし、ヴァイオリンだったのは小さい頃から習っていたからで特に拘りはなかった。
音大付属の高校に入ったのも普通の高校より音楽の時間が長いからと言うだけの理由だった。
楽器ならなんでも良かったから家で歌にあわせてキタラを弾いてるだけで満足だった。
だから、音大をやめるのに躊躇いはなかったしヴァイオリニストに未練もなかった。
仕事のほとんどは自宅でするから歌が聴こえてきたらいつでもキタラを弾ける。
柊矢にはそれだけで十分だった。
どちらかと言えばステージの上で聴衆に向かってヴァイオリンを弾くより歌にあわせてキタラを弾いている方が好きだった。
だが、それは沙陽には理解出来ないだろうと思った。
なんとなく沙陽とは考え方やものの見方が違っているような気がしていた。
だから桂と二股かけられていると分かって後腐れなく別れられると思ったのだ。
別れ話が終わる頃に森が出現した。
沙陽は自分が振ったのではなく、振られたのだと言うことに屈辱を感じたようだったが柊矢と別れることには異論がなかったようで、あっさり受け入れた。
柊矢が別れを告げると、むっとした表情ではあったものの、
「さよなら」
と言って背を向けると歩み去った。
そして森に入っていったかと思うと一緒に消えたのだ。それまで森はただ見えてるだけだと思っていたから沙陽が入っていってそのまま消えてしまったときは驚いた。
しばらく辺りを捜したが見つからなかったので沙陽の両親には、沙陽の行方が分からなくなったと連絡しておいた。警察への連絡は沙陽の両親に任せた。普通の人間には見えない森に入っていって消えた、などと言っても門前払いされるだけだし、どちらにしろ大人だからいなくなった直後では受け付けてもらえない。
この前会うまで戻っていたとは知らなかった。
「素敵なところだった」
沙陽は夢見るような表情で言った。
あの森はムーシコスを惹き付けるものがあるのだろうか。
小夜も森のことを話すときは同じような表情になる。
柊矢や楸矢は「綺麗」以上の感想は持てないから、そうするとムーシコスの中でもムーソポイオスを惹き付けるのだろうか。
だが同じムーソポイオスの椿矢も柊矢達と同じように特に魅せられている様子はない。
だとすると女性のムーソポイオスを魅了する何かがあるのだろうか。
「少し離れたところに神殿があるの。ギリシアのパルテノン神殿みたいなのが」
「あの森に帰るって言うが、あそこで生活できるのか?」
「勿論、凍り付いた旋律を溶かすのよ。そうすれば森は元に戻る。お願い、協力して」
「協力?」
「あの子の持ってたペンダントさえあれば森に帰れると思ってた。でも、私達だけではダメだった」
あれが偽物だということにはまだ気付いてないらしい。
「あなた達クレーイス・エコーの力を貸して欲しいの」
「俺達? クレーイス・エコーって何だ」
「クレーイス、あのペンダントのことだけど、鍵っていう意味よ。クレーイス・エコーっていうのは鍵の力を引き出せる者よ」
「俺達っていうのは?」
「あなたと楸矢君と、あの子」
小夜も入っているのか。
柊矢は顔をしかめた。出来ることなら小夜は巻き込みたくない。
「どうして俺達がクレーイス・エコーだって分かるんだ?」
柊矢がムーシコスだということを知ったのは嵐のときのはずだ。
「クレーイスはクレーイス・エコーの手に渡るようになっているからよ。知り合いのお祖父様がクレーイス・エコーだったけど、その人が亡くなると同時にクレーイスも消えた」
つまりクレーイスが祖父の遺品で柊矢が手に入れたと知って、柊矢と楸矢がクレーイス・エコーだと判断したのか。
そして柊矢からクレーイスを渡されたなら小夜もクレーイス・エコーということか。
確かに、小夜に渡したのはそうすべきだという気がしたからだ。
お守りと言ったのはなんとなく守ってくれそうだと思ったからそう言っただけだった。
「帰るってのはムーシコスの総意じゃなさそうだが?」
椿矢は協力する気はないと言っていた。
沙陽達の話には乗らなかったと言うことだ。
「二つに分かれてるのよ。残留派と帰還派に」
まぁ、普通に考えて、今自分が住んでいるところに満足してれば、わざわざ知らない土地に移り住もうなどとは思わないだろう。
ホモ・サピエンスはアフリカで生まれたと言われているが、だからといって人類が皆アフリカに住みたがっているわけではないのと同じだ。
「帰らないのは勝手よ。でも、帰りたいって言うのを邪魔する権利はないはずだわ」
「女子高生を襲って怪我をさせる権利だってない」
「だから、それは私じゃないって……」
「お前の一味の誰かがやったんだろ」
「一味って、そんな悪者みたいに……」
「女子高生から持ち物を奪って怪我をさせるのは十分悪者だと思うが」
沙陽が反論しようとしたとき、柊矢のスマホが振動した。
ポケットからスマホを出して電話に出る。
「ああ。分かった。今行く。そこで待ってろ」
柊矢はスマホをしまうと、それ以上は何も言わず沙陽と自分の勘定書を取ってレジに向かった。
四
「あの、柊矢さん? いつまで送り迎えが続くんですか?」
小夜が助手席で訊ねた。
車は明治通りを走っていた。家までそう遠くない。
沙陽は自分達ではダメだったと言っていた。
彼女が『クレーイス』と呼んでいるペンダントが偽物だからと言うのもあるのだろうが、何かの儀式のようなこともしているのかもしれない。
『あなた達』の中に小夜が入っていた。
三人全員必要ではないのなら、一番攫いやすいのは小夜だ。
まだ小夜を狙ってくる可能性があると言うことだ。
「今回のことに決着が付くまでだな。送り迎えされるのは迷惑か?」
「いえ、ただ、お仕事の邪魔になってるんじゃないかと……」
送り迎え自体は嫌ではない。
と言うか、むしろ柊矢と二人きりになれるのは嬉しい。
しかし、それが柊矢の負担になって結果的に嫌われないかが心配なのだ。
「それなら問題ない」
「でも、どうしてここまでしてくれるんですか?」
小夜は柊矢にとって、ムーシコスであること以外には縁もゆかりもない人間だ。
「前に言っただろ。祖父から一度拾った生き物は最後まで面倒を見るように言われてる」
家に帰ると夕食を作るのには少し早い時間だった。
少し歌おう。
小夜は音楽室に入ると聴こえて来るムーシカにあわせて歌い出した。
すぐに柊矢が入ってきてキタラを弾き始める。
重唱や斉唱、副旋律を歌うコーラスや演奏が次々に加わって小夜達の周りに音楽が満ちていく。
そのうちに楸矢も帰ってきて笛を吹き始めた。
透明な歌声と演奏に包まれながら歌っていると嫌なことは全て忘れられた。
きっとあの森の旋律が溶けたらこんな風に音楽が地上に満ち溢れるんだ。
斉唱と重唱、演奏、それらが重なり、風のようにどこまでも流れていく。
ムーシカが終わると丁度夕食の支度の時間だった。
これからは楸矢が音楽室でフルートの練習をする。
よその家から美味しそうな醤油の匂いが漂ってくる。
小夜はエプロンを着けながら台所に立った。歌の余韻に浸りながらジャガイモを剥こうとして手の甲の絆創膏が目に入った。
沙陽のムーシカはいつも独唱だ。
嵐の時も、それ以外の時も。
独唱のムーシカだからじゃない。
他のムーシコスが同調しないからだ。
ムーシコスは人を傷つけるためのムーシカは歌わないし、演奏しない。
だから沙陽はいつも一人で歌っている。
沙陽もムーシコスだから今のムーシカが聴こえたはずだ。
ムーソポイオスの合唱をどんな思いで聴いていたのだろうか。
本来なら、あの人だって加われるはずなのに。
柊矢から沙陽があの森に帰りたがっていると訊いた。
だがムーシコスから孤立してまで帰りたいのだろうか。
あの旋律の森に。
音楽が満ち溢れる世界は素敵だと思うけど、そこにいるのが自分一人だけでも幸せなのだろうか。
家族も友達もいない天国を楽園だと思えるのかな。
小夜がジャガイモの皮を剥いていると、か細い鳴き声が聞こえてきた。
「え?」
すごく小さくて今にも消え入りそうだけれど確かに聞こえる。
小夜はジャガイモと包丁を置くと勝手口から外に出た。外は小雨が降っている。
小夜は玄関から傘を持ち出した。
霧生家の門の近くに段ボールが置かれていた。鳴き声はその段ボールの中から聞こえてきている。子猫が四匹、段ボールの中で鳴いていた。
小夜はしゃがんで傘を段ボールに差し掛けた。
どうしよう。
居候の身で子猫を連れ帰ることは出来ない。でも、放っていくことも出来なかった。困っていると、後ろから足音が聞こえてきた。
振り返ると柊矢が立っていた。
「柊矢さん」
「何だ、子猫か」
「あ、あの、これは……」
小夜が口ごもっていると柊矢は段ボールを持ち上げた。
「帰るぞ」
「え? え? 柊矢さん、どうしてここに……」
小夜が柊矢に傘を差し掛けながら訊ねた。
「ドアが開く音がしたから様子を見に来た」
柊矢は先に立って家に向かった。
ドアを開け、傘を閉じた小夜を先に通すと玄関に段ボールを置いた。
「あの、この子達、どうするんですか?」
「うちで飼うわけにはいかないからな。貰い手を探すしかないだろ」
「柊矢さん!」
小夜が嬉しそうな顔で柊矢を見上げた。
「ミルクでもやっておけ」
「はい!」
小夜は子猫達に少しだけ温めたミルクをやると夕食の準備に戻った。
夕食の支度が出来た頃、楸矢が音楽室から出てきた。
「あれ? 猫の鳴き声」
「さっきそこに捨てられてて……」
「猫なんて久し振りだなぁ」
「猫、飼ってたことあるんですか?」
「たまにね」
たまに?
意味が分からず首を傾げていると、
「捨て猫見ると放っておけなくてさ。見つけると拾ってくるんだ。柊兄も俺も」
拾った生き物云々と言っていたのはこのことだったのか。
「でも、全部を飼うわけにはいかないからさ、いつも貰い手探して引き取ってもらってるんだ」
楸矢がフライドポテトに手を伸ばしながら言った。
「そうだったんですか」
小夜はフライドポテトの皿を取り上げながら答えた。
「ちょっと味見させてよ」
「楸矢さんのは味見じゃすまないからダメです」
そう言って取り分け用の皿にポテトを少し載せて渡した。
楸矢は、これだけ? と言いながらも美味しそうに食べていた。
「明日から猫の貰い手探ししないとね」
「楸矢さんも探してくれるんですか?」
「勿論」
「有難うございます」
小夜はそう言って楸矢の皿にフライドポテトを追加して載せた。
「猫? 欲しいけど、うち、マンションだから」
何度目かの同じ答えが返ってきた。
確かに都心では一戸建てに住んでる人間よりマンション住まいの人の方が遥かに多い。新宿区に居住している数十万人のうちの大半はマンション暮らしだ。
たまに一戸建てに住んでる子がいても家族に猫アレルギーや猫嫌いの人がいるか、猫好きは既に飼っているかで、貰い手は付かなかった。
自分が拾わせてしまった手前、何とか自力で猫の貰い手を探したかったのだが一人も見つからなかった。
がっかりして迎えに来た柊矢の車に乗った。
「どうした? 学校で何かあったのか?」
「猫の貰い手が見つからなくて……」
「あれならもう全部貰われてったぞ」
「ホントですか!?」
驚いて柊矢の顔を見た。
自分はあれだけ苦労しても見つからなかったのに。
「楸矢の友達が引き取っていった」
「楸矢さん、友達多いんですね」
「みんな楸矢の気を引きたくて貰っていったんだろ」
なるほど。
確かに猫を貰えば話しかける口実になるし、家に呼ぶ名目に使える。
楸矢さんってモテるんだ。
五
学校の帰りに寄り道をせず車で帰ってくると結構時間が余る。
学生だから本来は勉強した方がいいのだろうが小夜はつい歌ってしまう。柊矢も勉強に関しては何も言わない。
まぁ、柊矢さんも楸矢さんも音大付属高校の音楽科だから、普通の勉強より音楽の方を重視しているのかもしれないけど。
とはいえ成績が悪くて後見人の柊矢が学校に呼び出されるような羽目になっても困るので、宿題や予習、復習は真面目にやっていた。
「小夜ちゃん、今日のおやつは?」
楸矢が台所の椅子に座って訊ねた。
もう箸を手に持っていた。
「ごぼうの素揚げです」
「何それ?」
「ごぼうを油で揚げて、少しお塩をかけたものです」
「ふぅん」
楸矢は自分の前に置かれた皿から、五センチほどの長さに切られたごぼうを箸でつまんで口に入れた。
「あ、美味しい。揚げ物の割りには油っぽくないし」
「そうですか。良かったです」
小夜はそう言って微笑むとキャベツの千切りに戻った。
「小夜ちゃん、進路文系選んだって聞いたけど、普通の高校って高一で進路決めるものなの?」
「進学するかとか、するとしたらどの大学を受けるのかとかは決めてなくても一応文系か理系かは選んでおかないといけないんです。受験科目が違いますから」
「受験勉強って難しい?」
「さぁ? 私はまだ進学するかも決めてませんから」
「なんだ、普通の大学に行きたいのか?」
柊矢が台所に入ってきた。
「柊兄! いや、そういうわけじゃ……」
楸矢が慌てたように手を振った。
「行きたいなら行けばいいだろ」
「……いいの?」
楸矢が窺うように柊矢を見た。
「お前の進路なんだから俺の了解は必要ないだろ」
「柊兄は俺のために音大やめたから……」
「それとお前の進路となんの関係がある。俺は音大付属も音大も音楽の授業が多いからって理由で選んだだけだからな。今の仕事は好きなときに演奏出来るから音大へ行く必要がなかったってだけだ」
「柊兄はヴァイオリニストになりたかったんじゃないの?」
「別に。なってもいいとは思っていたが、どうしてもなりたかったってわけじゃない」
楸矢の問いに柊矢の方が意外そうな表情で答えた。
楸矢がそんな風に考えてたとは思ってなかったらしい。
「なんだ」
楸矢が拍子抜けした表情で言った。
「だが、お前の成績じゃ今度の入試は無理だぞ」
「柊兄は夜間部とは言え、すぐに受かったんだよね」
楸矢は参るよなぁ、などとぼやいた。
「音楽の授業が長いからって理由で音大付属に行っていたとは言っても学生なんだから勉強もしてたに決まってるだろ。お前の成績が悪いのはフルートに打ち込んでるからじゃなかったのか」
柊矢の責めるような視線に楸矢は決まりの悪そうな表情で目を逸らせた。
どうやら柊矢は、楸矢が勉強する間も惜しんでフルートに没頭してると思っていたから成績が悪くても何も言わなかったらしい。
普通の大学へ行ってもいいということはフルートに専念していたからと言ってフルート奏者になって欲しいと思っているわけでもないようだ。
単純に音楽が好きなら好きなだけやればいいというだけで、それを将来に繋げるべきとか言う考えはないらしい。
「着いたぞ」
「有難うございます」
小夜は柊矢が開けてくれたドアから車を降りた。
「帰りはいつも通りか?」
「はい。何か変更があったら連絡します」
「分かった」
柊矢はそう言うと車に乗って帰っていった。
「いつ見てもいい男~」
いつの間にか現れた清美がうっとりしたように言った。
「いちいち助手席のドア開けてくれるんだもんね~」
買い物すれば荷物を持ってくれるんだよ、とは言わなかった。言えば、騒ぐに決まっているからだ。
「ねぇ、小夜、ホントにあの人と何もないの?」
嫌なこと聞くなぁ。
「ないよ。ただの保護者」
口にすると少しだけ胸が痛んだ。
「じゃあ、あたしが迫ってもいい?」
「いいけど、あの人の元カノ、すごい美人だよ。それに楸矢さんが柊矢さんは子供は相手にしないって言ってたし」
「元カノが美人ってことは、綺麗な顔は散々見たってことでしょ。なら、もう顔には拘らないかもしれないじゃん」
清美のこの超ポジティブなところ、私も見習わなきゃ。
そのとき、沙陽の歌声が聴こえてきた。やはり、斉唱も重唱もなかった。演奏も楽器が一つだけだった。
これも人を傷つけるムーシカなのかな。
特に嫌な感じはしないが他のムーシコスが加わってないのは何か理由があるからなのかもしれない。
柊矢さん、大丈夫かな。
柊矢は家に戻る途中で沙陽のムーシカに気付いた。
小夜に何かするつもりか?
車をUターンさせると小夜の学校の近くに止めた。
出来ることなら学校に乗り込んで小夜の無事を確かめたいが、さすがにそれをするのは憚られた。
ひどい怪我をすれば救急車が来るはずだ。
ここにいれば分かるだろう。
本来ならば、そんな大怪我をする前に助けたいのだが……。
しばらく待ってみたが救急車は来なかった。学校の校庭からはかけ声や歓声などが聞こえてくる。特に騒ぎにはなっている様子はない。
そのうちに沙陽のムーシカは終わった。
何かの儀式のムーシカだったのか?
鍵がどうのと言っていたが、鍵の使い道は鍵を開けることと相場が決まっている。
つまり開けたいものがあるのだ。
あの森へ行く道、か。
一時間近く待ってみたが何もなさそうなので車を出した。
第四章 古の調べ
一
学校が終わり柊矢の車を待っているとき、ふと見上げると森が出現していた。
柊矢の車が小夜の前に止まり柊矢が車を降りてきて助手席側に回ってきた。
「柊矢さん! 森が……!」
小夜は森を指さした。
「行ってみるか?」
「はい」
相変わらず森は静かで美しかった。風が吹いても葉の一枚すら動くことなく立っている樹々。
小夜は思わず見とれていた。
旋律が溶けて普通の森に戻ったらどんな景色になるのかな。
きっとすごく素敵だろうな。
沙陽さんの、この森に帰りたいって気持ちがよく分かる。
ふと見ると沙陽が屈んで何かしていた。
「あ」
小夜が思わず声を出すと沙陽が振り返った。
沙陽が立ち上がった。
小夜はポケットの中のペンダントを握りしめた。
柊矢さんのお祖父様の形見を無くすわけにはいかない。
沙陽がこちらに近付いてこようとしたとき、
「おい!」
柊矢が小夜の前に庇うように立った。
「柊矢さん」
小夜は柊矢を見上げた。
別に小夜を選んだわけではないだろうが、それでも守ろうとしてくれたのが嬉しくて顔に出てしまった。
沙陽が何とも言えない顔をして二人を見ていた。
「こんなところで何をしてる」
「ちょっとしたアルバイトよ。スポンサーがこれを欲しがってるから」
沙陽は手にした小さな花を見せた。
この森に生えていたものだから旋律で凍り付いている。
「どうしてそんなものを……」
「この花に触れれば旋律が聴こえるからよ。この花のね」
「何のために?」
「山崎敏夫って言えば分かる?」
確かアイドルの曲などを作っている作曲家だ。
沙陽は二人に背を向けて歩み去ろうとした。
「ちょっと待て」
沙陽が足を止めた。
「こいつの家の火事の晩、歌ってたのお前だな。あの火事はお前の仕業か」
小夜が息を飲んだ。
「その子の家の火事はポイ捨て煙草の火のせいでしょ」
煙草のせいだと知っている。
火事の原因はニュースや新聞には出ていなかった。
無関係なら知っているはずがない。
やはり、あのムーシカは沙陽だったのだ。
あのときは沙陽が森から戻ってたと知らなかったから彼女の声とは思わなかったが思い返してみればあれはこの女の歌声だ。
「タバコだけじゃなくて古新聞も置いたでしょ!」
柊矢は驚いて小夜を振り返った。
「なんのこと?」
沙陽がしらを切った。
「私が家を出たとき、古新聞の束なんかなかった!」
「あなたが外出した後に出したんじゃないの」
「古新聞は濡れたら引き取ってもらえなくなるから古紙回収の日の朝までは外に出さないもの。古紙回収の日はまだ先だったから外に出したりするわけない。燃えやすくなるように古新聞の束を置いたんでしょ!」
「私はタバコなんか吸わないし古新聞の束のことも知らないわ。私が歌ったら風が強くなった。そのせいで煙草の火が燃え上がったとしても、それは私のせいじゃない」
「そんな……」
柊矢は沙陽の方へ行こうとした小夜の肩を掴んで引き留めた。
「お祖父ちゃんがあなたに何をしたの! お祖父ちゃんを返して!」
「行ったでしょ。原因は煙草のポイ捨てだって。でも、出掛けてたなんて運が良かったわね」
「あなたがムーシカを歌わなければあんな大火事にはならなかった! なんで……、なんで……」
小夜が涙が小夜の頬を伝って落ちた。
沙陽はそっぽを向いていた。
柊矢は小夜を抱きしめた。
「悪かった。俺の配慮が足りなかった。お前のいないところで聞くべきだった」
小夜は泣きながら首を振った。
柊矢さんのせいじゃない。
どうして?
どうして、沙陽さんはお祖父ちゃんを殺したの?
「お祖父ちゃん……」
腕の中で泣いている小夜を見下ろしながら自分の迂闊さを悔いていた。
多分、狙われたのは小夜の祖父ではない。小夜だ。でも、それは小夜には言えない。
「消えろ、沙陽。二度と俺達の前に姿を見せるな。これ以上こいつを傷つけることは俺が許さない」
それだけ言うと小夜を落ち着かせようと抱きしめたまま背を撫でた。
沙陽は一瞬、柊矢と小夜を見た後すぐに視線を逸らしてその場から去って行った。
小夜が落ち着くと柊矢は彼女を連れて家に帰った。
「今夜はデリバリーにしよう。お前はしばらく部屋で休め」
柊矢の言葉に小夜は大人しく部屋に入っていった。
願わくば、沙陽を憎まないよう柊矢は祈った。
沙陽のためじゃない。
小夜に、憎しみという醜い感情を持って欲しくないからだ。
汚い感情に小夜のきれいな歌声が穢されて欲しくない。
だから沙陽を憎むな。
「え、それホントなの?」
楸矢が声を潜めて聞き返した。
今、小夜は風呂に入っているから普通に話しても聞こえないはずだが念のため彼女の耳に入らないよう小声で話していた。
「坂本さんに聞いたが、確かに古紙回収の日の大分前だったし、濡れたら引き取ってもらえないから当日の朝まで外に出さないっていうのも本当だった。そうじゃなくても、古新聞の類は火事の原因になるから、外に置かないように町内会で周知徹底しているそうだ」
「じゃあ、わざわざ古新聞の束を置いてから火の付いたタバコを捨てたの? 沙陽ってそこまでやるの!?」
「沙陽自身が置いたわけじゃないだろうがな。沙陽は喉を痛めるタバコの煙を嫌ってるから」
多分ペンダントを奪ったときと同じように誰かにやらせたのだろう。
「だが歌ってたのは沙陽で間違いない。お前も気を付けろ」
「柊兄もでしょ。それにしても当分小夜ちゃんの送り迎えはやめられないね」
あの火事は明らかに小夜を狙ったものだ。
多分、あの森やクレーイス・エコーに関する何かで小夜が邪魔だったのだろう。
だとしたら、またやるに違いない。
あいつらはどうして、そこまでしてあの森に拘るんだ?
小夜は風呂に浸かりながら何度も顔を洗っていた。
散々泣いたので目が腫れぼったいのだ。
沙陽さんは「私は運が良かった」と言った。
柊矢さんは何も言わないけど、あれはお祖父ちゃんじゃなくて私を狙ったって言うこと?
だとしたら、私のせいでお祖父ちゃんは死んだの?
私のせいで……。
また涙が溢れてきて慌てて顔を洗った。
お風呂から出たとき目が赤くなっていたら泣いていたことを気付かれてしまう。
もう泣かないって決めたのに……。
泣いてばかりいたら柊矢さんも楸矢さんも迷惑するだろう。
そうだ、少し歌わせてもらおう。
そうすればきっと元気が出る。
きっとまた明日からやっていける。
小夜は風呂から上がった。
「お先に失礼しました」
「あ、小夜ちゃん、上がったんだ。じゃ、俺もお風呂入ろっと」
楸矢はそう言って立ち上がった。
楸矢が風呂に入ったので小夜は音楽室に入った。
小夜が歌い始めると、追随するように斉唱や重唱、それに演奏が始まった。澄んだソプラノ、華やかなメゾソプラノ、重厚なアルト。
それぞれが織りなす合唱を、歌いながら聴いていると、いつしか悩みや悲しみは薄れていった。
もう大丈夫。
きっと明日はまた笑顔になれる。
柊矢さんの言うとおり、誰かを恨んだり憎んだりしてる暇があったら、もっと勉強や家事を頑張ろう。
歌えばムーシコスのみんなが応えてくれるんだから。
私には柊矢さんも楸矢さんも清美もムーシコスも付いてる。
だから大丈夫。
二
柊矢も楸矢も、小夜のムーシカを聴いて大丈夫だと思ったのか、いつも通りに接してくれた。変に気を遣わないでいてくれるのが嬉しかった。
これなら訊いても大丈夫かな?
「あの、柊矢さん」
学校からの帰り、迎えの車に乗り込むと小夜は柊矢に声をかけた。
「なんだ?」
柊矢は運転しながら返事をした。
「送り迎えしてくれるのって、その、沙陽さんがあの火事を起こしたって知ってたからですか?」
「いや、沙陽がやったって言うのは、この前気付いた。だからその場の勢いで問い詰めたんだ。もっと前に気付いてたらお前の前では聞かなかった。悪かった」
柊矢は前を向いたまま謝った。
「いいんです。でも、それならどうして……」
小夜は首を傾げた。
「本物のペンダントを持ってるだろ。あいつら、いずれ偽物だって気付く。そのとき、また襲ってくるはずだ」
小夜は小さく息を飲んだ。
「でも、なんでそこまで……」
ペンダントをスカートのポケットから取り出すと、まじまじと見つめたが特に変わったところはなかった。
「あ、そうだ、柊矢さん、山崎敏夫って……」
小夜の問いに柊矢が左手でラジオを付けてJ-POPを流してる局にあわせた。人気の女性アイドルグループの歌が流れてくる。
柊矢がJ-POPを聴くとは思わなかった。
「この曲をよく聴いてみろ」
小夜は意味が分からないまま曲に耳を傾けた。
「俺も普段はポップスなんて聴かないから最近まで気付かなかったんだが……」
あれ? なんか、この曲……。
普段アイドルの曲は聴かないのに何故か聴き覚えがあるような気がした。
あちこちで流れてるからかな?
ちょっと変わってる曲だから印象に残ったとか?
でも、それともちょっと違うような?
「柊矢さん、この歌……」
「山崎敏夫の曲だ」
「聴き覚えがあるような気があるんですけど」
「これはムーシカをJ-POP風に編曲したものだ。歌詞が日本語になってて歌っているのも演奏しているのもムーシコスじゃないから別物みたいに聴こえるが」
ムーシコスが歌うのは基本的に既にあるムーシカで新しく作ることは滅多にない。
多分、山崎敏夫もムーシコスなのだ。
作曲家になったものの作曲の才能はあまりなかったのだろう。
それでムーシカを借用しているのではないか。柊矢はそう言った。
家に着いて車から降りると柊矢に声をかけた。
「あの、柊矢さん」
「ん?」
「沙陽さんがあの火事を起こしたって知った後でも、私、あの人を憎めないんです。お祖父ちゃんを死なせた人なのに」
祖父のことを口にするとまた涙がこみ上げてきた。
「私って薄情なんでしょうか」
柊矢は小夜の頭に優しく手を置いた。
小夜が柊矢を見上げる。
「それでいい」
柊矢はそう言って微笑んだ。
わ、微笑った……。
胸が痛くなるほど優しい笑顔だった。
「どうした? 鳩が豆鉄砲喰らったみたいな顔して」
「い、いえ……」
小夜は真っ赤になって俯いた。
柊矢さん、ずるい!
好きにならないように必死で押さえてたのに、こんな風に微笑うなんて!
夕食の席に着いてしばらくするとペンダントのことが話題になった。
「あのペンダント、本物なら何か使い道があるっていってましたよね。でも、ホントにそうでしょうか?」
「どういうこと?」
煮物を食べながら楸矢が訊ねた。
「あれはムーシコスが何かに使うものってことですよね? それなら私にも使えるんじゃないかと思って、色々試しましたけど、何も起きませんでしたよ」
「色々って?」
「クレーイスに向かって歌ってみたりとか、握って念を込めてみたりとか」
「ホントに何も起きなかったの?」
「はい。……そういえば、関係あるか分かりませんけど、毎回あの森が見えました。でもそれだけで……」
「それだ」
柊矢が言った。
「どういうこと?」
「沙陽達はあの森に帰りたいんだろ。そのクレーイスで森を呼び出したいんじゃないのか?」
「でも、あの森なら今までに何回も現れてますし、その場に沙陽さんがいたことも何度かありましたよ」
確かに小夜の言うとおりだ。森は今までに何度も現れている。
それなのに何故小夜を襲ったりするんだ?
「けどさ、現れたときに森に帰れるなら俺達も行ってなきゃおかしいじゃん」
「え?」
小夜が首を傾げた。
「嵐の時とか俺達あの森に入ったじゃん。でも俺達を残して森は消えた。森に帰るには何か他に条件があるんじゃないの?」
「それがそのペンダントか……」
それか、クレーイス・エコーと呼ばれた自分達かのどちらかだろう。
そういえば沙陽はパルテノン神殿のようなものがあったと言っていた。
もしかしたら、シャーマンのような者が必要のかもしれない。
それがクレーイス・エコーなのだろうか。
昔、沙陽が森に入っていって消えたときは特別な何かが起きたということか。
知らないことが多すぎる。
椿矢をつかまえてもっと詳しい話を聞くまでは判断のしようがない。
考えるのをやめて、食事の続きを始めた。
柊矢は小夜に、これ以上実験するのをやめるように言うのを失念していた。
夕食の片付けが済むと小夜は自分の部屋に戻った。
お風呂に入る前に、もう少しだけ試してみよう。
ペンダントを机の上に置くと、その前に立って深呼吸した。
えっと、沙陽さんが歌ってたムーシカは……。
目を閉じると旋律と歌詞が浮かんできた。なんのためのムーシカかは分からないが、何かに危害を加えるようなムーシカではないのは理解できた。
小夜は静かに歌い始めた。
次々に斉唱や重唱、演奏が加わっていく。
小夜が歌い始めたのか……。
すぐには何のムーシカを歌っているのか気付かなかった。
が、何気なく外を見ると森が見えた。それも今までより広く空にはあの森の上に浮かんでいた天体まで見える。
沙陽が歌ってたムーシカだ!
これだ!
このために沙陽は何度も歌っていたのだ。
柊矢は小夜の部屋に飛び込んだ。
「おい! 今すぐ歌うのをやめろ!」
小夜は驚いた様子で柊矢を見上げた。
他のムーシコスの歌や演奏は続いていたが小夜は歌うのをやめた。
再度外を見ると森は消えていた。
しまった!
沙陽達に気付かれた!
歌うのをやめさせたことが裏目に出てしまった。
他のムーソポイオスは歌い続けているのに小夜が歌うのをやめた途端森が消えたのだ。
小夜が本物のペンダントを持っていると知られてしまっただろう。
「あ、あの、柊矢さん?」
小夜が戸惑った様子で柊矢を見ている。
「大声を出してすまなかった」
「私、何か悪いことしてしまいましたか?」
小夜が不安げな表情で訊ねてきた。
「いや、何もしてない」
「でも……」
「そいつの使い方が分かっただけだ。驚かしてすまなかった。とりあえず、当分そのムーシカは歌わないでくれ」
「はい」
とはいえ、沙陽達はもう気付いた。
今後はこれまで以上に小夜の身辺に気を配らなければ……。
三
三日後、小夜は放課後に清美とファーストフード店に行ってもいいか訊ねてきた。
「分かった。場所は?」
小夜がファーストフード店の名前と場所を言うと、
「気を付けろよ」
と言って電話を切った。
放課後、小夜が清美とファーストフード店に入ると柊矢が先に来て隅の方に座っていた。
「柊矢さん、どうしたんですか?」
小夜が柊矢の横に行くと、
「たまたま時間が余っただけだ。俺のことは気にするな」
その言葉に小夜は清美のところに戻った。
「時間が余ったから早めに来ただけだって」
「ふぅん」
清美はそれ以上追求することなく、それぞれ注文をすると柊矢から離れたところに座った。
「あれ? 小夜、それ、コーヒー?」
匂いで気付いたようだ。
「うん」
小夜は一口飲んで顔をしかめた。
「どうしたの? 急に」
「柊矢さんも楸矢さんもコーヒーで私だけお茶だから。ただでさえ、小鳥ちゃんとか奥手とか言われてからかわれてるから、せめてコーヒーだけでも飲めるようになろうと思って」
「小鳥ちゃん? あはは。確かに小夜って小鳥ちゃんってイメージだよね」
「清美、ひどい!」
「ひよこちゃんって言われなかっただけマシじゃん」
「清美って、柊矢さん達よりひどい」
小夜は清美を睨むと、コーヒーをまた一口飲んだ。
苦い。
「そんなに苦いなら砂糖やミルク入れればいいじゃん」
「あ、そっか」
小夜はそう言って砂糖に手を伸ばしかけて、すぐに引っ込めた。
「ダメダメ。砂糖やミルク入れたら結局子供扱いされるもん」
もう一度コーヒーに口を付けると顔をしかめた。
「どれどれ」
清美は小夜のコーヒーを一口飲んだ。
「意外と美味しいじゃん」
「嘘! 清美、嘘ついてるでしょ!」
「嘘じゃないよ、美味しい。あたしも頼んでこよっと」
清美はそう言うとコーヒーを買いにいった。
席に戻ってきて美味しそうにコーヒーを飲む清美を小夜は恨めしそうに見ていた。
「清美の裏切り者~」
清美は自分で言うとおり、もう子供じゃない。
まだ大人じゃないけど子供でもない。
自分はまだまだ子供だ。
小夜は溜息をついてコーヒーを飲んだ。
苦い……。
「静かにしろ」
清美の背後に男が立ったかと思うと彼女の表情が固まった。清美の背に何かを突きつけてるようだ。
小夜の横に沙陽が立った。
「よくも騙してくれたわね。声を上げたらその子を殺すわ」
小夜と清美は怯えた表情で顔を合わせた。
「何が欲しいのか分かってるわね。よこしなさい。今度小賢しい真似をしたらホントにその子を殺す」
小夜がポケットに手を入れたとき、沙陽の横に柊矢が立った。
「こいつに手を出したらただじゃおかないと言っておいたはずだ。そいつと一緒に今すぐ帰れ。でなければお前の喉を潰す」
ムーソポイオスにとって歌えなくなるのは死ぬより辛い。
柊矢と沙陽はしばらく睨み合っていたが、やがて、
「行くわよ」
清美の後ろに立っている男を促すと帰っていった。
「清美! 大丈夫!? 怪我はない?」
「う、うん、今の何?」
「今日はもう帰った方がいい。家まで送ろう」
「清美、車の中で話すから。行こう」
「分かった」
小夜は車の後部座席に清美と並んで座り、沙陽は小夜が持っているものを狙っている、と話した。
「この前のひったくりって言うのも……」
「うん、男の人が襲ってきて奪おうとしたの」
「それで送り迎えしてもらってたんだ」
「巻き込んでホントにごめんなさい」
小夜は頭を下げた。
「いいよ。何もなかったんだし」
そう言ってから、
「小夜、絶対気にするでしょ」
小夜の顔を覗き込んだ。
「え?」
小夜が清美の顔を見返した。
「小夜は悪くないんだから、気にしちゃダメだよ」
「うん、有難う」
「あ、そこ曲がったところです。このマンションです」
清美の指示でマンションの前に車を止めた。
柊矢が後部座席に回ってドアを開ける。
「送っていただいて有難うございました」
車から降りた清美が頭を下げた。
「部屋の前まで送らなくて大丈夫か?」
「狙いは小夜なんですよね。だったら小夜を守ってあげてください」
「清美……」
「じゃ、また明日ね。小夜」
清美は手を振るとマンションに入っていった。
柊矢は清美が無事にマンションに入ったのを見届けると自分も車に戻った。
「いい友達だな」
車を出しながら言った。
「はい」
そのときムーシカが変わった。
今までも聴こえていたのだが清美の前では言えなかったので黙っていたのだ。
この声……。
「柊矢さん」
小夜は柊矢を見た。
「椿矢か。中央公園にいるかもしれないな。行ってみよう」
柊矢は車を中央公園に向けた。
「あ、椿矢さん」
小夜は中央公園のベンチでブズーキを弾きながら歌っている椿矢を見つけた。
柊矢と小夜はムーシカが終わるのを待った。
椿矢が終わりを告げると野次馬達は散っていった。
「その楽器、ブズーキとか言ってたな」
「どこの国の楽器なんですか?」
「ギリシア。柊矢君だっけ? 君はキタラだったね」
「キタラもギリシアの楽器でしたよね。楸矢さんの笛もギリシアのものなんでしょうか」
「あの笛はギリシアじゃないね」
椿矢が楽器をしまいながら答えた。
「じゃあ、どこのですか?」
「さぁ? もしかしたらムーシケーから持ってきたものが全然進化してないのなのかもね」
「ムーシケー?」
柊矢が聞き返しながら、さりげなく椿矢が立ち去れない位置に移動した。
今日こそは全ての質問に答えてもらうまで帰さないつもりだった。
それを見て取った椿矢が、降参というように両手を挙げて、
「ちゃんと話すから喫茶店にでも移動しない?」
と提案した。
「ダメだ。喫茶店は営業時間が終わったら追い出されるからな」
「そんな時間まで質問攻めにするつもりなの?」
椿矢が可笑しそうに笑った。
「でも、柊矢さん、ここじゃ寒いですよ」
小夜が腕をさすりながら言った。
確かに、こんなところに長時間いたら小夜が風邪を引く。
かといって小夜を一人で帰すのは論外だ。
「じゃ、こっちだ」
「へぇ、彼女の言葉なら聞くんだ」
「か、彼女じゃ……」
小夜が赤くなった。
「違うんだ。彼氏はいるの?」
椿矢が面白がって訊ねた。
「い、いません」
「じゃあ、僕が立候補してもいい?」
「え!? あの、えっと、その……」
小夜が狼狽えていると、柊矢が小夜と椿矢の間に割って入った。
「おい、こいつをからかうな。お前もいちいち真に受けるな」
「あ、はい」
からかわれてたんだ。
柊矢さんや楸矢さんがからかうのも、こういう反応を面白がってるからなのかな。
柊矢は自分の車に向かった。
「車に乗れ」
後部座席のドアを開けて小夜を乗せながら椿矢に助手席に乗るように促した。
「行き先はどっかの山奥とかじゃないよね?」
それには答えず柊矢はドアを閉め運転席に回ってシートに座った。
エンジンをかけるとヒーターをつける。
いつの間にか森が出現していた。
森の手前に大きな池があり、地平線近くに月の何倍もの大きさの天体と、天頂近くに月のようなものが見える。
四
「さて、話してもらおうか」
柊矢は助手席に向き直った。
「どこから話せばいい?」
「この森はなんだ?」
「ムーサの森だよ」
「沙陽はムーシコスはこの森から来たと言っていたが」
「そ。大昔、ムーシコスはムーシケーから来た。昔のこと過ぎて、ムーシコス自身も知らない人がほとんどだけどね」
「ちょっと待て。この森のことをムーサって言ったのに、今ムーシケーって……」
「ムーサはこの森の地名だよ。今、僕達がいる場所が新宿って言うのと同じ」
この綺麗な旋律の森がムーサ。
「このムーサがある惑星ムーシケーと、あの地平線近くの惑星グラフェー、そしてあの衛星ドラマ。その三つの天体が構成する惑星系の総称がテクネー」
「ちょっと待て! 惑星って何だ」
「君達だってこの森が地球上のものじゃないって事くらい気付いてたんじゃないの?」
柊矢は黙り込んだ。
確かに、白く半透明な巨木や空に浮かんでいる大きな白い天体を見れば、この森があるのは地球ではないんじゃないか、くらいの疑問は涌く。
「この森は本当にあるのか? 幻覚か何かじゃなくて」
「地球からどれくらい離れてるかは知らないけどね、ちゃんとあるよ」
「じゃあ、地球人は古代にこの星から宇宙船でやってきたって言うのか!?」
「地球人じゃなくて、ムーシコス。地球人は元々地球にいたよ。宇宙船は必要ないでしょ。こうして繋がってるんだから歩いてこられる」
それもそうだ。
「でも、どうしてムーシコスはムーシケーを捨てて地球へ来たんですか?」
あれだけ沢山の旋律に満ち溢れた世界はムーシコスにとっては天国のようなものだ。
離れたがった者がいるなんて想像も出来ない。
自分だったらしがみついてでも離れなかっただろう。
「あくまで想像だけど」
椿矢はそう前置きをして、
「旋律が凍り付いたからじゃないかな」
と言った。
「なんで凍り付いたのかなんて聞かないでよ。知らないからね」
確かに旋律で草木も水も凍り付いてしまった世界では生きていけない。
仕方ないから豊かな自然に満ちた地球へ行って暮らそう、となってもおかしくはない。
丁度地球と繋がっているのだし。
「お前の言うとおりテクネーと地球が繋がってるとして、沙陽達は帰りたいなら何故帰らない?」
「テクネーはグラフェーとムーシケーとドラマの総称。繋がってるのはムーシケーだけ。多分ね」
椿矢は柊矢の言葉を訂正した。
「帰ろうにも帰れないらしい。森に入って行っても地球に戻ってきちゃうらしいんだ」
そう言ってから、
「戻ってきちゃう理由も知らないからね」
と先手を打って答えた。
「まぁ、どちらにしても凍り付いた旋律を何とかしないと向こうへ行っても暮らしていけないけど」
「何とかする方法があるのか?」
「手段は知らないけどあるみたいだね」
「ムーシカが離れた所にいるムーシコスに聴こえるのはどうしてなんですか?」
「ムーシケーは音楽の惑星だから音楽は意識の底で共有してるとかじゃないかな」
「知らないことばかりじゃないか」
柊矢が咎めるように言った。
「これでも普通のムーシコスよりは詳しいよ。現に君達は知らなかったでしょ」
椿矢の言うとおりだ。
ムーシカに古典ギリシア語の歌があると言うことは、紀元前二千年頃には地球へ来ていたことになる。
柊矢が使っているキタリステース用の楽器――キタラ――がギリシアのものであることを考えても、ムーシコスの一部が大昔のギリシアにいたことは確かだろう。
もう四千年も地球人に交じって暮らしてきたのだ。
ムーシコスが地球に来た事情など忘れるには十分すぎるほどの時間がたっている。
自分と、このクレーイスがあれば、沙陽さん達はムーシケーに帰れる。
沙陽さん達を帰してあげられないだろうか。
沙陽達を帰して自分も旋律が溶けたムーシケーに時々遊びに行きたい、というのは虫が良すぎるだろうか。
勿論、沙陽のために何かすると言うのに抵抗がないわけではない。
なんと言っても沙陽は祖父を死なせたのだ。
「質問には答えたよ。そろそろ解放してもらえるかな」
「沙陽か、その仲間の連絡先を……」
「悪いけど知らない。連中に関わる気はないからね」
椿矢は柊矢の言葉を遮った。
「確かに旋律に満ちた惑星っていうのは魅惑的だよ。でも考えてもみてよ。現代文明に慣れきった僕達が電気や水道のない世界で生きていけると思う? 大昔に祖先が住んでたってだけで文明のない惑星に行く気はないよ。音楽は地球にだってあるからね」
椿矢は「行く」と言った。沙陽のように「帰る」とは言わなかった。これが残留派と帰還派の意識の違いだろう。
柊矢が車の鍵を開けた。
「それじゃ」
椿矢は車から出ると闇の中に消えていった。
入れ違いに楸矢がやってきた。
スマホのGPSで探してきたらしい。
楸矢は助手席に入ってくるなり、
「柊兄ぃ~。小鳥ちゃんとデートするならそう言っておいてよ。そしたら夕食自分で何とかしたのに」
恨めしげに柊矢を睨みつけた。
「ああ、忘れてた」
「あ、あの、楸矢さん、私達デートじゃなくて……」
「じゃ、なんで小鳥ちゃんは後部座席にいるの?」
小夜は楸矢の言葉に首を傾げた。
「デートなら助手席の方にいるんじゃないんですか?」
その言葉に柊矢と楸矢は顔を見合わせた。
「ホントにデートじゃなかったんだ」
小夜はさっぱり分からない、と言う表情で柊矢と楸矢を交互に見比べた。
「どういうことですか?」
その問いに、
「小鳥ちゃんが大人の付き合いするようになったら分かるよ」
と言う返事が返ってきた。
また大人の付き合い。
ムーシケーが旋律で凍り付いたことといい、大人の付き合いといい、小夜にとっては未知のことが多すぎる。
小夜は溜息をついた。
「柊兄達、夕食は?」
「まだだ。どこかで食べていこう」
柊矢はそう言うと車を出した。
「は? 異星人? 沙陽、本気でそんな話信じてんの?」
「こいつから無理矢理奪おうとしたところから見ても、そうなんだろうな」
「友達まで巻き込んだとなると本気ってことか」
楸矢はステーキの添えられているフライドポテトを口にした。
楸矢さんは半信半疑みたいだけど……。
小夜は椿矢の話を信じていた。
ムーシケーは、ムーサの森は、実在する。
だって、あの森で凍り付いている旋律、あれは本物だもの。
「沙陽ってさ、頭おかしいんじゃないの?」
楸矢は次のフライドポテトにフォークを突き刺した。
「仮にムーシケーだの、クレーイスだのの話が本当だとして、そのペンダントが必要だったら素直にそう頼めばこんなに大変なことにはならなかったのに」
そう言うとフライドポテトを口の中に放り込んだ。
「話しには来たな」
「そういえば、追い返しちゃったんだっけ」
楸矢はやべ、という表情を浮かべた。
「あのとき話を聞かなかったことがこんな大事になるとはな」
柊矢も失敗した、と言う表情でコーヒーを飲んだ。
「まぁ、今更後悔しても仕方ない」
「そうだね」
小夜はポケットの中でクレーイスをいじりながら俯いていた。
今からでも沙陽に協力することは出来ないだろうか。
そう二人に提案したかったが、どうしても口に出せなかった。
これは柊矢と楸矢の祖父の形見だ。
それがなくなるかもしれないことを考えると言うのを躊躇われた。言えば柊矢も楸矢も構わない、と言ってくれる気がした。
でも内心では祖父の形見を利用されるのは気分がいいものではないはずだ。
それに祖父を死なせた沙陽に協力したくないと思ってしまうのも事実だ。
「小夜ちゃん、食べないの?」
小夜の前に置かれたリゾットはまだ半分近く残っていた。
「あ、今食べます」
「急ぐことはないぞ」
「はい」