8月29日。
昨日はいつものチャリコースを──あの川縁を走らなかった。
遥さんがいたらと思うと、顔を合わせづらかったからだ。
そもそも彼女があの辺りの人とは限らないし、もう二度と会えない可能性の方が高いことくらい、俺だってわかっている。毎日十人以上の同じ顔と顔を付き合わせることなんて、学生にとっては当たり前でも社会人はそうじゃないって、正月に会った従兄が言っていた。
顔は合わせづらい。気まずい。
でも、彼女の顔と「まだ話は」と戸惑う声は1日中頭から離れなかった。
どっちの気持ちも持て余しつつ、俺は朝9時半を回った頃、自然と川縁へ向かってチャリを走らせ始めていた。
**
「体をねじり反らせてぇー、斜め下に曲げる運動ー!」
(……いた……)
一昨日と同じ川縁の、全く同じ場所。
両足をしっかり踏みしめて、何やら両腕を身体ごとぶん回している遥さんを見つけた。袖は相変わらず七分なのを認めると、小さくちくりと胸が痛んだ。
「ふー……あ?」
腰を折って大きく両腕をぶん回していた彼女は、ぐるりと回ったところで俺と目が合う。
まさかそんな角度でこっちを向いてくるとは思っていなかった俺は、想定外な再会に思わず逃げ腰になった。当然だ。
俺が反射的にペダルを右足にかけるのと、遥さんが真っ直ぐ駆け寄ってくるのはほぼ同時のことだった。
「今日は逃げないでよね」
両手を腰に当て、文字通り仁王立ちを続ける彼女を前に観念する。
大人しくチャリを停めてトートバッグを手に取ると、遥さんは「あれ?」という顔をした。
「待って、どっか行くとこだった?」
「え、なんですか」
「カバン持ってるから」
「あぁいやこれは……」
一昨日と同じ日陰へ移動しながら、トートから参考書をチラ見せする。
今朝仕事に行く前の母親に「あんた勉強ちゃんとしてんの?」と睨まれたから、これ見よがしにダイニングに置きっぱなしになっていた参考書を突っ込んできたのだ。
「あーなつかし。ていうか受験生だっけ?」
「高2っす」
「あっそっか。ごめんごめん、高校生って一括りにしてた」
「つか3年ならチャリでブラついてる場合じゃないっすよ」
「それもそうだね」
笑顔で刺してくる遥さんから目を逸らし、腰を下ろす。
何となく手持ち無沙汰で、ただ見せるために掴んだはずだった参考書を取り出し、意味もなくパラパラしてみてしまう。刺されたばかりの言葉を脳内で反芻して、勉強への意識がないわけじゃないという無駄なポーズであることは自分が一番わかっている。
……それと、もうひとつ。
どうしても視線がいってしまう彼女の腕から目を逸らすためでもあった。
あの下にあるケロイドが頭から離れないのだ。あんなもの、男だってキツい傷痕なんだから、女の人である遥さんはどれほど──
「わたしは気にしたことないよ」
「え」
「やっと目が合った」
「や、そんなこと……」
「あるでしょ? わたしの顔まで見ないようにしてる。腕を見たら失礼だと思ってるから」
「……すんませ」
「謝らなくていいよ」
俺の顔を覗き込むように首を傾げた遥さんに、つい二日前の姿が蘇る。
「いきなり見せたのはごめんだけど、ホントにさ。わたしにとっては勲章なの」
「……え?」
「実家が小火った時にね、飼い犬を助けるために負った火傷。ちなみにチハル──あ、犬の名前ね。チハルはちょっと毛が焼けただけで済んだの。わたしのおかげ」
遥さんは明らかにドヤりながら、右腕をグイッと曲げてマッスルポーズをした。
「え……と……そりゃ……すげ、っすね」
「でしょお」
遠慮することなく言い切った遥さんはフンスフンスと鼻息荒く笑い、「だからね」と続ける。
「少年はさ。考えすぎなんじゃないかな」
「……え?」
「こないだの話。俺の青春は全部クズだってやつ」
「あ……えっと……」
思い出して一気に恥ずかしくなり思わず腰が引けかけたのを、彼女が目線だけで制した。
「説教くさくなるのは嫌だけど、一応ね。すこーし先を生きてる人間からの話だと思って聞いて?」
「……」
「わたしの顔だけ見れる?」
「は」
「ほら、見て。ほらほら」
グッと顔を近づけてきた遥さんを前に、どうしようもなく赤面していくのがわかりながらも逃げることができない俺は、手元の参考書が風で勝手にそのままページを進めていくのを感じながらも10秒ほど見つめ合っていた。
なんだこれ、なんだこれ、何秒以上視線を合わすと恋だのなんだのってこないだネットで──
「はいおしまい」
遥さんはスッと身体を引いたけど、そこらへんで鳴き喚く蝉よりうるさい自分の心臓を抑えるのに必死になる。
そんな俺を知ってか知らずか──おそらく絶対にカケラすら意識していない顔で、彼女は右手の人差し指を立ち上げた。
「問題です。今の15秒の間、わたしは何をしてたでしょうか」
「……へ?」
チクタク、チクタク。
秒針のつもりらしい擬音を自己流メロディに乗せた遥さんは、その右手を頬杖と変えて、柔らかい微笑みと共に俺を見つめる。
昨日はいつものチャリコースを──あの川縁を走らなかった。
遥さんがいたらと思うと、顔を合わせづらかったからだ。
そもそも彼女があの辺りの人とは限らないし、もう二度と会えない可能性の方が高いことくらい、俺だってわかっている。毎日十人以上の同じ顔と顔を付き合わせることなんて、学生にとっては当たり前でも社会人はそうじゃないって、正月に会った従兄が言っていた。
顔は合わせづらい。気まずい。
でも、彼女の顔と「まだ話は」と戸惑う声は1日中頭から離れなかった。
どっちの気持ちも持て余しつつ、俺は朝9時半を回った頃、自然と川縁へ向かってチャリを走らせ始めていた。
**
「体をねじり反らせてぇー、斜め下に曲げる運動ー!」
(……いた……)
一昨日と同じ川縁の、全く同じ場所。
両足をしっかり踏みしめて、何やら両腕を身体ごとぶん回している遥さんを見つけた。袖は相変わらず七分なのを認めると、小さくちくりと胸が痛んだ。
「ふー……あ?」
腰を折って大きく両腕をぶん回していた彼女は、ぐるりと回ったところで俺と目が合う。
まさかそんな角度でこっちを向いてくるとは思っていなかった俺は、想定外な再会に思わず逃げ腰になった。当然だ。
俺が反射的にペダルを右足にかけるのと、遥さんが真っ直ぐ駆け寄ってくるのはほぼ同時のことだった。
「今日は逃げないでよね」
両手を腰に当て、文字通り仁王立ちを続ける彼女を前に観念する。
大人しくチャリを停めてトートバッグを手に取ると、遥さんは「あれ?」という顔をした。
「待って、どっか行くとこだった?」
「え、なんですか」
「カバン持ってるから」
「あぁいやこれは……」
一昨日と同じ日陰へ移動しながら、トートから参考書をチラ見せする。
今朝仕事に行く前の母親に「あんた勉強ちゃんとしてんの?」と睨まれたから、これ見よがしにダイニングに置きっぱなしになっていた参考書を突っ込んできたのだ。
「あーなつかし。ていうか受験生だっけ?」
「高2っす」
「あっそっか。ごめんごめん、高校生って一括りにしてた」
「つか3年ならチャリでブラついてる場合じゃないっすよ」
「それもそうだね」
笑顔で刺してくる遥さんから目を逸らし、腰を下ろす。
何となく手持ち無沙汰で、ただ見せるために掴んだはずだった参考書を取り出し、意味もなくパラパラしてみてしまう。刺されたばかりの言葉を脳内で反芻して、勉強への意識がないわけじゃないという無駄なポーズであることは自分が一番わかっている。
……それと、もうひとつ。
どうしても視線がいってしまう彼女の腕から目を逸らすためでもあった。
あの下にあるケロイドが頭から離れないのだ。あんなもの、男だってキツい傷痕なんだから、女の人である遥さんはどれほど──
「わたしは気にしたことないよ」
「え」
「やっと目が合った」
「や、そんなこと……」
「あるでしょ? わたしの顔まで見ないようにしてる。腕を見たら失礼だと思ってるから」
「……すんませ」
「謝らなくていいよ」
俺の顔を覗き込むように首を傾げた遥さんに、つい二日前の姿が蘇る。
「いきなり見せたのはごめんだけど、ホントにさ。わたしにとっては勲章なの」
「……え?」
「実家が小火った時にね、飼い犬を助けるために負った火傷。ちなみにチハル──あ、犬の名前ね。チハルはちょっと毛が焼けただけで済んだの。わたしのおかげ」
遥さんは明らかにドヤりながら、右腕をグイッと曲げてマッスルポーズをした。
「え……と……そりゃ……すげ、っすね」
「でしょお」
遠慮することなく言い切った遥さんはフンスフンスと鼻息荒く笑い、「だからね」と続ける。
「少年はさ。考えすぎなんじゃないかな」
「……え?」
「こないだの話。俺の青春は全部クズだってやつ」
「あ……えっと……」
思い出して一気に恥ずかしくなり思わず腰が引けかけたのを、彼女が目線だけで制した。
「説教くさくなるのは嫌だけど、一応ね。すこーし先を生きてる人間からの話だと思って聞いて?」
「……」
「わたしの顔だけ見れる?」
「は」
「ほら、見て。ほらほら」
グッと顔を近づけてきた遥さんを前に、どうしようもなく赤面していくのがわかりながらも逃げることができない俺は、手元の参考書が風で勝手にそのままページを進めていくのを感じながらも10秒ほど見つめ合っていた。
なんだこれ、なんだこれ、何秒以上視線を合わすと恋だのなんだのってこないだネットで──
「はいおしまい」
遥さんはスッと身体を引いたけど、そこらへんで鳴き喚く蝉よりうるさい自分の心臓を抑えるのに必死になる。
そんな俺を知ってか知らずか──おそらく絶対にカケラすら意識していない顔で、彼女は右手の人差し指を立ち上げた。
「問題です。今の15秒の間、わたしは何をしてたでしょうか」
「……へ?」
チクタク、チクタク。
秒針のつもりらしい擬音を自己流メロディに乗せた遥さんは、その右手を頬杖と変えて、柔らかい微笑みと共に俺を見つめる。