そんな夏休みも終わりに差し掛かった、8月27日。
 朝ならチャリで走ればまぁ涼しいだろうという判断で、俺は両親を見送ったあと、8時半頃から走り回っていた。
 ショッピングモールの食品売り場は8時半から開いている。フードコートを含めた専門店街が開くのは10時からだけど、どうしても暑くなったら逃げ込むにはうってつけだ。
 そうして一度ペットボトルを買ってから、また走り回って──今に至る。
 犬の散歩をしている何人かが、なんだあれという目をして彼女を見て通り過ぎていく。こちら側に背を向けている彼女はそれを知ってか知らずか、一度たりとも振り向きもしないで自己流ラジオ体操を続けていた。

「最後はあっ、深呼吸うぅー!」

 すうー、はあー、とまで声をつけて、大袈裟な手振りをし始める。
 どうやら終わりのようだ。
(つか、俺もたいがい怪しいじゃん……)
 チャリを止めて女の人をガン見していた今の状況をふと思い返し、ペダルに右足をかけた。
 と、その時──

「ばっっかやろー!!」

 近くの街路樹にとまっていたらしい蝉がジジッと何匹か飛び去るほどの大声で、彼女が叫ぶ。

「んぶはっ」

 もう限界だった。
 自己流ラジオ体操から我慢してたのに、最後の意味不明かつ青春的雄叫びで、俺はもうダメだった。

「んはっ、ぁははははっ、んだそれ、意味わかんね、んははははっ」

 チャリに乗ったまま腰を折り曲げてひとしきり笑ったあと──我に返る。
(やっっべ……)
 おそるおそる顔をあげると、例の女の人とガッツリ目が合った。
 彼女は目を細めて俺を軽く睨むような表情をしている。やばい。やばすぎる。
 脳裏に『県立高校生、痴漢容疑』という文字が走った。
 いや痴漢なんかしてないけど。何が罪になるのかわからんけど。
 女の人が絡む犯罪がそれしか浮かばず、でもそんなことしてない自分も理解しつつ、それでも自分が不審者になってしまうということだけが思い浮かんだ俺は混乱して動けなくなった。
 謝ればいいのか、それとも何か金銭とか物とかを用意するとか?
 焦りに焦った俺をまんまるの目で見つめた彼女は、次の瞬間、顔をくしゃっとさせた。

「あはははは! マジで意味わかんないよね! あははは!」

 そして、俺以上に笑い出したのだった。


**
 

「へー。高校2年なんだぁ。若いねー!」
「……そ、っすか……」

 ひとしきり笑い終えた彼女に「こっちおいでよ」と手招きされ、俺は従う以外の選択肢が浮かばないまま、チャリをとめて彼女の隣に座っている。
 わざわざ橋の下にあたる日陰まで移動して、知らない女の人と二人で。
 帽子をとってサドルに引っ掛け、タオルで顔や首を拭いてからペットボトルで水分補給をしたら、急に現実に戻ってきた気がした。いや、元々夢なんか見てなかったけど、なんというか、テンションが下がったというか。
(なんでこんなことに……)

「あっ、今『なんでこんなことに』って思ったでしょ」
「えっ」
「わたし超能力あるんだよね」
「はっ? 嘘……」
「うんウソー! あははっ」

 ……さっきからこの調子だ。
 彼女は「(はるか)。遥か彼方の、はるかね」とだけ教えてくれた。
 たぶん名前だろう。遥なんて苗字は聞いたことがない。

「それで? 高2の少年は自転車で何してたの? 自分探しの旅とか?」
「や、別に……」
「そ? 青春ぽくていいじゃん。夏休みといえばって感じ」
「…………」
「ん? あれ?」
「……俺の青春は全部クズっすよ」

 口をついて出た俺の言葉に、遥さんはほんの少しだけ首を傾げた。
 「何言ってんの?」とも、「なんか言ってるよ」とも取れるような微笑みを浮かべて、器用に右手で頬杖をついて、グッと俺に近づいてくる。
 情けなくもドキッとしてしまったことを悟られやしないかハラハラしながらも、今更立ち上がって逃げるわけにもいかない。
 その場で踏みとどまる俺を前に、遥さんはもう一度首を傾げた。

「……というと?」
「へ」

 想定外の返事におかしな声が出た。
 というと? というのは一体どういう意味だ? や、言葉遊びをしている場合じゃない。
 遥さんは風と汗で頬に張り付いた髪を耳にかけると、さっきと変わらない微笑みのまま、改めて言う。

(くすぶ)っているようだね、少年」
「少年て……」
「話してみたら? 少しはスッキリするかもよ」
「……全然関係ないおねーさ」
「遥」
「……遥さんに?」
「全然関係ない人だから話せることもあるもんだよ。ほれ、話してみなよ」

 そう言って笑う遥さんを前にして、俺は話し始めた。
 とりとめのなさすぎる愚痴のような──俺が聞き手だったら途中でうんざりするような話をだ。
 口を開いたら止まらなくなったけど、遥さんの表情は曇ることがなかった。だから尚更止まらなかったんだと思う。