「腕を振って、脚を曲げ伸ばす運動ー!」
 
 高らかな声がして、俺はチャリを止めた。
 周囲を探すまでもなく、視線はひとりの女の人に行き当たる。
 彼女はかかとを引き上げ腕を交差した状態から腕を横に振って脚を曲げ伸ばし──突然右腕を上げて、身体を横に曲げてしまった。
(……俺の知ってるのと違う)
 内心で思わずツッこんでしまった俺をよそに、彼女は大きな動きを続けている。
 自己流ラジオ体操とでも言えばいいのだろうか。俺の知っているそれとは確実に違う、それでいてラジオ体操内で指示される運動を合わせたような絶妙な動きをしている彼女から目が離せなくなった。
 なぜなら彼女がいるのは、朝10時過ぎの川縁だからだ。
 こうして見ている間にも、屈伸をしたと思ったらその場で飛び上がっている。なんなんだあれは。
 俺は被った帽子の下から流れ落ちる汗を拭うこともせず、彼女から目が離せずにいた。

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 8月27日。
 夏休みももうすぐ終わる。
 高校2年の夏休みといえば、誰もが期待に胸を弾ませるだろう。俺もそのひとりだった。
 ただし、その憧れを抱いていたのは小学生までだ。
 年齢を重ねるにつれて現実が見えてくる。
 公立中学に進学したところで8割は同じ小学校からの持ち上がりだし、今更同級生の女子の誰かに惚れることもない。浮ついていた野郎共はもちろんいたけど、俺には無理だった。
 だって全部知られてるんだぞ。小さな公園のベンチで駄菓子を練っていた姿も、水道から汲んだバケツの水を滑り台の上から流して近所のオバサンにバカみたいに怒られたことも、坂の上からチャリで叫びながら暴走して、東屋みたいな囲いに正面衝突したところも。
 そんな同級生相手に今更カッコつけることが恥ずかしいし、正直、しょっちゅう集団で何やら話している女子たちは可愛いというより怖くなった。何かされたわけじゃないけど、「ほんと男子ってバカ」という視線や言葉を投げられるたび、それが全部自分に向けられているように感じてしまうのだ。
 高校に入ったところで、そんな性格が直るはずもない。
 女子が固まっていると悪口を言われてるんじゃと構えてしまうし、クラスメイトたちとのバカ話や猥談は適当に合わせられるけど、リアルな恋愛というものは遠いものに思えた。

富士原(ふじわら)先輩にコクられたんだって? 聞いたぞー。なんで断ったんだよ」

 この間、部活帰りに会った陸部の遠藤にそう言われたのも怖かった。
 俺は美術部所属で、別に盛んでもないから夏休みの活動なんて数えるほどしかない。気配を消して帰ってたのに、後ろから走ってきてぶつかってきた遠藤にいきなりそう言われて完全に身体が硬直してしまった。
 うんまぁ、としか返せない俺に、遠藤は「もったいね」と笑い、「んじゃ塾だからー」と走り去っていった。
 17歳。来年には成人になるし、選挙権だって得る。
 踏み込める話とそうじゃない話の区切りができるヤツも、中にはいるってことだ。
 それでも、富士原先輩とのことを知られているってことは、できないヤツの存在を嫌でも感じる。それがたまらなく怖くて、嫌だった。
(……別に、寂しくもねぇし)
 例の富士原先輩は美術部部長の友達で、吹奏楽部の人だ。
 それ以外はほとんど知らない。俺は2年の取りまとめ役になってるから、顧問からの言伝や用事がある時部長のクラスに行く。その時毎回顔を合わせていた。時々会話に加わったことも珍しくない。でも部活の話がメインで、俺個人の話はしたことないし、先輩の話もほとんど聞いた覚えがない。
 そのくらいの相手だった。なのにコクられた。
 嬉しいというより怖かった。でも、申し訳なさをプラスしながら笑顔を作って断れたと思っている。
 友達も多くないし、その友達は全員運動部だから部活に明け暮れてる。だからといって学校に禁止されてるバイトをやるほど反骨心も金を稼ぐ気もないし、親からパンフレットを積まれた塾に通う気もない。全部全部、やる気がない。
 朝、両親が仕事に出るのは見送って、あとは適当にチャリでブラついて涼しい図書館に入り浸るか、ショッピングモールのフードコートで涼んでいるか。思いつきでチャリ旅をすることもあるけど、なんせ暑いからそう遠くはいけない。
 2週間に1回の部活。
 俺の17歳の夏休みは、それだけで終わろうとしていた。