【夏子 編】
――1964年9月。
「夏子先輩!ついに出来たんですか!」
「びわちゃん、これを見て」
「わぁ、綺麗……!!」
私が東京医科大学4年生の時、ある実験に成功し一躍有名人になった。
「ちょうど3分……。数分で元の色に戻るというのは失敗だわ。まだまだ改良が必要……ね」
「夏子先輩それでもすごいです!」
それは青の彼岸花の開発だった。自然界の彼岸花は主に白色、赤色、黄色、朱色の4色しか確認されていない。なぜか青色だけが幻の彼岸花とされてきた。
「でも毒素のリコリン、ガラタミンは通常の彼岸花の倍の量があるわね……。これでは一般的には普及出来ないわ」
「そうだ!薬学部に友達がいるので、何かに使えないか聞いてみますね」
「ありがとう。びわちゃんよろしくね」
「はい!夏子先輩!」
この子は立花びわこ。通称びわちゃんは2つ下の大学2年生だ。私の後輩で、同じ植物学部に在籍している。
私は4年間、彼岸花の研究に没頭した。そもそも彼岸花は、動物から墓地を守る為に咲いていると言う説などがある。その球根には強い毒があり、誤って食べると嘔吐下痢、呼吸困難、終いには死さえあると言う。
この彼岸花に魅了されたのはこの成分だけではない。その咲き誇る美しさ、色、立ち並ぶ優雅さ、このすべてが私の中の探究心を刺激した。
いずれ交配し、幻と言われた青の彼岸花を作れないだろうか……いつしかそんな事を考える様になっていたのだ。
――大学卒業後は薬剤師として東京で就職し、彼岸花の研究を続けながらも楽しさと忙しい日々に追われていた。
しかしある日、唐突に鳴った一本の電話で私の東京での華やかな暮らしは終わりを告げた。
「え?母さんが……亡くなった?嘘でしょ。何の冗談よ……」
………
……
…
月日は流れ、あれから28年が経ち、私は53歳になっていた。
東京での仕事を辞め、この地元の島根県松江市に帰って来たのが25歳の頃。あの頃、上京した理由は単純にこの田舎の港町が嫌で嫌でたまらなかった……ただそれだけだった。
父と母は地元で小さな八百屋を営み生活をしていた。母が亡くなると父はひどく落ち込み、仕事どころか一人では生活も出来ない有り様。
見捨てる事など出来ず、私は故郷に帰って来た。夢と希望に溢れ楽しかった東京生活は、本当に夢の様な出来事だったと思える。
私は間もなくして八百屋を引き継ぎ、小さな花屋も営んだ。生活は厳しかったが亡くなった母の残してくれた生命保険と、父の年金でどうにか生活はやりくり出来た。
そして毎日を退屈に思っていた頃、偶然にも仕入れ先の花屋で彼岸花を見かける。
「また研究をしたい!」と言う強い思いが蘇り、数株の彼岸花を八百屋の軒先に植えていく。
それから花を仕入れる度に彼岸花を求める自分がいた。軒先がいっぱいになるとお寺さんの許可を頂き、お寺さんの参道にも彼岸花を植えていった。
いつしか彼岸花が自然繁殖を始め、この町は彼岸花の群生地として有名になっていく。
毎朝同じ時間に起床し、野菜を仕入れ、花を仕入れ、販売をする。それが地元の皆さんのお役に立っていると思える自分が少し誇らしくもあった。
――あの電話が鳴るまでは……。
「――もしもし?え!びわこ?えぇ!あのびわちゃん!?久しぶりだがん!うん!元気よ!うんうん!」
それは後輩の立花びわこからの電話だった。数日後、びわこは私を訪ね、家までやって来た。
あれは彼岸花が咲き始めた9月の事だった。
「夏子先輩!ご無沙汰してます!」
「びわちゃん!ほんに久しぶり!歳取ったなぁ!」
「あはは!先輩こそ!もうすっかりこっちの人やないですか!」
「当たり前だけん!あれから何十年経ったとおもっちょる!そう言うびわちゃんこそ大阪弁になっちょるけん」
「そうなんですよ!結婚して今は大阪に住んでまして――」
「そげかねぇ……あげだ。美味しい『のやき』食べぇかね?」
「はい!頂きますっ!」
お互いにマシンガンの如く思い出話をし、日が傾き始めた頃……私は何気ない言葉でついに時限爆弾のスイッチを踏んだ。
「そんで私に何か用事があって来たんかいね?」
「……はい」
言いにくそうにびわこは話始めた。さっきまでの笑顔はない。
「……実は夏子先輩に頼みがあって来ました」
「何?私に出来る事なら何でも言って?」
「……ある物を作って欲しいんです」
「ある物?」
びわこはポシェットから一枚の紙切れを取り出した。そこには彼岸花を主成分とした薬の調合が書かれている。しかしこれは……。
「びわちゃん……これは……」
「はい。青の彼岸花を主成分とした……毒薬です」
「びわちゃん!こんな物何に使うの!駄目よ!駄目駄目!」
「夏子先輩!聞いて下さい!話を聞いてから……決めて下さい……」
「びわちゃん!」
私の静止する声を無視し、びわこが話を続ける。
そうだ。聞いてから断ろう、そうすれば済む話だ。彼岸花で毒薬を作るなんて私がするはずがない。
「私には……二人の娘がいました。25歳と22歳になります」
「びわちゃん……いましたってどういう意味……?」
「はい。去年、下の娘が……亡くなりました」
「え……?」
日が沈み、開けた窓から見える外は真っ赤になっていた。
「夏子先輩……この町は昔、家族で観光に訪れた事がありました。もしかしてそれを思い出して、娘は最後にこの町に来たのかもしれません……」
「嘘……まさかそれって!?」
「……やっぱり夏子先輩は勘が良いですね」
「昨年……防波堤で亡くなった女性って、びわちゃんの……」
「……はい。娘の美沙です」
「!?」
憶測で話していたが、面と向かって肯定されるとさすがに背筋に悪寒が走る。
町でも噂になっていたのだ。この町に住む白河郁子が海に身投げをした理由を借金苦だとか、介護疲れだとか近所の人達が好き勝手言っていた。
しかし白河郁子の単独自殺だと思われていたが、海からは遺体が二つ上がったとも聞いた。
私にも心当たりがあった。事件が起こる1年程前に旅館の女将から聞いたのだ。大阪から来た若い女性が死にそうな顔をしていたと。それがまさかびわちゃんの娘だったとは夢にも思わなかったのだが。
「……びわちゃん、それは辛い思いをしちょったんだねぇ」
「はい……」
すでに外は暗くなり、蛍光灯の明かりに虫が寄ってくる。網戸を閉め、扇風機を回すと心なしか少しだけ落ち着く。現実離れした想像から、現実に戻ってきた気がしたのかもしれない。
そしてうつむいていたびわちゃんは覚悟を決めた様に顔を上げた。
「夏子先輩……!私はっ!!」
急に声を荒げたびわちゃんに少し気後れし、身構える。
「娘の美沙を自殺に追い込んだ男を許さない!殺してやりたいっ!」
「えっ!びわちゃん!?」
――雨の匂いが鼻をつく。夕立だろうか。雷がゴロゴロと鳴り始め、ザァァァという雨音が聞こえてきた。
「あの男はろくに働きもせず、ギャンブルで借金を作り、美沙を自殺に追い込んだ……あいつが殺したんだ!」
びわこの目つきがさっきまでと明らかに違う。目が釣り上がり、怒りの形相の顔はまるで鬼の様だった。
「夏子先輩……私は近々この町に引っ越して来ます。そしてあの男を呼び出します……」
「どうやって……?」
「それは――」
――聞かなければ良かった!聞くんじゃなかった……。びわこを止めれなかった後悔や、好奇心と罪悪感が一緒くたになり背中を駆け上がる。
「――それでは夏子先輩、私は一度大阪に帰ります。くれぐれもこの事は他言無用でお願いします……。夏子先輩を信じていますから」
「……う、うん。わかったけん……」
「おおきに――」
娘の為に母親のびわこは鬼になろうとしている。止めるなら今しかない。
「びわ……」
だが、びわこが帰る後ろ姿に私はなすすべもなく、ただただ見送るしか出来なかった。
――1964年9月。
「夏子先輩!ついに出来たんですか!」
「びわちゃん、これを見て」
「わぁ、綺麗……!!」
私が東京医科大学4年生の時、ある実験に成功し一躍有名人になった。
「ちょうど3分……。数分で元の色に戻るというのは失敗だわ。まだまだ改良が必要……ね」
「夏子先輩それでもすごいです!」
それは青の彼岸花の開発だった。自然界の彼岸花は主に白色、赤色、黄色、朱色の4色しか確認されていない。なぜか青色だけが幻の彼岸花とされてきた。
「でも毒素のリコリン、ガラタミンは通常の彼岸花の倍の量があるわね……。これでは一般的には普及出来ないわ」
「そうだ!薬学部に友達がいるので、何かに使えないか聞いてみますね」
「ありがとう。びわちゃんよろしくね」
「はい!夏子先輩!」
この子は立花びわこ。通称びわちゃんは2つ下の大学2年生だ。私の後輩で、同じ植物学部に在籍している。
私は4年間、彼岸花の研究に没頭した。そもそも彼岸花は、動物から墓地を守る為に咲いていると言う説などがある。その球根には強い毒があり、誤って食べると嘔吐下痢、呼吸困難、終いには死さえあると言う。
この彼岸花に魅了されたのはこの成分だけではない。その咲き誇る美しさ、色、立ち並ぶ優雅さ、このすべてが私の中の探究心を刺激した。
いずれ交配し、幻と言われた青の彼岸花を作れないだろうか……いつしかそんな事を考える様になっていたのだ。
――大学卒業後は薬剤師として東京で就職し、彼岸花の研究を続けながらも楽しさと忙しい日々に追われていた。
しかしある日、唐突に鳴った一本の電話で私の東京での華やかな暮らしは終わりを告げた。
「え?母さんが……亡くなった?嘘でしょ。何の冗談よ……」
………
……
…
月日は流れ、あれから28年が経ち、私は53歳になっていた。
東京での仕事を辞め、この地元の島根県松江市に帰って来たのが25歳の頃。あの頃、上京した理由は単純にこの田舎の港町が嫌で嫌でたまらなかった……ただそれだけだった。
父と母は地元で小さな八百屋を営み生活をしていた。母が亡くなると父はひどく落ち込み、仕事どころか一人では生活も出来ない有り様。
見捨てる事など出来ず、私は故郷に帰って来た。夢と希望に溢れ楽しかった東京生活は、本当に夢の様な出来事だったと思える。
私は間もなくして八百屋を引き継ぎ、小さな花屋も営んだ。生活は厳しかったが亡くなった母の残してくれた生命保険と、父の年金でどうにか生活はやりくり出来た。
そして毎日を退屈に思っていた頃、偶然にも仕入れ先の花屋で彼岸花を見かける。
「また研究をしたい!」と言う強い思いが蘇り、数株の彼岸花を八百屋の軒先に植えていく。
それから花を仕入れる度に彼岸花を求める自分がいた。軒先がいっぱいになるとお寺さんの許可を頂き、お寺さんの参道にも彼岸花を植えていった。
いつしか彼岸花が自然繁殖を始め、この町は彼岸花の群生地として有名になっていく。
毎朝同じ時間に起床し、野菜を仕入れ、花を仕入れ、販売をする。それが地元の皆さんのお役に立っていると思える自分が少し誇らしくもあった。
――あの電話が鳴るまでは……。
「――もしもし?え!びわこ?えぇ!あのびわちゃん!?久しぶりだがん!うん!元気よ!うんうん!」
それは後輩の立花びわこからの電話だった。数日後、びわこは私を訪ね、家までやって来た。
あれは彼岸花が咲き始めた9月の事だった。
「夏子先輩!ご無沙汰してます!」
「びわちゃん!ほんに久しぶり!歳取ったなぁ!」
「あはは!先輩こそ!もうすっかりこっちの人やないですか!」
「当たり前だけん!あれから何十年経ったとおもっちょる!そう言うびわちゃんこそ大阪弁になっちょるけん」
「そうなんですよ!結婚して今は大阪に住んでまして――」
「そげかねぇ……あげだ。美味しい『のやき』食べぇかね?」
「はい!頂きますっ!」
お互いにマシンガンの如く思い出話をし、日が傾き始めた頃……私は何気ない言葉でついに時限爆弾のスイッチを踏んだ。
「そんで私に何か用事があって来たんかいね?」
「……はい」
言いにくそうにびわこは話始めた。さっきまでの笑顔はない。
「……実は夏子先輩に頼みがあって来ました」
「何?私に出来る事なら何でも言って?」
「……ある物を作って欲しいんです」
「ある物?」
びわこはポシェットから一枚の紙切れを取り出した。そこには彼岸花を主成分とした薬の調合が書かれている。しかしこれは……。
「びわちゃん……これは……」
「はい。青の彼岸花を主成分とした……毒薬です」
「びわちゃん!こんな物何に使うの!駄目よ!駄目駄目!」
「夏子先輩!聞いて下さい!話を聞いてから……決めて下さい……」
「びわちゃん!」
私の静止する声を無視し、びわこが話を続ける。
そうだ。聞いてから断ろう、そうすれば済む話だ。彼岸花で毒薬を作るなんて私がするはずがない。
「私には……二人の娘がいました。25歳と22歳になります」
「びわちゃん……いましたってどういう意味……?」
「はい。去年、下の娘が……亡くなりました」
「え……?」
日が沈み、開けた窓から見える外は真っ赤になっていた。
「夏子先輩……この町は昔、家族で観光に訪れた事がありました。もしかしてそれを思い出して、娘は最後にこの町に来たのかもしれません……」
「嘘……まさかそれって!?」
「……やっぱり夏子先輩は勘が良いですね」
「昨年……防波堤で亡くなった女性って、びわちゃんの……」
「……はい。娘の美沙です」
「!?」
憶測で話していたが、面と向かって肯定されるとさすがに背筋に悪寒が走る。
町でも噂になっていたのだ。この町に住む白河郁子が海に身投げをした理由を借金苦だとか、介護疲れだとか近所の人達が好き勝手言っていた。
しかし白河郁子の単独自殺だと思われていたが、海からは遺体が二つ上がったとも聞いた。
私にも心当たりがあった。事件が起こる1年程前に旅館の女将から聞いたのだ。大阪から来た若い女性が死にそうな顔をしていたと。それがまさかびわちゃんの娘だったとは夢にも思わなかったのだが。
「……びわちゃん、それは辛い思いをしちょったんだねぇ」
「はい……」
すでに外は暗くなり、蛍光灯の明かりに虫が寄ってくる。網戸を閉め、扇風機を回すと心なしか少しだけ落ち着く。現実離れした想像から、現実に戻ってきた気がしたのかもしれない。
そしてうつむいていたびわちゃんは覚悟を決めた様に顔を上げた。
「夏子先輩……!私はっ!!」
急に声を荒げたびわちゃんに少し気後れし、身構える。
「娘の美沙を自殺に追い込んだ男を許さない!殺してやりたいっ!」
「えっ!びわちゃん!?」
――雨の匂いが鼻をつく。夕立だろうか。雷がゴロゴロと鳴り始め、ザァァァという雨音が聞こえてきた。
「あの男はろくに働きもせず、ギャンブルで借金を作り、美沙を自殺に追い込んだ……あいつが殺したんだ!」
びわこの目つきがさっきまでと明らかに違う。目が釣り上がり、怒りの形相の顔はまるで鬼の様だった。
「夏子先輩……私は近々この町に引っ越して来ます。そしてあの男を呼び出します……」
「どうやって……?」
「それは――」
――聞かなければ良かった!聞くんじゃなかった……。びわこを止めれなかった後悔や、好奇心と罪悪感が一緒くたになり背中を駆け上がる。
「――それでは夏子先輩、私は一度大阪に帰ります。くれぐれもこの事は他言無用でお願いします……。夏子先輩を信じていますから」
「……う、うん。わかったけん……」
「おおきに――」
娘の為に母親のびわこは鬼になろうとしている。止めるなら今しかない。
「びわ……」
だが、びわこが帰る後ろ姿に私はなすすべもなく、ただただ見送るしか出来なかった。