京都駅の新幹線ホームは早春の訪れを感じさせる、ささやかな陽射しと指先がかじかむ寒さが舞っていた。東京都方面行きのホームに最初の自動ドアが設置され、近日中には全ての工事が着工する。
 九州方面行きの新幹線を待つまばらな列は厚手のコートに身を包み。雲一つない澄んだゼニスブルー色の空には興味も示さず、イヤホンをつけ、スマホに視線を落としている。
 三十分以上、ホームで立ち尽くす場違いな制服姿の女子高生に気付かず。
 くすんだローファーを履き、この時期に生足をさらしている。その手にはスマホすら握られていなかった。ずっと下を向いたまま、長い髪がなびいても押さえる素振りすら見せない。
「まもなく下り列車が通過します。危ないですので黄色い点字ブロックの内側まで下がってお待ちください」
 遠くから聞こえてくるアナウンスに、女子高生の肩が一瞬ビクついた。
 けたたましい警告音が鳴り響く。
 目をギュッとつむり、意を決し踏み出した右足。その歩幅はあまりにも小さく小刻みに震えていた。力が込められた関節は曲がっていなかった。
 恐怖で過呼吸になりながら、点字ブロックの中心に来る。そこからは鉛のような足をひきずり前へ前へと動かし、ついに点字ブロックを超えた。
 が、誰もそれに気づかない。目の前のゴシップやショート動画、暇つぶしのゲームに夢中で周りの事はお構いなしだった。
 そのとき、女子高生は思い出す。
 トイレのホースで水をかけられながら。
「あんたさ、何で平気な顔して生きてんの、生きる価値のない社会のゴミだって自覚してないの?早く死んでくんない?あんたみたいなのが居るから社会が腐っていくんだよ。死んだところで誰も困らないし悲しまないか、むしろ、社会の寄生虫が一匹消えてより良くなるからさ?ね?」
 あの子達の言うとおり、私は、誰からも必要とされない存在だった。生きる価値もない社会のゴミ。社会をむしばむ寄生虫なんだね。
 顔を上げた女子高生の目元から涙が溢れる。
 自然と、かかとが浮き最後の半歩を踏み出せた。
 その瞬間、力という概念が消えたみたいに全身が軽かった。それはまるで、大の字で太陽を仰ぎながら海に浮かんでいるみたいに。
 周りが気付いた時にはもう遅かった。目の前で起こっていることに反応する余韻すらも与えないぐらい新幹線は迫ってきていた。
 鳴神秋志《なるかしゅうじ》、一人を除いて。
 背後で事の行末を見守っていた鳴神は寸前で腕を掴みホームへ引き戻した。
 女子高生は、目の前で新幹線が通過している光景を見て自分の身に何が起きたのか理解できていなかった。
 甲高い音と風圧が通り過ぎホームに静寂が戻る。
 緊張が走るなか、おそるおそる鳴神を見上げ口を震わせながら聞く。
「なんで、止めたの」
 鳴神は言葉に迷わなかった。
「死んでほしくないから」
 “死んでほしくない”その言葉に、女子高生は激しい怒りを覚えずにはいられなかった。
「なに、死んでほしくないって。どうせ自己満足の正義感で助けただけでしょ……赤の他人のくせに私の何も知らないくせに勝手なことしないでよ!」
 その叫びは、鼓膜に焼きつくほど悲痛なものだった。
 四方から録音する音が続々と聞こえてくる。
「あなたにわかる?!生活保護を貰いながら必死に生きてるだけで学校に行けばゴミみたいに扱われて、便器に顔を無理やり顔を突っ込まれて水を飲まされる!浮気で離婚して、私を大学に行かせるために寝る間も惜しんで働いてるお母さんが作ってくれたお弁当まで捨てられた!あげくの果てには、カンニングの犯人にまでされたの!」
 一年間、胸の内で押し潰し、殺してきた思い。涙が頬を伝い、アスファルトを止めどなく濡らしてゆく。
「誰も助けてくれなかった!友達だと思っていたクラスメイトも、小学校からの親友も担任も!全員!誰も、私を、信じようとすらしてくれなかった……わたしは死にたい、消えたいの。だから、邪魔しないでよ……お願いだから……死なせてよ!」
 胸を弱々しい拳で叩き、歯を食いしばりながらその場に膝から崩れ落ちるのを、鳴神は支える。
「こんな苦しくて悲しいだけの人生なら、産まれてこなければよかった」
 噛み締めるように言い放った言葉に、鳴神は口を開いた。
「君がどれだけ辛い思いをしているのか、俺に全部は分からないが、少しは理解できる」
「できるわけないでしょ適当なことぬかさないで」
「俺も中学の頃イジメられていた。それとは関係ないが高校の頃に自殺未遂だって起こした」
 女子高生はぐちゃぐちゃになった顔で鳴神を見上げる。
「イジメられる苦痛も誰にも打ち明けることのできない日々も、自殺しようとする自分への嫌悪や侮蔑も、俺は知ってる」
「……」
「それで分かった、死ぬことは解決じゃない。人生、失敗や過ちを犯してもいつでもやりなおせる。だが、命だけはやりなおせない。命は一つなんだよ、一回きりなんだ。君も俺も。君のお母さんも。今この瞬間しかない……それを投げ捨てるのか?未来のある命を」
「そんな綺麗ごと聞きたくもない」
 鳴神は小さく笑って言う。
「そうだな、綺麗ごとだ。まるでカウンセラーや自己啓発本かってぐらいにな……けどな、綺麗ごとを言ってないと生きれない時だってある。君が生活保護を貰ってるだけでイジメを受けるみたいに、世の中が理不尽でクソだからだ」
 途端、鳴神は真顔になり低い声で聞いた。
「君は、本当に心の奥底から死にたいと思っているのか?」
 その言葉と真っ直ぐな瞳に、女子高生はばつがわるそうな顔色を浮かべ視線を逸らす。下を向き、スカートの裾をつよく握りしめた。
「本当は死にたくないんじゃないか?だから、わざわざ人目につくところを選んだ。誰かに止めてほしくて、自分がまだ生きていいんだと知りたくて立ちつくしていたんじゃないのか」
「ちがう」
消えるような声で否定され、鳴神は確信した。
「このまま死んだら、イジメられていた事実はなくなるぞ。カンニングも君のせいにされたまま、君は死に、ここまで追い込んだ奴らはこれからものうのうと生きる。それでもいいのか?」
「いいわけない……いいわけないでしょ!けど」諦めに満ちた声色で「じゃあ誰に言えばいいわけ。担任も友達も親友も、誰一人として私を信じようともしてくれなかった。勘違いとか自意識過剰とか。勇気を出して事実を言葉にしても、それを信じてもらえなかったら意味ないじゃん」
「まだ君の母親が残ってるだろ」
 自虐するような笑みを浮かべながら。
「言えないわよ。頭も顔も悪い、特技も才能もないのに、そのうえイジメられてたなんて。しかも、その原因が生活保護だからとか……傷つけるじゃん、お母さんを」
「違う。一番傷つけるのは、イジメられた苦しみも辛さも痛みも悲しみも全部、親を信じず打ち明けることなく自殺することだ」
「……」
「母親は自分を責めるぞ。親として娘を守ってあげられなかったって思わせるぞ。君がそう思っていなくても」
「そんなの言われなくても分かってる!言ってることと行動が矛盾してるってことも頭では分かってても、感情が追いつかないのよ!」
 無言の時間が数秒ながれたあと、鳴神は立ち上がった。
 その瞬間、言い訳ばかりする私を構いきれなくなり見放したのだと確信したが。
 目の前に手が差し伸べられ、驚き鳴神を見上げる。
「なら、追いつくまで俺が支えてやる。君が生きたいって心の底から思って言葉にできるまで、イジメがなくなるまで、ずっとこの手を差し出してやる……だから、生きろ」
 優しい顔を浮かべながら伝えた。
 その手を何度も女子高生は見つめる。
 鳴神は知っていた、助けてと手を伸ばすことが、どれだけ怖く勇気のいることなのか。
 その手は握られることなく、まもなくして事態を聞きつけた数名の駅員が駆けつける。鳴神が事情を話すと一緒に駅員室まで同行することになった。
 女子高生は駅員二人に間を挟まれながら階段を降りていく後ろ姿を、まるで見せものみたいに撮影する人達。
 その一人であるスーツ姿の中年男が、こう入力していた。
 新幹線待ってたら女子高生が目の前で飛び込み自殺しようとしたんだけど。イジメで自殺とか惨め過ぎ。死ぬなら周りに迷惑かけずに一人で死んでくれ。
 コメントをつけ動画と共に投稿しようとしていたのを見て、鳴神はスマホを奪い取り、地面に叩きつけると何度も踏みつけた。
 その光景を見て周りはスマホで撮るのをやめ、隠し始める。
「お前なにしやがる!俺のスマホを、器物損害だぞ!分かってるのか!?」
 スーツ男は鳴神の肩を強く掴み、赤面しながら唾を飛ばす。
「どうでもいいわ、そんなの。お前は、人が死ぬ瞬間を撮ってSNSに上げてなにがしたい?」
 男は口をモゴモゴさせ言葉を詰まらせた。
「そんなの、お前に指図される筋合いはない!それに、俺が悪いならニュースはどうなんだよぉ。こういうの流してるだろ」と強気な口調で言い返す。
「アホかおっさん。記者は所属している会社や自分の名前、責任所在まで晒した上で撮影し公開してる。まずな、今みたいな映像はコンプラ的に撮っても流せねーよ」
「いや、だが!」
「自分の顔や名前すらも晒す度胸もないくせして匿名なのを良いことに好き勝手撮っては見せものにする。承認欲求のためか?なんであってもあんた、人として終わってんな」
「お前!お前、俺だけに言うな!あいつらだって撮影してただろ!そもそも、イジメごときで自殺しようとするあの弱いガキが悪いんだろうが!自業自得だ!」
「弱くて何が悪い!」
 鳴神が声を荒げ詰め寄ると、会社員は顔を強張らせながら右足が退く。
「人間は弱くて脆い。それが思春期の高校生なら特に。そもそも、イジメごときって言ったが、お前はイジメを受けたことがあるか死のうと思ったことがあるか?」
「……」
「黙ってないで答えろ」
「ないに決まってるだろ」
「ないからそんなことが言えるんだろ!ないからわからない。わからないから共感できないし理解できない理解できないから否定しようとする。理解できるだけの心があるのに……お前の言う弱い奴の自業自得なら、自分の子供がイジメられて自殺しようとしても弱いからって理由で見捨てるんだな?」
 会社員は黙って鳴神を睨む。
「警察でも何でも好きにしろよ。裁判でもして前科もつけろ。弁償もしてやる。それでも俺は、俺が正しいと信じる生き方を貫く、周りが間違っていると言っても」
 鳴神は最後に言った。
「あんた、人として死ねよ」
 そう言い捨て、駅員室へと向かった。
 途中、駅員に自分の連絡先を書いたメモ帳を渡した。
 部屋に入ると女子高生は無気力に下を向いて椅子に座っており、女性の駅員が対応していた。
 鳴神も事の経緯を軽く説明し、話が終わるまで部屋の端っこで聞き耳を立て、椅子に座って待つ。
 どうやら新幹線は止まっておらず、警察には連絡をするが損害賠償はしないとのことだった。母親はすでに連絡済みのようですぐに来るらしい。
 話がひと段落したところで近づくと女子高生は顔を上げた。
「大丈夫か?」
「……はい」
 鳴神は椅子を借りて隣に腰掛ける。
「あなたは、生活保護を貰っている人を社会のゴミだと思いますか?」
「……」
「教えてください」
 鳴神は後頭部を掻いた。
「そうだな、状況による。精神や肉体的な障害を負っている人だったり、君の家庭みたいに一人親家庭で子供を育てるには十分なお金を得られない人たちには全く思わないよ」
「じゃあ、逆に思うのはどんな人ですか」
「いわゆるニート。働けるのに働かず、甘い汁だけを啜っている人間だな……君は、生活保護を貰っていることを引け目に感じているのか?」
 女子高生はコクっと頷く。
「だからってそれを理由にイジメられることを正当化して納得させるのは間違いだ」
「けど」
「君はハリーポッターを知ってるか?」
 いきなり何?という顔で見つめたあと。
「それりゃ、有名ですし」
「じゃあ、その作者が生活保護を貰っている時に完成した作品がハリーポッターだったことは?」
「……本当ですか、それ」と懐疑的な顔色を浮かべる。
「ああ。取材で本人がそう語ってるんだ。調べても出てくるぞ」
「スマホ、家に置いてきました」
 鳴神はスマホで日本語訳された取材記事を検索し、それを見せると食いついた様子で読み続けた。
 読み終え、スマホを返してもらう。
「あの、聞きたいことがあるんですけど」
「なんだ」
「イジメは、最終的にどうなったんですか?その、嫌なら言わなくても大丈夫です」
「なくなった。イジメられてた証拠を学校に暴露して。動画とか録音とかその他諸々、言い逃れできないよう揃えてな。君の言う通り、事実を言葉にしても信じてくれないからだ。だから、信じようしかないようにするしかない。今の君には、勧めないがな……それより」
 ポケットから二つ折りにしたメモ紙を出し、手渡す。
「なんですかこれ?」
「電話番号だ」
 女子高生は目を見開く。
「あのとき言ったことは冗談でもその場しのぎでもない。いつでも電話してくれ。俺は、君の味方だ」
 君の味方。たったそれだけの言葉が、今の女子高生の心には深く突き刺さった。不謹慎だが自殺しようとして良かったと心の片隅で思った。
 メモを強く握りしめ静かに涙を流しながら「ありがとうございます」とさっきまでの子とは思えない笑顔を鳴神に送った。
 新幹線の時間があるため別れを告げ、手を振り返しながら鳴神はその場を後にした。
 ホームに戻ると、さっきまでの騒動がまるでなかったみたいに元通りだった。
 電光掲示板を見上げ時刻表ときっぷを照らし合わせる。
 十分の有余。極度の緊張から解放されて眠気が襲ってきた。自販機で缶コーヒーを買いベンチに腰掛ける。ショルダーバックから抗不安薬を一錠、取り出す。
 それを缶コーヒーで流し込んだ。
「はぁ」と小さく一息ついてささやかな風を感じていた。
 ポケットに入れたスマホの着信音が響く。
 急いで取り出しサイレントにする。どうやら着信の主は海斗《かいと》からだった。
 時刻は九時を回ったばかり。
 この時間を狙ってかけてきた理由を察していた。
 電話に出た。
「おはよ海斗」
「おは、久しぶりだな!」
 ラインのやり取りはちょくちょくしていた。一年近く聞いてなかった元気そうな声に安心した。
「はなすのいつぶりだっけ?」と海斗。
「たぶん去年の夏に地元に帰ってくるのか電話してきたときじゃないか?」
「そんなもんだっけ?何年も話してない気分だったわ。てか、声が眠そうだな」
「色々あってな。それに、昨日から寝てない」
「昨日から?荷造りに手間取ったか?」
「いや。睡眠薬を飲んでも効かなかっただけだ」
「そうか」悩ましい声色で言う。
「それはいいとして、世間話するためにこんな朝早くから電話してきたんじゃないだろ?」
 海斗は鼻で笑って「さすがにお見通しか……いいのか、本当に卒業式でなくて?この時間に電話に出るってことは出席してないんだろ」
「やっぱりな。わざわざそんなことのために電話してきたのか?」
「そんなことじゃないだろ」
 いまだに納得できないと言わんばかりの声色で続ける。
「この六年間、こっちに帰ってきたのは成人式だけだった。毎日頑張って、過労で倒れて入院するぐらい勉強して首席までとったのに、いいのかよ。一度きりしかないんだぞ」
 僕は薬の副作用で頭を軽く押さえる。
「今まで遠慮して言わなかったが、まだ自分のせいだと思ってるんじゃないのか?自分が楽しい思いしていいわけないとか、幸せになっちゃいけないとか。もしそうなら」
 僕は海斗の言葉を遮った。
「そんなこと考えていないさ。これは、最初から決めていたことだ」
「本当か?」
「ああ」
 海斗だけじゃない。出席しないことに家族や兄姉、優那からも同じ反応をされた。
 後悔しないか?友達と一緒に祝わなくていいのか?顔向けできないからじゃないのか?
 理解は示しながらも、了解する顔色をすぐには見せなかった。
「申し訳ないとは思うよ。ここまで来ることができたのは海斗や優那、家族の支えがあったからだ。その感謝を伝える場でもある卒業式に出ないことに罪悪感を感じるし、恩を仇で返すみたいで心苦しい」
「……」
「けど、俺にとって卒業は目的じゃなくてただの通過点、スタートラインでしかない。だから、ごめん。卒業式には出ない」
 沈黙は短くなかった。
 鳴神はただ海斗の声を待った。
「ホント、昔から変わらずクソ頑固だな」と納得半分、諦め半分のため息をついて言った「なら、俺がとやかく口出しすべきじゃないな」
「すまん。気持ちだけ受け取っておく」
 聞き慣れない駅メロが流れた。
「わざわざありがとうな。時間だからきるぞ」
「おう!明日の卒業祝い、ちゃんと来いよ!」
「忘れてないさ。また明日」
 電話をきり、生ぬるいコーヒーを一気飲みし立ち上がった。 
 唇が乾燥するほど暖房の効いた車内のほとんどは空席だった。
 前から二番目の席に深く腰掛け財布に切符を入れた。リュックを足元に置いていると、落ち着いた振動で走り出す。
 耳が詰まるのを感じながら、肘掛に頬杖をつく。
 車窓から、戻ってくることのない町がパノラマのように流れていくのを眺めていた。
 二箇所目の停車駅を過ぎた頃、スマホのバイブレーションを感じた。今日はやけに多いなと思いながら取り出す。
[ちゃんと新幹線乗ったか?]
 今度は優那《ゆうな》からだった。
 昨日というか今日の朝方まで電話に付き合ってもらっていたのに。わざわざこのラインをするために起きたのか?
[ちゃんと乗ったよ]
 言葉だけじゃあ信じないので景色の写真も送ると、即既読がついてから数分が経つ。
 乗り遅れてないか心配で送ってきただけか?そう思った瞬間だった。
[ならよし。帰ってきたら、紗月の家に行くんだよね?]
 不意を突かれ息がつまり嗚咽する。
 考えもしなかった。優那から紗月の話が出てくるとは。
 PTSDだと診断されるきっかけとなった受験勉強のとき、相当ショックを受けていた。それ以来だ。
 息を落ち着かせてから[行くよ]と返信した。
 再び既読がついて数分の間、ずっと画面を見ながら息を整えた。
[なにかできることがあったら、なんでも言ってね]
[その時は頼るよ]
 ありがとう、のスタンプも送りスマホをなおす。
 車窓にうつされた自分が惨めで情けなかった。
 海斗は高校を卒業したあと祖父の下で本格的に働き始め、中学から目指していた一級建築士の資格に合格した。そのタイミングで二年付き合っていた彼女と結婚し、来年には子供も生まれる。
 優那は大学に進学し、卒業後は一度は耳にしたことのある企業に就職したが一年もせずに辞めた。憧れたインテリデザイナーになるためだ。数年下積みをしたあと独立し、今では猫の手も借りたいぐらい依頼が来るそうだ。
 それにくらべ俺は、六年前のあの日から何も変わっちゃいない。
 過去は変えられない。そんなの分かりきってることなのに、そこから踏み出せないまま立ちつくしている。
 自分が止まっても周りも時間も一緒に止まってはくれない。止まるのは、いつも自分だけだ。そのまま時間は過ぎていき、季節は繰り返される。
 いい加減、前に踏み出さないといけない。そう思った矢先に、女子高生が現れた。あの子を助けたのも、結局は自分のエゴでしかない。
 紗月を助けられなかったことへの罪滅ぼしになると思った。PTSDが克服するきっかけになるかもしれない、そう考えた。
 写真アプリを開き、この六年間でほとんど開かなかった鍵付きのフォルダ。
 解除しようとする指先が震え始める。金縛りみたいに体全体が硬直し、吐き気で唇を噛みしめる。
 1104と入力した。
 表示された三十枚の写真。
 紗月の家でヒヤヒヤしながら髪を切ってもらったあと。
 放課後いきなり連れて行かれた映画館の席。
 水族館の後によった海辺の夕焼け。
 博多湾と街並みを背景に撮った能古島。
 全身の毛穴という毛穴から冷や汗が滲み、頬を伝う。スマホを床に落とし、震える手で必死に胸を押さえ必死に息を吸う。
 “六年前”のあの日のことが鮮明にフラッシュバックする。
 真っ赤な血液が指と指の間から溢れ、真っ白なシーツを染めていく。
 もがき苦しみながら僕の服を必死に引っ張った。
 全身を痙攣させ、充血した瞳からは涙が溢れる。
 そんな最中《さなか》見せた嬉しそうな微笑み。
 俺の頬に添えられた手は酷く冷たかった。 
 そして最期に、かすれた声で言い残したんだ。
「っ、お客様、大丈夫ですか?!」
 乗務員の言葉に、現実へと引き戻された瞬間。
 鳴神は口を強く押さえ、デッキを駆けた。
 そして、ドアを開けたままトイレで「おうううぇええ!」コーヒーと胃液が混じり合った吐瀉物を吐き出す。
 そこに汗や涙がしたたり、混じりあう。
 何度も克服しようとし、血が滲むまで吐き散らしているため戸惑わない。
 思い出す。紗月の弟と妹から向けられた憎悪に満ちた顔で「お前がお姉ちゃんを殺した!」と殺意のこもった声色。
 奪ったんだ。紗月の両親から、まだ小学生だった二人から大切な家族を。殺したんだ。助けられた命を。俺が……なのに、楽しんでいいわけがない。幸せになる資格なんてない。
 俺が、紗月と出逢っていなければ彼女は、嫌な事を忘れさせる愛らしい笑顔で今も生きていたはずだった。
 あの日の偶然がなければ。