遠い記憶を辿るように、僕は図書館で本を探した。表紙を捲り、一番初めに目に入るカバーの折り返し部分には、この本のキャッチフレーズがフォントサイズを変えて載っている。
「『世界で最も有名な悲恋の物語』だってさ。すごいなぁ」
 そっと、僕は「悲恋」の文字を撫でた。図書館員が貼った透明のブックコートフィルムは、僕の指を滑らせる。
「結ばれないのに。そんなもん、なんの意味もないわ」
 ひっそりと文字から離れ、隣にいたハルちゃんを見る。はっきりとした輪郭が彼を周囲と差別化していた。釘付け、なんて安っぽい言葉ではとてもじゃないが言い表せない。そこにある、その事実だけで、走行性を持つこの瞳は抗えない。
「ハルちゃんは、意外とロマンチストだよね」
 ページをめくる指に勢いをわけてもらう。僕は逃げるように、再び本に視線を戻した。そこに半歩遅れて僕を睨む彼は、最近優しくなった。性根はたいして変わらないのに、いつの間にかふるまいの角が取れていた。きっと、僕の知らないあちらこちらで、彼は転がって傷を作っている。滑らかになる彼を見て、大人になりたいとは思えなかった。僕の知る彼が少しずつ消えてゆくのを、囲いの外から眺めている。

「ねぇ、ハルちゃん」
 閉じていられなくなった口が、彼を呼び止めた。なんだよ、と彼は少し迷惑そうにこちらを見る。
「この前お母さんが、急に屋根裏の掃除をし始めてさ。色々処分してたんだけど。多分その中に、昔ハルちゃんがくれた海外のポストカードが入っていたと思うんだよ」
 背表紙へ引っかけた親指に、力が入る。
「多分、捨てられちゃった」
「何年前の話してんだ」
「えっと……十年くらいかな」
 あれは確か、小学校低学年のころだった。家族旅行で海外に行ったハルちゃんは、僕に一枚のポストカードをお土産にくれた。セルリアンブルーの水彩画だった。船乗りがオールを持ち、三日月のようなゴンドラの上に立つ。来た道も行く道も美しいブルー一色だ。僕はその絵に寂しさを感じ、空いたクッキー缶に閉じ込めた。
「多分もう会えない」
 これも悲恋かな、と控えめに笑う僕に、ハルちゃんは、はあ? と(すご)む。そのドスのきいた声に、容易には怯まない。僕もまた、少し変わった。
「大事にしてたんだけど」
「十年も放っておいたくせに、なに言ってんだ」
「放ってないよ。大事にしまっておいたんだ」
 くだらない言い訳を独り言のように話す。それでもよかった。こんな話も聞いてもらえるようになったのだと、自覚するたび心が震えた。

「そんなもんは悲恋と言わない」
 そうなの? と僕は、首を傾げる。ヒレンってなんだっけ。実らない恋、悲劇の話。あのゴンドラは、もう行ってしまった。
「お前のは一方通行だろ」
「片思いでも悲恋はあるんじゃない?」
「互いの気持ちがないのに、なにが悲しいんだ」
「叶わない苦しみはあるよ。多分」
 要領を得ない僕に、彼は苛立ち、言葉が荒くなる。
「言わねえなら、存在しねえのと同じだ」
 僕は、「そうだね」とだけ言って、フローリングに視線を落とした。彼の声が耳に残り続ける。食らった言葉に押し負けたわけではない。今の自分は存在しない。その表現がぴったりだと気付くと、彼の言葉がすっと入ってきてしまった。
「俺は、始まってもねえ話に興味はねえんだよ」
 吐き捨てるように言った彼の顔は見られなかった。
 けれども僕は、彼のこの無邪気な傲慢さにどうしようもなく惹きつけられる。自分にはない、理屈も歴史もなにもかもを度外視する鮮烈な力だ。僕の世界もいつかひっくり返してくれるんじゃないかと願ってしまう。


 夕方の不確かな光の中で、彼は棚にずらりと並ぶ本の背表紙を物色し、僕は許されるほどの告白をした。
「僕は、なんでハルちゃんはハルちゃんなんだろうって考えていた」
「なに言ってんだ」
 僕は読んでいないことが丸わかりの速度で、ぺら、ぺら、と本のページをめくった。
「どうしてロミオなの、って」
 ハルちゃんはこちらを見ていた。きっと中学のころの話を始めたと思っているだろう。彼は、昼休みの朗読劇を聴いていない。
 しかし僕は、あの俳優の質量を含んだ声を聴いてしまった。知らない前には戻れない。
「あれは、『どうして敵対する家の生まれなの? そうじゃなかったらよかったのに』っていう反語だろ? だから、僕も」
 自分が口走った愚かな言葉を悔やみ、はあ、とため息をついた。気づくと、彼からも大きな吐息が聞こえる。
「俺は俺なんだよ」
「うん、そうだった」
 僕は本をパタンと閉じた。窓のある方を見てみたが、いくつもの高い本棚に阻まれ、空は遠い。逃げられないのだと悟った。
 静けさが漂う夕方の図書館は、古びた本の匂いが充満している。人はまばら。すれ違う人はいない。
「ハルちゃんはさ、どうして僕なんだって思ったことはないの」
「ない。……それに、俺は捨てられる。なんだって」
 ハルちゃんは、読みもしない本のタイトルをじっと見つめていた。目の前の棚は外国文学だ。美しい装丁の背表紙もまた、定かならぬ僕らを覗いている。
 彼はそれっきり口を開かなくなった。僕にはこの沈黙が、「捨てて」と言っているように聞こえた。
 そうしてキャピュレット家の一人娘は短刀を握る。

「ハルちゃんは、恋をしているんだね」

 ハッと我に返る。僕は咄嗟(とっさ)に目を瞑った。またおかしなことを口走ってしまった。恐怖にも似た不安が僕の胸を潰す。自分はこんなに物を考えずに話す人間だっただろうか。辺りの静けさが、この場に僕たちしかいないことを知らせていた。

 いつまで経っても、彼はやってこなかった。恐る恐る目を開けると、そこには耳の端を染めた彼がじっと動かず立っていた。まるでなにかを教えられたようなその顔は、信じられないと叫んでいる。
 自然と交わった視線に、身体が波打つような衝撃を食らう。彼の比にならないほど頬を赤らめて、僕もまた、その場で動けなくなった。
「ぶっさ」
 ハルちゃんが機嫌よく笑う。耳の輪郭はまだ赤く染まったままだ。気恥ずかしさを飲み込んだ彼は無敵だった。なんでもやってのけてしまう。

――「恋は、なんでもやるのです」

 だが、それは彼だけではない。
 僕はそれまでの渇きを癒すように、瞳に差し込んだ光を彼に返した。