――「恋は、なんでもやるのです」

 食堂のテレビから聞こえたのは、艶やかで低音の響く男声。有名な劇団による『ロミオとジュリエット』の朗読劇が再放送されていた。舞台には、椅子がひとつだけ置かれている。男性は右手にやや黒みがかった臙脂(えんじ)(いろ)の台本を握り締め、椅子に浅く座り、片足を半歩前に出して地面を踏み締めた。確かにその瞳は、観客席の先に良家の一人娘を映していた。
 「なんでもやる」と言った唇は二、三度だけ震えて止まる。スッと引かれた口角は深く、決意に溢れていた。揶揄(やゆ)の余地もない名演。憑依とも近い演技に、僕は思わず息をのんだ。すべてのセリフを読み終えた俳優の頬が微かに力み、そして弛緩する。そんな微細な筋収縮ですら、目を逸らすことは叶わない。
「なんかいいよな、これ」
 隣に座る翔平の声で、ふと自分の重心が頼りなかったことを思い出す。握ったままの箸をそっと持ち直し、箸同士を意味もなく擦り合わせた。乾いた摩擦音は僕の手の中で留まる。伝わる振動をよそに、頭の中でまだ翔平の声がリフレインしていた。男の声。特別低くはないがもちろん高くもない、変声期などとうの昔に過ぎ去った、どこにでもいる男子高校生の声だ。
 あの俳優と翔平を比べた。なにか足りない、翔平も僕も。音の高低によらない、なにか。向かいの席に座る光太郎にもない、質量を持ったなにか。
 いつだったか、僕はこの大波の来し方を知りたいと願ったことがあった。しかしそれも、見慣れたはずの笑みに探す足を止めた。

 うわの空の僕を置いて、翔平のひどく言葉足らずな賛辞に光太郎は律儀に答えていた。
「ああ、そうだな。名作はどこをとっても素晴らしいな!」
 芸術の家に生まれた光太郎は、話しぶりがどこか風変わりだ。迷いのない言葉のひとつひとつが、僕には芝居がかって聞こえる。まるで創作物だ。伸びた背筋に、笑顔の眩さに、自信に満ち溢れた指先に、僕の世界にはないものを知る。当たり前のように芸術を理解し、受け取ったものを恥ずかしげもなく表出する。そんな光太郎の言葉で、セリフは一層強く輝いた。

 人知れず、僕は息を吐いた。他者の称賛は、どこからか安堵をも運んでくる。僕だけが動かされたのではないと知るだけで、心のぐらつきが減った。刹那の間に胸を撫で下ろし、どこかで共感を求めていた自分に気味の悪さを感じる。また深いため息が出た。僕はまだなにかを期待していた。朗読劇に心を動かされるなんて、――まるで光太郎の――煌びやかな世界をほんの少し味見できたにも関わらず、まだ物語の続きを求めている。
 おかしい。つい先ほどまで、欲しがらない(・・・・・・)自分(・・)を褒めて生きてきたというのに。

 昼休み、教室に鳴り渡ったチャイムを思い返す。
 いつものように、男三人で食堂へ来たのだった。焼きそばと卵スープのセットを頼む。食堂の入口で券売機に二九〇円を吸い込ませ、引き換えに落ちてきた小さなチケットを掴む。手にしたと思えば、その半分はすぐに食堂の職員が管理するブリキの小箱の中に消えてゆく。
 厨房から食堂に通じるステンレス台の上にはトレイが三枚並び、数分もせずに多めに盛られた焼きそばがそれぞれに乗った。ほどなくして人数分の黄色いスープカップが現れ、擦り切れたヒヨコの絵柄がこちらを見ている。ヒヨコ柄は卵スープとわかるようにであると、厨房のおばちゃんが教えてくれたのは去年の五月だ。高校に入学し、ちょうど話すネタがなくなる時期だ。
 翔太は一年経った今でも、「またこっち見てる」とプリントが剥げかけたヒヨコを見ては笑う。

 半券と同じ番号が、高らかに読み上げられた。目の前で待っていた僕らは、それぞれのトレイを手にし、三人座れるテーブルを探す。
 ちょうど今日はテレビの前の席だった。薄型の壁掛けテレビは、座ってしまうと目線より高くに位置する。昼のニュースの最終コーナーが始まっていた。週末のイベントは海浜公園でのビアガーデン、初日はナッツのサービス付き。白々しくワントーン上げて喜ぶ女子アナを網膜に投影することなく、僕は空いている席につく。
 いくらもせず、エンディングはすぐに切り替わった。針の音を模したサウンドエフェクトがカチカチと鳴り始める。三回鳴って、二拍飛び、次の瞬間にはあの舞台だった。

 僕は息をのんだ。
 「なんでも」と言った彼の瞳に迷いはない。なにを捨て、なにを掴むべきか、誰に教わるでもなく、疑いもなく、彼はそれに手を伸ばす。――怖かった。それを恋と理解してもなお、わからないものはわからなかった。光太郎のようにはいかない。あの朗読を聴いて、「なんかいいよな」と言った翔平を思う。彼はなんにもわかっていない。この気持ちを言い当てられても、身体を強張(こわば)らせ、息が止まる思いを享受することはない。受容器はまだ双葉だ。
 あの日、僕は永遠にこちら側にいることを選んだはずだった。御伽話(おとぎばなし)に、うっかり揺さぶられる。僕はまた、土から顔を出したばかりの芽を摘んだ。


 初めて『ロミオとジュリエット』に触れたのは、忘れもしない中学の授業中だ。先生に当てられた生徒が順番に教科書を音読していく。ジュリエットのセリフになる直前、演劇部の女子に順番が回った。
「ああ、ロミオ。どうしてあなたはロミオなの……」
 彼女の吐息は周囲を惹きつけ、続くセリフの切なさを増幅させる。ミディアムヘアーの黒髪は肩につくかつかないか。セリフの呼吸に合わせて肩で毛先が躍る。退屈な授業は途端に色めいた。本気を揶揄(からか)う男子がいれば、うっとりと聴き入っていた女子たちがそれを(とが)めるのだった。教室が騒がしくなる中、僕だけが窓から夏の高い空を見上げていた。

――どうしてハルちゃんは、ハルちゃんなんだろう。

 折元春輝、通称・ハルちゃんは、僕の家の近所に住んでいた。昔から愛想など考えたこともないようなふるまいで、今でもちょっぴり横暴な彼は、僕の二列右、斜め前の席に座っている。女子の音読にも周囲の雑音にもまるで興味がない顔をして、彼は頬に手をつき無気力に黒板を眺めている。僕は動きのない横顔に飽きて、空を眺めたのだった。
 僕は窓際の席が好きだ。いつでも逃げられる。流れる雲もなく、すべてを曝け出す青に羨ましいとさえ思った。

 音読の順番が近づく気配がした。ぼんやりしていたせいで、順番を見失っていた。
 慌てて、誰にも気づかれぬよう目だけで教室を見渡していると、後ろを振り返った彼と目が合った。彼もまた、近づいた順番を確認しているようだった。僕は大袈裟にきょろきょろと鼻先まで動かす。すると三列右の一番後ろの席に座る女子が、待っていたかのように教科書を読み始めた。彼女を見たハルちゃんは、こちらを一瞥(いちべつ)してから前を向いた。
 そうして残された世紀の大根役者は、再び蒼穹(そうきゅう)のはるか彼方を力無く睨む。
 息がしづらい。どうして、と空へ溢した。