「じゃあ翼くん、日も沈んできたしそろそろ帰ろうか?みんなもそろそろ帰らないと、お家の人心配するんじゃない?」
 気づけば、目の前で茜がしゃべっていた。夕暮れ時、公園の遊具で、周囲にはいつかの子供たちがいる。
「え?」
「だーかーらー、もう帰ろうよ!それともまだ鬼ごっこしたいの翼くん?」
 世界が夕日で茜色に染まっていた。俺の胸にぽっかり空いていた穴に、爽やかな秋風が吹き込んだ。
 俺は気づくと茜を抱きしめていた。
「へっ⁉ちょ、ちょ、ちょっと翼くん⁉何するの⁉」
「茜!俺もお前が好きだ!」
「な、な、な、何言ってるの翼くん⁉熱でもあるの⁉っていうか離れてよ!嬉しいけど、子供たちが見てるよ!」
 茜が珍しくあたふたしだす。
「あー!告白したー!」
「やっぱりカップルだったんだ!兄ちゃん嘘つき!」
「お兄ちゃん大たーん」
 ガキどもが横でうるさかったが、俺はそれでも構わなかった。もう一度、茜に会えた。もう一度、触れられる。茜のすべてが愛おしかった。涙が止まらなかった。
 最初は戸惑っていた茜だが、俺が泣いているのを見ると、ぎょっとし、急に落ち着きを取り戻した。
「ごめんね、みんな。今日は先に帰ってくれるかな。私はちょっとお兄ちゃん落ち着かせてから帰るね」
「どうしたのお兄ちゃん、どこか痛いの?大丈夫?」
 琴葉が心配そうに尋ねてくる。
「いや、これは…」
 言いかけて思い出す。そういえばこの日の帰り道、琴葉はトラックに轢かれそうになるんじゃなかったか。
「琴葉、今日はお母さんに電話して迎えに来てもらえ」
「琴葉歩いて帰るから大丈夫だよ?」
「頼む。今日はお兄ちゃんの言うこと聞いてくれないか」
 両手を合わせて頼む。
「えー?変なの。まあいいけど。じゃあ琴葉今日はお母さんと帰るね」
「ありがとう」
「何だ、兄ちゃん急にどうしたんだ?本当はさっき怖かったのか?」
 翔太が茶化すように言ってくる。
「翔太、いいから今日は放っといてあげて」
「分かった!二人でイチャイチャするんだろ!スケベ!」
「んなっ!私と翼くんはそんなただれた関係じゃないから!いいから早く帰る!」
ガキどもがいなくなると、茜は俺の背中をポンポンと優しく叩き、そのままの姿勢でなだめてくれた。
 俺はしばらくそうしていると、次第に落ち着いてきた。
「それで、どうしたの翼くん?何か辛いことあったの?」
 茜が優しく問いかけてくる。
 俺はようやく茜から離れると、手で涙を拭った。
 しばらくすると、徐々に熱が引いていき、自分の言動を思い返し、羞恥心が湧き出てくる。
 子供たちの前でまるで赤ん坊のように号泣し、茜に甘えてしまった。
 気まずさからしばらく沈黙していると、茜が優しく微笑んで言った。
「大丈夫だよ、翼くん。話してみて」
 茜にこんな母親のような一面があるとは知らなかった。本来なら知ることもできなかっただろう。俺はまた泣きそうになる。
 しかし、本当のことを話すわけにはいかなかった。あんなにも、諦めずに足掻き続けていた茜に、残酷な真実を教えることなんてできなかった。
 だから俺は、代わりに別のことを話すことにした。前回は、茜に話すことのできなかった俺の過去を。
 茜はただ黙って静かに俺の話を聞いてくれた。
「だから俺は、まだ許されていない。まだ正義の味方にはなれない。だから、お前とペアを組むことができるのは、まだ先になることになる。かなり待たせるかもしれない。お前がそれでもいいのなら、俺はお前のパートナーになりたい」
 俺が話し終えるの待ってから、茜がゆっくりと口を開く。
「…そっか。話してくれてありがとね。でも、私はそれ、君は悪くないと思うな。君の意志は尊重するけど、君は自分のことを責めすぎだよ」
「そんなことはない。このくらい、当たり前だ」
「…君はそんなに重い過去を抱えていたんだね」
「でも…」
 茜が顔を赤らめもじもじし出す。
「君が私のこと好きだって言ってくれたのは、忘れてないからね。だから、いずれはちゃんとパートナーになってもらうからね」
「ああ、勿論だ」
「むふふふふふ」
 茜が嬉しさが溢れて止まらないといった顔で、奇妙な声を上げる。
「なんだよ、その気色悪い声は」
「気色悪いとは何さ!今日は私にとって人生最高の日なんだよ!だって、翼くんと並んで決めポーズできたし、あの翼くんから好きだって言ってもらえたんだよ⁉もう私今日で死んじゃうのかな⁉私はきっとこの日のために生まれてきたんだよ!」
 茜は興奮が止まらないようだった。洒落になっていないことを言う。
 これから先、待ち受けている苦しみを、何も知らない茜は、子供のようにはしゃぐ。
 いつか、許されたなら、パートナーになりたい。それは、たった一つの現実から目をそらした言葉だった。
茜の寿命は、残り僅かだということから。

一週間後、茜が入院した。分かっていたことだ。
「いやー、肝炎になっちゃったみたいでねー。心配かけてごめんね。三か月で退院できるからさ」
 茜はまた、笑顔で嘘をつく。
「嘘をつくな。癌なんだろ。しかも末期患者だ。そう聞いた」
「あー、聞いちゃったかー。ごめんね、心配かけたくなかったから、秘密にしてたんだ。でも、安心して。私は死なないから」
 明るく、呑気に、まるで風邪でも引いたかのように言う。
 前回は鵜呑みにしてしまった。気づいてやれなかった。茜の弱さに。こいつは強い人間だ。でも、繊細な一面を持っている。心のどこかで苦しんでるんだ。俺は、今度こそ茜の支えになりたくて、ここに戻って来た。
「なあ、茜。苦しい時は俺を頼ってくれないか。俺の前でくらい泣いてくれ。弱音を吐いてくれ。無理して笑わないでくれ」
「…ごめんね。なかなか直らない悪い癖なんだ。翼くんは優しいね。でも大丈夫。私は強い子だから」
 そう言って茜はにっしっしと笑った。
 俺は毎日のように病院に通ったが、茜が俺を頼ってくれることはなかった。

「ねえ、ところで翼くん。ずっと気になっていたんだけど、君は一体どこから来たの?」
 え?
ある日お見舞いに来た時、唐突に茜にそんなことを聞かれた。聞き違いかと思い、茜の顔を凝視する。
「何を言っているんだ?俺は学校から直接来たが?」
「違うよ。君は私の知っている翼くんと少し違う。少し前に、公園で一緒に遊んだ時くらいかな。君の様子がおかしかった日。あの時から、君は違うよ。なんだか、急にどこか吹っ切れた感じがするし、ちょっと切なそうに見える。特に私と話している時が。何より、目が違うよ。それに何か私に隠してるよね?」
 俺は唖然とした。
「分かるのか?俺が未来から来たことが」
「お前は俺のことは本当に何でも分かるんだな」
「え⁉未来⁉嘘⁉もしかしたらそうだったりして、なんて思ってワクワクしてたけど、まさか本当にそうとは思わなかったよ!」
 茜はキラキラした目でこちらを見てきた。
 俺は茜の目を真っ直ぐ見れなかった。恐らく嘘をついても茜にはすぐにバレるだろう。
「なんで未来からやって来たの⁉私は元気になってたでしょ?」
 茜は興味津々といった感じで聞いてくる。。
「それは…」
 俺は何も言えなかった。
「え?違うの?」
 黙りこくる俺を見て茜は何かを察したようだった。
「そっか。私は死んじゃうんだね」
 茜は寂しそうな顔でそう言った。
 俺はすべてを話すことにした。
「…だから、俺は、お前のおばあちゃんからその話を聞いて、こうして未来からやって来たんだ」
 茜はしばらく黙って話を聞いていた。
 少ししてから、徐に口を開く。
「私は絶対に死なないって思ってたんだけどな。ちょっと参ったな」
 茜はまた、困ったように笑っていた。
「でもやっぱりサンタさんはいたんだね。あの迷子の人がサンタクロースだったとはびっくりだよ。赤い服じゃなかったのは残念だったけど。それにタイムスリップだって存在したんだね。それにしてもやっぱり翼くんはかっこいいなー。屋上から飛び降りるなんて。あと、それから、なんだろう、あれ、うまく言葉が出てこないや」
 俺は、茜にもう一度会いたい、支えになりたいなんて、自分本位な思いで戻って来た。そのせいで、茜の心を挫けさせてしまいそうになっている。
俺が一番誰よりも知っている。茜が死ぬのは決まっていることだからと、諦めていた。だというのに、気づけば俺は、突拍子もないことを口走っていた。
「俺が絶対お前を死なせない。何があっても守るから。もうお前の死ぬところなんて二度と見たくない。だから大丈夫だ。きっと大丈夫。必ず助かる」
「…ありがとう。翼くん」
「…うん。そうだよ!サンタさんもタイムスリップもあったんだから、きっと奇跡だってあるよ!私はまだ挫けないよ!それに今回は、翼くんが私のことを好きだって言ってくれたからね!私のパワーも前回の比じゃないよ!」
 茜は立ち直ってくれたのか、急に元気を取り戻すといつもの調子に戻ったように見えた。
「ああ!その調子だ。一緒に頑張ろうぜ!」
「うん!」
 茜を絶対に死なせない。そう決めた俺は、まずは俺にできることを考えることにした。

 二度目の十一月。今回は、茜の調子が悪くなる時期が分かっていたので、それよりも少し早く、俺たちは朝早くから紅葉を見に来ていた。茜は楽しみにしていたが、前回は結局間に合わず、散ってしまって見に行けなかった。二度目は同じ轍は踏まない。
 秋の爽やかな晴れ空の下、俺と茜は、紅葉が咲き誇り、紅色に染まった並木道を歩いていた。
「うわー!綺麗だなー!見に来れてよかったー!」
 茜は子供のようにはしゃぐ。
「毎年この季節に紅葉の生い茂った並木道を通るのが、一年で一番の楽しみなんだ!」
 俺に眩しい笑顔を向けてくる。本当に良かった。
 茜は本当に楽しそうに、まるで全身で光合成でもするかのように、綺麗な赤色を味わっていた。
 茜が紅葉に向かって手を伸ばす。
 そんな茜を見ていて、俺は覚悟を決めた。
 あれからずっと考えていた。どうすれば茜を救えるのか。考えれば考えるほど、絶望的な状況に、答えなどでなかった。
 でも、一つだけ確かなことはある。それは、ここにいても茜は助からないということだ。俺は茜が少しでも苦しまずに済むように、戻って来た。だったら…。
「茜」
「何?翼くん」
「薬どうだ?夜眠れてるか?」
「私薬嫌い。全然眠れない。苦しいし」
 あの時、俺は茜に必ず良くなるから頑張って飲めと言った。結果、茜は苦しんで死んでいった。あの時できなかったことをしたい。後悔のないように。
「茜。一緒に逃げ出さないか?」
「ええ⁉まさか翼くんの方から言ってくれるなんて!私もそうできたらいいなって思ってた!でも翼くんに迷惑かけるかなって…」
「迷惑なんてたくさんかけてくれ。俺はお前が笑っていてくれたらそれでいい」
 俺は茜の手を握ると、走り出した。
 木枯らしが冷たく吹き抜ける中、燃えるように赤々とした紅葉が俺たちを見下ろしていた。その赤が乾いた空気を伝って俺の心に入り交じり、行け、進めと全身を熱となって駆け巡る。俺の熱と、茜の手のひらから伝わる熱が混じり合い、一つになる。
 今なら、どこへだって行けるような気がした。
 二度目の秋が暮れようとしていた。

 俺たちは空港に来ていた。
「お前が洋服選ぶのに時間かけすぎるから、フライトギリギリの時間になっちまったじゃねえか」
「だって、二人きりの逃避行だよ?めいいっぱいお洒落しないと!」
「普通の女の子みたいなこと言いやがって」
「普通の女の子なんですけど⁉翼くんが私にどういうイメージを抱いているのかがよく分かったよ」
 頬を膨らませて軽く睨みつけてくる。
「ところでどこに行くの⁉ディズニーランド⁉」
「あのな、お前の病気を治しに行くんだよ」
『秋田行きの便にご搭乗予定のお客様、お早めのご搭乗手続きをお願い致します』
 アナウンスがなった。
「ほら、これだ。急いで手続するぞ」
「秋田県まで行くの⁉やったー!遠出だー!ワクワクしてきたね翼くん!」
 病院から逃げ出してきたというのに、茜はまるで緊張感がなく、まるで旅行気分だ。
「今頃病院中大騒ぎだろうよ。おばあちゃんには連絡したか?」
「まだだよ。なんて言ったらいいと思う?」
「一応病気を治しに行ってきます、くらい言っておけば心配は薄れるんじゃないか?」
「おばあちゃんはまだ大丈夫だと思うけど、春香さんが怖いなあ。もし見つかったらお説教じゃすまないかも」
「仕方ないさ。病気を治すためなんだから」
 俺たちは搭乗手続きを済ませると、飛行機に乗る。
「いやー!病院ってずっと退屈だったから、この背徳感たまらないね!にっしっし!このまま世界一周しよう!」
「まったく。まあ道中を気ままに楽しむのも、目的だからな」
「そうだよ!病は気からともよく言うしね」
 俺は茜の図太さに呆れながらも頼もしく感じていた。茜が助かる可能性があるとすれば、こいつの逞しさだろう。
 自然療法。ナチュロパシーともいう。人が生まれながらにして持っている怪我や病気を治す力、いわゆる自然治癒力を利用した治療方法だ。
 茜の気力、生命力を引き出し、病気に打ち勝つ。そのために俺たちは、秋田のとある温泉宿を目指していた。調べてみるとそこでの湯治で末期癌が治ったという話もあった。
 だから茜には、そこまでの道中も兼ねて、リラックスして自然を、旅を楽しんでもらうのが目的だ。
「翼くん!窓の外見て!私たちの町がまるで模型みたいに見えるよ!翼くん家どこかな」
「おい。パンツ見えてるぞ。お前は洋服じゃなくてイチゴパンツ以外のパンツを買え」
 本来なら見て見ぬふりをしているところだが、機内なのでやむを得ず声を掛ける。
 茜は顔を真っ赤にさせ、ばっとスカートでパンツを隠す。
「デリカシーのない口はこの口かな?翼くん」
 そう言うと茜は、俺の左頬に拳をぐりぐりと押し付けてくる。
「君は一度その口をなまはげに食べてもらうといいよ」
「お前こそ病気を治してもらうために患部を食べてもらえ」
「ええ!嫌だよ!絶対あの包丁で患部切り落とす気だよ!」
 頬を押さえてひええと怯える。
「お前は悪い子だから仕方あるまい」
「もし遭遇したら私は真っ先に翼くんを差し出すよ」
「あのな、言っておくがああ見えて、神の使いらしいぞ?」
 事前に調べたところネットに書いてあった。
「そうなの?どう見ても鬼だけどね」
「ちょうど時期だ。縁起も良いということさ。秋田で思う存分羽を伸ばそう」
「秋田はお米で有名な県でもある。秋田のお米楽しみだ」
「にっしっしー!良かったね翼くん!あ!でも秋田は秋田美人が多いって聞くからね!隣にこんなに可愛い女の子がいるのによそ見なんかしたら、正拳突きだからね!」
 こいつは空手技を一般人に向けて使いすぎじゃないのか。一度こいつに空手を教えたやつに会ってみたいものだ。
「はいはい。余所見なんてしねえよ」
 飛行機に二時間ほど乗ると、秋田に到着した。
「とうちゃーく!さむ!翼くん寒いよ!」
「そりゃあ東北だからな」
 空港から出るとまだ冬にならないのに、冷たい空気が肌を覆う。
「うっひょー!遂にやって来たね!翼くんは学校さぼってこんなところまで来ちゃうなんて悪い子だねー」
「お前だって重篤患者のくせに病院から抜け出してきたんだろ」
「君の方から誘ってきたんだよ。さあ、世界の果てまで逃げようじゃないか!」
「どこまで行く気だよ。せいぜい日本の果てだろここら辺は。それに行先は決まってる」
俺たちは荷物を受け取ると、空港を出て最寄りの駅に向かい、電車に乗った。
二人で遅めの昼食を食べながら、窓の外を眺める。
「車内は暖房が効いてて暖かいね」
「ああ。体調の方は大丈夫か?」
「大丈夫だよ。翼くんは心配性だなー。むしろ病院で鈍った体が解れたよ」
 そう言って肩を回す。
「まあ本人がそういうなら大丈夫か」
「むしろ絶好調だよ!心と体が喜んでる気がする!きっと病気も良くなってきてるよ!」
「はは。なら良かったよ。飛び出してきて正解だったかもな」
「だね。ところで病気を治すってどこに向かってるの?」
 茜がそういえばといった様子で聞いてきた。
「旅館だ。そこの温泉が癌に効くらしい。それに料理も体を健康にしてくれて力が漲るメニューらしいぞ」
「へー!楽しそう!楽しみだなー」
「しばらく滞在する予定だから存分に羽を伸ばすといい」
「うん!私にはこの治療法が合ってる気がするな」
 両腕を伸ばしてリラックスする。
「それにしてもこの駅弁美味しいねー。秋田比内地鶏こだわり鶏めし弁当だって。ほかほかご飯が鶏の旨味で美味しいよ。鶏肉もぷりぷりでジューシー。翼くんも一口食べる?」
「へえ。美味そうだな。じゃあ一口もらおうかな」
 俺は自分の箸で茜の弁当の鶏めしをつまもうとした。
 すると、ぱしっと手を叩かれた。
「おい。どういうつもりだ」
「はい翼くん、あーん」
 そう言って茜は自分の箸で鶏めしをつまむと、俺の口に近づけてきた。
「…自分で食うからいい」
「ダメだよ翼くん。私の鶏めしが食べたかったら、この食べ方じゃないとあげないよ」
「じゃあ別にいらね――」
「えー?ほんとに要らないのかな翼くん?この鶏めしは、あきたこまちを鶏ガラの出汁で炊き上げたものなんだよ?お米好きの翼くんならここは見逃すことできないよね?」
 くそう。これほどただののり弁当を買った過去の自分を責めたくなることはないだろう。
「ほらいいのー?全部食べちゃうよー?」
 茜がニヤニヤしながら焦らしてくる。
「くっ。分かったよ」
 さすがにこんなに美味そうなご飯を見逃すことなど俺にはできなかった。
「はい、あーん」
 俺は恥ずかしさを堪えて口を開け、茜の箸で鶏めしを食べさせてもらう。
「どう?おいしい?」
茜は自分でやっておきながら頬を赤く染めていた。
「まあまあだな」
 初めて食べる秋田比内地鶏の鶏めしは、思ったよりも甘い味がした。
 
 しばらく電車で行くと、窓の外に山道が見えてきた。そこで俺たちは降りる。
「茜。この山を登らないと旅館には辿り着けないんだが、登れそうか?」
「もちのろんだよ。何なら山頂まで勝負するかい?」
 茜は袖を捲り上げ、二の腕を見せると力こぶを作る真似をした。
 俺たちは長いこと山道を登った。
 一時間程して、ようやく山頂に旅館が見える。そこに隣して、自然に囲まれ開放的な大きい岩風呂が見える。
「ようやく到着だねえ翼くん。秋田の自然は厳しいよ」
「だがその自然の恵みに助けてもらうんだ。それにしてもここは暗くなるのが早いな。まだ十七時前だぞ」
「早く行こうよ翼くん。なまはげが出るよ」
「だからなまはげは神の使いなんだって言ってるだろ」
「おっ風呂♪おっ風呂♪おっ風呂♪」
 聞いちゃいなかった。
「ここの温泉で末期癌が治った人がたくさんいるらしい。湯治と言って、人の自然治癒力を引き出してくれるそうだ。お前の図太さなら何とかなるかもしれん」
「図太さって何さ!それを言うなら丈夫さでしょ⁉」
「まあ、そうとも言うな」
「まったくもうだよ翼くんは」
 横でブーブー文句を垂れる茜と旅館の中に入る。
 旅館は木造で、年季が入っているようだったが、どこか落ち着く雰囲気があった。やはり旅館は和風に限る。
エントランスで受付をする。とりあえず一か月程だろうか。俺の心もとないお年玉で足りるといいが。
俺が二部屋でお願いしようとすると茜がとんでもないことを口走った。
「あ、一部屋で大丈夫ですよ」
「何言ってんだ⁉大丈夫なわけあるか!」
「だってあんまり翼くんにお金使わせるのも悪いし。あ、お金は後で全額返すから安心してね。それに私は病人なんだから翼くんが付いていてくれないと心配だなー」
 茜はしてやったりといった顔でこちらを見てくる。
 確かにお金もこいつの体調も心配だが、さすがに同じ部屋はまずいのではないかと頭を悩ませていると、一部屋で話が進んでしまっていた。
「それでは、ごゆっくりどうぞ」
 部屋の鍵を渡される。
「変なことしたら大声出すからな」
「それ私のセリフなんだけど」
 部屋は畳に障子、布団と和式だった。俺たちは荷物を降ろすと、ようやく一息つく。
「はー、疲れたねー。長旅だったよー」
 茜は部屋にあった和菓子を摘まみながらくつろいでいる。
「本当に体調の方は大丈夫なのか?ちょっと頭触らせてみてくれ」
 俺は茜の額に自分の手を当てる。どうやら熱はないっぽい。
「だから大丈夫だって。翼くんは心配性だなー。同じ部屋にして良かったよ。この様子じゃあ一時間に一回は見に来てたね」
「お前は病人である自覚が足りないんだよ。本来病院のベッドで寝てるはずなんだ。心配だってする」
「でも本当に、旅を楽しむっていうのかな、リフレッシュできた気がする。病院で入院してるよりこっちの方がよっぽど効果ありそうだよ」
 首をグリングリン回す。
「なら良かったが」
「そうだ、翼くん。さっそく温泉行ってみようよ!冷えた体を温めよう!」
「そうだな。どうする?外にも岩風呂があったが、中にも大きい温泉があるみたいだぞ」
「じゃあ今日は中でゆっくり温まりますか」
「ああ。じっくり浸かって来いよ」
 俺たちは浴衣と着替えを入れる袋に下着を入れ、浴場へと向かう。
「どうする?翼くん、混浴入っちゃう?にっしっし」
「ここに混浴なんてねえよ」
「ちぇっ、つまらないな。覗いたらダメだよ翼くん」
「誰が覗くか」
 俺たちはそれぞれ男湯と女湯へ入っていった。
 脱衣所で衣服を脱ぐと浴場へ入る。浴場は広く、湯船も大きかった。
 大志が来たら喜びそうだ。
 俺は綺麗に頭と体を洗うと、シャワーで洗い流す。体を綺麗にして湯船へ入る。
「ふー」
 旅の疲れが癒されるようだった。全身ぽかぽかする。なんだか力が漲ってくる。これは本当に病気にも効果がありそうだ。
 二十分ほど浸かっていると、頭がくらくらしてきたので、そろそろ上がることにした。
 温泉から出て部屋に戻ると茜はまだ戻ってきていなかった。存分に浸かってくれているようで何よりだ。
 十分ほどして茜が戻って来た。
「ふー。いい湯だったねー。なんか、ほんとに、病気治っちゃいそうだよ。ここの温泉浸かってると力が湧いてくる感じがした」
「そうか!それは良かった。ここで一か月近く浸かり続ければ本当に何とかなるかもしれんな!」
「そうだね!あとは翼くんが私を甘やかしてくれれば完璧だよ」
「十分甘やかしているだろう。それにお前はすぐに調子に乗るからな」
「絶対そんなことないよ。翼くん私への愛が足りないんじゃないの?」
 なにやら面倒臭いことを言い始めた。
「はいはい。ならなにをご所望で?」
「そうだね!じゃあ一緒の布団で寝ようよ!私翼くんの匂い好きなんだよねー」
「却下だ。やはりお前は厳しくした方が良さそうだ。同じ部屋にいる時点でまずいのに、同じ布団でなんて寝れるか」
「病人を看護しようとは思わないの!」
「何が看護だ。そんな看護があってたまるか」

 ギャーギャー言い合っているともう夕飯の時間になっていた。
 旅館の女将さんが料理を運んできてくれる。
 金目鯛の煮つけに、マツタケの土瓶蒸し、栗とキノコの五目ご飯、なめこ茸と三つ葉、もみじ人参の吸い物に、デザートはぶどうだ。
「うわー!美味しそう!秋の素材がこれでもかってほどに詰まってるね!病院食とは大違いだよ!」
「ああ。しかもここは麓の農家から、旬の有機野菜を仕入れてて、健康にも気を使っているんだ。丈夫な体つくりには持ってこいだな」
「もう翼くん大好き。ブドウの次くらいにね」
 などと言ってウインクしてくる。
「けっこう下じゃねえか。俺も好きだぜ、栗ご飯の次くらいにな」
「ちょっと⁉何それ聞き捨てならないんだけど!」
「いや、お前から言い出したんだろ」
「私のは冗談だけど、翼くんのは本気を感じたよ!」
 腰を浮かせると口を膨らませて睨んでくる。
「面倒臭いやつだ。お前はキノコと同じくらいには好きだ。ちなみにキノコはやる」
「君キノコ嫌いって前に言ってたよね⁉私の皿に除けないで!私もキノコは嫌いなんだよ!」
 冗談を交わし合いながら、夕飯を食べる。
「この金目鯛、醬油の出汁が香ばしいね!身も歯ごたえがあって美味しい!」
「ああ。栗五目ご飯も甘くて、出汁が効いてて美味い」
「和食って素晴らしいね!」
「ほんとだよ。畳に障子がまた乙だな」
「浴衣もね!」
 俺たちは日本人に生まれたことに軽く感動しながら、夕食を楽しんだ。
 
夕食を終え、寝る時間になる。
俺と茜は布団を並べて敷くと、横になった。
「ねえ、翼くん。私をここに連れてきてくれてありがとね」
「どうした、急に」
 真っ暗な部屋の中、茜の温度をどことなく感じる。
「こんなにわくわくするの生まれて初めて。つまらない学校からも病院からも解放されて、好きな人と二人きりで、こんなところまで逃げてきて、こんなに近くに君がいる。私の病気が治ったら、色んな所を、一緒に見て回ろうね。君となら、どこへだって行ける気がする」 
「…ああ。勿論だ」
 暗闇はいつも俺の心の黒い部分に馴染んで、無理矢理俺の心を塞いでくれていた。でも今茜が隣にいる暗闇は、まるで子供の頃のような、どこか心躍り、それでも落ち着きを与えてくれる、そんな懐かしくも新鮮な暗闇だった。
 茜がそっと手を繋いできた。俺はその手を優しく握り返す。
 静かな夜だった。
暗闇が優しく二人を見守ってくれている。そんな気がした。

 朝、目が覚める。隣の布団では茜が寝ていた。起こさないようにトイレに行こうとすると、茜は起きていたようで、立ち上がって伸びをした。
「ふあーあ。なんだか体軽いかも。昨日の温泉のおかげかな」
 茜が俺に気づかず独り言を言う。
「へえ。いい傾向だな。もう起きるのか?」
「あれ、起きてたの翼くん。そうしようかな。もう七時だし。朝風呂言ってくる。その後一緒に朝ご飯食べようね」
「ああ。行ってらっしゃい」
「行ってきます!」
 そう言うと茜はルンルンで温泉に行ってしまった。
 三十分ほどして帰ってきた
 こうやって俺たちは、朝ご飯を食べ、部屋で休み、温泉に浸かり、夕ご飯を食べ、眠るという日々を繰り返した。

 そんな日々を繰り返し、気づけば一か月が経っていた。
「翼くーん!暇だよー!暇!お外行こうよ!」
「お前は病人なんだからおとなしくしてろ」
 駄々をこねる茜に言い聞かせるのは大変だった。
「あー、窓の外見てよ!雪積もってるよ!まだクリスマス前なのに!」
「本当だ。綺麗な景色だ。一面真っ白だな」
「よーし!雪だるまつくりに行くよ!翼くん!そしてユキオトコビトを見つけよう」
「おい体壊すぞ。ここから見るだけにしとけ。そしてなんだそのデカいのか小さいのかよくわからん奴は」
「嫌だよ!大丈夫私は風の子だから!」
 そういうと茜は洋服を着こんで手袋をつけると出て行ってしまった。
「まったく」
 俺も着替えると後から続く。
 案の定外は気温が低く、雪が木々を白く染め上げていた。雪が音もなく降っている。
 茜は夢中で雪を搔き集めている。子供かあいつは。
 しばらく茜が雪だるまを作っているのを眺めていると、どこかから視線を感じた。振り返ると、旅館の中から、サングラスをかけたシルバーヘアーのおばあさんがこちらを見ていた。旅館の女将だろうか。
 と、その時、突然背中に冷たいものが入り込んできた。
「うおっ!」
 慌てて取り出すと雪だった。
 振り返ると茜がしたり顔で立っていた。
「翼くんも一緒に遊ぼうよ」
「嫌だね。雪なんて積もってるのを見るくらいがちょうどぶほっ」
 茜が顔面に雪を投げつけてきた。
「そんなこと言わずに遊ぼうよ。どうせ部屋に戻っても退屈なんだから」
「あんまり長居しすぎるとほんとに体に悪い。さっさともどぶほっ」
 いつかのようにまた俺の言葉を遮って投げつけてくる。
「しつこいぞ翼くん。私はここ一帯の雪がなくなるまで遊びつくすってもう決めたんだから」
「おい貴様次はないぞ。さっさと部屋にもどぶほっ」
「にっしっしー!それ逃げろー!」
「よーし決めた!なまはげに代わって貴様は俺がお仕置きしてやる。そして俺はお前の背中に雪を入れるまでお前を中には返さん!」
「きゃー!翼くん顔怖いよ!変態ー!」
俺たちは雪が降る中、子供のように無邪気に走り回った。俺たちが付けた足跡を、降り積もる雪が上から消してゆく。この時間もいつか俺は忘れてしまうのだろうか。茜の命も雪のように儚く散っていくのだろうか。
 いや。忘れてしまうのならまた二人で作ればいい。新しい思い出を。降り積もる雪が足跡を消そうとする側から、次々と新しい足跡を着けていくように。
茜の命はかき消させない。俺は純白な世界の中、そう誓った。
 部屋に戻ると、茜はすぐに温泉に向かった。今日は岩風呂の方に行くと言っていた。雪も降っているのに寒くないのだろうか。
 茜の体調を憂いながら、カバンに防寒具を閉まっていると、スマートフォンが出てきた。そういえばずっと電源をオフにしていた。俺はスマートフォンの電源をオンにする。すると、着信履歴が百件ほど来ていた。電話はすべて大志からだった。
 大志に連絡するのを完全に忘れていた。俺はすぐに大志に電話する。
「もしもし?大志か?悪い完全に連絡するの忘れてた」
「バカ野郎!お前心配かけやがって!今どこで何してる⁉」
 大声で怒鳴られる。
「すまん。茜の病気を治しに秋田まで来てるんだ」
「秋田⁉星野さんは無事なのか⁉」
「ああ。むしろ調子は良いくらいだ。秋田に癌に効く温泉があってな。湯治に来てるんだ」
「まったく!学校でも病院でも駆け落ちしたんじゃないかって噂になってるぞ!危うく警察沙汰になるところだったんだ!星野さんのおばあさんと看護婦さんが説得してくれたから何とか納まったが。それにあんな状態の星野さんを連れ出すなんて何考えてるんだ⁉みんなお前らのこと探してる!早く帰ってこい!」
 まあそう言われるよな。
「いやまったくだ。迷惑かけたな。だが俺は帰るつもりはない。茜はここで治して帰る。もう決めたんだ」
「本気か⁉何かあったらどうする⁉」
「覚悟の上だ。病院にいたって茜は良くならない。俺には分かる」
「…後悔しないか?」
「しない。断言できる」
 一度見てきた俺にしか理解できないだろう。
「…はあ。そうか。まあお前がここまで言うからには何か根拠があるんだろ。俺からも先生にうまく言っとくよ。ただ約束しろ。何かあったら俺にもちゃんと相談しろ。俺たちは一緒に飯食った仲だろ。俺だけ除け者にしてくれるなよな」
「ああ。話が早くて助かる。勿論だ。定期的に電話する。悪かったな。助かるよ」
「星野さんにもよろしく言っといてくれ。じゃあな」
 そう言うと大志は電話を切った。
 ある程度騒ぎになるかもしれないことは予想していたが、警察沙汰になりかけることはさすがに予想していなかった。だが、こうでもしないと病院から抜け出せなかったからな。これでよかったはずだ。茜のおばあちゃんと春香さんに感謝だな。それと大志もいろいろ手をまわしてくれているはずだ。
 実際茜はもう十二月だというのに、病院にいた頃と違い元気に見える。やはりここでの食事と湯治が効いているのだろう。
 そう思っていた。その翌日、茜がまた熱を出すまでは。
「平気か?やっぱり昨日寒い中走り回ったのが原因なんじゃないのか?」
「それは関係ないよ。だってあんなに楽しかったんだもん」
「まったく。何の関係があるんだ」
 言葉とは裏腹に、俺は不安でいっぱいだった。
「ご飯は食べられそうか?」
「うーん、何とか。ちょっと気持ち悪いけど」
 弱っている茜を見るのは久しぶりだった。嫌な記憶がフラッシュバックする。俺はそれを振り払うように頭を振った。
「温泉もこれ以上熱が上がると危ないから今日はやめておいた方がいい。そんな気力もないだろうしな。ここの風呂くらいなら入れそうか?」
「翼くん洗って」
 上目遣いで恐ろしいことをお願いしてくる。
「甘えるな。それくらい自分でしろ。体くらいなら拭いてやるがな」
「あはは。体は拭いてくれるんだね。やっぱり優しいね。病人だからかな」
 さすがに冗談だよと軽く笑う。
「今は余計な事考えなくていい。とにかく休め。病院と違って俺はずっとそばについていられるからな」
「やったー。翼くんに甘えたい放題だな」
「まったく。さっさと治してくれよ」
「了解であります」
 しかし、次の日も、その次の日も茜の熱は引かなかった。食べる量も目に見えて減っていき、どんどん痩せていった。茜の側にずっといる分、それは顕著に表れて見えた。
「なかなか熱引かないね。ちょっと調子良くないかも。あはは。でも大丈夫。すぐに良くなるからね」
 相変わらず茜は笑っていた。こんなにも苦しそうだというのに。
 
茜はとうとう布団から出なくなった。トイレとお風呂の時以外、一日中布団の中で寝るようになった。俺は一日中茜の看病をしていた。
 夜中、茜の呻き声で目が覚めることも卒中だった。俺は茜の手をただ握ることしかできなかった。
 それでも、茜は弱さを見せることや、弱音を漏らすこと、泣くことはなかった。ただ、困ったように笑うのだった。茜のこの癖は、簡単に直らない根深いものがあるのだろう。それが許されなかった、そんな環境で育てられ、今もなお茜の心の深いところに根付いている。
 ある夜、茜が言ってきた。
「ねえ、翼くん。私、死ぬのかな」
 茜が弱い自分を見せてくれるのは、初めてだった。
「大丈夫さ。死なせない。きっと何とかなる」
 何の根拠もなく、陳腐なセリフを吐くことしかできない自分の無力さが惨めだった。結局俺はまた、苦しむ茜のそばで、今度はただ近く眺めているだけだった。何も変わらない。
「ごめんね。翼くんにはまた苦しむ姿見せちゃって」
 なぜ自分が誰よりも苦しいはずなのに、人の心配などするのだ。
「お前が謝ることじゃない。謝らないといけないのは、何もできていない俺の方だ」
 俺が代わってやれたらどれだけいいかと、何度も何度も考える。
「死にたくないよ翼くん。まだ、やりたいこと、いっぱいあるんだ」
 俺は茜の顔を見れなかった。自分で頼ってくれと言っておきながら、いざそう言われると、俺には何を言っていいのか分からなかった。
「ごめんね。私最近ちょっと弱気になってきてる。しっかりしなくちゃね」
 ぐっ。それが当たり前なのに、俺の不甲斐なさのせいで、また茜に無理をさせてしまう。
 俺は返せる言葉を持ち合わせていなかった。
 気づくと茜を抱きしめていた。思ったよりも小さくて、華奢な体に、余計に心が締め付けられる。涙が溢れ出す。
「こんなに体は苦しいのに、胸のドキドキの方が勝って、幸せな気持ちでいっぱいになる。もう私死んでもいいかも、なんて思っちゃう」
「冗談でも止めてくれないか」
「ふふ。ごめんね。君はよく泣くね」
 自分が苦しいはずなのに俺の頭を優しくなでてくれる。
「俺は本来あんまり泣かないはずなんだよ。お前が心配かけすぎなんだ。それにお前が泣かないから、その分俺が泣いてるんだ」
「そうだね。ごめんね。ありがとう。どんな言葉よりも、君がこうしてくれるだけで、勇気が湧いてくる。生きようって思える」
 俺はこの温もりにいつまで触れることができるのだろうか。茜の温度をいつまで感じられるのだろうか。また、同じことを繰り返しているような気がした。

ある日、部屋に向かう途中の廊下で、以前俺たちを見ていた、サングラスをかけた女将に話しかけられた。
「あんたたち、長いことここにいるけど、若い子二人だけで湯治に来てるのかい?」
「ええ。まあ」
その女将さんは、淡白な話し方をするが、その瞳は優しく、不思議な雰囲気を持った人だった。
「ここの湯はいろんな病気によく効くよ。実際、医者に見放されたたくさんの患者の病気が治るのを何回も見てきた」
「そうなんですか。食事も健康的で助かってます」
「…あんたたち病院から駆け落ちしてきたのかい?」
 サングラスを外すと、案の定優しい瞳をした人だった。
「何で分かったんです?駆け落ちというか、逃げ出してきました」
「若すぎるからだよ。まだ高校生くらいだろ?」
「…ええまあ」
「私はここで色んな患者を見てきた。するとね、いつからか、その人のどこが悪いのか、見えるようになった。だからね、あんたの連れの女の子のことも分かるよ。あの子はもう助からない」
 女将さんは、どこか悲しそうに、淡々と告げた。
「冗談でもやめてくださいよ」
「冗談でこんなこと言わないさ。あの女の子の胸の中心にね、どす黒い塊が見える。私には病気がそんな風に見えるんだけど、こんなに酷いのは見たことがない。よくあれでここまで来れたね」
「あれは何をしても治らない。たまにいるんだよ。あれはあの子の業だよ。運命で決められているのさ。あの子の純粋で真っ直ぐな瞳を見ればすぐに分かる。あの子は大きすぎるものを背負っている。誰かが背負わなければいけないのさ。それに何やら色んなものを溜め込んでいるのも原因の一つに見えるね」
 なんだよそれ。そんなのどうすればいいんだ。この人が嘘をついているようには見えなかった。なぜか知らないが、茜が一人溜め込んでいるものまで知っている。
「じゃあ、どうしたらいいんです…」
「ここに連れてきた選択は別に間違ってはいないと思うけど、いつまでもここであんた一人で面倒は見られないんじゃないのかい。車出してあげるから病院に行くといい。ただ、何度も言うようだが、長くは持たないと思った方がいいよ。胸の真ん中から、どす黒い何かが、全身に回り始めてる。すまないが私にはどうしようもないよ。食べ物は果物をすりつぶしたもの用意しておいてあげるよ。それとうちの野菜ジュースは体にいいから飲んだ方がいいね」
 そう言うと女将さんは行ってしまった。
 取り残された俺は、一人決断を迫られていた。ただ、また抱えきれないほどの絶望が俺の心を吞み込み始めていた。
 
 病院に行くという選択は、俺の中にはなかった。行ったところでどうなるかはよく知っていた。とりあえず年内まではここで踏ん張ってみることにした。俺のお年玉もそれくらいが限界だった。茜も病院には行きたくないと言った。 
 
  しかし、奇跡なんて存在しなかった。
 翌日、元旦。俺が女将さんから茜用の夕飯をもらって部屋に戻ってくると、茜は口から血を流して倒れていた。俺は持っていたお盆を落とした。
「茜!おい!大丈夫か!」
 茜の口から流れ落ちた血が、真っ白な布団を赤く染め上げていく。
「さよなら、大好きだよ」
 そう聞こえた気がした。
 茜はいくら呼びかけても意識が戻らなかった。俺の大声を聞いて、旅館の女将たちがやって来る。
 女将のうちの一人が、すぐさま119番にかけ、救急車を呼んだ。
 このまま病院に戻されるのか。その先の未来は見えていた。
本当にもうどうしようもないのか。俺はまた、茜を失うのか。
俺は結局何の役にも立てずにまた同じことを繰り返すだけなのか。
嫌だ。もう二度と茜が死ぬのなんて見たくない。
茜を連れて行かないでくれ。どうか。どうか。
茜を失いたくない!
俺が強く祈った時、茜の胸の中心にどす黒い塊が見えた。そこから茜の全身に、黒い何かが広がっている。
なんだこれは。これがあの女将さんが言っていた病気の根源なのか。
ああ、茜はこんなものを抱えながら生きていたんだ。
俺は、自分でも驚くほど落ち着いていた。茜の方へ、自然と手が吸い寄せられる。俺は茜の胸に手を置いた。どす黒い塊が、手を伝って、俺の体の中に一部吸い込まれた。その瞬間、全身に激痛が走り、鼻血が出てきた。
俺は驚いて手を放す。
ふと思い当たる。そうか、あの時。茜が公園で倒れた時。茜の額に手を翳したら茜の体調が良くなって、代わりに俺が熱を出したことがあった。あれは俺がやったんだ。
ちょっと吸い込んだだけで、こんな激痛。茜は一体どれほどの苦しみを一人抱えていたのだろうか。
覚悟はとっくの昔に決まっていた。俺が代われるのなら。
もっとだ。全部吸い取れ。
俺の体の中に、どんどん黒い何かが流れ込んできて、体を蝕んでいく。
骨が軋んで、体が内側から焼かれているみたいに熱い。全身が重い。
これで、茜の苦しみが少しは理解できただろうか。良かった。これで茜は死なずに済む。
全部吸い込み終わり、俺の意識がどんどん遠くなっていく。
薄れてゆく意識の中、最後に茜の笑顔が浮かんだ気がした。