六月、梅雨。窓の外は薄暗く、灰色の空が光を遮っていた。窓を流れる雨粒は景色をにじませ新たな雨粒へと代わっていく。どんよりとした空を見ていると心もどんよりとして来て嫌いだ。もう何日もこんな天気が続いている。いやな季節が来たもんだ。じめっとした空気が前髪をべたつかせ、気怠い心をさらに気怠くさせる。だが、それ以上に俺を憂鬱にさせる大きな要因は別にあった。進路調査票だ。高校二年にもなると誰しもが直面する進路選択というやつだ。俺はまだ進路を決めかねていた。いや、正確に言えば進路はとっくの昔に決まっている。ただタイミングの問題なのだ。まだ足りないのか、それとももう十分なのか、そのことを決めかねていた。
「進路まだ決まらないの?」
ふと隣の席から覗き込んできた。星野茜だ。俺を殊更憂鬱にさせるもう一つの要素。
「ああ」
ここは簡潔に答えておく。あの星野を相手に長話をする気はない。どうせ面倒なことになるにきまってる。というか話したのも今日が初めてなのだが。
「じゃあ私の相棒になってよ!」
俺の懸念は案の定当たったようで星野はおよそ初対面とは思えない意味不明な言葉を投げかけてきた。なにがじゃあなのかさっぱり分からないし、相棒って何なのか意味が分からない。言葉のキャッチボール下手くそかよ。
 星野茜。この学校の有名人だ。周囲の目を一切気にせず、天真爛漫すぎるその言動は入学して彼女が浮くまでそう時間をかけさせなかった。授業中気まぐれで抜け出すのは序の口で、屋上で宇宙人と交信したり、グラウンドに謎の超巨大な絵を描いたり、この学校の番長を倒して裏番長と呼ばれ不良たちに恐れられたり、その奇行は数知れず、俺のような噂とかに疎いような人間でもよく知っている。俺は噂を鵜呑みにする人間ではないのだが、去年授業中に廊下を走っていく星野を先生が追いかけていくシーンは何度も見かけているし、何より今年同じクラスになってからすでにいくつも派手な行動を起こしている。例えば先々週は生物室のすっぽんを授業中に水槽から出して教室をパニックに陥れたり、先週は掃除用の竹ぼうきを改造して先のとがった対不審者用の武器に作り替えたといって先生に叱られたりしていた。このように俺は星野のことをよくは知らないのだが、進んで関わりたくない変人だということは確かた。とにかく面倒ごとはごめんだ。最初のうちは黙っていれば可愛いということから話しかけに行く男子生徒もいたようだが、今ではすっかり目の上のたんこぶだ。
「いやだね。断る。そもそも俺の名前知ってるか?」
「ああ、そっか。ごめんね。自己紹介がまだだったね。私の名前は星野茜。好きな食べ物はいちご。特技は空手。将来の夢はヒーローになること!よろしくね!君は青井翼君だよね。もちろん知ってるよ」
別に自己紹介がまだとかではなく、名前も知らないやつに適当にそんなこと言っているのかと思って聞いたのだが、どうやらそういうわけではないらしい。それにしても、将来の夢はヒーローになること、か。黒い何かが胸の中で溢れだそうとするのを何とか押し戻す。昔どこかの誰かが似たようなことをよく言っていた。遠い昔過ぎてもう思い出せない。そういうことにしておこう。今は。そうじゃないとろくに会話もできそうにない。再び溢れ出しかけた罪悪感を無理矢理引っ込め、続けた。
「そうか。その年でヒーローとは何というか、チャレンジャーだな。頑張れよ」
「あ、なにそのせいぜい頑張れ読みたいな感じー。バカにしてるな?私には分かるんだぞ。それに私は自己紹介したんだから君もするのが普通でしょ!」
大分オブラートに包んだつもりだったがお気に召さなかったらしい。それにしてもあの星野から普通を説かれるとは心外だ。
「青井くんって意外と意地悪なんだね。それとも無礼なのかな?」
「安心しろ俺は二刀流だ。それに俺はだれにでもこうなわけじゃない。これは遠回しなお前と距離を置きたいという表現だ」
「そんなこと言わずに仲良くしようよー。あ、そうだ私の相棒になってよ」
こいつは強すぎる。遠回しな言い方も直接的な言い方も聞かないだと。もはや先祖にニワトリがいるとしか思えん。こいつは骨が折れそうだ。
「だから断ると言ってんだろ。ていうか相棒ってなんだよ。どういう意味で言ってるんだ?」
「もう感が鈍いなー。相棒といえばヒーローの相棒に決まってるでしょ!レッドは私だからブルーとして私を支えて欲しいんだよ。それがブルーの務めでしょ?」
どうやらヒーローショーのバイト役を探しているらしかった。そんなことはなかった。ちゃんと現実に目を向けなければいけない。というかそれは俺ではなく明らかにこいつの方だった。いつから相棒といえばヒーローを指すようになってしまったのか。俺が部屋に閉じこもっている間に世界は変わってしまったのだろうか。否。変わっているのはこいつだった。なるほど、いつも一人でいるこいつがやけに突っかかってくると思ったらそういうことか。  こいつの名前は茜、俺の名前は青井。それで自分はレッドとし、その相棒のブルーとして俺を仲間に引き入れたいのか。なんとまあ単純なやつだ。単細胞生物なのではないか?こんなやつ相手に一体どう納得させて断ればいいんだ。相手はニワトリ型の宇宙人だぞ。俺が星野への対応に頭を抱えているといいタイミングで担任が現れた。
「おい星野!先生は確かにヒーローは書き直せ、そしてもっとお前の将来を具体的に書けと言ったが、なんだこれは⁉」
そこには第一志望「戦隊ヒーロー」、第二志望「仮面ライダー」、第三志望「セーラームーン」と書かれた進路調査票があった。
「誰がヒーローを具体的に掘り下げろと言った⁉行きたい大学や専門学校の名前を書かんか!」
どうやらこいつは筋金入りらしい。
「先生!ヒーローも立派な仕事だよ!ヒーローがいなければ子供たちは子供でいられないんだから!」
「お前はもう大人になればか者!あれはテレビの中での存在だと…」
先生でも手を焼く星野に俺が勝てるわけもなく、面倒臭いのでさっさと家に帰ることにした。

 その日は不思議なことにいつも見る夢を見なかった。あんな話をしたものだから、いつも以上にひどい夢を見ることになると踏んでいたが違った。あの日から八年近く。毎日のように見ていたはずなのに。本当に不思議だ。
もしかしたらこれは、澪と母さんからのもう十分だというメッセージなのかもしれない。なんて考えてしまうのはやはり罰が足りない証なのだろうか。
しかしこんなに気持ちのいい寝起きは久しぶりだ。これで晴れてさえいれば完璧なのだろうが、あの日からずっと光の差さない俺には大差ないのかもしれない。

 
相変わらずの雨の中、久しぶりのいい体調のせいかのんびりしすぎてしまい、遅刻してしまった。1時間目の授業が終わり騒がしい教室の後ろのドアからこっそりと入り自分の席に着く。
「珍しいなお前が重役出勤なんて」
席に着くなり話しかけてきたのは大島大志。小学校からの幼馴染だ。
「俺が当ててやる。隣の席の女の子と昨日いい感じになったのに興奮して、今日が楽しみのあまり夜あんまり寝れなかったんだろう」
「あほ。俺の隣星野だぞ。昨日のあれがいい感じに見えたのならお前は眼科へ行け。というかその星野はどこ行ったんだ?」
「さあな。星野さんは好きな時に来て、好きな時に帰るからな。自由奔放さ。1時間目の途中まではいたと思うけど」
不思議なことに先生たちは星野に対して甘い。他の生徒なら停学や厳しく叱られそうなことをしても星野は仕方ない、といった風に強く叱る先生がいないのだ。一年のころはそうでもなかったと聞くが、二年になってからか特にその傾向が強く見られるような気がする。
具体的には、先月、不審者を想定した避難訓練が行われた時、星野は避難する生徒たちとは逆方向に走りだし、不審者役の人のもとに一人で駆け付けると、バットを持った体育教師をのしてしまう、という暴挙にはしったことがあった。これはさすがに停学でもおかしくないと誰もが思ったが、のされた体育教師含め、先生たちは叱りこそするもののただの注意で済ませてしまった。うちの学校の先生たちは人格者の集まりなのかというと別にそんなことはない。どちらかというとうちの学校は規則にうるさく、つまらないルールで俺たち生徒はがちがちに縛られている。例えば男子はツーブロック禁止だったり、女子はスカート膝上禁止などだ。そんな校則になんの意味があるのか教えてほしいものだ。そんなことから星野はヤクザを味方につけている、や大金を学校に寄付しているなどのうわさが流れているが真偽のほどは定かではない。
こんな厳しいルールを強いられていると、個性を押し殺し、型にはめられ息苦しいだけの日々の中、将来何の役にも立たないような、数年もすれば忘れてしまう勉強をこなすためだけに家と学校を往復するだけの毎日や、家に帰っても一人きりで自責の念に駆られるだけの毎日に一体何の意味があるのだろうか、なんて考える。
そんなことばかり考えていると気づけば放課後になっていて、後ろの席から話し声が聞こえてきた。
「ねえ知ってる?あの噂。ネットの掲示板に載ってたらしいんだけどね、学校の近くに病院があるじゃん?そこの裏に廃ビルがあるらしいんだけど、その廃ビルの屋上から飛び降りると過去に戻れるらしいよ。なんかおじさんが落ちて消えたらしいの。で、死体もどこにもなくて跡形もなくきえちゃったんだってー。すごくない?」
「えー絶対嘘じゃん、それー」
「あ!あとね、隣町につながってる橋があるでしょ?あそこ深夜2時に覗き込んだら未来の自分に会えるんだってー」
「あんたそういうの好きねー」
 つまらない日常の中で、ちょっとした噂話さえも生徒たちにとっては格好の的だ。だけれど、もし仮に戻れるんだとしたら、百憶分の一でも戻れる可能性があるのなら、どうせ無価値な命だ。試す価値はあるかもしれない。また、澪と母さんに会えるのなら。
俺が盗み聞きした、というか聞こえてきた話に思いを馳せていると、噂話をしていた生徒たちは楽しそうに教室から出ていった。そういえば結局星野は戻ってこなかった。帰ってしまったのだろう。本当に自由なやつだ。俺もそろそろ帰るか。
窓の外を見やると朝と変わらぬ空模様に、鬱陶しい雨がザーザーと降っていた。もうしばらく青い空を見ていない。
「翼!まだ残ってたか。俺も委員会の集まりがあって遅くなってよ。今から銭湯行こうぜ!そんでその後ラーメンだ!今日は気分いいから俺のおごりでいいぜ!そしたらこのじめじめした空気も幾分かましになるだろ」
大志はいつもそうだ。俺の様子がいつもと違うときは、いつもこうして何かを察して俺を励まそうとしてくれる。恐らく今回は俺が夢の件や進路調査票の件で揺れていることを察してくれたのだろう。それとも俺の調子が悪く見えたのか。
正直銭湯に行こうがラーメンに行こうが俺の麻痺して鈍った心では大して楽しむこともできない。でも気を紛らわす程度にはなってくれるかもしれない。大志はそれも承知の上で俺を気遣って誘ってくれているんだろう。
「おう、行くか」
こんな泣きも笑いもしない朴念仁なんかとどうしてつるんでくれるんだろうか。大志には本当に、あの日からずっと支えられてきた。大志がいなかったら俺はとっくの昔に腐ってしまっていただろう。今の俺があるのは大志のおかげだ。
それなのにいつかはお別れをしなくてはいけないことを考えるとこいつの悲しそうな顔が容易に想像でき、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。

 翌日。今日も平常通り寝不足な状態で、最早トレードマークと化したクマを擦りながらゾンビのような足取りで教室を目指す。別に普段からゾンビのような足取りで歩いているわけではない。今日はいつも以上に眠れなかった上、朝から車に水をはねられ、一度家に戻らないといけないという不幸に見舞われたからだ。
おかげで遅刻ギリギリの時間に教室に着くと、自分の席に着いた。すると星野はすでに来ていたようで、隣の席に座った俺に気づくと何やら得意げな顔で話しかけてきた。
「おはよー青井くん。遅刻ギリギリだねー」
無視してやろうかと思ったが、その場合後がもっと面倒臭そうなのでやめておくことにした。
「だめだぞ。もっと時間に余裕をもって登校しないと」
「いっつも遅刻ばっかのやつに言われたくねーよ。というかお前に常識を説かれたくない」
「おっとご挨拶だね。寝不足なのかな?くまひどいよ。疲れてるのかな?」
「ほっとけそういう顔だ」
「あ、そーだ。君一昨日話の途中で逃げたでしょ!」
ちっ。余計なことを思い出しやがって。
「お前の相棒とかいうよく分からん事なら断ったはずだ」
「そう言わずにさー。青井くんには見込みがあるんだよ。君は私と同じ匂いがする」
そう言ってくんくんにおいを嗅ぐ真似をした。見込みがあるとは本来嬉しい言葉のはずだが、言う人間によってこんなにも価値が変わってしまうのか。
「臭いってなんだよ。野生動物かお前は」
「私は普通の人間より勘が優れてるんだよ。今日の君の朝ご飯もわかるよ」
「言ってみろ」
 目をつぶって人差し指を立てると、頭の横に当て、しばらくすると閃いたとばかりに目をかっと開かせる。
「ジャムパンでしょ!」
「はずれだ。昨日の余り物のカレーだ。早速その勘とやらが当てにならないことが証明されたな」
「むむむ。どうやら今日は調子が悪いよーだね。ジャムパンは一昨日だったかな」
 悔しそうに言い訳をする。
「一昨日はご飯とみそ汁だ。悪いが朝は米派なんだ」
「この典型的日本人め。それじゃあご飯は英語で?」
 急に意味の分からないことを聞いてくる。
「ライスだろ?」
「ぶっぶー!riceでしたー!」
 などと発音よく言い直す。
「当たってんじゃねーか」
「君のライスの発音はcじゃなくてsって感じなの!だから私の勝ちだね!」
「朝ご飯を当てられなかった時点でお前の負けだ。というかお前の聴力の負けだから耳鼻科へ行け」
「いやだねー!この負けず嫌いさんめ!あっかんべー!」
そう言って舌を出してくる。憎たらしい奴だ。
「それにしても超能力にはなかなか目覚めないものだね」
「超能力?勘って言ってなかったか?」
「勘の、気のせいの延長線上に超能力はあるんだよ。つまり直感が大事ってことだよ。この合理主義社会で私は直感を頼りに生きていく!」
一切言っている意味が分からなかった。ただ一つだけ確かなのはこの問題児が社会に出られるわけがないということだった。それにしても高校二年にもなって超能力とはいかにも星野らしい言葉だ。

 今日もまた、退屈な学校が終わり家に向かって歩く。変わり映えのしないつまらない日常を繰り返す毎日。地面に落ちた雨粒が跳ねて雨音を奏でる。アスファルトから立ち上がるむわっとしたかび臭い雨の匂い。灰色の世界を映す水たまりが雨で歪み滲んでいく。
雨は触れると体温を奪われるから嫌いだ。雨の匂いも音も俺を憂鬱にさせる。
だけど本当は知っている。本当は関係ないのだ。雨も、じめじめした空気も、星野も、厳しい学校のルールも、全部些細な事でしかない。ずっとだ。あの日からずっと息苦しい。悲しみも喜びも、すべてを覆いつくすほどの罪悪感が、俺を掴んで放さない。色はあるのに彩りがない。まるで色あせた写真のように俺の目には世界が映る。
見飽きた通学路を二十分ほど歩くと三階建ての木造アパートが見えてきた。三階に上がり手前の部屋のドアのカギを開ける。
八年前までは四人で一戸建ての家に暮らしていたが、そこは二人で住むには大きすぎたし、思い出が染みつきすぎていた。だから元居た家は売り払ってこのアパートに越してきた。 初めの頃は父さんと二人で暮らしていたが、父さんはすぐに出張で東京に行ってしまって結局一人暮らしみたいなものだ。父さんは俺に付いて来て欲しかったようだが、俺は後ろめたさから父さんと距離を置きたかった。父さんだって心の底では喜んでいるかもしれない。自分の妻と娘を殺した息子なんて、好きでいられるわけがない。
また過去に思いを巡らせ、自分のしでかした過ちに後悔する。悲しみを自己否定と罪悪感で押し殺して、自分を呪い続ける毎日。俺に悲しむ資格なんてどこにもなかった。これは罰なのだ。俺の時間はあの日から止まったままだ。八年前のあの日から心には何も映らない。あの日から俺はどこにも行けずにいる。
いつも通り懺悔していると気づけば夜になっていた。適当に夕飯を済ませる。特にすることもなく、数学の宿題を済ませると早めに寝ることにした。

 夢を見ている時は、いつもそれが夢だと気づけない。泣き叫ぶクラクション、飛び散る血、壊れたプラモデル。すべてが一瞬の出来事なのに、責め立てるようにまるで永遠にも感じるように、あの日の出来事が再現される。
「お兄ちゃんのせいだよ」
「お兄ちゃんが殺したんだ」
「そうよ。あなたのせいよ。あなたが死ねばよかったのに」
はっ。目が覚めると、冷たいくらい変わり映えしない、いつもの天井がまず目に映る。恐怖で体が強張っている。時間が経つにつれ、徐々に全身から熱が引いていく。
はあはあ。心臓がまだ早鐘のように鳴っている。全身汗だくで、まださっきまでの夢の輪郭が残っている。時計を見てみると夜中の三時を指していた。いつものこととは言え、慣れる日は来ない。
ベッドから起き上がると汗だくの洋服を着替え、台所に向かう。カラカラに乾いた喉を潤すために蛇口を捻り、水を出すと、コップに入れ飲み干す。
静まり返った深夜、ジャーという水の流れる音が寂しく部屋に染み渡る。いつもの日常。調子が良ければこの後、ベッドに横になるとまた眠れるが、そうでなければ朝まで眠れず、ベッドの上でゴロゴロすることになる。結局その日は後者だったようで、夜明け近くまで眠れず、ようやく眠れた頃には日は昇り切ってしまっていて、普段ならそこから一時間の睡眠で起きれるのだが、疲れていたのかアラームでも起ききれずに、今日もまた、昨日とは真逆の意味で寝坊してしまい、遅刻してしまった。
どうせ遅刻なので通学路をゆっくり歩いていたら、学校付近の道で同じ考えなのかゆっくり歩いている生徒がいた。というか星野茜だった。どうやらイヤホンをつけてなにか音楽を聴いているらしかった。星野がどんな曲を聴くのか興味があったので近づいて話しかけてみることにした。どうせ隣の席だしな。近づいてみるとなにやらワクワクした顔で朝から元気そうだった。
「よう星野。お前も寝坊か?」
「あれ、青井君だ。おはよう。二日連続遅刻なんて青井くんは案外悪い子なのかな」
「どの口が言ってんだ。俺は遅刻は数えられる程度だ。お前は遅刻の常習犯だろうが」
「にっしっしー。バレた?今日は朝ご飯をゆっくり食べたい気分だったからゆっくりしすぎて遅れちゃった」
相変わらずの自由人だった。でも昨日の俺も似たようなものか。
「それにしても今日も暗い顔して。目の下真っ暗だよ?大丈夫?」
「ほっとけ。そんなことよりさっき何の曲聞いてたんだ?」
「ああ。20th century boysだよ。知ってる?私音楽とかあんまり聴かないんだけど、この曲は別なんだー。なんかこの曲聞いてるとやるぞーって感じがして力がみなぎってワクワクしてくるんだよ!なんだか勇気がもらえるの」
 嬉しそうな顔で滔々と語る。
「ふーん。それって確か1970年代のロックだよな。そんな古い曲好きなんだな」
「そーなんだよ。別に特別その世代が好きとかロックが好きとかじゃないんだけどね」
と、突然星野が大きな声を出した。
「あ!そーだ!いいこと思いついた!今日面白いことするから楽しみにしててね!」
「嫌な予感しかしないんだが。またなにかろくでもないことしでかす気か」
「にっしっしー。秘密」
そういって星野は本当に楽しそうに笑うのだった。

 二人して遅刻して教室に入るとちょうど二時間目の授業が終わったところだった。
 昼休み。スピーカーから流れてくるクラシックを聞き流しながら、教室の隅の席で俺と大志は二人で弁当を食べていた。星野はいつも通り昼休みになるとどこかに行ってしまった。あいつが昼休みどこで何をしているのかは定かではない。
とそのとき、急にスピーカーから聞き慣れない音が聞こえてきた。
「ガーッ」
放送事故かと思った次の瞬間
「ちょっと!何ですかあなたは!?困ります!この時間は放送部がクラシックを流す決まりなんです。無茶言わないでくださ…あ、ちょっと!」
「うるさいなあ。昼休みまで毎日こんなの聞いてたら頭おかしくなっちゃうよ」
「それじゃあいってみよーう!ミュージックースタート!」
「ガーガガガガーッ♪ガーガガーガーッ♪ガーガガガガーッ♪ガーガガーガーッ♪」
校内にロックが響き渡る。瞬間、低い重低音が何気ない弛緩したいつもの日常を切り裂き、見えない空気を打ち砕く。教室がざわつき始める。
朝星野が聴いていた曲だ。面白いことというのこのことだったか。
「星野さん?」「やっばー」「なにこの曲?知らね」「またかよ」
だがしかし、皆の反応はあまり良いものじゃなかった。理由は明白だった。輪を乱す者は疎まれ、嫌われるのがこの社会の、その縮図である学校のルールだからだ。他と異なるものはその同調圧力によって排除されようとするのがこの世界のルールなのだろう。だからみんな見えない空気を気にして、怯え、その輪からはみ出さないように気を使って生きている。そしてその空気を助長させるがごとく制服やら校則やら学校が加担し、みんなで協力してバカみたいに生きづらい空気を作り上げているのだ。
その点ではこんな生きづらい空気を押し付けあうやつらより、関わるのはめんどくさいがそれらすべてぶち壊し、個性を大事にしている星野の方がましに思えた。
しかし、本来であればクラッシクなど聞き飽きている人も中にはいるであろうから、星野を称えるような人間がいてもおかしくないのだが、星野はやりすぎなのだ。入学してからずっと空気をぶち壊し、問題行動を起こし続けている。本人は気にしていないようだが、いつも一人でいるのもそのせいだろう。完全に浮いてしまっている。
それにしてもあいつは一体何のためにこんなことをするのだろうか。ただ単に目立ちたがり屋というだけでここまでするのだろうか。星野にはその目に見えない空気が認識できないのだろうか。それともやはり俺たちとは違う星から来たのだろうか。
俺が星野宇宙人説について真剣に考えを巡らせていると、ちょうど曲が終わったタイミングで先生がやってきたようだった。
「こら星野!またお前か!来い!指導だ!」
「先生、反省文は書き飽きたから別のやつでお願いね」
「反省文五十枚書いてこい!」
「えーやだー!」
ひと段落して放送部が再びクラシックを流し始める。つまらない日常がまた流れ始める。
「今回のは俺的には結構ありだったんだけどな。やっぱみんなの反応は芳しくないか。星野さんにはもうよくないレッテルが貼られちゃってるんだろうな。それにしてもよくやるよなー」
 大志が呑気そうに言う。
「俺も今回のは面白かったほうかな思う。確かに毎回クラシックは退屈だ。でもあいつの頭の中覗いてみたいよな」
「俺たちも噂を信じすぎな所あるかもな。星野さんに関しては有名すぎて色んな噂が飛び交ってるし。お前最近仲いいじゃん。席も隣だし。どう?」
「うーん。変人であることは確かだ。でも噂ほどじゃないかもな。わかんね。まだ数回話した程度だし」 
「ふーん」

 放課後。案の定星野は反省文を書かされていた。
「青井くん、半分手伝ってよー。一ミリも反省してないから全然書けない」
「あほ。なんで俺が手伝わないといけないんだよ。自業自得だろ。放送部にも迷惑かけて。もっと反省しろ」
「放送部に迷惑かけちゃったのは私も悪いと思ってるんだよ。でもあんなお上品なクラシックを毎日教養のためか勉強のためか知らないけど、聞かせてくるほうが悪いと思わない?なんかうがーってならない?」
「まあ今回ばかりは気持ちは分からんでもないけどな」
「やっぱり⁉じゃあさ、私の流した音楽についてはどう思った⁉」
不貞腐れていた顔を一転させ、机から身を乗り出し顔を近づけてくる。
「…まあ、悪くないんじゃねえの」
「あー!今の間はなんだ!?実は結構よかったんでしょ?そうなんでしょ⁉」
「クラシックよりましだと思っただけだ」
「ふーん。そうなんだ。そーかそーか。やっぱり君には素質があるよ」
一人で勝手に納得しながらこちらを見てくる。正直結構いい曲だと思ったし、クラッシクよりずっと刺激的で今回の星野の奇行も悪くないと感じた。でも星野の得意顔を見るのは嫌だったので、とぼけたのだが、腹立たしいことに看破されたようで、結局にやにやした得意顔を見せつけられる最悪な結果となってしまった。
「そのむかつく顔をやめろ。それと期待してくれてるところ非常に申し訳ないが、俺にはお前が考えているような素質は一切ない。だから他を当たってくれ」
「おっと失礼。あんまり嬉しくて。大丈夫だよ私には分かってるから。そんな照れ隠ししなくても。だから私の――」
「断る。これが照れ隠しに見えているのならお前の顔の皮の分厚さは国語辞典並みだ」
 星野の言葉を遮りピシャッと言い放つ。
「早っ。まだ言い切ってないのに。それにしてもそれってなんだか私頭良さそうだね?」
「どうやら国語辞典は国語辞典でも広辞苑くらいはありそうだ」
「厚さといえば最近暑くなってきたよねー。お天気キャスターのお姉さんがそろそろ梅雨も明けるって言ってたよ。夏が来るよ!夏といえば太陽。太陽といえば赤。つまり夏はヒーローの季節だね!やったね!青井くん!」
この女にはどうやら皮肉が通じないらしかった。というか日本語が通じているのかも怪しい。何度断っても俺にヒーローを勧告してくる。なぜ俺はこんなにも星野に気に入られてしまっているんだ?まったくはた迷惑な話だ。
だが確かに梅雨が終わって夏が来るというのは俺にとっても喜ばしいことだ。このじめじめした空気とどんよりとした気分を助長させる天気、何より夏休みになれば星野茜から解放されるということなのだ。
「夏が来る前に反省文の締め切りが来るぞ。さっさと手を動かせ」
「よしもう反省文は諦めてこの夏の抱負を書こう。つまり意見文だね。夏休みの宿題も先取りできて一石二鳥だ。やったね!」
「いやそれは違うだろ。自由かお前は」

 星野と別れた後、とくに行く所もなく家に向かって歩く。空を見上げると黒寄りの灰色の雲が隙間なく地平線まで町全体を覆いつくしていた。
空を見るのは好きだった。赤、青、灰色、黒。色が変わるだけで町そのものを、世界そのものを変えてしまう。天気が、空の色が、人間の心さえも大きく変えてしまう。そんな大きな力を持つ空を眺めるのが小さいころから好きだった。
ただ、今は違う。いつからだろう。雲一つない青空に心を動かされなくなったのは。きれいな夕焼けをただの時間の指標としてしか見なくなったのは。
ならなぜ俺は、人は空を見上げるのか。それはタナトスからくるものではないかと思う。タナトス。無機物になりたい、死にたいという衝動を指す。
人は皆空の上から生まれてきて、そして空に帰っていく。帰りたいのだ。生まれた場所に。生まれ故郷の方角を人が見てしまうように、俺たちは生れ落ちてきた空を、彼岸をみてしまう。悲しみも苦しみも存在しない空の上を思う。それがきっと人がみな持っていると言われている死への衝動、タナトスの正体で、人が空を見上げる理由なんだと俺は思う。

 一週間後。登校中にまた星野と出くわした。
「おっす青井くん久しぶり」
「よう。一週間もさぼりか?」
「学校ていうのは息が詰まるから定期的なガス抜きが必要なんだよ。おかげさまで充電完了元気もりもりフルパワー状態だよ。エネルギーがみなぎって今すぐ校庭を駆け回りたい気分」
 本当に力が有り余っているようで動きたそうにそわそわしている。
「ガス抜きね。これ以上うるさくなられても困るんだが。さっさと校庭で走り回ってエネルギーを消費してきてくれ」
「まーた朝から辛気臭い顔して。私がうるさいんじゃなくて青井くんに覇気がなさすぎるんだよ。一緒にかけっこする?」
 腕を動かして走るジェスチャーを取って尋ねてくる。
「遠慮しとく」
「そんな青井くんに耳寄りな情報があるぞ」
 突然話が変わる。
「へー」
「なんと昨日私はついに念願のどんぐり戦隊レッド隊員の超レアカードをゲットしたのだ!」
「学校さぼって何やってんだお前は」
 呆れたやつだ。 
「話は終わりじゃないよ。でも、そんな超レアカードを、青井くんが相棒になってくれたら贈呈してあげてもいいよ?」
「ふーん。それは非常に魅力的な提案だが、そのカードは俺の手には余るから、お前がしっかり使いこなしてやってくれ。というわけでしぶしぶ遠慮させてくれ」
「なるほど分かってきたぞ。これが遠回しな皮肉ってやつだな?」
 ちょっと不満そうな顔を浮かべる。
「わかってきたじゃないか。そういうことだ」
「へー、そんなこと言ってもいいのかなー?今日は私、秘密兵器があるんだよ?」
こいつの秘密兵器なんて、それこそドングリか、よくても所詮クワガタかカブトムシ程度だろう。
「ヒーローだかプータローだか知ったこっちゃねーが一人でやってるんだな」
「むかっ!なんだとー!今のはさすがの私もカチンと来たぞ。言ってはいけないことを言ってしまったな青井くん。ヒーローらしくないから本当はこんな手使わずに済ませたかったけど、君がその気ならしょうがない。とくと見よ。この変身ポーズを」
一瞬ものすごく不吉な言葉が聞こえた気がしたが大丈夫なはずだ。こいつがあれを知るはずがない。危ない。危うく封印した記憶が蘇るところだった。
「へーんしん!とうっ!愛と平和の戦士ブルーペガサス参上!」
星野はそういうと両手を翼のように広げ、まるでペガサスのように片足を宙に浮かせた。
ぐおおおおおおお⁉胸がえぐれるっ!恥っず!なにそれめっちゃ聞いたことあるていうかそれ俺が作ったセリフと決めポーズ!恥ずかしすぎてしぬ!
「ぬおおおおお!やめろお前!それはとっくの昔に封印したはずだ‼なんでそのポーズを知ってるんだ⁉八年以上前のやつだぞ⁉」
「にっしっしー!なーんだ青井くんもこんな大きな声出せるんだね。君にも感情が残っていて安心したよ。これはね大山君に教えてもらったんだー」
あいつあとで殺す。
「おい頼むからこれは二度とするな」
「えー、かっこいいじゃんこのポーズ!私これから一日に十回くらい校内でこのポーズ練習する予定なんだー」
 得意げな顔で恐ろしいことを言ってのける。
「おいお前マジふっざけんなよ、俺に何の恨みがあるんだ!」
「た・だ!君が私のお願いを聞いてくれるんなら私もこのポーズを封印してあげる」
「…お前ろくな死に方しねえぞ」
「んもう顔怖いぞ」
こいついつか絶対泣かす。
「そのお願いってのはなんだ?」
「ずっと言ってるじゃん。私の相棒になって一緒にヒーローになってほしいの」
「悪いがそのお願いだけは聞けない。俺にも事情があるんだ。だから代わりに助手みたいなもので勘弁してくれないか」
「…んー。わかった。しょうがない。今はそれでいいよ。でもそのうちなってもらうから覚悟しててね」
そもそもその気はないが、仮に俺にその気があったとしてもそれは無理だろう。なぜなら俺は一度諦めたのだから。人殺しにヒーローになる覚悟なんてあるわけがないのだからと。
「先に言っておくがお前の奇行に付き合うのは無理だぞ。変に目立つのはごめんだからな」
「奇行?」
 不思議そうに首を傾げる。
「放送室乗っ取ったり、屋上で宇宙人と交信したりすることだよ」
「ああ~。そのことかー。そっちはヒーロー活動とは関係ないから問題ないよ」
 奇行だという自覚がないことが恐ろしいな。
「そうか。特に興味もないからこれ以上掘り下げる気はないが」
「もういちいち冷たいなー。そんなんじゃ女の子にモテないぞ?」
「余計なお世話だ」
「そーだ、青井くん気になってる女の子とかいないの?青井くんどんな子が好み?」
 前のめりになって尋ねてくる。
「いない。教える義理はない」
「へー。ということは好みのタイプとかあるんだー。んもう青井くん女なんて興味ねえみたいな顔しながらムッツリなんだからー。おませさんめ」
なぜこの女はこんなにむかつくのだろうか。こいつと話していると鉛のように鈍重な心がついつい動かされてしまう。
「あっ。だからって私に色目使ったらだめだからね」
「安心しろ。俺のタイプは常識的で物静かで休日にはクラシックを嗜むような良識的な女の子だ」
「きゃー、それってやっぱり私のことじゃん。んもう青井くんは大胆だなー」
 両手で自分の頬をおさえるともじもじしだす。
「お前のどこに常識があるんだよ。顔面の広辞苑で常識の意味を調べてみろ」
「あっ口悪いね君は。良くないぞ」
「それにしても君はそんな顔で怒るんだね」
星野は人を怒らせておきながら心底嬉しそうに笑い、両の手の親指と人差し指を直角に立てると、四角形を作り、それをこちらの顔に向けて片目で覗き込んできた。
「何してる?」
「んー?秘密」
相変わらず変なやつだ。
「青井くんは好きな子とかいないんだ。よかったよかった」
何やら小声でぼそぼそしゃべっている。
「ん?なんか言ったか?」
「ううん。なんでもない」
「よし!それじゃあ今日の放課後空けといてね!楽しくなってきた‼」
一方的にそう告げると教室に入っていってしまった。
「とんだ災難だ。これからどんな目に遭うんだ…」
そういえばあれだけヒーローを連呼していたのに関わらず罪悪感は感じなくなっていた。前回は久々だったうえにいきなりだったからだろうか。それとも羞恥心が高まったのに相まって心がこれから先思いやられる地獄っぷりに防衛機制でも働いたのだろうか。
何にせよ面倒臭いことになってしまったものだ。
我が身を案じながら窓の外を見ると、空を覆う灰色の雲が割れ始め、青い空が見えてきていた。雲間からは長いこと見なかった光が地上を照らし、一筋の光が指していた。
長かった梅雨が明けようとしていた。