往人から聞いた話も含めて説明するが、あれは暑い夏の日のことだった。
あの日、往人は母親がエプロン姿のまま台所で血塗れになって倒れている凄惨な姿を目撃した。
着ているエプロンに赤黒い血が染み込み、身体のすぐ近くに血の付いた包丁が落ちていたことからそれが腹部に刺さっていたことをすぐに往人は察した。
鍋に入ったスープは長時間煮込んでいたせいで噴き出し安全装置が発動してコンロは止まっていた。母親は料理の最中だったのだ。
侵入者の形跡はなく、自分で刺したとしか思えない状況だが、料理中であることも含め事件性は見えなかった。自殺をする動機も考えられないため、最終的に事故として処理された。
往人は台所に広がっていく血だまりを見て貧血を起こして気絶した。
元々、赤い血を見るのは苦手だったらしい。それが赤い血に見えるのは母親のものだけだがな。
私は往人と連絡が付かないため、慌てて家にやってきたが、往人は気絶したまま、母親は大量出血で息をしておらず既に亡くなっていた。
あまりに突然の出来事に気が動転しかけたが、私は何とか救急車を呼んだ。
往人は病院で目を覚まし、しばらく入院することになった。
母親が倒れている姿を見てしまった精神的ショックと大量の真っ赤な血液を見た衝撃のせいだろうと言われている。
事故当時、あの家には往人とその母親である画家の桜井深愛先生しかおらず、状況から一度は往人の犯行によって母親が殺害された可能性を指摘されたが包丁には母親の指紋しかなく、争った形跡のないことから往人の無実が証明された。
だがな……事故として処理された後でも往人はあの時のことを今でも後悔している。
自分が気絶などせずしっかりしていれば、救急車を一早く呼んでいれば母親は助かった可能性があるからだ。
あくまでこれは可能性でしかないが、往人はそこから立ち直るのにしばらく時間がかかった。
一番大切な母親を亡くしたのだから、当然の結果だがな……。
*
母親を亡くし、世界から色彩が失われていった。
そんなことを往人さんは以前に話してくれたが、その時に受けた精神的ショックは計り知れないものであったことが想像できる。
いつ告白しようかと悩んでいた思考が一瞬にして吹き飛ぶほど、お師匠さんが話してくれた内容は衝撃的なものだった。
今日の演奏会が終わったら、往人さんを励ましに見舞いに行こうと思っていただけに、複雑な思いを私は抱えた。
「タイミングが悪かったな、今はあまり深く考えすぎなくていい。
ただ知って欲しかったのだ、往人の中でもまだ消化しきれていない感情があること。
それと、君が流す赤い血は往人を苦しませる毒になるかもしれないということを」
「はい、ありがとうございます……。
お忙しいのに大切なお話しをしてくださって。
演奏会が終わったら、往人さんに会いに行きます。
自分がいたら迷惑を掛けてしまうかもしれませんが……」
お師匠さんは往人さんを心配する私の気持ちを察して話してくれた。長い間、往人さんと暮らしていたお師匠さんだからこそ知っていることは沢山あり、それを知ることが出来たのは有意義なことだ。
わざわざ時間がない中、来てくれたのにはそれだけ期待してくれているのもあるのかもしれない。
ただ、好きという気持ちだけでは足りないことに気付けたことを私は感謝すべきだろう。
「大丈夫だよ、往人はこの程度のことで君から離れて行ったりしない。
保証しよう、往人は君のことを大切に想っている。必要としてくれているよ。
だから、これからもあいつの幸せを考えてやってくれ」
「お師匠さんがそう言ってくださるのなら、信じます。
不安はいっぱいありますが、会いたいって気持ちが込み上げて来るのは本当ですので」
「本気で好きなんだな……」
「すみません。どうにも、隠すのが苦手みたいでして……」
お師匠さんは私の言葉に納得したのか、大きな手で優しく頭を撫でて席を離れて行った。何でもお見通しなんだろう……それは華鈴さんも同じなんだけど。
取り残された私は一瞬だけ空虚を思いを抱きながら、自分はやっぱりこんなことでは諦めきれないのだと気付いた。
往人さんにとって私の血は赤い色をしている。ただ当たり前のそのことが恐ろしく、そして愛おしく私には思えた。
唯一、私だけが往人さんにとって色のある人間ということ……それが、より一層運命的に感じられた。
「往人さん……お師匠さんも応援してくださっています。
だから、この手を離さないでくださいね」
私は願いを込めて小さく呟いた。
本番の時が迫る、私は雑念を振り払い席から立ちあがった。
もう一時間も経てばクリスマス演奏会が始まり、その後は立食パーティーに流れていく。
その予定を知っている私は喫茶さきがけの奥にある従業員が休憩時間を過ごす事務所兼休憩所へとやって来た。
そこには、本番に向けて精神を研ぎ澄ましているのか、楽器ケースからフルートを取り出して本番前の練習をしている華鈴さんの姿があった。
「……お邪魔でしたか?」
私が部屋に入った途端、演奏が止まってしまったので私は気を遣ってしまったと思い確かめた。
「そんなことないわ。私も不甲斐ない演奏は出来ないなって思ってちょっと固くなってた。でも、郁恵さんの表情を見て分かったわ。
私は郁恵さんとの演奏が楽しみで本気になっていたんだって。
ミスもしてしまうかもしれないけど、その時は許してくれるかしら?
郁恵さんの演奏をしっかり聴きながら、今日の演奏会を楽しみたいから」
「もちろんです! 華鈴さんの音は本当に人の心を魅了するものがあります。
だから、私の方こそそれに合わせられるように、心地いいハーモニーになれるように、精一杯頑張ります!」
華鈴さんの言葉に私も応える。華鈴さんでも緊張するのだと分かると、私は嬉しくなり緊張が少し解れた。
「ありがとう、真っすぐな郁恵さんを見ていると私も心が躍るわ。
年に一度のクリスマス演奏会、観客の皆さんに楽しんでもらいましょう」
華鈴さんが僅かな物音をさせて楽器を置き椅子から立ち上がると、私の肩に手を置いた。
本番前に相応しい気持ちを高め合う会話を交わし、私達は威風堂々と演奏会を待つ客席へと向かった。
あの日、往人は母親がエプロン姿のまま台所で血塗れになって倒れている凄惨な姿を目撃した。
着ているエプロンに赤黒い血が染み込み、身体のすぐ近くに血の付いた包丁が落ちていたことからそれが腹部に刺さっていたことをすぐに往人は察した。
鍋に入ったスープは長時間煮込んでいたせいで噴き出し安全装置が発動してコンロは止まっていた。母親は料理の最中だったのだ。
侵入者の形跡はなく、自分で刺したとしか思えない状況だが、料理中であることも含め事件性は見えなかった。自殺をする動機も考えられないため、最終的に事故として処理された。
往人は台所に広がっていく血だまりを見て貧血を起こして気絶した。
元々、赤い血を見るのは苦手だったらしい。それが赤い血に見えるのは母親のものだけだがな。
私は往人と連絡が付かないため、慌てて家にやってきたが、往人は気絶したまま、母親は大量出血で息をしておらず既に亡くなっていた。
あまりに突然の出来事に気が動転しかけたが、私は何とか救急車を呼んだ。
往人は病院で目を覚まし、しばらく入院することになった。
母親が倒れている姿を見てしまった精神的ショックと大量の真っ赤な血液を見た衝撃のせいだろうと言われている。
事故当時、あの家には往人とその母親である画家の桜井深愛先生しかおらず、状況から一度は往人の犯行によって母親が殺害された可能性を指摘されたが包丁には母親の指紋しかなく、争った形跡のないことから往人の無実が証明された。
だがな……事故として処理された後でも往人はあの時のことを今でも後悔している。
自分が気絶などせずしっかりしていれば、救急車を一早く呼んでいれば母親は助かった可能性があるからだ。
あくまでこれは可能性でしかないが、往人はそこから立ち直るのにしばらく時間がかかった。
一番大切な母親を亡くしたのだから、当然の結果だがな……。
*
母親を亡くし、世界から色彩が失われていった。
そんなことを往人さんは以前に話してくれたが、その時に受けた精神的ショックは計り知れないものであったことが想像できる。
いつ告白しようかと悩んでいた思考が一瞬にして吹き飛ぶほど、お師匠さんが話してくれた内容は衝撃的なものだった。
今日の演奏会が終わったら、往人さんを励ましに見舞いに行こうと思っていただけに、複雑な思いを私は抱えた。
「タイミングが悪かったな、今はあまり深く考えすぎなくていい。
ただ知って欲しかったのだ、往人の中でもまだ消化しきれていない感情があること。
それと、君が流す赤い血は往人を苦しませる毒になるかもしれないということを」
「はい、ありがとうございます……。
お忙しいのに大切なお話しをしてくださって。
演奏会が終わったら、往人さんに会いに行きます。
自分がいたら迷惑を掛けてしまうかもしれませんが……」
お師匠さんは往人さんを心配する私の気持ちを察して話してくれた。長い間、往人さんと暮らしていたお師匠さんだからこそ知っていることは沢山あり、それを知ることが出来たのは有意義なことだ。
わざわざ時間がない中、来てくれたのにはそれだけ期待してくれているのもあるのかもしれない。
ただ、好きという気持ちだけでは足りないことに気付けたことを私は感謝すべきだろう。
「大丈夫だよ、往人はこの程度のことで君から離れて行ったりしない。
保証しよう、往人は君のことを大切に想っている。必要としてくれているよ。
だから、これからもあいつの幸せを考えてやってくれ」
「お師匠さんがそう言ってくださるのなら、信じます。
不安はいっぱいありますが、会いたいって気持ちが込み上げて来るのは本当ですので」
「本気で好きなんだな……」
「すみません。どうにも、隠すのが苦手みたいでして……」
お師匠さんは私の言葉に納得したのか、大きな手で優しく頭を撫でて席を離れて行った。何でもお見通しなんだろう……それは華鈴さんも同じなんだけど。
取り残された私は一瞬だけ空虚を思いを抱きながら、自分はやっぱりこんなことでは諦めきれないのだと気付いた。
往人さんにとって私の血は赤い色をしている。ただ当たり前のそのことが恐ろしく、そして愛おしく私には思えた。
唯一、私だけが往人さんにとって色のある人間ということ……それが、より一層運命的に感じられた。
「往人さん……お師匠さんも応援してくださっています。
だから、この手を離さないでくださいね」
私は願いを込めて小さく呟いた。
本番の時が迫る、私は雑念を振り払い席から立ちあがった。
もう一時間も経てばクリスマス演奏会が始まり、その後は立食パーティーに流れていく。
その予定を知っている私は喫茶さきがけの奥にある従業員が休憩時間を過ごす事務所兼休憩所へとやって来た。
そこには、本番に向けて精神を研ぎ澄ましているのか、楽器ケースからフルートを取り出して本番前の練習をしている華鈴さんの姿があった。
「……お邪魔でしたか?」
私が部屋に入った途端、演奏が止まってしまったので私は気を遣ってしまったと思い確かめた。
「そんなことないわ。私も不甲斐ない演奏は出来ないなって思ってちょっと固くなってた。でも、郁恵さんの表情を見て分かったわ。
私は郁恵さんとの演奏が楽しみで本気になっていたんだって。
ミスもしてしまうかもしれないけど、その時は許してくれるかしら?
郁恵さんの演奏をしっかり聴きながら、今日の演奏会を楽しみたいから」
「もちろんです! 華鈴さんの音は本当に人の心を魅了するものがあります。
だから、私の方こそそれに合わせられるように、心地いいハーモニーになれるように、精一杯頑張ります!」
華鈴さんの言葉に私も応える。華鈴さんでも緊張するのだと分かると、私は嬉しくなり緊張が少し解れた。
「ありがとう、真っすぐな郁恵さんを見ていると私も心が躍るわ。
年に一度のクリスマス演奏会、観客の皆さんに楽しんでもらいましょう」
華鈴さんが僅かな物音をさせて楽器を置き椅子から立ち上がると、私の肩に手を置いた。
本番前に相応しい気持ちを高め合う会話を交わし、私達は威風堂々と演奏会を待つ客席へと向かった。