視えない私のめぐる春夏秋冬

 往人さんも一緒に座り、テーブルに並べられた料理を食べ終わってコーヒーを飲んでリラックスタイムに入っている最中だった。

 カランカランと店の扉が開き、鈴の音が鳴り響くと神崎さんがやって来た。

 往人さんによると玄関扉には既にCLOSEの札がぶら下げられていて、貸し借り状態となっていたようだ。

「やってるねぇ……退院おめでとう。
 郁恵君、君に退院祝いを届けに来たんだ。
 きっと喜んでくれるだろう。
 さぁどうぞ、受け取ってくれたまえ」

 颯爽とやってきて柔らかな香りを漂わせる神崎さんが一冊の本を手渡してくれる。

 このタイミングでわざわざみんなのいる中、私を訪ねて渡してくれた本。
 その意味を考える前に、正方形の形をした装丁に触れた瞬間、私は心がざわつく感触を覚えた。

「もう日本に帰宅していたんですね、お忙しいところありがとうございます。
 あの、これはもしかして……」

「あぁ、私達の共同制作である、絵本のサンプルだ。
 君が退院したら渡そうと思っていた。一緒に喜びを分かち合いたいからね」

 何という粋な計らいだろう……。
 こうして外の世界に羽ばたくことの出来たその日に、この絵本を手にすることになるとは。
 私は驚きで息をするのも忘れる程だった。

「もう完成したみたいね。神崎さんったら、本当にタイミングを見計らったように登場するんだから。憎い人よね……」

 華鈴さんも隣にやって来て、テーブルを囲んでくれる。
 神崎さんは今日までパリでの展覧会に付きっきりになっていたようで長期間の滞在だったと話した。
 
「本当に完成するなんて、夢みたいです……」

 まだ実感の持てないまま、宝物を掴むように大事に絵本を握る。
 絵を描いてくれた往人さんもまだ完成品の中身を見ていないようで、私の隣で「よくこの短期間で完成まで持っていけたな」と感心していた。

「夢は叶えるためにあるものだ。後は君が了承してくれたら出版社に確認を取って印刷会社に持って行こう。もちろん、君が音声収録したものも一緒に加えてもらうつもりだ」

 私が我が儘を言って要望に出したものと真摯に向き合い、取り組んでくれている。それを感じさせてくれる神崎さんの言葉だった。

「ありがとうございます……。
 私の朗読はついでみたいなものですので。
 開いてもいいですか?」

 朗読は隣に恵美ちゃんや往人さんに見守ってもらい大変な苦労しながら収録した思い出が残っている。
 そんな記憶もまだ新しい中、私はもう待ちきれない気持ちだった。

「もちろんだ、私と美桜さんは先に内容の確認を済ませている。
 往人と一緒に楽しんでくれるといい。
 私はコーヒーを飲みながら長旅の疲れを癒すため、二階席で寛いでいるからな」

 そう言って華鈴さんと親し気に言葉を交わしながら離れていく神崎さん。
 迷いないその優雅な振る舞いがカリスマ性をさらに私に印象付ける。
 残された私は往人さんと肩が当たりそうなくらいに近づいて、二人でじっくり楽しむことにした。

「それでは往人さん……寛大なお心遣いを噛み締めて、一緒にご覧に入れますか?」
「あぁ……ちょっと自分の絵を一緒に眺めるのは恥ずかしいけどな」

 要望通り、”てんじつき、さわるえほん”として作られたアイディアがいっぱいに詰まった魔法の絵本。

 私達四人の共同制作作品、”空を飛べたら”をテーブルに置き、緊張で震える手を抑えつつ、恐る恐る私はページを開いた。

 点字に手で触れて実感する、私が書いた物語のテキスト。
 子どもたちにも触れられるよう、よりシンプルな文章に変貌した小夜(さよ)佳代(かよ)の優しくも切ない物語。

 空飛ぶうさぎの歌と私が経験した真美との旅をモチーフにしていて、深く考えすぎるとほろ苦い記憶が思い出される内容だ。

 絵本としての体裁を取るこのお話を手で楽しむことができるよう、表紙も本文用紙もしっかりとした厚紙で作られ、透明樹脂インクによる隆起印刷を施してある。

 立体的に感じられる往人さんの描いた動物や人物。
 思い出深い、うさぎの両耳に触れるとまた一つ感動を覚えた。

「本当に凄いね……私達でもこんなに立派な作品が作れるんだ……」

 一ページ毎に制作の思い出と感動がやって来る。
 ただ、私の思い付きで始まった物語がこうして形となっているのだ。
 これが嬉しくないわけがなかった。

「一人では不可能でも、こうして手を取り合って一緒に制作を進めれば確かな形に出来る。俺たちに叶えたい夢を与えてくれた郁恵のおかげだよ」

「私はお話を書いて要望を伝えただけだよ。三人が私の願いをかけがえのない形で叶えてくれた。
 こんなに嬉しいことはないよ。往人さんなら分かってくれるよね?
 目が不自由な人たちにとって、この絵本がどれだけ大切であるか」

 自分が書いたストーリーなのに、ページをめくるたびにワクワクが止まらない。この感動を共有したくて、私は往人さんに言った。

「もちろんだよ。動物と触れ合う温かい描写もありつつ、なかなか深い考察だって出来るところもあって、魅力的だよ」

「そうかなそうかな? 自分の書いたものを褒められると胸がドキドキしちゃうね」 

 往人さんの言葉で余計に胸が高鳴る私。
 登場するキャラクターが大きさや形、触り心地の違いで認識できたり、一ページ毎に広がる工夫の詰まった内容に感銘を受ける。

 これで徐々にバリエーションを広げている、バリアフリー本に新たな作品を加えることができる喜びは想像を超えていた。
 

 ”視覚障がいを持った私が考えた物語を絵本という形で視覚障がいを持った人々にも届ける。それが私の目指した絵本の形だ”


 それを見事に形に出来たことは、本当に嬉しいことだった。

 私は絵本の確認を終えた後、往人さんに一つのお願いをした。

「私ね、この絵本を往人さんのお父様、桜井海人さんにも届けたいの。
 きっと、視覚障がいを持った同じ人間としてこの作品の価値を分かってくれると思うから」

「そうだな……親父にだって眩しいくらいにこの絵本の素晴らしさが分かるだろう。
 俺の描いた絵は物足りないかもしれねぇが、そういう魅力が詰まってる。障がいのあるなしに限定せず、子どもだけじゃない、大人にだって楽しんでもらえる作品だ」

 往人さんは「余計に嫉妬させてしまうかもしれないけどな」と苦笑いを浮かべながら言い、絵本を読了した後の興奮に一緒に酔いしれてくれた。

「この気持ちが届くといいな……海人さんとも私は仲良くなれたらいいなって思うから。
 それと、往人さんはこれからもっと有名になる画家なんだから。
 頑張ってね、応援してるから」

「随分無茶ぶりな期待を寄せてくれるなぁ……郁恵を支えられるように頑張るよ」

 私の自信たっぷりの言葉に何とか答えてくれる往人さん。
 少しでもこの絵本をきっかけに往人さんの絵を見てくれる人が増えてるといいなと私は心から願った。
 フェロッソと過ごした日々が終わり、絵本製作が一段落ついて、往人さんと二人三脚で歩んでいく日々がしばらく続いた。

 そして、春風が吹く頃、往人さんから連れて行きたい場所があるんだと告げられた私は電車を乗り継ぎ、のどかな自然の空気が漂う駅前に辿り着いた。

「ここからバスに乗るから」と往人さんは私の手を握り言った。
 四月から四回生になったばかりの私は白杖を手に少しずつ一人で通学するのに慣れてきた頃だった。

「バス? それで一体どこに行くの?」

 コートを脱ぎ、春用カーディガンを着た私は往人さんに聞いた。
 もう、ここまで来たなら教えてくれてもいいだろうと思った。

「あぁ…この先に盲導犬協会の訓練施設があるんだよ。あの日、フェロッソを動物病院まで連れて行ってくれた女性がいただろ? その人から連絡があってこっそり教えてくれたんだ」
 
「えっ? 志保さんが? フェロッソがそこにいるの?」

 思わぬ言葉に私は驚いて聞き返す。
 あの志保さんと往人さんが交流を続けていたのも驚きだが、フェロッソについての情報を届けてくれたのも考えもしない凄いことだった。

「うん、もう新しいパートナーとの共同訓練期間に入ってるってさ。
 たぶん、今の機会を逃したら一生会えないかもしれないって思って。
 それで今日は行く事にしたんだよ」

「そうだったんだ……私一人だったら会いに行く勇気は出なかったなぁ…。
 声を掛けると協会の人にもフェロッソにも迷惑になっちゃうから、私は遠くから見てるよ。
 だから往人さん、フェロッソが元気にしてる姿を見つけたら教えてね」

「分かったよ。きっとフェロッソは頑張ってるだろうから、影ながら応援してあげようぜ」

「うん、そうしよう往人さん」

 往人さんの明るい声に釣られて私も自然とフェロッソの様子を見に行くことを受け入れた。

 フェロッソとはオーストラリアで出会い、暮らし始めてから五年以上パートナーとして共に切磋琢磨して苦難を乗り越えてきた同志だ。
 そのフェロッソがリハビリ期間を乗り越えて新しいパートナーと次のステップに進もうとしているのだから、これが嬉しくないわけがない、応援してあげたいと思う。

 だって、私も往人さんと手を繋ぎ、もう二人で歩きだしているんだから。
 フェロッソにも残りの人生を逞しくて生きて欲しいと願った。
 

 やがてバスがやって来て私は往人さんに誘導されながら足を上げてバスに乗車した。
 
 今日は往人さんと訓練の様子を見学するだけだからと決めてバスが目的地に到着するのを待つ。

 見えない私のために往人さんが林道を走っていることを教えてくれる。
 この先にはゴルフ場もあるようで、本当に住宅街と比べればコンビニもスーパーもなく、ずっと自然の風景が広がっているようだ。


 ここまでやって来て改めて考える。私は代替えの盲導犬を希望することを遠慮した人間だ。

 本当は哀しい気持ちになってしまうから盲導犬自体とも距離を取ろうと考えていた。
 だから、今日フェロッソが元気でいるのを確かめられたらこれっきりにしようと思う。

 もう私には往人さんというかけがえないパートナーがいるから。

 それ以上を望むのは、たとえ全盲の視覚障がい者であっても贅沢なことだ。

 日本では盲導犬を希望しても利用開始までに一年程度かかる。
 盲導犬の育成が進んでいるイギリスでは三か月ほどであることから日本は遅れているのだ。
 それに、盲導犬を利用する利用者負担はないのに対して、一頭育成するのに五百万~八百万円の費用がかかっていると言われている。
 このことを考えると限られた盲導犬達を譲り合って利用することが重要であると私は考えた。 

 それに、フェロッソを傷つけてしまった私が再び盲導犬をパートナーにすることは荷の重い選択だと思っている。

「ねぇ……往人さん、ありがとう」
「どうしたんだよ?」

 私はどうしても感謝の言葉を伝えたくて往人さんに言った。
 往人さんは不思議そうに、少し手を強く握った。
 私はその手を同じ力で握り返して、理由を口にした。

「だって、フェロッソのことを考えてくれたから。
 私……大怪我を負わせてしまったことをずっと後悔してて。
 もう関わらないようにして、忘れてしまおうって思ってた。
 でもそんなのよくないよね。いっぱい感謝してるのに、忘れようとするなんて良くないよね」

 正直な気持ちを口にするのは辛いことだけど、もう現実から目を逸らすのをやめなければと私は思った。

「郁恵は無理しなくていいんだって。
 思い出は俺よりもずっと郁恵の方が沢山あるんだから。
 前を向いていこうぜ」

 往人さんはどこまでも優しい言葉を掛けてくれる。
 私はもう、泣き出してしまいそうだった。

 バスが訓練施設のある盲導犬協会の事務所まで辿り着いた。
 私と往人さんは十人ほど集まった見学者に混じって職員からの説明を聞き、訓練を見学させてもらうことになった。

 往人さんの隣に立って説明を聞きながら訓練している様子を見学していると、唐突に盲導犬の手綱を握っていた女性が大きな悲鳴のような声を上げた。


 ”あっ! 引っ張られちゃう! 一体どうしたの?”


 私には見えないが、盲導犬がリードを無理矢理引っ張ってパートナーの言うことを聞いてくれないらしい。
 何かしらのハプニングが起きたのだと察して身構える。

 すると私の足元までやって来て、顔をスリスリさせて寂しそうに声を上げて甘える盲導犬。

 その懐かしいくらいに愛くるしい愛情表現だけでそれがフェロッソであると私にはすぐに分かってしまった。
 ”フェロッソ……私のことが見えているの?
 私だけじゃなくて、あなたもずっと寂しかったの?”

 共同訓練の途中なのに、抜け出してまで私のところに会いに来てくれたフェロッソ。
 大怪我をさせて迷惑を掛けてしまったのに、私に会えたことを喜んでくれている。心から思う、本当にフェロッソは優秀なパートナーだ。

 私は愛おしさが込み上げて来て、今すぐにでも抱き締めてあげたい衝動に襲われた。

 ”ごめんなさい、見学者さん……今まで訓練の途中にこんなことはなかったんですが……”

「いえ……大丈夫です。少し驚いただけですので」

 見学者に同行する職員が私からフェロッソを離そうと駆け寄って来た。
 何とか言葉を絞り出し、私は本当の感情が破裂しそうになるのを堪える。

 そして、その場でしゃがんで軽く私はフェロッソの頭を撫でると、抵抗することなく、スカートを履いた私の足元からフェロッソの身体が離されていった。
 
 私は必死に涙が溢れそうになるのを堪えて、精一杯の想いを込めてフェロッソに笑いかけた。きっと、これが最後だと思うから。


 フェロッソ……私はもうあなたのパートナーじゃないのよ。

 分かって、お願い……。

 あなたは立派に職務を全うしてくれたのに、私はそれに応えられるパートナーにはなれなかった。

 ごめんなさい、これからはここでマッチングできた相手のために頑張って!

 本当に応援しているから、私も幸せになるから。

 だから、大好きなフェロッソにも幸せになって欲しいの。

 私のように目の不自由な人の力になってあげて欲しいんだ。

 外に出る勇気を分けてあげて欲しいんだ。

 私はもう……大丈夫だから、もう十分なくらい、助けてもらったから。

 だからね……これでお別れだよ、フェロッソ。 

 いつまでも、元気でいてね……。
 
 
 精一杯心を込めて念じてみたが、この気持ちが伝わるかどうかは分からない。
 でも、本当の気持ちを声に伝えてしまってはいけない。
 私がフェロッソの前のパートナーであると周りの人に知られてしまってはならないから。
 フェロッソには、新しいパートナーと一緒にこれからの人生を歩んで欲しいから。

 何とか私は溢れ出そうになる気持ちを堪えた。

 一度も吠えることなく、この場から消えて行ったフェロッソの気配。
 私はフェロッソが寂しそうに職員に連れられて行くのを感じた。

 しばらく放心状態になった後、見学会が終わり、バスに乗車した私は一番後ろの席に座り、涙が止まらなくなった。

「ダメだ……もう堪え切れない、限界だよ……我慢できないよ。
 往人さん……これでよかったんだよね。最後に会えて、よかったよね」

「あぁ……フェロッソも喜んでくれただろうよ。
 郁恵と会えなくなって寂しい思いをしていただろうからな。
 だから……よかったんだよ……これで」

 往人さんの胸の中で泣きじゃくる私。

 本当は一緒に大学を卒業したかった。

 後一年、一緒に過ごしたかった。

 そんな想いが私の脳内に迸り、耐え切れなくなってしまっていた。

 無情にもバスはここまで来た道を引き返し、フェロッソとの再会を思い出へと変えていく。

 出会いと別れの季節を巡る春の息吹が吹き荒れる。

 しだれ桜の咲き誇る風景は無情にも通り過ぎていき、私達を乗せたバスは駅前へと到着した。

 新しいパートナーと歩み始めた以上、もう二度とフェロッソと再会することはないだろう。

 どうしようもない悲しみが私を襲い、胸を苦しくさせる。

 でも、もう会えないと思っていたフェロッソと会えたこと、私のことを求めてくれたことは本当に感極まるほど嬉しいことだった。

「フェロッソが元気でいてくれてよかった。
 私もしっかり歩き出さないとね。フェロッソと誓った夢を叶えないと」

「あぁ……郁恵なら出来るさ、俺は信じているよ」

「うん、いつもありがとうだよ。
 往人さんがこの手を離さないでいてくれたから、フェロッソがいなくてもこの足を止めることなくいられた。
 これからもよろしくね」

 流れる涙に誓いを込めて、私は夢へと向かってフェロッソと別々の道を歩き出す。

 新しいパートナーと歩み始めた、かけがえのないフェロッソから勇気をもらって。

 隣を歩く往人さんと一緒に、どこまでも……どこまでも。
 季節は秋、桜のようなピンク色の花を咲かせる秋桜(こすもす)の咲き乱れる秋風が吹く頃。

 どこにでもあるような保育園の教室に子ども達の大きな歌声が響き渡る。
 元気よく口を大きく開き、背筋を伸ばし、ピアノの伴奏に乗せて。

 瞳を閉じて、子ども達と気持ちを一つにして私は今日もお昼前のひと時にグランドピアノを奏でる。

 『大きな栗の木の下で』『キラキラ星』『どんぐりころころ』、保育の場面で好まれる、簡単で覚えやすいメロディーをした短い曲を私は次々と歌に合わせて演奏する。
 子ども達は想像以上に覚えが良く、私の演奏を始めると自然と歌詞を思い出して、私と一緒になって楽しそうに歌を歌う。

 この保育園にやって来て、もうかれこれ半年近い時が過ぎた。
 初めは本当にやっていけるのか、周りに迷惑を掛けずに保育が出来るのか、不安でいっぱいだったけど、私と一緒に過ごすことを喜んでくれる、小さな小人たちに助けられながら、私は今日も幸せな気持ちで小人たちと歌を歌っている。

 ――かえるのうたがきこえてくるよ クヮ クヮ クヮ クヮ ケケケケ ケケケケ クヮクヮクヮ。

 元気な子ども達の歌声に助けられながら、お昼前最後の演奏を終えて、私は肩の力を抜く。
 慌ただしく過ぎる時間に疲れてしまうこともあるけれど、慣れていくごとに、新しい日常が不安もなくなり楽しいものに変わっていく。

 まだまだ新人保育士の私だけど、新しい発見が毎日のように起きる日々は新鮮そのものだ。

 ここで大好きなチャイコフスキーやベートーヴェンのようなクラシック音楽を演奏することはほとんどないけれど、私は子ども達と一緒に過ごす時間に充実感を覚えている。
 幸せがどこからやってくるのか、それが身体全体で染み渡って伝わってくるような、そんな心地だった。
 本当に勉強もピアノも続けてきてよかったと毎日のように思う。
 だって、夢はこうして叶えられてこそ、苦労が報われて、意味のあるものだから。


 保育士試験に合格を果たし、慶誠大学を卒業して念願の保育士になることができた私は、今は都内にある保育園で働いている。

 保育士試験を受ける上で必須となる実習先を見つけるのが一番苦労をしたけれど、目が不自由でも保育士になった先人たちの礎もあり、私は何とか実習先を見つけて、経験を積むことができた。

 試験勉強だってもちろん大変だったけれど、私としては実習先を見つけて、規定回数分の実習を終わらせることの方が大変な困難だった。
 慶誠大学の卒業は恵美ちゃんと一緒に無事に迎えられ、私は春からここで働いている。

 当然、簡単な事ばかりではないけれど、この保育園には過去に全盲の視覚障がいを持った方が働いていた過去もあり、必要な配慮を受けながら働くことができた。
 昼休みになり、保育所内で手作りされた給食が各クラスに運ばれ昼食の準備が進められる。
 私も周りの保育士と一緒に準備を手伝い、昼食を迎えた。
 子どもたちと同じ給食を食べながら、食事の様子を見守る。
 目が見えない分、分からないこともあるけれど、自分の得意分野を活かして働いてくれれば大丈夫だと私は教えられた。
 そういう配慮も私はありがたく受け取り、子ども達との時間を一緒に過ごしている。

 午後、お昼寝の時間が始まり、私は保育日誌や連絡帳を書いたりしながら、事務仕事を始める。
 仕事を次の日まで溜めないためにするべきことは沢山ある。
 それだけ多くの子ども達がここにはいるということでもあり、親が大切に育てている子ども達を預かるということは責任重大な仕事だと受け止めている。
 
 お昼寝の時間が終わり、日が傾き始める頃、私は二階にある一室へと向かう。そこは沢山の遊具が置かれ、他の教室よりも静かな穏やかな時間が流れる場所だ。

 私はその日によっても変わるが、多くの時間をこの場所で過ごす。
 ここは大きな音が苦手な子どもやなかなか周りに馴染むことの出来ない子どもが過ごす場所。それに加えて私によく懐いている子どもも頻繁にここを訪れる。
 どこでどんな時間を過ごすか、ある程度その決定権の多くを子ども自身に委ねている、そういった方針にしているのもこの保育園の一つの特徴なのかもしれないと私は思っている。

「いくえおねえちゃん!」
 
 子どもの様子を一人一人見ていると唐突に私は名前を呼ばれ、背中から抱きつかれた。

「聖花ちゃんどうしたの?」
「プリンのおせわをしてきたの! ちゃんとぜんぶたべてくれて、げんきにしてたの!」
「よかったね、聖花ちゃんいつもありがとう」
「どうぶつはたいせつにしないとだめっておかあさんもいってたもん」

 人懐っこく私に報告してくれた女の子の名前は須藤聖花ちゃん。
 聖花ちゃんは耳が不自由で補聴器を付けていて、遠くから話しかけても声が届かないことがあり、密着するくらい近寄って会話をすることがよくある。

 こうして近寄り、女の子らしい可愛い声でおねえちゃん呼びをしてくれるのは聖花ちゃんであることを私は前々から覚えていた。

 近年では保育園で先生呼びをするところも少なくなっていて、私の職場の保育園でも先生呼びをする子どもはほとんど見かけることがない。
 お互いにさん付けをして呼び合うことに統一している保育園もあるが、この保育園では統一された呼び方はなく、私はさん付けされることもあれば聖花ちゃんのように郁恵おねえちゃんと呼ぶ人もいる。
 それは子ども達自身も周りに影響される部分も多いのだろう。
 私はさん付けしてくれる子どもに関してはさん付けで返していて、それ以外では男の子はくん付け、女の子はちゃん付けをして呼んでいる。

 プリンというのはこの保育園で飼育されているカイウサギの仲間であるジャパニーズホワイトラビット。白い毛と赤い瞳が特徴的で大型であるものの昔から小学校などで飼育されているおなじみのうさぎだ。
 医療系など実験動物として利用されている事でも有名で日本で作られた品種のうさぎである。
 一昔前は野外で飼育されていることも多かったが、今では地球温暖化などの影響もあり、動物愛護の観点から屋内での飼育が推奨されている。
 大人しくて人にも懐く可愛いうさぎと触れ合うことができるのは喜ばしいことで、動物を飼育する保育園が少なくなっている中、貴重な体験と言える。

「いくえおねえちゃん! えほんのじかん!」
「分かったわ……絵本を持ってくるわね」

 私が点字の付いた手頃な絵本を手に戻ると、子ども達が自然と集まっていた。
 聖花ちゃんを胸に抱えて、そのまま読み聞かせる。
 絵本を読んでいる間、穏やかな時間が流れる。
 この時間になると、もうお迎えの時刻が迫っていて、どこか一時の別れを惜しんでいるような空気が流れていた。

 絵本を読み終わり、私が聖花ちゃんに絵本を作ったことがあることを話すとすごいすごい! よんでみたい! と即答してくれた。
 まだ小さい子どもが読んで楽しんでもらえる内容なのかは分からないけど、持って来て読み聞かせてみるのもいいかもしれないと私は思った。
 やがて、お迎えの時間がやって来た。
 私は聖花ちゃんと手を繋ぎ玄関口まで向かった。

「おかあさん!」

 出入口まで辿り着くと聖花ちゃんは元気な声を上げて、自走式の車椅子に乗ってやってきた母親との再会を喜んだ。

「いつもお世話になっております」

 労いの言葉を掛けてくれる聖花ちゃんのお母さん。

「いえいえ、今日もうさぎのお世話をしたり、絵本を一緒に読んだり楽しく過ごされていました。いつも良い子で助かっています」

 聖花ちゃんは補聴器なしではほとんど音が聞こえない身体で、悪戯で子どもに補聴器を取られて泣いてしまったことがある。
 
 だから、母親が心配をするのも当然で、普段は明るい性格で今日のように楽しい一日を過ごしている手のかからない子どものように見えても、大切に見守らなければ子どもの一人なのだ。
 
「郁恵さんは明るくて気配りもしっかりできて素敵ですね。私ももっと見習わないといけないです」
「そんなことないですよ。私もまだまだ新人です。お母さんと一緒にいることを聖花ちゃんは喜んでくれています」

 車椅子に乗った母親の下で安心した様子の聖花ちゃん。
 私は車椅子で生活を送るお母さんの車椅子を押してあげるのが夢だと聖花ちゃんが語っていたことを印象的な出来事として覚えている。
 本当に思いやりのある優しい親子として私は認識しているのだった。

「さようなら、聖花ちゃん」
「うん、いくえおねえちゃん、さようなら!」

 今日も聖花ちゃんの笑顔を見守ることができた。
 私は温かい気持ちになりながら手を振って二人が帰り道を歩いていくのを見送った。

 その後、掃除やデスクワークをしているとあっという間に帰宅の時間になり、私は荷物を持って立ちあがった。

 時刻は一八時ちょうど。
 この保育園ではシフト制を採用していて退勤時間は人によって異なる。
 朝早い人もいれば遅い人もいる、私はその中間くらいでこの時間に帰るのが働きやすいと思ってこのシフトにしてもらっている。

 まだ仕事をしている他の保育士さんに挨拶をして玄関口へと向かう。
 すると、今日は迎えに来てくれたのか、往人さんの声が聞えた。

「郁恵、お疲れ様」
「うん、往人さんも迎えに来てくれてありがとう」
 
 私を一番安心させてくれる、愛しい人。
 疲れも吹き飛んでしまうくらいに嬉しい気持ちになって私は往人さんと手を繋いだ。

 二人で帰り道を歩く間、私は今日あったことを往人さんに話した。
 
「聖花ちゃんがね、私と往人さんが作った絵本を読んでみたいって」
「そうか、すっかり懐いてくれてるんだな」
「うん、最初は泣いてばかりいたのに、子どもって私達がどう接するかで変わっていくの。それがとってもやりがいのある仕事だなって思って」
「楽しそうだな」
「毎日楽しいよ、色んな子どもの面倒を見て考えることも沢山あるけど、子ども達の笑顔を守る為に頑張るのは全然苦じゃないから」
「夢は叶えるためにある。郁恵が今幸せだって言うなら、保育士は郁恵にとって天職だな」
「そうだといいな。周りの保育士さんの方が沢山の子どもを相手にしていて立派に頑張ってるから、自分ではまだまだだなって思ってるけど」

 目まぐるしく毎日が過ぎていく。
 実習をしていた頃と違い、保育士として働くということは思った以上に大変だ。
 それでも、私は夢を叶えただけの価値はあると思って日々を生きている。
 本当はもっと近い場所を選んで就職をしたかったけれど、往人さんは遠い地まで付いてきてくれた、こんな私のために。
 だから、私はこれからも毎日を大切に生きて行こうと思うのだ。

「往人さん……ありがとうね」
「いいんだよ、それは何回も聞いたから」

 往人さんがいなかったら、私はここに来れていない。
 安心して毎日を過ごせていない。
 だから、今も感謝しきれないくらい恩を感じている。

「ねぇ、往人さん。私はフェロッソがいなくても往人さんがいるだけで、こんなにも自由になれて幸せなのに。
 私のように障がいを持った多くの人が抱えている、不自由って何なんでしょうね?」

 私はそう……この社会が一人でも多く合理的配慮の下で不自由なく生きられることを理想として進んでいるように感じているのかもしれない。

 それもまた正しい在り方だけど、本当の理想はそうではない。
 誰もが孤立することなく、共生できる社会を目指していきたいんだ。

 人と心を交わし合うことで、こんなにも人は自由に幸せを享受することが出来るんだから。

「俺と郁恵がこうして一緒にいるのも奇跡のようなものだ、神様がマッチングしてくれたわけでも何でもない、奇跡のようなものなんだ。
 たぶん、人が心から信用できる相手に出会えるのは一握りでしかない。
 一生の間、気付かないうちにすれ違ってしまっていることも沢山あるんだろうって思う。
 それが、本当の不自由の正体なのかもしれないな」

「涼子さんも坂倉さんも私が落としてしまった白杖を拾ってくれたことがあります。
 でも、私が信用したいと思って寄り添ってもそうはなりませんでした。
 人の心とはそういうものなんだって、分かってはいます。
 でも、それって寂しいじゃないですか……」

「あぁ……郁恵の優しい気持ちに間違いはない。
 間違いはないよ」

 人は簡単にすれ違い、心を通い合わせることなく離れていく。
 
 そんな世界でも私達は一人では生きてはいけない。
 
 上手に泳ぐことも、空を飛ぶことも出来ない。

 だからまた、支えあって歩いて行こうとするんだ。

「明日はまたすぐにやって来る、だから明日も頑張らないと」

「子ども達が、郁恵を待ってるからな」

 夕焼け空の下、私達は手を繋ぎ笑顔を浮かべ帰り道を歩いた。

 二人分の影がずっと先まで伸びていく。いつまでも離れることなく寄り添うように。

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