視えない私のめぐる春夏秋冬

「勢いで出てきてしまいましたが……未だ死を受け入れられないほどに、悲しい出来事だったということですよね……」

 ざわついた感情のまま、冷たい空気に包まれる。
 馬鹿らしい話だと否定したいのに、私は私のことが分からなくなりそうだった。
 時々、自分の中に真美がいると感じてしまうことがあったが、それが本当は深愛さんだったのではないかと憶測が立ち、心がざわついているからだ。

「……寂しいから余計なことを考えちゃうんだ。往人さんがもうすぐ帰って来るから、あと少しだけ辛抱して喫茶さきがけに行こう」

 海人さんを家に入れた目的を見失ってはいけない。
 私は慣れ親しんだ道を歩いて、喫茶さきがけに戻った。

「お邪魔します、もうお片付け中ですか?」

 息を切らしていた私は一度呼吸を整えて店内に入った。
 店内BGMが消えていて、人の気配もまばらなことを私は感じ取った。
 いつもこの時間はCLOSEになっているけれど、今日は特別な催いがあったので念の為に確認をした。

「あら、さっきお客さんに帰ってもらって閉めたところよ。郁恵さんは一人かしら?」
「はい、往人さんの帰りを待っている途中にケーキを持って帰るのを忘れていることに気付きまして……取りに来ました」
「そうなの、寒かったでしょ? 少しゆっくりして行く? まだコーヒーくらいは出せるわよ」
「いいえ……あまり遅くなる前に帰るようにって往人さんからいつも言われていますので。今日は家で往人さんの帰りを待とうと思います」
「そう……まだ地面が濡れているから気を付けてね。
 あの子ったら、本当に帰るのが遅いんだから」

 私を気遣う華鈴さんの言葉が耳に刺さる。
 往人さんになかなか会えない寂しさを押し殺す私の表情は華鈴さんにはすぐに分かってしまうのだ。
 今年のクリスマスは一段と冷える。
 華鈴さんのお誘いは嬉しいが、海人さんを家に入れていることを思うと、ここで長居するわけにはいかなかった。

 ずっしりとした重みを感じるホールケーキの入ったビニール袋を手に、私は名残惜しく喫茶さきがけを後にした。

 再び寒空の下を歩いているとスマホのバイブレーションが震え出す。
 足を止めてスマホを確認すると、往人さんから「さっき空港に到着した」と連絡が入っていることが分かった。

 ”もうすぐ会える”

 待ちに待った報告に足取りが軽くなり、ただ会いたい一心で私は家までの道のりを胸を躍らせながら歩いていく。

「フェロッソ……今日は往人さんのことを独り占めしちゃうかもしれないけど、往人さんのせいだから、許してね」

 海人さんを入れて三人で過ごした後は二人きりで誕生日を祝う。
 そのことを思うと、この湧き立つ衝動はきっと抑えられない。
 抱き締め合えばひとたび私の心は往人さんに支配されてしまう。
 その予感を既に私は確信していた。

 商店街を抜けた先にある信号のない交差点。

 通学路にもなっている通りを抜けようと、黄色い点字ブロックから交差点に足を踏み出した次の瞬間、私は心臓を鷲掴みされるような恐怖を覚えた。

 激しく迫る自動車のエンジン音。

 歩みを止める間のないまま私は誘導を続けてくれるフェロッソのリードをギュッと強く掴んだ。


「――フェロッソ!! 危ないっっ!!!!」


 耳障りなエンジン音で反射的に危険が迫るのを感じていた。

 飲酒運転か脇見運転か分からないが、きっと私達の事が見えていない。

 ブレーキを踏みことなく、真っすぐに迫って来るのを感じた私は叫んでいた。

 鈍い物々しい衝突音と共に、強く握っていたリードが強引に引っ張られ、私の手を離れていく。

 反動で冷たい地面に尻餅をついてしまう。
 そのまま自動車が走り去った瞬間、私はフェロッソの心の悲鳴を聞いた。


「どこにいるの?! フェロッソ!! 返事をして!!」


 息遣いも、気配も消えてしまったフェロッソの身体を必死に手探りで捜すがなかなか見つけられない。

 交差点の真ん中で泣き出しそうになる情けない自分。
 重い焦燥感を背負い込んだ私はフェロッソの無事を願い手を伸ばした。

 そして、フェロッソの柔らかい体毛の生えた大きな身体に手が触れた瞬間、私の涙腺は決壊した。


「フェロッソっ!! 起きてよ……やだよ、声を聞かせてよっ!!」


 無事を確かめようと手袋を外し、寝転んだまま動作の止まっているフェロッソの身体を揺らすが、ねっとりとした鉄臭い液体が私の手にべったりとこびり付いた。

 まだ体温は残っているけれど、どうしていいか分からず混乱する私は泣きじゃくって座り込んだまま立てなくなった。


「フェロッソ……一緒に帰ろうよ……。こんな寒いところで寝てたら身体壊しちゃうよ……」


 人通りのない道路に横たわったまま立ち上がる様子のないフェロッソを懸命に揺すり、恐怖で身体を震わせる私。
 心も身体も冷たくなっていく中、慌てた女性の声が響いた。

「どうしたの?! 大丈夫…?!」

 きっとこの場は白い雪に真っ赤な血が入り混じった残酷な光景なのだろう。
 それに私は座り込んで涙が止まらなくなってしまっている。
 心配するのも当然だ。女性の反応から、私はそのことを察した。

「あなたは……郁恵さんよね? 私は河内静江の姉、河内志保(かわちしほ)よ」

「静江さんのお姉さん……?」

 確かに声色が似ている、大人の女性の包容感のある優しさが声からも滲み出ている。殆ど会ったことはなかったが、記憶を掘り返すと確かに面識があったことを思い出した。

「ええそうよ、まだ意識があるのは分かるでしょ? 猶予がないわ。動物病院に通報するわよ!」

 スマートフォンを手に取り、通話を始める静江さんの姉を名乗った女性。
 頼りある雰囲気で相手側とコンタクトを取ると、何とか両足に力を入れて立ち上がった私の手を掴んだ。

「すぐそばに車を停めているの。動物病院まで急ぎましょう」

「フェロッソは助かるんですか……?」

「派手にぶつけられたみたいだから重症よ、生死は一分一秒を争うわ。
 パートナーの命を繋ぎ留めたいなら、泣き言を言ってる場合じゃないわよ」

 志保さんから受けた指示通り、私はフェロッソの下半身を掴み、上半身を掴んで持ち上げてくれた志保さんと一緒に近くに停車していた車の後部座席にフェロッソの大きな身体を横たわらせた。
 
 こちらから頼んだわけでもなく、真剣になって手際よくフェロッソを助けてくれる志保さん。
 冷静に考える余裕のない私は、放心状態になりかけながら、志保さんに言われるままに車に乗車した。
「今日から一緒に暮らしていくんだねっ!」

「そうだよ、盲導犬は郁恵の目になってくれるパートナーなんだから。
 郁恵がしっかり面倒を見るんだ、出来るね?」

「うん、大丈夫だよお父さん。私、もう子どもじゃないんだから」

 父と二人きりの生活に、新しい家族が家にやって来た日。
 
 何度も繰り返し取り組んだ合同訓練の日々が終わり、暖かい日差しを受けながらようやく家にフェロッソを迎えられた、喜びでいっぱいだったあの頃。

 オーストラリアでの暮らしが一年経っても英語がまだ上手じゃなくて、盲導犬に指示を与える時も英語だったら一生懸命に勉強した。

 あれから一体、どれだけの月日が流れたことだろう……。

 どれだけ季節が過ぎ去り、沢山の思い出を積み重ねてきたことだろう……。

 病院暮らしが長くて、なかなか外に出る勇気の出なかった私。

 頼れるものなんて何一つなくて、真っ暗な世界で怖がってばかりいた私。

 ハーネスを着けた盲導犬のフェロッソがいなかったら、こんなに自信を持って外の世界を歩けなかった。

 フェロッソは私に勇気と笑顔をくれた。
 そばにいてくれる安心感をくれた。
 外の世界を安全な場所に変えてくれた。
 いついかなる時も一緒にいてくれて、怖がりな私に寄り添ってくれた。

 何よりも一番大切だった。

 一緒にいられる時間をいつも感謝してきた。

 なくてはならない存在だった。

 盲導犬は目が不自由だからといって、誰にでも与えられるわけじゃない。自分が恵まれていることを自覚していた。

 今の若いうちに、外の世界を安心して歩けるようにと父が私のことを想って何度も頼み込んでくれた、一緒に訓練に付き添ってくれた。
 
 日本に帰って来て寮暮らしを始めてからも、フェロッソには沢山我慢をさせて、沢山迷惑を掛けてきた。

 それをちゃんと、自覚できていたはずなのに……何て私は恩知らずなのだろう。

 どうして、守ってあげられなかったのだろう……。

 どうして、自分のことばかりでフェロッソのことを一番に考えてあげられなかったのだろう……。

 傷つけてしまった後で、後悔ばかりが私の頭の中で駆け巡り、辛い現実の中、押し寄せて来る。

 ただ、寂しくて苦しくて、悲しくて、夢でもいいから元気になった姿に戻ってきて欲しくて、抱き心地の良いフェロッソの大きな身体が恋しかった。
 


 車内でした会話はよく覚えていない。
 スマートフォンを事故現場に落としてきてしまったことは話した気がする。
 でも、取りに帰る猶予なんてなくて……私はただフェロッソに元気になって帰って来て欲しいだけで……気付けば動物病院の待合室に座っていた。

 手には志保さんが渡してくれた温かい緑茶の入ったアルミ缶がある。

 でも、とても落ち着けるような状況ではなかった。

 ずっと私の為に寄り添ってきてくれたフェロッソが命の危機に瀕している。
 
 どうしてフェロッソがこんな目に遭わなければならないのか、私にはまるで分からなかった。

「私がちゃんと見ていなかったからこんなことに……どうしたらいいの……往人さん」

 千切れた手綱を両手で握りしめて強く掴むが、辛く苦しい感情だけが膨れ上がっていく。

 なぜ私が無事で、フェロッソが苦しんでいるのか。

 盲導犬を一頭、仕事ができるまでに育成するのにいくら費用が掛かるか、知らないわけではない。
 どれだけ大きな期待を込めて、育て上げられてきたか、その価値を忘れたことはない。

 なのに、どうしてこんなに不甲斐ない私なんかにフェロッソはずっと傍にいてくれたのか。

 頭痛がするほど懺悔とばかりに後悔が頭の中を支配していく。

 周りの雑音も気にならなくなるほどに、身体は重たくなり心は沈んでいく。

 何を私はここで座り込んでいるのか。

 無事を祈るばかりで何も出来ない、何もしてあげられない。

 無力感に苛まれ、ただ悲しい気持ちだけが増幅されてしまう。
 
 凍えそうな心細さで身体から力が抜けていき、気が狂いそうになる。

 きっと、こんな頼りない私の下にフェロッソが帰って来ることはないだろう。
 
 そう、不吉なことを考えた瞬間、一気に脱力していき意識が遮断された。

 あぁ……心を溶かす深い海に沈んでいく、そんな感覚を意識がなくなる寸前に感じた。
 孤島にはいつもはあたたかい空気が流れていますが、少しの期間だけ冷たい空気が流れ込んでくる寒くなる季節がありました。

 悲しいできごとが起きたのは、そんな寒い日のことです。

 小夜はいつものように朝早くから丸い形をしたザルの上に牧草とにんじんをのせてうさぎたちが過ごす小屋の中に入っていきました。

 しかし、赤ちゃんが誕生して五羽になったばかりのうさぎのうち、二羽のうさぎは冷たくなって身動きせず死んでいました。

 新しい命が生まれ、喜んでさらにやる気がみなぎっていた小夜はかなしい気持ちになって、佳代に泣きついてしまいました。

「ねぇ……変なの、うさぎさんが動かなくなってしまったの。
 助けておねがい、佳代……」
 
「うさぎはお空に行ってしまったのよ」

 小夜にそう教える佳代でしたが、小夜はお世話をしてきた二羽のうさぎとのお別れを受け入れることができませんでした。

「やだよそんなの……いつも一緒に遊んで喜んでくれたのに……。
 新しい仲間が増えて、喜んでくれたのに……」

 小夜はうさぎたちへの想いがあふれ、涙が止まらなくなりました。

「ここでの仕事は遊びじゃないのよ……。
 こんな別れ、いつ起きるか分からないのよ。
 小夜、悲しんでばかりではいられないでしょ?
 泣いてばかりじゃ、上手にお別れできないでしょう?」

 最初はまともに仕事ができなかった不器用な小夜をずっと見てきた佳代は心が揺らぎました。
 大変な日々が続いていても、小夜は楽しそうに嫌がることなく動物たちのお世話をしていたのです。
 それをずっと見てきた佳代は、小夜は自分とは全く違う気持ちで動物たちと接してきたことに気付きました。

 佳代はようやく泣き止んだ小夜を励まして、一緒に死んでしまった二羽のうさぎとお別れをしました。


 いつか一緒に空を飛ぶ日を夢見えていた小夜は、ショックに耐えられず寝込んでしまいました。

 一日、二日は牧場の主に隠して、小夜の分もがんばって働いていた佳代でしたが、小夜が寝込んでいることがバレてしまい、佳代はお仕置きを食らってしまいました。

 バチン! バチン! と何度もおしりをたたく音が佳代の暮らす部屋にひびきわたります。
 痛みに耐えられず、泣いて何度もあやまりつづける佳代でしたが、主は周りの子どもたちが恐怖に震える中もなかなか許してはくれません。

 小夜を大切にしたいと思い始めていた佳代のことを牧場の主はどうしてか簡単に許すことができなかったのです。

 夜になって元気のない小夜の様子を見に来た佳代はついに我慢ができなくなってしまい、思い切ったことを口にしました。


「小夜、あなたが頑張り屋さんで目が見えなくてもお仕事ができるのはよく分かったわ。でもあなたはここでの仕事に向いてない。

 ここを抜け出して自由になろう。島の外には福祉が発達した子どもを大切に扱ってくれる国があるの。だから、こんな島は早く抜け出そう……」


 小夜は最初、どうしてここでずっと暮らしてきた佳代が悲しい声でそんなことを口にするのか分かりませんでしたが、ギュッと身体を抱きしめてやっと気づきました。


「佳代……ごめんなさい。私のせいなんだよね」


 佳代は痛みのあまり、抱きつかれると小夜の身体を振り払って、身体を震わせてしまったのです。

「こんな傷、たいしたことないわ」
「そんなことないよ、いっぱいあざが出来てるよ」
「じゃあ……一緒にこの島を出てくれる?」

 佳代の言葉に小夜は大きく頷いて、佳代の持ってきたカレーライスを食べている間もずっと涙が止まりませんでした。

 その日、佳代は小夜と同じベッドで眠り、すすり泣く小夜が眠りにつくまで起きて、これまでの日々を思い出し、考えごとをして寝れない夜を過ごしたのでした。

(『空を飛べたら』19ー24ページ一部抜粋)
 大空を飛び立つ航空機の中、俺はこれから会いに行く大切な人のことを思い浮かべていた。


 いつも明るく振る舞い、楽しそうに笑顔を浮かべる郁恵は思った以上に強情で好奇心旺盛で寂しがり屋だった。

 十二月の頭、俺が師匠やアトリエの仲間と一緒にフランスへと向かわなければならない日、朝から郁恵はソワソワしていて、時折目を細めて泣き出しそうな寂しげな表情を浮かべて辛そうにしていた。

 大勢の仲間と空港で待ち合わせをしていたから郁恵を連れて行くわけにはいかず、俺は玄関先で郁恵に「行ってくるよ」と優しく声を掛けた。

 その別れ際、一度覚えたことには積極的になる郁恵は、別れを惜しみ涙を浮かべてギュッとマーキングをするように寄りかかってきた。
 仄かな甘い香り漂わせる郁恵のことを抱き締め返してしまうと余計に別れが辛くなると分かっていた。
 でも、堪えられない気持ちは俺も同じだったから、素直に抱き締め返して、熱いキスを交わした。
 郁恵の柔らかな身体も優しい温もりを帯びた体温も、瑞々しく甘い味のする唾液を滴らせる唇も、全てが俺を愛おしくさせた。

「頑張って来てね、私も頑張るから」

 離れたくないとその触れ合う肌が主張していたが、郁恵は俺のことを応援してくれた。

「あぁ……寂しいのは俺も一緒だから。
 絵本作りも進めながら、頑張って来るよ。
 期待して待っていろよ」

「うん、楽しみにしてるよ。
 私の夢のために、頑張ってくれていつもありがとね」

「気にすんなよ、もう俺の夢でもあるんだから。
 演奏会の練習に勉強と忙しいだろうが無理せず頑張ってな」
 
 別れの挨拶を交わし、惜しみながら熱を帯びた身体を離す。
 いつもは一度抱きつくと引っ付き虫のように嫌がってなかなか離そうとしない郁恵も今日に限っては素直に応じた。

 完成へと近づく絵本は俺と郁恵が初めて作る共作だ。
 郁恵の書いたストーリーを基に絵本を仕上げていく過程は今までやって来たどんな作品よりもやりがいを感じさせてくれるものだった。
 一ページ毎に互いの想いがいっぱいに詰まった思い出の絵本に仕上がりつつある。
 俺は完成した絵本を郁恵に渡すのが今から楽しみでならなかった。

 何とか明るく振舞おうとする郁恵の顔を最後に覗き込む。
 これから一か月近く会えなくなるのかと思うと、胸が張り裂けそうだった。
 それほどに同棲生活を始めてから俺と郁恵は一緒にいることを大切にしてきた。
 順調であればあるほど、離れ離れになってしまうのが耐え難いものになる。
 そんな当たり前のことを、俺はこの歳になって気付かされた。


 遥か雲の上を飛翔する航空機。
 翼を広げて自由に飛び立つ鳥とは対称的に飛行機は人類の英知の結晶で文明の象徴の一つでもある。
 空の上に浮いているような感覚もすることから安全性が心配になることもあるが、自動車に比べればずっと安全であることがデータで証明されている。

 俺はシャルル・ド・ゴール国際空港から直通便で約十三時間かかる日本までのフライトをもう少しリラックスして過ごそうと力を抜いた。
 
 多くの時間を絵を描くことに割いてきたせいで肩や腕が悲鳴を上げ、疲労感が伝わって来る。俺はもう今日までに十分頑張って来たと言い聞かせてアイマスクをして目を瞑った。
 振り返れば郁恵との出会いは奇跡のようなものだった。
 四年前に母を突然亡くし、色のないスカイグレーの世界に染まってしまった俺にとって、もはや母が生前残してくれた絵画が多く飾られている母のアトリエだけが俺の拠り所だった。
 
 母と過ごした余韻がいつまでも残留し続ける俺の居場所。
 作品が四方に飾られているこの場所だけが俺にとって色彩を纏った世界の全てだった。

 やがて俺は父親が再婚してしまったことを契機に、そこで立ち止まっているわけにも行かず、師匠のアトリエに入り浸るようになった。

 母との繋がりを絶やさぬために、師匠の下で俺は絵を描き続けた。

 そして、二年近く前のあの日、運命の出会いを果たした。

 公園で佇むまだ幼さの残る制服姿の少女。落ち着きなくアタッシュケースに入った札束を手に動揺しているその少女は、母の面影を宿すように輝きを放ち、色彩を帯びていた。

 肌が露出している部分のみに過ぎないが、それでも俺は母の言葉を思い出し、運命を感じざるおえなかった。
 
 明らかに困った様子をしているその少女を見つめていると、次第に罪悪感が昇って来てしまった俺は手を差し伸べた。関わってしまうことへの躊躇いはあったが結果的に出会いを求めてしまったのだ。

 相手が全盲の視覚障がいを持った少女であると分かっても、綺麗なその顔立ちを直視することは出来ず、胸の高鳴りをグッと堪えて平静を装うのがやっとだった。
 
 まだ冬の寒い季節にそんな鮮烈な出会いを経験して、再会の時を迎えたのは春から夏へと季節が移り変わる、梅雨を迎えた頃のことだった。

 俺は学生時代からずっと長く美桜親子が経営する喫茶さきがけで調理担当をしていた。
 そこに偶然やって来たのが前田郁恵、公園で困っているところを助けたまだ大学生になったばかりの女性だった。
 時々、何食わぬ顔でふらっと店に立ち寄って行く実力十分のピアニスト、四方晶子の演奏に惹かれてやってきた郁恵はときめいた表情でまるで目が見えているかのようにピアノがある方向に眼差しを向けていた。

 ピアノの演奏が続けられ、仕事をしながら気になって堪らない自分がいた。
 もう一度、この目に心惹かれるその姿を目の当たりに出来た幸運。
 嬉しくないわけがなかった。惹かれないわけがなかった。

 そして、俺は本人にこの喜びを告げることの出来ぬまま、あの再会の日を迎えた。

  ――()()()()()()()()()()()()? ()()()()()()()()()()()()()()()()

 華鈴さんの決心を促す言葉が俺の耳を襲う。
 心配の声を掛けられながらも、郁恵は自分の意志で決めて学園祭の打ち上げパーティー会場へと向かってしまった。それが郁恵にとってどれだけ危険な場所であるか、判断できない俺ではなかった。
 
「だが……俺なんかが行っても騒ぎが大きくなるだけかもしれない。
 あの子の気持ちを踏みにじるかもしれない」

 華鈴さんは明るく前向きで勇気はありながらも、危険を顧みない無垢な少女として郁恵のことを見ていた。だから、俺に声を掛ける程、心配に思っているのは間違いないことだろう。

「深愛さんの面影があるあの子を追い掛けるのは辛いことかもしれない。
 でも、後悔することになった後では遅いのよ。
 今できる最善の行動をしてこそ、前に進んでいける。
 迷っている時こそ、前に進まないとダメよ、往人君」

 いつも以上に真剣な華鈴さんの眼差しが迷っている俺に突き刺さる。
 その視線をずっと浴び続けられるほど、俺は我慢強い人間ではなかった。

「分かりましたよ、連れて帰ってきます」

 エプロンを脱ぎ、華鈴さんに手渡して覚悟を決めた。

「良かったわ……往人君ならあの子が何を求めているのか感じることが出来るはずよ」

 それは、特性は違えど同じ視覚障がいを持つ者同士という意味を込めていたのかもしれない。

 後のことなんて分からない、ただ俺はあの子の悲しむ顔を見たくないと思った。

 本来はまだ後片付けが残っていたが休憩室に戻り、遮光眼鏡を着けて帽子を被ると俺は郁恵の待つ打ち上げパーティー会場を目指して退勤した。
 これは仕事よりも大切な事だと送り出してくれた華鈴さんや郁恵の無事を願う友人たちがすがるような思いで俺を見送る。


「頑張りなさい……応援しているわよ、往人君。
 これがもしも運命づけられた運命(さだめ)であるならば、あなたはそういう星の下に生まれてきたのよ」

 
 俺が頑丈な店の扉を開き、鐘の音と共に喫茶さきがけを後にする背後で、華鈴さんはそんな言葉を掛けていた。
 どうしようもない身体の不調もあったが、師匠の家に居候を始めてからというもの、俺は何かと関わることを避けていたと思う。

 でも、誰かのために手を貸すことの大切さを郁恵は一度教えてくれた。
 まだ前向きに考えられるわけではないが俺は郁恵の力になりたい、間違いなくそう思っている自分がいた。

 パーティー会場になっている立派なホテルの前にやってきた俺は自分がしようとしていることの大きさを思い知らされた。

 ただ、一人の女性を救い出すためとはいえ、こんな大それたことが自分に出来るのか、未だ分からないでいた。

「桜井往人さん……?」

 名前を呼ばれ、後ろを向くと郁恵の友人が二人、そこに決意を秘めた表情をして立っていた。

「どうして付いてきた?」

「それは当然、郁恵さんを助ける手助けをするためよ」
「男らしいところ見せてくれるのは嬉しいけど、一人で行かせるのは友達としては心配だから」

 付いてきたら邪魔になるという考えは毛頭ないのか、二人は先程までの沈んだ姿とは違い、強い瞳で俺のことを見つめていた。

「好きにすればいいが、危ない真似はするなよ」

 止めてもやって来るだろうと思い、面倒に思いつつ一言だけ二人に声を掛ける。
 俺はとにかく早く終わらそうと、招待状も何一つないのにホテルへ正面から乗り込んで行った。

 明らかにパーティーに参加するようなお洒落な服装をしていない俺はパーティー会場外のエントランスで面識のある人間から坂倉が郁恵と(おぼ)しき女性を連れてエレベーターを昇って行ったという情報を聞きつけた。

 ある程度、自分に出来る範囲を見極め作戦計画を組んでいたが幸先は良かった。
 次に郁恵の盲導犬の姿を見つけた俺は盲導犬の預かりをしている担当に「前田郁恵を迎えに来た兄です」と真っ赤な嘘を付いて、友人二人に盲導犬を預けて先に喫茶さきがけに連れて帰ってもらうことにした。

「一人の方が身軽だ。後は俺一人で連れて帰る」
 
 芳しい反応ではなかったが、年上の女の方と目が合い納得した様子で何とか立ち去ってくれた。
 ここからは暴力も辞さない危険を伴う救出作戦になる。
 そのため荒事に慣れていない女を連れて行くわけにはいかなかった。

 俺は華鈴さんが渡していたGPS機能の付いた防犯ブザーから郁恵の現在位置を確認した。

 しばらく同じところから動いていない……。
 坂倉に連れ去られ一緒にいる可能性は十分にある。
 俺は位置情報をスマホで確認しながら救出に向かった。
 これで余分な手間をかけることなく郁恵の下に辿り着ける。
 抜け目がないというか、これは機転の利いた華鈴さんのファインプレーと認めていいだろう。
 
 どの階にいるのか捜索するのに時間はかかるがそれは致し方ない。俺は必死に捜し続けあるホテルの一室の前まで辿り着いた。
 そこには、浮かない顔をした鏡沢涼子(かがみさわりょうこ)が壁にもたれかかり腕を組んで待ち構えていた。

「心配になって聞き耳でも立てていたのか?」

 綺麗なドレス姿に着飾った鏡沢。

 腰までまっすぐに伸びた長い金髪に真珠のネックレス着けていて、細く長い美脚に誰もが羨むようなバランスの取れた体型をしている。さらに引き締まったウエストラインがより自信の表れを示すように膨らんだ胸とお尻を強調させていた。
 
 だが、その美しい外見とは裏腹に内心では黒いものが渦巻いているのを俺は感じ取った。

「今更現れて……まさか先輩面ですか?」

 俺の姿に気付き、鋭い視線を寄越して質問を質問で返す鏡沢。
 坂倉と俺は同い年だが、鏡沢は一つ年下。
 勿論、俺は鏡沢が坂倉とただならぬ仲であることを知っている。
 因縁があるというほどではないが、一緒に現代アートの展示会に行ったことまである者同士、知らない間柄ではなかった。
 
「いや、そこまであいつがご執心になる器のある男かどうか、俺には理解しがたいだけさ。俺が卒業してからも、立派に続けていたんだな……」

「馬鹿馬鹿しい……ミスコングランプリ連覇を続けてる私ですよ。
 桜井往人、そんな皮肉を言いにここまで来たのですか……っ!!」

 一年先輩の卒業生との再会を喜ぶことはなく、大きな声を出して怒りを露わにする鏡沢。
 その姿は俺がよく知る感情表現豊かな鏡沢の印象そのままだった。

「馬鹿言え、卒業生の俺がそんな無駄口を言いにわざわざ来るわけがないだろう。
 助けに来たんだよ、この部屋の中でやべぇ奴に騙されてる女がいるって聞いてな」

 俺に対して本性を隠さないのは、坂倉が俺の絵画を買っているなど関係が続いていることも由来するのだろう。
 鏡沢を相手にするのには慣れている。
 俺は遠慮することなく、目的を口にした。

「貴方らしくないことをするのね……。
 あらそう、どこで知り合ったのか知らないけど、目が不自由な者同士、同情しているのかしら?」

 冷ややかな笑みを浮かべ、軽蔑した眼差しを向ける鏡沢。
 何を俺がしようとしているのか理解して、歓喜しているようにも俺には見えた。

 この部屋の中に郁恵と坂倉が一緒にいるかどうかは博打でしたかなかったが、鏡沢の反応を見る限りビンゴのようだ。
 
「俺の意思だけじゃないさ。
 それに、いつまでも遊んでばかりいる坂倉の奴を目覚めさせてやらないとな。
 だからさ、止めるんじゃねぇぞ。
 鏡沢だって、こんなバカげたことを続けて欲しくはないだろう?」

「好きにすればいいわ……。
 あの子の悲鳴を聞くのも悪くないって思ってたけど。
 何かイライラするのよね。本当にあんな怖いもの知らずな子がいたなんて」

「同感だな。俺もあの子には少しは警戒心ってものを持ってもらいたいものだ。
 それじゃあ遠慮なく行かせてもらう。救出した後のことは頼んだぜ。
 ぜってぇ坂倉の奴は機嫌を悪くするからな」

「面倒事を押し付けてくれるわね……。
 まぁ、さっさとあの子を諦めて欲しいのはマジだから。
 尻拭いくらいはしてあげるわよ」

 渋々といった調子で俺の言葉を受け止める鏡沢。
 ここからはもう、遠慮はいらない。
 俺は鏡沢から”いざという時のため、持たされていた”というカードキーを受け取り、禁断の一室に突入した。

 覚悟はもう十分に出来ていたから、そこからは出たとこ勝負だった。
 
 想いを馳せる色彩を纏った郁恵の乱れたドレス姿を目にすると、無意識に力が湧き上がってくるのを感じた。

 怒りから無尽蔵に沸き上がって来る力。
 医学部で大した運動をしていない坂倉相手とはいえ、腕っ節で比べればどちらが優勢であるかはすぐに判断できない。
 
 しかし、感情的になる坂倉相手に負ける気はしなかった。
 
 怒号を上げる坂倉相手と取っ組み合いになり、何度もその顔を殴った。

 罪を重さを思い知らせてやりたくて、力の限りを尽くした。

 息を荒くして、抵抗が止まったところで俺は郁恵の手を取り、部屋を抜け出した。

 郁恵を救い出して部屋から出た瞬間、満足げな笑顔を浮かべる鏡沢と目が合った。
 
 ”好きという感情”はずっとありながらも、坂倉の行動にはうんざりしている。そんな表情に俺には見えた。

 無事、喫茶さきがけに帰って来た俺は華鈴さんからの抱擁を受けた。
 
「よく帰って来たわね……」

「坂倉が相手でしたから、遠慮する必要なくやり合えました。
 それに、華鈴さんのおかげで位置を特定できましたし」
 
 感極まった様子の華鈴さんに俺は安堵して感謝を伝えた。
 また、郁恵を助けることになった。
 それは運命のようで、約束された再会だったのかもしれないと天国にいる母を想いながら思った。
 思い出の回想を終えた俺は、長いフライトから解放され、関西国際空港に降り立った。
 預けていた旅行用カバンを手にして、俺は足早に空港を離れて家を目指した。
 
 既に時刻は夜六時を回っている。俺は一秒でも早く郁恵に会いたい一心で電車に乗り込んだ。

 待ちきれない思いを抱えながら、最寄り駅に到着した俺は自然と早足になっていた。

 そして、すっかり暗くなった日本の街の景観に懐かしさを覚えつつ施錠されていない鍵の開いた玄関から家に入った瞬間、俺はあまりに予想外の光景に出くわした。

「どうして……親父がここにいるんだよ」

 皴一つないスーツ姿をして、何食わぬ顔でそこに居座る肉親。
 最悪の形で父親と再会してしまった俺は旅行用カバンを乱暴に玄関に置いて、すぐさま靴を脱いで玄関を上がった。威嚇するように鋭い視線を向け、どうしてここにいるのかと俺は父親を睨みながら考えた。
 だが、考える間もなくその答えは相手から告げられた。

「本当にこんなところで会うことになるとは不思議な心地だな。
 ”砂絵の少女に会いに来ただけだよ……”
 彼女はどうも、お前と会わせたかったらしいがな」

「なんだよそれは……訳わからねぇことを言いやがって……。
 家にまで押しかけてきた親父と何で今更会う理由がある……。
 あいつに余計なことをしようとしてたんじゃねぇだろうな」

 部屋に入り、俺は握拳を作り警戒心を露わにする。
 せっかく郁恵に会えると思って帰って来たのに、苛立ちを隠せるはずがない。
 依然として涼しい顔をする親父が一体、何を考えているのかまるで思考が読めない状況が続く。

「久しぶりに会ったというのに、そんな物騒な顔をするなよ。
 往人、お前にとっての特別な相手に危害を加えることなんてするわけがない。
 往人にとって特別であるということは私にとっても特別な存在ということなのだからな。息子が真剣なお付き合いをしているというのなら、誘いを断る理由はないだろう。それが親というものだ」

 親父の俺に対する淡白な態度は昔から変わらない。
 母が優しかった分、放任主義の親父とは一度溝が出来ると埋まることはなかった。

「親父と関わる気なんてこっちにはないんだよ……。
 母さんの妹と再婚して、そんな非常識な奴の世話になりたかねぇんだよ。
 いつまでも母さんのことが忘れられないっていうなら、自分の家で慰め合ってればいいだろ!
 郁恵に手を出してんじゃねぇよ!」

 寒さも忘れて感情を爆発させる俺。
 郁恵が親父にどう接していたかなんて関係なかった。

「母さんと過ごした時間は往人、お前よりもずっと長いんだよ。
 忘れて生きるよりも、悲しみを分け合って生きる方が清く正しい。
 息子のお前には分かって欲しいものだな」

 冷静に言葉を返す親父、そこに過去の反省は見えない。

 母さんが亡くなって葬儀も終わり、一か月が過ぎた頃、親父は家に帰らなくなり、母さんの実家に出入りして母さんの妹と慰め合い、どうしてか付き合い始めた。

 手を繋ぎ、肩を寄せ合い、一緒に飯を食べている。
 三人で暮らしていた頃とはあまりに変わり果てた光景に俺の心は掻き乱されていった。
 そして、数か月が経ってから、俺は妹を妊娠させたことを告げられた。
 母の死の真相も明らかにならないまま、家を空けてまでしていた親父の奇行。
   
 自分達の世界に浸り、母のことを過去の人にしていく二人の態度。
 忌々しい双子の兄妹が生まれた直後、一緒の家に暮らすことに限界を感じた俺はよく通っていたアトリエがある師匠の家に居候することを選んだ。

 普段から事情を話していたことから、師匠は俺に同情してくれた。
 師匠が母が命の落とした日の第一発見者だったのも大きかったのだろう。
 そんなことを俺は当時思った。

「分かる訳ねぇよ……そんな安っぽい愛に巻き込むんじゃねぇ……。
 それよりも郁恵はどこにいるんだよ?」

 思い出しただけで反吐が出る。
 郁恵との大切な日になんてことを思い出させるのか。
 俺は感情を抑えられないまま、郁恵のことを聞いた。

「あの子ならケーキを忘れたからと喫茶店まで取りに行くと言っていたよ。
 意外と帰って来るのが遅いようだがね……。
 向こうでゆっくりコーヒーを御馳走してもらってるんじゃないかい?」

「ああそうかい、ここにいないっていうなら用はねぇよ。
 親父の相手をしてる暇なんてねぇ、俺は郁恵に用があんだよ」

 心配する様子もなく悠長なことを口にする親父。
 郁恵は盲導犬のフェロッソといつも一緒にいるとはいえ、全盲の視覚障がいを持った人間だ。夜間に出歩くことがどれだけ危険な事か、考えればすぐに分かることのはずなのに。

 携帯が繋がらないから途中から慌てて帰って来たがこのざまとは。

 ここで待っていても帰ってくる保障はない。

 俺は親父と二人きりでいる気分になれるはずもなく、居ても立っても居られず、玄関を飛び出した。
 家にいなかった郁恵の行方を探して、俺は走り出した。
 去年に郁恵がプレゼントしてくれたマフラーを掴み、無事を祈る。
 吐く息も白くなるほどの厳寒(げんかん)も気にしている余裕はない。
 ただ、目を凝らして走っている方が寒さも忘れて余計なことを考えずに済んだ。

 喫茶さきがけに到着して扉を勢いよく開く。
 そこにいたのは帰り支度を済ませた、私服姿の華鈴さんだけだった。

「往人君、帰って来ていたの?」

 驚いた様子で声を上げる華鈴さん。
 俺は息を切らしながら何とか郁恵の無事を確かめようと口を開いた。

「さっき日本に帰ってきたばかりです。
 郁恵を……それより郁恵を見ませんでしたか?
 まだ、家に帰って来ていないんです」

「えっ……? 嘘でしょ……。
 本当なの? 郁恵さんなら一時間くらい前にケーキを取りに来たけど、その後は真っ直ぐ家に帰ったはずよ」

「そうですか……親父の言ってたことに間違いはなかったか。
 だが、一体どこに行っちまったんだよ、郁恵は」

 苛立ちのあまり独り言のように俺は呟く。
 見つかるまで捜し出さなければならない、絶対に。
 携帯も繋がらず、行方知らずのまま家に帰るわけにはいかない。
 俺は意地でも捜し出す決意を固めた。

「すみません、俺は郁恵を捜します。
 何か分かったことがあれば、俺に連絡をください」

「もちろんよ。あの子ったら一体どこに行ったのかしら。
 往人君と会えるのを楽しみにしていたのに……」

 今年も一緒に演奏をして郁恵のことを妹のように可愛がる華鈴さんが本気で心配をして考え込む。

 行方の分からぬまま嫌な胸騒ぎが止まらない。
 事件や事故に巻き込まれたのかもしれない。
 誰かに誘拐されてしまったのかもしれない。

 そんな、嫌な想像ばかりが頭に浮かんでくる。
 早く郁恵に会って無事を確かめたい。
 俺は耐え切れないほどに胸が苦しくなっていく中、喫茶さきがけを後にした。
 
 俺は家から喫茶さきがけまでの道中に行方不明の郁恵がいることを願って、先程とは別のルートを早足で歩いた。
 喫茶さきがけに来るまでにすれ違っていないのだから、同じ道を歩くよりは見つけられる可能性があると考えた。

 先程来た道よりも狭く通りづらいが近道になっている道。
 普段は通ることが少ないが、急いで帰りたくてこちらの道を選んだのかもしれない。
 そんな希望にすがりつき俺は寒さで煙のような息を吐きながら捜し歩いた。


 そして、信号のない見晴らしの悪い交差点に差し掛かったところで、目新しい事故現場を発見した。


 数少ない街灯と警察車両のヘッドライトが事故の状況を映し出す。
 雪解けが進み、濡れたアスファルトの所々に血痕らしきものが残っている。
 警官の数は多くないが、物々しい光景に変わりはなかった。

 全色盲なだけでなく、視力も悪いせいで夜になると余計に視界の悪さが際立つ中、郁恵のスマートフォンを握った面識ない三十歳前後の見た目をした謎の女性を見つけた。

「そのスマートフォン、一緒に暮らしてる奴の持ち物なんだが」
 
 スマートフォンに着けられている人参を咥えたうさぎのストラップは縁起物として郁恵が付けていた物だ。

 事情が分からないが一刻の猶予もない俺は、女性に近づいていき躊躇うことなく話しかけた。

「あなたは……前田郁恵さんの彼氏さん?」

 手掛かりを逃すわけにはいかない、俺はただ真っすぐに相手を見つめ頷いた。

 ようやく目が合った手掛かりになりそうなスマートフォンを手にした女性は、ハイネックニットの上にテーラードジャケットを着て、左手薬指には指輪を嵌めて、デニムパンツを履いたお洒落な姿をしている。

 曇った表情をした相手から郁恵のスマートフォンを手渡されて今一度確かめる。
 
 事故の被害にあったのだろう、既に電源も切れてひび割れて壊れている状態のスマートフォン。
 携帯の機種や傷の位置も含めて郁恵が出会った頃からずっと使っているスマートフォンであることに間違いはなかった。

「その……言いづらいのだけど、前田郁恵さんのことを捜しているの……」

 気まずそうにそう口にする女性、郁恵の姿が見えないことでさらなる不安が俺に押し寄せていた。

「あんたもか。俺は家に帰って来ていないから捜していたんだ。この通り、スマホがここにあるから連絡も通じないからな」

「そうだったの……ごめんなさい。動物病院で私が目を離した間にいなくなったみたい」

 事情を話し始めた女性は大学で郁恵のサポートスタッフをしていた女性の姉だと自己紹介した。さらにフェロッソが轢き逃げの交通事故に遭い、その様子を見て助けようとショックを受けていた郁恵を連れて動物病院まで運んでくれたことを教えてくれた。

 過去にも事故があったのか、交差点には危険を伝える看板が置かれている。
 目の見えない郁恵にとっては他の道路と同じに感じられても、自転車や自動車で交通する者にとっては違い、危険な通りであるということなのだろう。
 これは不運であったと簡単に決めつけられる話ではない。
 そう思えば、郁恵にこの交差点を使わないよう前々から伝えていれば事故は抑止出来たのではないか、そんな思いが後悔と共に湧き上がってきた。

「ありがとうございます……郁恵の力になってくれて……。
 まだ日本に帰って来たばかりですが郁恵の行方は俺が捜します」

 悔やんでいるのだろう……沈んだ表情を浮かべる相手を見て俺は思った。
 この場にいても何も解決しないことを悟り、感謝を伝えて俺は郁恵を捜しに出ることにした。

 ミスコンの打ち上げパーティー会場まで助けに行った時のように、GPS付きの防犯ブザーは郁恵に持たせていない。
 
 この情報のまるでない中、自力で捜索しなければならないのかと思うと胸が引き裂かれそうだった。

 郁恵は今もどこかで苦しんでいるかもしれない、泣いているかもしれない、俺のことを呼んでいるかもしれない。
 
 やっと会えると思って日本に帰って来たのに、悲惨な状況に泣き出しそうになった。

 何とか郁恵が行きそうな場所を頭の中を振り絞って考える。
 闇雲に捜すしかないのか……そう思いかけたその時、俺の誕生日の日に、付き合って初めてのデートで行った、あの砂浜での郁恵の言葉を思い出した。
 

 ”往人さん……一つだけ覚えていてください”
 
 ”もしも私が自分を見失いそうになったら、絶対に助けにきてね”

 ”私……信じてるから、真美が私を攫う前に助けにきてくれること”


 
 あの言葉を郁恵はどんな気持ちで伝えようとしたのか、今一度考える。
 入院していた頃、友人だったと言っていた真美が郁恵のことを攫う……。
 思い出の砂浜に連れて行ってしまう……。

「僅かな可能性かもしれないが、賭けてみるか」

 それは最も危険な想像に違いない。
 だが、思い出してしまったら、あの場所に行かなければならないという使命感が自然と湧き上がった。

 何としても郁恵を見つけなけれならない。
 ただその一心で俺は一面に砂浜が広がるあの海岸を目指すことに決めた。

「前田郁恵さんのことを見つけたのね」

 物思いに耽っていた俺に向かって女性は言った。
 しっかりした大人の女性に言われると、自分が本当に見つけられるような予感がした。

「思い出しただけです、大切な約束を」

 もう迷う必要はない、俺は女性に顔を向けて言い放った。

「そう……郁恵さんを大切にしてくれている彼氏さんの言葉なら信じるわ。
 だから、郁恵さんを見つけたら教えてあげて。
 あなたのパートナーの盲導犬は死んでなんてない、生命に別状はないって」

 盲導犬のことも、郁恵のことも本当に心配してくれているのだろう。
 目を潤ませながら、綺麗な瞳を俺に向ける女性。
 迷いがなくなったことで俺は冷静になって表情も和らいだ。

「事故に遭ったのは災難ですが、それは良かったです。必ず伝えます」

 記念日を最悪の日に塗りつぶすわけにはいかない。
 一人きりの恩人に別れを告げて、僅かな可能性に賭けて俺は動き出した。
 電車とタクシーを乗り継ぎ、気が狂いそうになる移動時間を耐え、凍えるような潮風が吹き荒れる砂浜のすぐそばにある駐車場まで俺はようやく降り立った。

 夜遅くに頼み込むのは申し訳ないが、華鈴さんに連絡をして郁恵の行方を知っている人がいないか聞いて回ってもらい、この場所以外に郁恵が行きそうな店や大学を捜索してもらうことにした。
 
 自分一人で何とか出来るという奢りはこの際捨て去るべきだ。
 今、俺に出来る最善の策は講じたと思う。
 後は見つけ出して無事を確かめるだけだ。 

 俺は海壁から勢いよく飛び降りて無限に続く砂浜を走りながら目を凝らし、必死に郁恵の姿を捜した。

 途方もなくどこまでも続く海岸線。

 夜になると一段と空気が冷たくなり、少し走っただけで息が上がって来る。

 それでも俺は愛してやまない郁恵のことを諦めるわけにはいかなかった。


「郁恵っ!! どこにいるんだっ!! 声を聞かせてくれっ!!
 もう一人にしないから!! だから、俺のところに帰って来てくれっ!!」


 疲れがピークに達したのか、段々と意識が遠くなり、視界がぼやけて来る。

 必死に走り続けるが、砂浜は果てしなく先まで続いている。

 走りすぎて通り過ぎたのかもしれない、そもそもこの砂浜に来ていないのかもしれない。

 でも、華鈴さんからの連絡は未だない。

 俺は一縷の望みに賭けて走り続けるしかなかった。
 

 ”郁恵の無事を願い、走り続けていると、一瞬、顔色までは見えなかったが、白いワンピースを着た郁恵が風に吹かれながら海に入って行くのが見えた”


 服の色まで鮮明に見えるわけがない、砂絵(サンドアート)の幻が見えているだけだと言い聞かせて頭を振り払い、もう一度立ち止まって周囲を眺めた。

 穏やかに波飛沫を上げる夜空の下に広がる広大な海。

 美しい満月の月明かりが水面に光を差し、奇跡が起きたように僅かに視界が開けた。

「……郁恵」

 幻想的光景に目を奪われていた矢先、会いたくて堪らなかった長い髪を解いた麗しい女性の姿が水面に浮かんでいるのが映った。

 身体が浮き上がるように胸が高鳴る。

 意識があるか不明のまま、動き出す様子もなく郁恵は波に誘われるように遠ざかって行く。

 しかし、何かの力が働いているのか、単純に郁恵の身体が軽かったからなのか、水面に浮かび仰向けになったままだった。


「うぅう……あああっぁぁ……いくえ……いくえぇぇぇっ!!!」

 
 疲れも吹っ飛ぶほどに俺は叫び、風景の一部に囚われていた郁恵を取り戻そうと駆け出した。

 海水温の下がった凍えるような海に必死の思いで歯を食いしばって飛び込んでいく。
 
 冷たい海水に耐えながら泳ぎ、やっとの思いで郁恵の身体を掴んで息を確かめる。
 海水に沈みかけていた郁恵の身体は願いが通じたのか、ほんの僅かに息をしていた。


「郁恵っ!! お願いだっ!! 目を覚ましてくれっ!!」


 何とか砂浜まで上がり、息を切らしながら心臓マッサージを繰り返した。
 僅かな可能性に賭け、冷たく濡れた身体を必死に動かす。

 必死に郁恵を見つけ出した俺に、もうこれ以上出来ることはない。

 そんな泣き出しそうな虚しさまで湧いて出てくる中、郁恵の身体が小刻みに動き出し、瞳を開いた。

「往人さん……本当に助けに来てくれたの?」

「当たり前だろっ! どれだけ心配して…会いたかったと思ってんだっ!」

 生きているのが不思議なくらいのか細い郁恵の優しい声。
 俺はどうしようもなく涙が瞳から零れていき、郁恵の身体を抱き上げた。

「そっか……嬉しい。往人さんの声が聞えたよ。
 約束を覚えていてくれたんだね。
 ありがとう……私を深い眠りから目覚めさせてくれて」

「忘れる訳ねぇだろ……どれだけ大切な思い出だと思ってる……」

 安心したように笑顔を浮かべる郁恵。
 髪も身体もびしょびしょに濡れて肌は白く、唇は紫色をしていて、安心できないが、生きているだけで俺は嬉しかった。
 
「うん、そうだね。キスで目覚めさせてくれるなんて、往人さんはやっぱり私の王子様だね」

 この砂浜でキスをした日が思い出される郁恵の言葉に俺は胸が熱くなった。
 
「郁恵とのキスは慣れてるからな……無事でよかった……もう無茶するなよ……」

「うん、真美に攫われちゃった。本当にこれは夢じゃないんだね」

「現実だよ、俺は日本に帰って来たんだ」

「ありがとう。もう……待たせ過ぎなんだから……ダメだよ。
 大切な人を一人にしたら……」

 言葉を交わしながら、涙を流す郁恵。
 俺は濡れた身体を温めるために、郁恵の服を脱がした。

「大胆だね、往人さん……。
 私の身体は綺麗?」

「もちろんだよ。
 今すぐ抱き締めたいくらいだ」

「本当に往人さんってば……。
 私の裸を見ていいのは往人さんだけなんだからね」

 俺が着ていたコートを着せて、抱きかかえる。
 待っていてくれるよう頼んだタクシーまで辿り着く頃には、郁恵は寝息を立てていた。

 運転手からタオルを借り、身体を拭いて暖房の掛かったタクシーの中に乗り込むと、息も絶え絶えに脱力した。

 しかし、まだここで長い一日の終わりを迎えるわけにはいかない。

 水難事故と呼ぶには原因不明で歪な状況だが、明らかに低体温症になっている。

 さっきまで意識が戻っていたとはいえ、予断は出来ないのだ。

 今からでは夜間診療になってしまうが、俺は郁恵を受け入れてくれる病院を探すことにした。