翌日、佳代に起こされた小夜はぼんやりとしていた体を起こして、牧場にある豚舎まで向かいました。
発育に合わせてスペースが分けられた豚舎を回り、小夜は佳代からお仕事を教わります。思っていたよりもたくさんの豚が飼育されていることに驚く小夜は体力のいるお仕事を一生懸命に日が落ちるまで頑張りました。
そして、小夜は佳代から子豚たちへの去勢の仕方を教わり、鋭利なカミソリを持たされると、嫌がる子豚たちに泣きながら去勢手術を施していきました。
「お仕事をしなければご飯はないわよ。あたしも最初は嫌だったけど、生きていくためよ。慣れていきなさい」
ざんこくな行為をやらされ泣いてしまう小夜に佳代は言いました。
ここでの生活に慣れてしまった佳代はこの牧場で何をしなければいけないか、よく分かっていたのです。
「子豚さん……あなたはこのままでいいの?
このままエサを食べて運動して、眠る毎日を送っていたらいずれ人間に食べられてしまうわ。強くならなくていいの?」
毎日をこの牧場で過ごし、少しずつ、豚舎での仕事に慣れてきた小夜は言いました。
まだ小さい子豚を抱きかかえる小夜にとって、子豚はかわいくとてもせんさいな生き物で、とてもはかない命であることが自然と分かってしまったのです。
「小夜、豚に話しかけてもムダよ。
豚は成長してもおおきくなるばかりでのろまで地面に生えた草ばかり食べる動物なの。それに、人間に食べてもらえるからこうして恵まれた環境で暮らすことができるのよ。それを分かって? 小夜」
「そんなの……悲しいよ。
こんなにかわいいのに、どうしてこんな生き方しかできないの……」
「目が見えないから、あなたはかわいいなんて甘いことを言えるのよ。
小夜も豚に話しかけてばかりいないで、小屋の掃除をしなさい」
佳代は小夜の言葉に胸が苦しくなりながら言いました。
やりたくないこともやらなければならない、それがこの牧場のお仕事だと教えられてきたのは佳代も同じでした。
小夜の言葉は必死に佳代が考えないようにしてきたことだったのです。
小夜が孤島にやって来てから二週間が経ちました。
この島での生活に少しずつ慣れてきた小夜は、この牧場が豊かな自然にめぐまれ、多くの動物たちがいることを知りました。
そこには多くの子どもたちが働いていて、動物たちの飼育以外にもさまざまな仕事があり、自分たちが食べるための畑仕事を頑張っているグループもいることを知りました。
ニワトリや牛たちも暮らす牧場はとても広く広大な土地をしていて、さまざまな動物たちと触れ合う中で、佳代とも仲良くなり、小夜は心動かされていったのです。
(『空を飛べたら』6ー18ページ一部抜粋)
――12月25日
次の日の朝、一緒にベッドで添い寝をしていたペンギンのぬいぐるみをギュッと抱き締めた体勢のまま目を覚ました。
「疲れてたから熟睡できたのかな……でも、涎が垂れてる……」
プレッシャーを感じていた大きなホールでのクリスマス演奏会が無事に終わり、その解放感からなのか随分と寝相が悪かったらしい……。
寝ている間に往人さんを抱き締めていたこともあるため(ギュッと力を込めて締め付けていたが正確かもしれない)、ちょっと反省をしつつ手探りでスマートフォンを探す。
布団の中で包まっているのを無事に見つけて、メッセージアプリに通知があり、往人さんからの連絡が届いていることに気付く。
フランスにあるシャルル・ド・ゴール国際空港に到着して無事に搭乗手続きを済ませたからもうすぐ会えるという連絡だった。
パリ市外にある国際空港から直通便に乗れば十四時間前後で関西国際空港に到着できると往人さんは話していた。
直通便以外だともっと時間がかかるが、直通便でも半日以上掛かるのは、それだけ離れたところに往人さんが今いる証だった。
長い間、会えるのを楽しみにしていた私は、今晩に帰って来てくれる往人さんの無事を祈った。
「そういえば、飛行機に乗ると機内の気圧の変化のせいで耳が痛くなっちゃうんだよね……。往人さん大丈夫かな……」
往人さんは私よりも年上で以前にもフランスに行ったことがあると聞いているから、経験豊富なのは知っているけどちょっと心配だ。
私は身体を起こして洗面所で顔を洗うと、何となくテレビの電源を入れた。
そうしてコーンフレークに冷蔵庫から取り出した牛乳を注ぎ簡易的な朝食にすることにした。
朝食が終わり、フェロッソが食べたドッグフードのお皿を片付ける。
今日も元気いっぱいのフェロッソをギュッと抱き締める。
まだ、毛布の中にいるような微睡を覚えて身体を離す。
危うく眠りに落ちるところだった……。
大型犬は一緒にマンションで暮らすには敷居が高いが、盲導犬であるフェロッソは私に大きな安心感をもたらしてくれる。
だから……欠かすことの出来ない家族であり、パートナーであり続けている。
「今日も頑張って行こうか、フェロッソ」
夜の間にすっかり雪が降り積もった今日はホワイトクリスマス。
マンションのベランダの手すりにも白い結晶が出来ていて、小さな雪玉を作ることが出来る程に外は白い大地に染まっている。
そんな日に、喫茶さきがけで私は去年と同じ一日を繰り返す。
往人さんがきっと帰って来ることを願って。
それが私が望んだ大切な行事だ。
こんな寒い日に、いっぱい我慢してきた私のことを抱き締めてくれたならどんなに幸せなことだろう……。
想像するだけで胸がいっぱいになり、愛おしい感情が熱を持って私の心を欲求で焦がす。
今、往人さんは飛行機の中でどうしているのだろう……。
私と今晩会うことを楽しみにしてくれているだろうか。
一年前の今日、私は勇気を振り絞って往人さんに告白して交際を始めた。
その記念日の日を幸せに彩るために、私は喫茶さきがけへと向かった。
喫茶さきがけに着くと去年同様にクリスマスサンタの衣装に着替え、ケーキの販売を手伝う。
すっかり私のことを覚えてくれている常連さん達にケーキの入ったビニール袋を手渡していると、自然な笑顔が零れている私がいた。
往人さんがいないとダメな自分。
往人さんがいなくても大丈夫な自分。
それが、両方自分の中で共存しているような妙な心境だった。
二年目ということもあって、息ピッタリの演奏を披露して華鈴さんとのクリスマス演奏会は幕を閉じた。
多くの経験をさせてもらったピアノ演奏もこれで年度納め。
保育士になるために習い始めたピアノだったが、私の人生をより豊かなものにしてくれた。本当にここまで続けてきて良かったと心から思える。
立食パーティーに移り、私はグランドピアノに蓋をして、いつもの自分の席に戻ろうとすると、知らない人の声で話しかけられた。
「私は桜井海人という名の者だ。前田郁恵さん、素晴らしい演奏だったよ」
「えっ?」
私は思わず聞き返す。
昨日、花束を贈ってくれた往人さんのお父さん……。
目の前にその人が立っているのだと気付くと、途端に私は頭が真っ白になった。
「無理もないか、驚かせてしまってすまないね……」
反応の悪さを見て、申し訳なさげに男性は謝る。
それが往人さんのお父さんなのかと思うと心が落ち着かない自分がいた。
「いいえ……本当に往人さんのお父様なのですか?」
信じられない気持ちでもう一度聞き返す。
無意識に相手の腕を掴み、姿が見えないということの不安を私は久々に感じた。
「あぁ……私は正真正銘、桜井往人と血の繋がった父親だよ」
その言葉の意味を噛み締めた時、私は本当に目の前にいるのが往人さんのお父様なのだと自覚した。
「……初めまして、こんな失礼な姿ですみません。
前田郁恵です、ずっとご挨拶したいと思っておりました」
往人さんと交際を始めて一年になった今日。
私は初めて往人さんの家族と対面した。
これが運命だというのなら、私はしっかりと向き合わなければならない。
そんな想いで私は足を揃えて大きくお辞儀をした。
「君ならそう言ってくれると信じていた。確かに演奏を披露する姿を伺いながら大胆な衣装をしていると思ったが……そうか、実に可愛らしいお嬢さんだ。我が息子が離さないのも納得のいくところだな……」
「はぁ……お恥ずかしい限りです。普段はもちろん、こんな服を着たりしませんよ」
「分かっているよ。私はここのオーナーや娘さんとも古くから交流がある、随分と気に入られてしまっているのは見ていれば分かるよ」
初対面であるにもかかわらず、この状況を冷静に観察している海人さん。
店長のことをオーナーと呼ぶところや、華鈴さんのことを娘さんと呼ぶ辺りも昔馴染みの古株である印象を受けた。
「あの……この格好でいると目立ってしまうので、後でお話ししませんか?
立食パーティーの合間にお店を出ますので」
私は出会ったばかりの海人さんに失礼のないよう、ちゃんと話し合いたい一心で提案した。
「今になってやってきた私を受け入れてくれるとは……感謝するよ」
私のことをどう見ているのか、まだ冷静になれない私には分からなかったが、話す機会を得たことを今は喜ぶことにした。
恵美ちゃんや華鈴さんと会話を交わし、「私は家で往人さんの帰りを待ちます」と伝え、早めに立食パーティーを抜けさせてもらうことにした。
休憩室で着替えを済ませ、ダッフルコートにリュックサックを背負い、フェロッソを連れて店の玄関を出た。
店の外に出ると凍えるような冷たい冷気が私の身体を襲う。
店内には大勢の人がいて、熱気が籠っているほどに賑やかである分、余計に外気の冷たさが皮膚の感覚器官を敏感に刺激した。
マフラーを巻いて、手袋もして防寒装備に身を包んだ後でも震え上げる程に寒さはなお厳しかった。
「桜井海人さん……」
相手がどこにいるのか分からず私は恐る恐る虚空に向けて呼びかけた。
「あぁ……ここだよ」
寒いと訴えかける耳にまだ聞き慣れない男性の声が届く。
とりあえず、返事をしてくれたことに私は安堵した。
「外で待っていてくれたんですか?」
「煙草が吸いたくなってね」
「そう……ですか……。何とお呼びするのが良いでしょうか?」
往人さんの父親であり、年上の男性相手にぎこちなくなってしまう私は聞いた。
「好きな呼び方をするといい、息子が世話になっている。気にすることはないよ」
吸っていた煙草を携帯灰皿に片付けたのか、煙草の煙から漂わせる刺激臭が薄まった。
「はい……では海人さん、往人さんには内緒で会いに来たのですか?」
往人さんが帰ってくる前に二人きりで会ってしまったことを後になって後悔するかもしれないと思いながら私は聞いた。
「悪いかい?」
「いいえ……私はずっと会いたいと思っていました。ですが、往人さんはそうではないようでしたので、ずっとモヤモヤしていました」
「そうだろうね……君は本当にうちの息子には勿体ないくらい良い娘さんだ。
まぁ、確かにあいつの言う通りだな」
まるで緊張している様子のない、大人の余裕を醸し出す海人さん。
すぐに親しみやすさを覚える程ではないが、自然と会話が成り立つ相手であることに少し私は安堵した。
「私のことを聞いていたのですか?」
「君のお父さんとは古くから友人だからね、君のことは話しに聞いている」
「そういえば、そうでしたね……」
私は父から海人さんのことを聞いた記憶はほとんどない。
それでも、友人関係であることは耳にしていた。
私や往人さんと同じく、視覚障がいを持った人であることも。
「家まで来ませんか? 往人さんが今晩には帰って来るんです。
私が呼んだと説明すれば、往人さんも会ってくれると思います」
私は思い切ったことを提案した。
次に会えるのがいつになるのか分からない危機感を覚えたからだった。
「君はそれでいいのか?」
こんな日に会うこともないだろうと海人さんは思っているのだろう。
でも、よく考えれば諸説はあるがクリスマスは家族で過ごす日でもある。
三人で会って過ごすのも悪いことではないだろう。
「いつか……こんな日が来ると思っていました。
私は往人さんと真剣にお付き合いをしています。
だから、一度は三人で話しをしたいんです。
何か大きな変化を期待しているわけではないですが、これも一つの大切な過程だと思うので」
好かれているのか、嫌われているのかも分からない。
本音の見えない冷静さで接して来る海人さんに私は勇気を振り絞り踏み込んでいった。
「分かったよ、君の熱意を買っておこう。
なりふり構わず少し強情なところがあるのも聞いていた通りだ」
褒めてくれているわけではないと思うけど、そんなことを海人さんは言った。
海人さんは家族とだろうか、スマートフォンを取り出し会話を交わしてすぐに帰りが遅くなることの断りを入れたようだった。
往人さんのお母様である画家、桜井深愛さんの旦那さんであった海人さん。
海人さんは深愛さんの亡き後、再婚をしたと聞いている。
私の知らない家族といつもは話しているのだと思うと、未だ私は海人さんのことをほとんど知らないのだと気付かされる。
あまりに予想外な展開に遭遇した私は、海人さんと一緒に自宅へと向かった。
その道中、私が何を話そうかと思案している内に、海人さんは往人さんの母親、桜井深愛さんのことを語り始めた。
「かつて、私の妻だった深愛は出会った頃、とても物静かな女性でね。何を考えているのか分からないミステリアスなタイプで、私は一度は別の女性を好きになった。
しかし、巡り会わせとは不思議なものだ。
私は今でも深愛のことをこの世で一番愛している……。
深愛は生まれ持った才を持ち、描く絵画は誰もが嫉妬してしまうほどに文句のつけようのないものだった。
技術力にしても、想像力にしても、まるで頭の中でイメージしたものをそのまま具現化できるような、そんな魔力じみた画力を持っていた。
私は目も不自由で深愛に相応しいような絵描きではなかったが、そういうところに惹かれてくれたらしい……。
放課後の部室で半人前のまるで上達のしない私の絵画を見ては意地悪に楽しそうな顔を浮かべて深愛は絵を描いていた。
段々と二人で過ごす時間が嬉しくなり、私は深愛を好きになった。
色褪せることのない思い出の数々。今でも大切な事に変わりはないさ」
「往人さんにとってもお母様はかけがえのない大切な人だと聞いています。
色を教えてくれた、絵を描くことを教えてくれた、唯一無二の人だと」
寡婦である桜井深愛さんへの想いを吐露し、まるで懺悔をしているかのように、淡々と言葉を紡ぐ海人さんに向けて私は言った。
「その通りだよ。往人はどちらかというと深愛にべったりだった。
どこかの段階で距離を取って、往人が自分で居場所を見つける機会を作ってあげるべきだったのかもしれない」
どうして海人さんは私に会いに来たのだろう……。
今、一緒に暮らしている家族のことを、再婚相手である奥さんのことをどう思っているのだろう。
寒さも気にならなくなり、段々と冷静になって来る思考の中で私はその疑問の答えが見えなかった。
よく考えてみれば、私は往人さんが海人さんのことを許すことの出来ない理由も曖昧の形でしか知らない。
二人とも深愛さんのことを大切に今もなお想い続けていることは変わらない。それなのに、分かり合えないのがどうしてなのか。私にはずっと疑問で、だからこそ、私を入れて話し合えば少しは許し合えるのではないかと思ってしまう。
雪は止んだが、凍えるような寒さは相変わらずで、段々と言葉少なくなりながら、家の前まで到着した。
もう私は寮生活をしているわけではない。
だから、私は自分の意思で海人さんを家の中に通した。
「寒かったですね……お茶でも淹れますね」
家の中に入り、冷え切った身体がやっと救われた心地だった。
私はいつものようにフェロッソの足を拭いて玄関を上がる。
海人さんがどんな表情をして、どんな気持ちで私達の家に上がったのか分からないが、私は丁重におもてなしをするためにコートを脱ぎ、暖房を付けてからキッチンに立ってお湯を沸かした。
「慣れているんだね……」
一連の動作を見ていたのだろう、海人さんは淡々とそう言った。
「それはもう、この家に八か月も暮らしていますから」
往人さんとの同棲生活をもう八か月も続けている。
それを父親である海人さんに告白していると思うと緊張してしまうが、私は自然体を装い答えた。
海人さんはその言葉に感心することなくさらに言葉を続けた。
「そうではない、目が見えないことに対してだよ」
「海人さんがそれを言いますか……」
同じく視覚障がいを持っているからとは思いたくないが、配慮の見えない容赦のない言葉に私は抵抗感を覚えた。
「私は弱視で年々視力は低下していっている。本当のところは不安でいっぱいだよ。でも、君はそうではないのだな」
”大人であるからか”、達観した物言いで、そう発言をする海人さん。
それでも私は惑わされることなく言葉を返した。
「私には往人さんもフェロッソもそばにいてくれますから。
これが幸せでないなら、もっと苦しんでいる方に申し訳が立ちません」
「そうか……立派な考えだ。私も見習いたいものだな……」
私の揺るぎない信念を感じたのか、海人さんの声のトーンが下がった。
初対面だというのにムキになってしまった自分……。
そこまで感情的になったのは、相手が往人さんの肉親だからなのか。まだ、緊張したまま落ち着かず、判断が付かなかった。
先にソファーに座ってもらった海人さんにお茶を出して、私は黙々とフェロッソのお世話をした。
最初は難しかったフェロッソのお世話。
日本にやって来て、寮生活とはいえ一人暮らしを始めて一番心配だったのがフェロッソのお世話だ。
それを乗り越えてきたことで、私とフェロッソの信頼関係はより強固な絆で結ばれている。
飛行機に搭乗する時に連絡をくれてから、往人さんからの連絡は未だない。
機内モードにしないといけないから、飛行機に乗っている間は電波を使えないことは分かっているけど不安なことには変わりない。
まだ……日本に到着していないのだろうか……。
海人さんと一緒にいても、往人さんのこと無事が心配で仕方なかった。
自分の分のお茶を用意して、何とか会いたい気持ちを紛らそうとしている自分がいた。
お茶を淹れ終わり、ソファーに座ろうと海人さんに近づいていくと、壁に掛けた砂絵の方に私の意識が向いた。
「壁に掛けた砂絵をご覧になっているのですか……?」
無意識に吐いていた言葉。
私は言い終わった後に、言葉通りのことを自分で感じ取った。
「分かるのか?」
「何となくです……息を潜めて何かを見つめているような気配を感じましたので」
互いに触れていいのか戸惑っているような違和感を覚える。
どんな言葉を掛ければいいのか分からず、海人さんの反応を待つ。
そうすることしか今の私には出来なかった。
「本当にこの砂絵がここにあることを確かめると、感慨深く何も言えないな……」
「それは……これは海人さんにとっても大切なものだと思いますから」
「あぁ……そうだな、今でも深愛が自殺したことが嘘であったらいいのにと思う。私はこれでも深愛をことを今でも愛しているのだよ」
往人さんの話しでは再婚をしているという海人さん。
その上で海人さんが今でも深愛さんのことを愛していると語るのは、とても重たい心情が胸の奥にあるのだと感じた。
「そういえば……せっかくのケーキを喫茶さきがけに置いてきてしまいました。
申し訳ないですが、今から取りに行って参ります。
往人さんが帰ってくるまでには戻りますので、このままここにいて頂けますか?」
「君がそれでいいのなら、そうさせてもらおう。
ここの空気は私の住む家の中とは違い、何とも尊い」
「はぁ……それでは、行ってきますので、部屋でお待ちください」
再びフェロッソにハーネスを着せて、私はダッフルコートを着てマフラーを巻く。リュックサックは背負わず荷物は軽装にして、私は玄関へと向かった。
手探りで探すことなく玄関ドアに触れて、ドアを開いた瞬間、海人さんの意味深な言葉が私の耳まで聞こえた。
「昨日、今日と君のことを訪ねたのは、本当は君に深愛の魂が憑りついているんじゃないかと思って、確かめたかったんだ。
往人がいると会わせてはくれないだろうから、往人が不在であることを知ってね。
昨日の演奏会のチケットも友人である君の父から送られてきたものだ。
とてもいい演奏だったよ、前田郁恵さん」
完全に足が止まったまま、海人さんの言葉を聞き終える。
同じ海人さんとは思えないような信じられない内容だった。
「私に往人さんのお母様が……?
何を言っているんです、私は私です!
絵の描けない、目の見えないただの大学生です。
私は深愛さんにも、深愛さんの代わりにもなれません!」
センチメンタルな感傷に浸っていたわけではなかったのか。
命を落としてしまった深愛さんの魂の在処を探して、私の下にやって来たというのはオカルトに等しい。
確かに私は往人さんにとって色のある姿で見える唯一の人間。
しかし、コンプレックスがあるわけではないが、深愛さんとは全く違い、私はまるで絵の描けない目も見えない大学生だ。
海人さんの心の内を知り、どうしようもなく受け入れがたい感情が湧き上がり、私は無粋に言葉を吐き捨てて玄関を出て立ち去った。
「勢いで出てきてしまいましたが……未だ死を受け入れられないほどに、悲しい出来事だったということですよね……」
ざわついた感情のまま、冷たい空気に包まれる。
馬鹿らしい話だと否定したいのに、私は私のことが分からなくなりそうだった。
時々、自分の中に真美がいると感じてしまうことがあったが、それが本当は深愛さんだったのではないかと憶測が立ち、心がざわついているからだ。
「……寂しいから余計なことを考えちゃうんだ。往人さんがもうすぐ帰って来るから、あと少しだけ辛抱して喫茶さきがけに行こう」
海人さんを家に入れた目的を見失ってはいけない。
私は慣れ親しんだ道を歩いて、喫茶さきがけに戻った。
「お邪魔します、もうお片付け中ですか?」
息を切らしていた私は一度呼吸を整えて店内に入った。
店内BGMが消えていて、人の気配もまばらなことを私は感じ取った。
いつもこの時間はCLOSEになっているけれど、今日は特別な催いがあったので念の為に確認をした。
「あら、さっきお客さんに帰ってもらって閉めたところよ。郁恵さんは一人かしら?」
「はい、往人さんの帰りを待っている途中にケーキを持って帰るのを忘れていることに気付きまして……取りに来ました」
「そうなの、寒かったでしょ? 少しゆっくりして行く? まだコーヒーくらいは出せるわよ」
「いいえ……あまり遅くなる前に帰るようにって往人さんからいつも言われていますので。今日は家で往人さんの帰りを待とうと思います」
「そう……まだ地面が濡れているから気を付けてね。
あの子ったら、本当に帰るのが遅いんだから」
私を気遣う華鈴さんの言葉が耳に刺さる。
往人さんになかなか会えない寂しさを押し殺す私の表情は華鈴さんにはすぐに分かってしまうのだ。
今年のクリスマスは一段と冷える。
華鈴さんのお誘いは嬉しいが、海人さんを家に入れていることを思うと、ここで長居するわけにはいかなかった。
ずっしりとした重みを感じるホールケーキの入ったビニール袋を手に、私は名残惜しく喫茶さきがけを後にした。
再び寒空の下を歩いているとスマホのバイブレーションが震え出す。
足を止めてスマホを確認すると、往人さんから「さっき空港に到着した」と連絡が入っていることが分かった。
”もうすぐ会える”
待ちに待った報告に足取りが軽くなり、ただ会いたい一心で私は家までの道のりを胸を躍らせながら歩いていく。
「フェロッソ……今日は往人さんのことを独り占めしちゃうかもしれないけど、往人さんのせいだから、許してね」
海人さんを入れて三人で過ごした後は二人きりで誕生日を祝う。
そのことを思うと、この湧き立つ衝動はきっと抑えられない。
抱き締め合えばひとたび私の心は往人さんに支配されてしまう。
その予感を既に私は確信していた。
商店街を抜けた先にある信号のない交差点。
通学路にもなっている通りを抜けようと、黄色い点字ブロックから交差点に足を踏み出した次の瞬間、私は心臓を鷲掴みされるような恐怖を覚えた。
激しく迫る自動車のエンジン音。
歩みを止める間のないまま私は誘導を続けてくれるフェロッソのリードをギュッと強く掴んだ。
「――フェロッソ!! 危ないっっ!!!!」
耳障りなエンジン音で反射的に危険が迫るのを感じていた。
飲酒運転か脇見運転か分からないが、きっと私達の事が見えていない。
ブレーキを踏みことなく、真っすぐに迫って来るのを感じた私は叫んでいた。
鈍い物々しい衝突音と共に、強く握っていたリードが強引に引っ張られ、私の手を離れていく。
反動で冷たい地面に尻餅をついてしまう。
そのまま自動車が走り去った瞬間、私はフェロッソの心の悲鳴を聞いた。
「どこにいるの?! フェロッソ!! 返事をして!!」
息遣いも、気配も消えてしまったフェロッソの身体を必死に手探りで捜すがなかなか見つけられない。
交差点の真ん中で泣き出しそうになる情けない自分。
重い焦燥感を背負い込んだ私はフェロッソの無事を願い手を伸ばした。
そして、フェロッソの柔らかい体毛の生えた大きな身体に手が触れた瞬間、私の涙腺は決壊した。
「フェロッソっ!! 起きてよ……やだよ、声を聞かせてよっ!!」
無事を確かめようと手袋を外し、寝転んだまま動作の止まっているフェロッソの身体を揺らすが、ねっとりとした鉄臭い液体が私の手にべったりとこびり付いた。
まだ体温は残っているけれど、どうしていいか分からず混乱する私は泣きじゃくって座り込んだまま立てなくなった。
「フェロッソ……一緒に帰ろうよ……。こんな寒いところで寝てたら身体壊しちゃうよ……」
人通りのない道路に横たわったまま立ち上がる様子のないフェロッソを懸命に揺すり、恐怖で身体を震わせる私。
心も身体も冷たくなっていく中、慌てた女性の声が響いた。
「どうしたの?! 大丈夫…?!」
きっとこの場は白い雪に真っ赤な血が入り混じった残酷な光景なのだろう。
それに私は座り込んで涙が止まらなくなってしまっている。
心配するのも当然だ。女性の反応から、私はそのことを察した。
「あなたは……郁恵さんよね? 私は河内静江の姉、河内志保よ」
「静江さんのお姉さん……?」
確かに声色が似ている、大人の女性の包容感のある優しさが声からも滲み出ている。殆ど会ったことはなかったが、記憶を掘り返すと確かに面識があったことを思い出した。
「ええそうよ、まだ意識があるのは分かるでしょ? 猶予がないわ。動物病院に通報するわよ!」
スマートフォンを手に取り、通話を始める静江さんの姉を名乗った女性。
頼りある雰囲気で相手側とコンタクトを取ると、何とか両足に力を入れて立ち上がった私の手を掴んだ。
「すぐそばに車を停めているの。動物病院まで急ぎましょう」
「フェロッソは助かるんですか……?」
「派手にぶつけられたみたいだから重症よ、生死は一分一秒を争うわ。
パートナーの命を繋ぎ留めたいなら、泣き言を言ってる場合じゃないわよ」
志保さんから受けた指示通り、私はフェロッソの下半身を掴み、上半身を掴んで持ち上げてくれた志保さんと一緒に近くに停車していた車の後部座席にフェロッソの大きな身体を横たわらせた。
こちらから頼んだわけでもなく、真剣になって手際よくフェロッソを助けてくれる志保さん。
冷静に考える余裕のない私は、放心状態になりかけながら、志保さんに言われるままに車に乗車した。
「今日から一緒に暮らしていくんだねっ!」
「そうだよ、盲導犬は郁恵の目になってくれるパートナーなんだから。
郁恵がしっかり面倒を見るんだ、出来るね?」
「うん、大丈夫だよお父さん。私、もう子どもじゃないんだから」
父と二人きりの生活に、新しい家族が家にやって来た日。
何度も繰り返し取り組んだ合同訓練の日々が終わり、暖かい日差しを受けながらようやく家にフェロッソを迎えられた、喜びでいっぱいだったあの頃。
オーストラリアでの暮らしが一年経っても英語がまだ上手じゃなくて、盲導犬に指示を与える時も英語だったら一生懸命に勉強した。
あれから一体、どれだけの月日が流れたことだろう……。
どれだけ季節が過ぎ去り、沢山の思い出を積み重ねてきたことだろう……。
病院暮らしが長くて、なかなか外に出る勇気の出なかった私。
頼れるものなんて何一つなくて、真っ暗な世界で怖がってばかりいた私。
ハーネスを着けた盲導犬のフェロッソがいなかったら、こんなに自信を持って外の世界を歩けなかった。
フェロッソは私に勇気と笑顔をくれた。
そばにいてくれる安心感をくれた。
外の世界を安全な場所に変えてくれた。
いついかなる時も一緒にいてくれて、怖がりな私に寄り添ってくれた。
何よりも一番大切だった。
一緒にいられる時間をいつも感謝してきた。
なくてはならない存在だった。
盲導犬は目が不自由だからといって、誰にでも与えられるわけじゃない。自分が恵まれていることを自覚していた。
今の若いうちに、外の世界を安心して歩けるようにと父が私のことを想って何度も頼み込んでくれた、一緒に訓練に付き添ってくれた。
日本に帰って来て寮暮らしを始めてからも、フェロッソには沢山我慢をさせて、沢山迷惑を掛けてきた。
それをちゃんと、自覚できていたはずなのに……何て私は恩知らずなのだろう。
どうして、守ってあげられなかったのだろう……。
どうして、自分のことばかりでフェロッソのことを一番に考えてあげられなかったのだろう……。
傷つけてしまった後で、後悔ばかりが私の頭の中で駆け巡り、辛い現実の中、押し寄せて来る。
ただ、寂しくて苦しくて、悲しくて、夢でもいいから元気になった姿に戻ってきて欲しくて、抱き心地の良いフェロッソの大きな身体が恋しかった。
*
車内でした会話はよく覚えていない。
スマートフォンを事故現場に落としてきてしまったことは話した気がする。
でも、取りに帰る猶予なんてなくて……私はただフェロッソに元気になって帰って来て欲しいだけで……気付けば動物病院の待合室に座っていた。
手には志保さんが渡してくれた温かい緑茶の入ったアルミ缶がある。
でも、とても落ち着けるような状況ではなかった。
ずっと私の為に寄り添ってきてくれたフェロッソが命の危機に瀕している。
どうしてフェロッソがこんな目に遭わなければならないのか、私にはまるで分からなかった。
「私がちゃんと見ていなかったからこんなことに……どうしたらいいの……往人さん」
千切れた手綱を両手で握りしめて強く掴むが、辛く苦しい感情だけが膨れ上がっていく。
なぜ私が無事で、フェロッソが苦しんでいるのか。
盲導犬を一頭、仕事ができるまでに育成するのにいくら費用が掛かるか、知らないわけではない。
どれだけ大きな期待を込めて、育て上げられてきたか、その価値を忘れたことはない。
なのに、どうしてこんなに不甲斐ない私なんかにフェロッソはずっと傍にいてくれたのか。
頭痛がするほど懺悔とばかりに後悔が頭の中を支配していく。
周りの雑音も気にならなくなるほどに、身体は重たくなり心は沈んでいく。
何を私はここで座り込んでいるのか。
無事を祈るばかりで何も出来ない、何もしてあげられない。
無力感に苛まれ、ただ悲しい気持ちだけが増幅されてしまう。
凍えそうな心細さで身体から力が抜けていき、気が狂いそうになる。
きっと、こんな頼りない私の下にフェロッソが帰って来ることはないだろう。
そう、不吉なことを考えた瞬間、一気に脱力していき意識が遮断された。
あぁ……心を溶かす深い海に沈んでいく、そんな感覚を意識がなくなる寸前に感じた。
孤島にはいつもはあたたかい空気が流れていますが、少しの期間だけ冷たい空気が流れ込んでくる寒くなる季節がありました。
悲しいできごとが起きたのは、そんな寒い日のことです。
小夜はいつものように朝早くから丸い形をしたザルの上に牧草とにんじんをのせてうさぎたちが過ごす小屋の中に入っていきました。
しかし、赤ちゃんが誕生して五羽になったばかりのうさぎのうち、二羽のうさぎは冷たくなって身動きせず死んでいました。
新しい命が生まれ、喜んでさらにやる気がみなぎっていた小夜はかなしい気持ちになって、佳代に泣きついてしまいました。
「ねぇ……変なの、うさぎさんが動かなくなってしまったの。
助けておねがい、佳代……」
「うさぎはお空に行ってしまったのよ」
小夜にそう教える佳代でしたが、小夜はお世話をしてきた二羽のうさぎとのお別れを受け入れることができませんでした。
「やだよそんなの……いつも一緒に遊んで喜んでくれたのに……。
新しい仲間が増えて、喜んでくれたのに……」
小夜はうさぎたちへの想いがあふれ、涙が止まらなくなりました。
「ここでの仕事は遊びじゃないのよ……。
こんな別れ、いつ起きるか分からないのよ。
小夜、悲しんでばかりではいられないでしょ?
泣いてばかりじゃ、上手にお別れできないでしょう?」
最初はまともに仕事ができなかった不器用な小夜をずっと見てきた佳代は心が揺らぎました。
大変な日々が続いていても、小夜は楽しそうに嫌がることなく動物たちのお世話をしていたのです。
それをずっと見てきた佳代は、小夜は自分とは全く違う気持ちで動物たちと接してきたことに気付きました。
佳代はようやく泣き止んだ小夜を励まして、一緒に死んでしまった二羽のうさぎとお別れをしました。
いつか一緒に空を飛ぶ日を夢見えていた小夜は、ショックに耐えられず寝込んでしまいました。
一日、二日は牧場の主に隠して、小夜の分もがんばって働いていた佳代でしたが、小夜が寝込んでいることがバレてしまい、佳代はお仕置きを食らってしまいました。
バチン! バチン! と何度もおしりをたたく音が佳代の暮らす部屋にひびきわたります。
痛みに耐えられず、泣いて何度もあやまりつづける佳代でしたが、主は周りの子どもたちが恐怖に震える中もなかなか許してはくれません。
小夜を大切にしたいと思い始めていた佳代のことを牧場の主はどうしてか簡単に許すことができなかったのです。
夜になって元気のない小夜の様子を見に来た佳代はついに我慢ができなくなってしまい、思い切ったことを口にしました。
「小夜、あなたが頑張り屋さんで目が見えなくてもお仕事ができるのはよく分かったわ。でもあなたはここでの仕事に向いてない。
ここを抜け出して自由になろう。島の外には福祉が発達した子どもを大切に扱ってくれる国があるの。だから、こんな島は早く抜け出そう……」
小夜は最初、どうしてここでずっと暮らしてきた佳代が悲しい声でそんなことを口にするのか分かりませんでしたが、ギュッと身体を抱きしめてやっと気づきました。
「佳代……ごめんなさい。私のせいなんだよね」
佳代は痛みのあまり、抱きつかれると小夜の身体を振り払って、身体を震わせてしまったのです。
「こんな傷、たいしたことないわ」
「そんなことないよ、いっぱいあざが出来てるよ」
「じゃあ……一緒にこの島を出てくれる?」
佳代の言葉に小夜は大きく頷いて、佳代の持ってきたカレーライスを食べている間もずっと涙が止まりませんでした。
その日、佳代は小夜と同じベッドで眠り、すすり泣く小夜が眠りにつくまで起きて、これまでの日々を思い出し、考えごとをして寝れない夜を過ごしたのでした。
(『空を飛べたら』19ー24ページ一部抜粋)
大空を飛び立つ航空機の中、俺はこれから会いに行く大切な人のことを思い浮かべていた。
いつも明るく振る舞い、楽しそうに笑顔を浮かべる郁恵は思った以上に強情で好奇心旺盛で寂しがり屋だった。
十二月の頭、俺が師匠やアトリエの仲間と一緒にフランスへと向かわなければならない日、朝から郁恵はソワソワしていて、時折目を細めて泣き出しそうな寂しげな表情を浮かべて辛そうにしていた。
大勢の仲間と空港で待ち合わせをしていたから郁恵を連れて行くわけにはいかず、俺は玄関先で郁恵に「行ってくるよ」と優しく声を掛けた。
その別れ際、一度覚えたことには積極的になる郁恵は、別れを惜しみ涙を浮かべてギュッとマーキングをするように寄りかかってきた。
仄かな甘い香り漂わせる郁恵のことを抱き締め返してしまうと余計に別れが辛くなると分かっていた。
でも、堪えられない気持ちは俺も同じだったから、素直に抱き締め返して、熱いキスを交わした。
郁恵の柔らかな身体も優しい温もりを帯びた体温も、瑞々しく甘い味のする唾液を滴らせる唇も、全てが俺を愛おしくさせた。
「頑張って来てね、私も頑張るから」
離れたくないとその触れ合う肌が主張していたが、郁恵は俺のことを応援してくれた。
「あぁ……寂しいのは俺も一緒だから。
絵本作りも進めながら、頑張って来るよ。
期待して待っていろよ」
「うん、楽しみにしてるよ。
私の夢のために、頑張ってくれていつもありがとね」
「気にすんなよ、もう俺の夢でもあるんだから。
演奏会の練習に勉強と忙しいだろうが無理せず頑張ってな」
別れの挨拶を交わし、惜しみながら熱を帯びた身体を離す。
いつもは一度抱きつくと引っ付き虫のように嫌がってなかなか離そうとしない郁恵も今日に限っては素直に応じた。
完成へと近づく絵本は俺と郁恵が初めて作る共作だ。
郁恵の書いたストーリーを基に絵本を仕上げていく過程は今までやって来たどんな作品よりもやりがいを感じさせてくれるものだった。
一ページ毎に互いの想いがいっぱいに詰まった思い出の絵本に仕上がりつつある。
俺は完成した絵本を郁恵に渡すのが今から楽しみでならなかった。
何とか明るく振舞おうとする郁恵の顔を最後に覗き込む。
これから一か月近く会えなくなるのかと思うと、胸が張り裂けそうだった。
それほどに同棲生活を始めてから俺と郁恵は一緒にいることを大切にしてきた。
順調であればあるほど、離れ離れになってしまうのが耐え難いものになる。
そんな当たり前のことを、俺はこの歳になって気付かされた。
遥か雲の上を飛翔する航空機。
翼を広げて自由に飛び立つ鳥とは対称的に飛行機は人類の英知の結晶で文明の象徴の一つでもある。
空の上に浮いているような感覚もすることから安全性が心配になることもあるが、自動車に比べればずっと安全であることがデータで証明されている。
俺はシャルル・ド・ゴール国際空港から直通便で約十三時間かかる日本までのフライトをもう少しリラックスして過ごそうと力を抜いた。
多くの時間を絵を描くことに割いてきたせいで肩や腕が悲鳴を上げ、疲労感が伝わって来る。俺はもう今日までに十分頑張って来たと言い聞かせてアイマスクをして目を瞑った。
振り返れば郁恵との出会いは奇跡のようなものだった。
四年前に母を突然亡くし、色のないスカイグレーの世界に染まってしまった俺にとって、もはや母が生前残してくれた絵画が多く飾られている母のアトリエだけが俺の拠り所だった。
母と過ごした余韻がいつまでも残留し続ける俺の居場所。
作品が四方に飾られているこの場所だけが俺にとって色彩を纏った世界の全てだった。
やがて俺は父親が再婚してしまったことを契機に、そこで立ち止まっているわけにも行かず、師匠のアトリエに入り浸るようになった。
母との繋がりを絶やさぬために、師匠の下で俺は絵を描き続けた。
そして、二年近く前のあの日、運命の出会いを果たした。
公園で佇むまだ幼さの残る制服姿の少女。落ち着きなくアタッシュケースに入った札束を手に動揺しているその少女は、母の面影を宿すように輝きを放ち、色彩を帯びていた。
肌が露出している部分のみに過ぎないが、それでも俺は母の言葉を思い出し、運命を感じざるおえなかった。
明らかに困った様子をしているその少女を見つめていると、次第に罪悪感が昇って来てしまった俺は手を差し伸べた。関わってしまうことへの躊躇いはあったが結果的に出会いを求めてしまったのだ。
相手が全盲の視覚障がいを持った少女であると分かっても、綺麗なその顔立ちを直視することは出来ず、胸の高鳴りをグッと堪えて平静を装うのがやっとだった。
まだ冬の寒い季節にそんな鮮烈な出会いを経験して、再会の時を迎えたのは春から夏へと季節が移り変わる、梅雨を迎えた頃のことだった。
俺は学生時代からずっと長く美桜親子が経営する喫茶さきがけで調理担当をしていた。
そこに偶然やって来たのが前田郁恵、公園で困っているところを助けたまだ大学生になったばかりの女性だった。
時々、何食わぬ顔でふらっと店に立ち寄って行く実力十分のピアニスト、四方晶子の演奏に惹かれてやってきた郁恵はときめいた表情でまるで目が見えているかのようにピアノがある方向に眼差しを向けていた。
ピアノの演奏が続けられ、仕事をしながら気になって堪らない自分がいた。
もう一度、この目に心惹かれるその姿を目の当たりに出来た幸運。
嬉しくないわけがなかった。惹かれないわけがなかった。
そして、俺は本人にこの喜びを告げることの出来ぬまま、あの再会の日を迎えた。
――あの子のことが心配でしょ? 助けに行くなら、今しかないはずよ。
華鈴さんの決心を促す言葉が俺の耳を襲う。
心配の声を掛けられながらも、郁恵は自分の意志で決めて学園祭の打ち上げパーティー会場へと向かってしまった。それが郁恵にとってどれだけ危険な場所であるか、判断できない俺ではなかった。
「だが……俺なんかが行っても騒ぎが大きくなるだけかもしれない。
あの子の気持ちを踏みにじるかもしれない」
華鈴さんは明るく前向きで勇気はありながらも、危険を顧みない無垢な少女として郁恵のことを見ていた。だから、俺に声を掛ける程、心配に思っているのは間違いないことだろう。
「深愛さんの面影があるあの子を追い掛けるのは辛いことかもしれない。
でも、後悔することになった後では遅いのよ。
今できる最善の行動をしてこそ、前に進んでいける。
迷っている時こそ、前に進まないとダメよ、往人君」
いつも以上に真剣な華鈴さんの眼差しが迷っている俺に突き刺さる。
その視線をずっと浴び続けられるほど、俺は我慢強い人間ではなかった。
「分かりましたよ、連れて帰ってきます」
エプロンを脱ぎ、華鈴さんに手渡して覚悟を決めた。
「良かったわ……往人君ならあの子が何を求めているのか感じることが出来るはずよ」
それは、特性は違えど同じ視覚障がいを持つ者同士という意味を込めていたのかもしれない。
後のことなんて分からない、ただ俺はあの子の悲しむ顔を見たくないと思った。
本来はまだ後片付けが残っていたが休憩室に戻り、遮光眼鏡を着けて帽子を被ると俺は郁恵の待つ打ち上げパーティー会場を目指して退勤した。
これは仕事よりも大切な事だと送り出してくれた華鈴さんや郁恵の無事を願う友人たちがすがるような思いで俺を見送る。
「頑張りなさい……応援しているわよ、往人君。
これがもしも運命づけられた運命であるならば、あなたはそういう星の下に生まれてきたのよ」
俺が頑丈な店の扉を開き、鐘の音と共に喫茶さきがけを後にする背後で、華鈴さんはそんな言葉を掛けていた。