--下駄箱で靴を履きかえ外に出ると、温かみを感じる春の匂いがする。
 すぐ側の自転車置き場に辿り着くと、樹が鞄から鍵を取り出して、すぐ自転車に乗り、足を使って後ろに下がる。そうして自転車を出した後は樹の後ろに私が乗り込むというのがいつもの流れ。樹は私が後ろに乗ったことを確認すると前を向き、勢いよく自転車を漕ぎ出す。

「菜穂、相変わらず樹くんとラブラブだねー!」

 漕ぎ出したところで、自転車通学の友達に声をかけられた。

「いつでも(これ)あげますよー」

 その横をあっという間に通りすぎ、そう言って友達に手を振った。

「俺は物扱いか」

 樹がため息混じりに言うので

「そうなるねー」

なんて笑って答えると、樹が急にジグザグに自転車を進みだしたので、はっとして、腰の辺りを掴んでいた樹の制服をさらにぎゅっと掴む。

「あ、危ないんだけど!?」

 思わず叫ぶと樹は少し振り返り、私の慌てる姿を見て満足そうに微笑み、前を向いて安全運転に戻した。

「菜穂の運命は今俺にかかってるんだからね。逆らうと恐ろしいよ?」

 少し不気味に笑いだした樹を見て、まずいと思った。

「……あ、安全にお願いします」

 またジグザグに進まれたらたまったものじゃない。ドキドキしながら答えると、前を向いたまま明るく樹は笑っていた。

 自転車はまっすぐ進む。
 すると右側に海が見えてくる。
 私が今の高校を選んだ理由は、実はこれだった。
 通学路にこの海を見ることができれば、何だか勉強を頑張れる気がしたのだ。周りがきいたら『そんな理由で?』と少し驚かれるかもしれない。
 樹がこの高校を選んだのは、ここが有名なアーティストを輩出している名の知れた音楽学校だからという理由だ。
 中学三年の晩春、学校終わりに樹の部屋に制服姿のまま遊びに行き、机の上でお互いの進路希望の紙を『せーの』で見せあった時はまさかのかぶりで『まじかよ』と笑ったものだ。
 この音楽学校に無事合格して、現在高校一年生。
 入学して一週間がたっていた。

「なぁ菜穂」

「ん?」

「もうすぐ自転車の法律が改正されてさ、二人乗りができなくなるらしいよ」

「え、そうなの!?  嫌だな……」

 この自転車に乗せてもらえる期間が定められたことに私は少しがっかりする。

「嫌だな」

 樹は突然始めたその話をさらっと流した。そして、歌を歌い始める。

『遠くまでいける靴を履いて
 あの流れ星を見に行こう』

「樹はその曲本当好きだね」

「好きー」

 この曲は樹が何度も歌うからいつの間にか覚えて私も好きになっていた。
 小学三年の頃に初めて聞いたのにも関わらず、今でも私の一番好きな曲はこれだといえる。
 でも月日が流れた今も、この曲の肝心なタイトルや歌手の顔や名前を私は未だに知らなくて樹の歌でしか耳にしたことがない。歌は最初から最後まで歌えても、誰が歌っているかまでは樹も知らないようだった。
 歌を歌う樹の声は男性だけど少し高音で、時に優しく力強いとても綺麗な声だ。
 その声は一瞬で私の心に響き、ふわっと安心させてくれる不思議な力がある。
 樹はいつかたくさんの人を魅了するシンガーソングライターになる。
 樹の夢は、私の夢でもあった。

「今度オーディションあるんでしょ?」

「あるなー」

 樹は三ヶ月前、株式会社 Civilization Music (シヴィライゼーションミュージック)という大手の音楽会社にエントリーシートと音源を郵送していた。書類選考が無事に通り、来月オーディションを控えている。

「受かればとうとう夢が叶うね」

「そうだなー」

「受かったら、その道のりまで練習につきあった私に感謝してよね」

なんて口にして、樹の背中を軽く叩くと

「……感謝してるよ、今も」

と真面目に返されたので少し拍子抜けした。うるさいなって言われると思ったのに。

「菜穂はさ、夢決まった?」

 自転車が住宅街の緩い坂道に差し掛かった時に、樹は私にそう聞いた。
 夢は決まっている。樹がシンガーソングライターになることだ。
 でもそれを言おうとしてやめた。
 それはきっと周りから見たら私の夢にならないものだから。だからその夢は樹に言わずに自分の胸にしまっておくことにした。でも樹の言葉に何か答えなくてはいけないと、いつもの手を使うことにした。

「私の夢はね、テストで学年一位をとることかな」

「まだそれかー」

「一位とれば安定した職につけそうだし」

「中学から変わらないなー」

 嘘と本当の半々を持ったその夢を語り、緩やかな坂を下りきった自転車はまた真っ直ぐ進む。

「俺とバンドはやらないのー?」

「やらないよ」

「期間限定でもいいよ?」

「興味ない。樹みたいに綺麗に歌うこともできないし」

「でもさっき小絵ちゃんに褒められてなかった? 歌声綺麗だって」

「聞いてたの?」

 そうつっこむと、樹は前を向いたまま嬉しそうに頷いた。

「俺が曲作るから、菜穂歌えば?」

「嫌だよ。恥さらしだよ」

 そう言いながらも自分が歌っている姿を想像してしまった。でも『いや、ないな』とすぐに思い直して冷静になると、樹は突然叫ぶ。

「フラれたー!」

 その声に反応して周りの人が一斉に振り向いた。こっちを見る視線が恥ずかしくて、すぐに樹の背中にくっつき顔を隠した。その横を通りすぎるとほっとして顔を上げ、私は樹の背中を睨んだ。

「ちょっと何か勘違いされる! その件は散々フラれてるじゃん! 今さら何故叫ぶ?」

 そう言うと樹はまた少し振り向いてまた前を向き、自転車を漕ぎながら笑っていた。 
 その後で

「……フラれてるんだよな、俺」

 何故か少し寂しげに、そう呟いた。

「……樹はシンガーソングライターになりたいんじゃなかった?」

「そうだった」

 樹が意味不明なことを言い始めたので、もう知らないと私はほっておくことにした。

 自転車は住宅街をなおも真っ直ぐ走る。その道の少し先を見て、私ははっとして樹の背中を軽く叩く。

「あ、青山がいるよ」

 私の声を聞き、樹も前方に見慣れた制服姿の彼の背中を見つけた。その彼が同じクラスの樹の親友、青山弘(あおやまひろむ)だと確信すると声を張り上げる。

「青山ー!」

 樹の声で振り返ると、青山は立ち止まって手を軽くあげた。

「よお! すげー、俺早めに学校出たけど追いつかれた」

 青山は子供じみた笑顔を浮かべている。

「青山どこいくの? 普段、電車で降りる駅より手前だよね?」

 私と樹は辺りを見回す。

「これから買い物に行くんだよ」

「買い物……こんな住宅街で?」

 お店が全然見当たらないのに、青山の言葉が謎だった。

「あるんだよ、秘密の場所が!」

 青山は嬉しそうに話している。少し眉を寄せ考えている私と樹の様子には気づいていない。

「分かった、ギター教室行くんだ!」

 私ははっとして青山を指差す。昨日の帰り道、青山が最近ギターにはまって習いだしたことを樹に教えてもらった。ギター教室なら個人で経営してる住宅街に溶け込んでいてもおかしくない。答えを確信して私は微笑む。けど

「菜穂ちゃん不正解」

「えー」

 青山にそう言われたので、私はがっかりした。

「結局何なの?」

 樹が尋ねると、青山ははっとして

「お前らも面白いから来る?」

と言う。私と樹は顔を見合わせた。

「……どこに?」

 樹が聞くと

「俺の後ろについてきてよ、近いから!」

 そう言って青山が歩き出したので、樹は首を傾げて振り返り私を見る。私も首を傾げる。

「……行くか」

 そう呟き樹は自転車を漕ぎだす。ついていくことに反対する理由はなかったので、私は樹の自転車の後ろに大人しく座っていた。