私、結婚するわ。
母親に電話越しで伝えた。でもそれは自分自身に言い聞かせるように言葉を発していた。そうでもしないと結婚がドラマの中みたいに誰か別の人の話ではないかと思ってしまう。
大学を卒業して社会人になったあたりから結婚という言葉が急にガラス張りのショーケースに並び始めて、二、三年経ってくるとメニュー表の一面を陣取っていの一番に目に入った。今ではもうワゴンに無造作に入れられるジャンブル陳列の形でそいつはいる。
気安く手に取ったのは私のはずなのに、まだそれを自分に結びつけられないでいる。顔をあげれば結婚話なんて雲散霧消して明日も明後日もまだここにいてしまうのではないかとすら思った。

スピーカーにしたスマホ越しの報告だったから母親の耳には段ボールにワンピースを詰めるガサゴソとした音まで届いていたことだろう。付き合い出した頃に山口が褒めてくれたくすみブルーのワンピース。最近は全く着なかったしたぶんもう着ることはない。私の持っている服の中でほぼ唯一の色彩のある服だったけれど。
「あんまり嬉しそうじゃないのね」
おめでとうではなく、母はまずそう言った。
「そんなことないけど」
「相手は今の彼ではなさそうだね」
わかるんだ。そりゃわかるわよ何年あんたの母親やってると思ってるの。ごめん。
今の彼ではない人と結婚する。改めて噛み締めて、本当に何やっているのかわからなくなる。

今の彼、山口。八年付き合って八年一緒に住んでいる。朝は苦手。日曜日の夜は映画を観るのがルーティーン。寝る時は豆電球をつけない真っ暗派。キスは短めが好き。ハグはぎゅっと強く抱く。美容院は行きつけを作らず毎回違うところに切りに行く。ヘビースモーカー。付き合ったきっかけがタバコだったから私たちは火遊び同盟。ゴミ出しの仕事はゴミ袋を買ってくるところから始まるとしっかり教えた。

結婚する彼、山口さん。私より五つ上。今いる場所から離れたところに住んでいる人。交際期間0日で結婚したいと言った人。カトラリーをきちんと外側から使う人。スープを手前から掬う人。とっても優しい。余裕がある。他のことはこれから知る予定。タバコを吸うかも知らない。苗字が一緒なのは偶然。

「瑠衣」
「なに」
「あんたが選んだことだから私は何も言わないけど」
「うん」
「本当にいいの?」
「何か言ってるじゃん」
「そ。また帰ってきたら話聞かせなさいよ」

深くは聞かれないまま電話が切れると、途端に部屋の中の沈黙がうるさく感じた。
冷蔵庫がズーッと稼働する音、置き時計の秒針がカチカチを刻む音、近くで夕方から行われるらしい夏祭りの喧騒がうっすら聞こえる。LINEがポロんと届いた。母から一言『おめでとう』と。彼がいるはずの寝室からは物音ひとつ聞こえてこない。寝室の荷造りはすでに終わっていることに一安心する。今の電話は果たして彼にも聞こえていたのだろうか。
洗濯が終わり、ピーピーと私を呼ぶ。サニタリールームへと足を運び洗濯機を開けると、しわくちゃな洗濯物が遠心力に負けて真ん中を避けるように渦を描いていた。彼のシャツ、彼のパンツ、彼の靴下、彼のバスタオル。明日にはもうこの家にいない私のものはひとつもない。それでも私がシワを伸ばし、ハンガーへとかけて、浴室に干して、浴室乾燥のボタンを押すのは明日以降の彼への優しさなんかではなく、ただの作業だ。

再びリビングへと戻り荷造りを再開させようとしたが、持っていくものはもうとっくに詰め終わっていた。今詰めているのはここに置いていきたくないものたち。それでもって、荷造りする際に一番最初に手をつけた段ボール。くすみブルーのワンピースとか、いつかもらったスノードームとか、中身をなくした写真立てとか。
愛を解体するのに、ダンボールとガムテープではあまりにも不十分だ。八年同じ住処に居合わせた男女は思っているよりもその深いところで交わっており、テレビ裏の配線よりもずっとこんがらがっている。例えば、ふたりで使っていた使いかけのコンタクトの洗浄液は段ボールに収めるべきか。そのほとんどを結局私が完成させたジグソーパズルは玄関に飾られたままでいいのか。描かれているのはふたりが好きなねずみのキャラクター。一緒に使っていた灰皿は。
ぐっち社長とゔぃとん社長+貧乏さんのスゴロクゲーム残り六十八年、一緒に年額で払った映画のサブスクリプション、いつか行こうと言った新しくできたパン屋の口約束。そんな無形遺産は持っていく術もないし、だからといって置いていくことになるのかもわからない。

何ヶ月話し合ったってそれらの決着点に明確な線引きはない。赤と青を混ぜて作った紫の絵の具はもう今や紫色をした絵の具でしかない。それをもう一度赤と青に戻すことはできない。少なくとも私たちにはできなかった。
こんなになるまで目を背け続けたのは私自身の弱さだ。
私と彼の怠惰だ。

以前、友人に彼のことは好きなのかと改めて聞かれたことがある。まだ私が結婚相手を探そうとしていなかった頃の話だ。
私はしっかり考えて、正直にわからないと答えた。
「それ、自然消滅するカップルが言うやつだよ」
そう言われたとき、ひどく納得したのを覚えている。適当に切ったビニール紐が段ボールをまとめるのにぴったりだったみたいな感覚。そうか、私たちは自然消滅したんだ。同棲しているのに、毎日顔を合わせているのに自然消滅とは不思議な話だけど、それがしっくりきた。
愛することをサボって、愛されていることを確認しなかった。だから私たちはこの結末を迎えてしまったらしい。

「あんま他人の恋愛に口突っ込みたくないけどさ、いつまでそんなことしてんの。私たちもう二十後半だよ」
結婚がジャンブル陳列され始めた時くらい。結婚という選択肢が増えて、でもそれ以外の選択肢を誰もが認められなくなって、つまり選択肢は減っているのだとようやく気付き始めた時だった。

「もうすっぱり別れれば? なんでまだ一緒に暮らしているの?」
「まあでも楽しいのは楽しいし」
「ガキ」
「今更ひとりはなんかちょっと怖いし」
「イタい」
「他の人なんていないし」
「探してないだけ」
友人はとってもいい人。ただ年齢がそのときそうさせただけで。

「まあでも一番は、楽、だからかな」
もうその頃にはたぶん何をどうしたって間に合わなかったんだと思う。


チャイムが鳴った。気づいたらもう引越し業者が来る時間になっていた。この部屋に掛け時計はもうない。ついさっきくすみブルーのワンピースと同じダンボールに入れたばかりだった。
段ボールだけと伝えていたからか、引越し業者は男性ひとり身軽な格好でやってきた。こんなに暑い日でもユニフォームをしっかりとパンツの中に入れ、汗に塗れながら笑顔は絶やさない好青年だった。それでも部屋の中を見た時、少し戸惑った様子で聞いてきた。
「お時間、お間違い無かったでしょうか」
「あ、はい大丈夫です」
段ボールがいくつかまとまっているだけで、生活感はそのまま。帰ってきたらただいまって普通に言える、友達を呼んで家飲みもできる、母親が来て片付けをする必要もない。明日以降もこのまま生きていける部屋に呼ぶ引っ越し業者は確かに来訪者として似つかわしくなかった。

それじゃ、始めていきます。

玄関や廊下に青い養生を貼ることもなく、青年は軽率に荷出しの作業を進めていく。ワレモノ、天地無用、上積み厳禁、取扱注意。
「あの、こちらは?」
閉じられていない段ボールを指さして引っ越し業者は訪ねた。掛け時計がくすんだ青色の布で丁寧に包まれているように見える。見えるだけだけど。
「ああ。それは持っていかなくて大丈夫です」
コワレモノ、思い出無用、持出厳禁、取扱注意、なんてラベリングすればいいかわからず、私は一旦それらを足で蹴って脇に退けた。
居場所無。
青年はそれを見ないふりしてくれた。

段ボールを運んで数往復したら、引越し業者の仕事は粗方終わってしまった。張り合いのない現場だと思っているのか、サボれてラッキーと思っているのかわからないが、青年は最後まで丁寧だった。
「お荷物はお運びしたのですが…、お洋服など大丈夫ですか?」
「大丈夫です。すべて段ボールの中に」
「お靴などは」
「そっか。あーすみません、すぐに段ボールに詰めますので」
「そのままで大丈夫ですよ。トラックにシューズボックス積んでいるのでそのままいただければ」
「すみません」

私たちの玄関にはヒールやブーツなどの歩きづらいだけの靴はなくて、靴底をすり減らしたスニーカーばかりだった。靴底をすり減らした理由が彼と歩いてきた日々の賜物だとしたら私はそれを居場所無にラベリングするべきだったけれど、丁寧な仕事ぶりの青年になんだか申し訳なくて私はそれらを新居に持っていくことにした。
どれが自分の靴かなんて私なら考えるまでもなくわかるけれど、赤の他人から見たらそれがわからないらしい。私のも彼のも限りなく色彩が少ない靴が多いので当然ではあるがそんなところにも彼との生活を感じてしまった。またひとつ見つけてしまった無形遺産。

私が両手に二足、青年も両手に二足持って部屋を出ようとしたとき、青年が「あ、」と言って声をかけた。
「このあと履いていく靴は残してくださいね」
三歩くらい先からかけてくれるみたいな優しい言葉。
冗談として言っただけかもしれないし、引越し業者としてよくある注意点を伝えてくれただけかもしれない。どちらにせよそれは確かに優しい言葉だったから、むず痒く感じた。山口なら決して言わない。
私は丁寧で、笑顔が爽やかで、三歩先から優しく声をかけてくれるこの好青年とは一緒に暮らすことはできないと思った。好きになることはあっても一緒に暮らすことはできない。楽な関係を築くことはできない。
でも結婚となるとまた話は変わってくるような気がして、そのあたりの山口と山口さんの違い、楽と優しいの違いがいまだ私にはわからないでいる。

「じゃあ新居にお届けさせていただきますね」
「はい。ありがとうございます」
すべて運び終えてもそのスペースを過分に残しているトラックを見て、私はまた青年に申し訳なく思いながらトラックを見送った。


部屋に帰ってきた時、予想はしていたことだったけれど、そこはやっぱり私たちの部屋だった。どれだけ私の荷物を運び出したとしてもそこは何度ただいまと言ったかわからないあの部屋だった。
模様替えした時のような新鮮な気持ちすら感じられず、この数週間私が行ってきたことは一体何だったのだろうかと言いたくなる。私たちの部屋を構成しているのは物なんかではなく、一緒に過ごした月日の痕跡だ。それを消せるとしたら一緒に過ごさないこれからの八年しかないのかもしれない。
一方で私の物がなくなった今の部屋は、片目で見れば確かに私が初めてこの部屋に来たあの日に戻れるような気もする。

本当に戻りたい?
そう聞いてきたのは自分の中の天使なのか、悪魔なのか。わからずに母親だと結論づけて追い出す。

エアコンがカラカラと鳴いている。そういえば、この電気代は私も払うのだろうか。
節電のためにと地球に配慮した設定温度にしているものの、冷房が苦手な私たちにはこれくらいがちょうどよかった。でも今こいつが生み出しているのは心地よさなんかではなく、もうこれ以上増やしたくない無形遺産なんだと気づいた時、鬱陶しくなって私は荒々しく冷房を止めた。
窓を開けると、それまで目に見えるほどの存在感で外で待っていた熱気が一気に部屋の中に雪崩れ込んできた。
バルコニーに出る。まとわりつくようなむさ苦しさも冷房のかかった部屋から出たその一瞬だけは快適に思える。もうすでに始まりかけているのか、夏祭りの歓声が途端に身近に感じた。香ばしい匂いが香ってくる。屋台でとうもろこしかイカでも焼いているのだろう。蝉の声が耳につく。窓一枚でこんなにも世界が違う。
四角い箱から綺麗に並んだうちの一本を抜いて火をつける。
このバルコニーだけははじめてタバコを吸ったあの日から何も変わらない。少しだけ汚くなったくらいか。

「僕、ここからの景色が好きなんですよ」
二階なので眺望がいいと言えるほどではない。目の前にはこのアパートの駐車場、右手には手入れの行き届いた空き地が広がる。それは八年間変わらない。変わったことはその当時駐車場の奥に立つ二本の電柱が当時なぜか平行ではなく、寄り添うように倒れかけていたことくらいだ。その二本の間、『人』という漢字に例えるなら支えあうふたりのちょうど間あたりで寂しそうによく月がこちらを覗いていた。
「確かにとってもいいですね」
暮れかけている西日が私ひとりを赤く染める。早くも汗ばんできた。
「でもあの電柱を今度まっすぐに立て直しするらしいです」
その言葉通りそれからしばらくしてから電柱はまっすぐに建て直され、その数年後に二本あった電柱のうち一本は取り除かれ一本に集約されたうえで屹立している。
「諸行無常は沁みますね」
吐いた煙が逆風で私の顔を巻く。目に沁みた。
「山口さんはどうしてタバコを始めたんですか?」
「大学の頃カッコつけて始めました。まあ、火遊びに憧れるアレです」
夏祭りの会場から小さな子どもの声がと諌める親の声が聞こえる。夏祭りの案内が私たちには届かずあっちの家族には届いていることにえも言えぬ何かしらの力を感じる。
「なら私たちは火遊び同盟ですか?」
「随分と幼心をくすぐるネーミングですね」
乾杯をするように私たちは吸い殻を重ね合わせた記憶がある。
今は銀色の灰皿に強く押し付けた。

「好き」と言ったら「好き」と返ってきて、「好き」と言われたら「好き」と返していたころのこと。
それから「好き」と言ったら「俺も」と返ってきて「知ってる」と返すようになっていたころのこと。
ふたりにそんな時代があったことを今や恥ずかしささえ感じる。山口はぐっちで、私はゔぃとん。そんなあだ名で呼び合っていた時代。紫になりきれない赤と青が織りなすマーブル模様の時代は、とても満たされていて一日の終わりにはひどく疲れていた気がする。これまでの楽な関係がそのマーブル模様の賜物だとしたら、それも悪くないとは思う。けれど、この終わり方が楽な関係の賜物であるなら、私にはもう何が正解かわからない。

唐突に寝室のドアが開いて、山口が顔を出した。
その時になって彼が家の中にいたことを思い出す。黒の単色のTシャツに、グレーの短パン。目にかかるくらいの前髪を下ろしている部屋着姿は同棲し始めて知った彼の取り繕われていない姿だ。それが少しかっこいいと思っていた時期もあった気がする。

「終わった?」
「ん」
「寝室片付けてたら見つけたんだけど、する?」

ドアに隠れていた右半身をぬるっと出して手に持っていた花火を掲げた。ガチャガチャとした色合いの包装を見るだけで夏を思わせる手持ち花火。一体いつのものなのだろうか。少なくとも私たちが自然消滅した後に花火をしようと計画したことはなかったはずだ。自然消滅をいつしたのか、そもそもしたのかすら定かではないけれど、少なくともその花火は記憶にないくらいずいぶん前のもののようだった。そんなものをいまだにちゃんと残していた彼の物持ちの良さに心の中で苦笑する。

荷物まとめるからちょっと待ってて、というと彼は手伝うでもなく再び寝室へと戻っていった。

優しさではなく作業として彼が補充しているゴミ袋を引っ張り出して、引越し業者の青年が持っていくことはなく本当に居場所無となった段ボールの中身をゴミ袋へと移していく。
掛け時計をそっとゴミ袋の底に置いた。掛け時計は彼がひとりで暮らしている時にはなく、私が好きなものを買ってきた。思い出が残っているというより、どちらかというと掛け時計のある生活に慣れた彼が困ればいいという私の意地の悪さから捨てていく。電池が抜かれた時計はもう動くことはない。
くすみブルーのワンピースは雑に丸めて投げ入れた。その上にスノードームや写真立てを落とすと、ワンピースが受け止めてくれたけど受け止めきれなかった重さの分、掛け時計と当たって音を立てた。命の感じられない無機質な音だった。
ジグソーパズルは大きい分、かさばった。歯ブラシや洗顔ネットはどうせ新しいのを買うのでゴミ。これはちゃんとゴミ。
それから八年前のカレンダーや日記。カレンダーの何月何日に何色のハートマークが描かれているのかはもうわかっているので読み返さない。日記と突き合わせてその色のハートマークの意味まで思い出してしまっている。ダンボールに入れた時の数週間前の自分をバカだと思う。
初夜につけていた下着も雑に丸めて捨てた。こんなものを大切にとっておいた私が乙女すぎて気持ち悪いと思ったのも数週間前のこと。物持ちが良いのは私も同じ。
思い出と呼ぶにも恥ずかしいただのエピソードが積もったあれこれを捨てると、ゴミ袋はいっぱいになった。八年間の量はこんなものか。多いとも少ないとも判断することを避けて、事実として私はその量を知った。

ゴミ袋の口を結ぶ瞬間にどっと疲れを感じた。別れを実感したのかもしれない。
思い出とゴミを分別せずに入れたけど、これって果たして燃えるんだろうか?



出不精な私たちは近くの公園へいくことはせず、バルコニーでこじんまりと花火をすることにした。
外に出ると、夏祭りがすでに始まっていて陽が落ちた町を明るく染めていた。決してその場にいなくとも夏祭りがやっているというだけで、このまとわりつくような暑さも嫌じゃない。
バケツなんてないからお風呂の桶に水を溜めた。ライターは腐るほどあった。
「ほとんど湿気てるかも」
花火って消費期限とかないのな、と独りごちながら山口が手持ち花火の裏面をにらんでいる。スマホのライトで照らしてあげるなんてことは私はしなかった。

「これならできるんじゃない」
彼の手から手持ち花火を奪い取り、中から線香花火だけ取り出した。花火の仕組みなんてわからないけれど、こよりみたいに頼りない線香花火なら湿気とは程遠い存在に思えた。
かもね、と言った彼に16本入りの半分を渡した。

風呂桶の上でライターの火をかざすと線香花火の先端が身を屈めるように球になった。ジッジッという音が次第にバチバチへと変わっていく。懸命に手を広げるかのように火花を散らすそれがなんだか愛おしく思えた。最後まで火花をまっとうすることなく、火球は途中で風呂桶へと落ちていった。
ポシャンという音とともに最初の線香花火が終わる。
続けて彼が持っていた線香花火もポシャンという音を立てて消えた。

水の中へと落ちた線香花火の灯火は本当に消えたのだろうか。
覆われたひが消えただけでその核のようなものはまだ風呂桶の底に残っているのではないかと、そう思った。水の中から救ってほしいと叫んではいないか。けれど水の中に手をつっかんでジャブジャブと探すほど私は子どもに戻れなかった。

私も彼も何も言わないまま、二本目に火をつける。
夏祭りの喧騒を遠くに感じながら狭いバルコニーで小さく丸まって線香花火を眺めている。家を出ていく日にやったって、花火は綺麗なんだな。愛しているかわからない人とやったって、花火は綺麗なんだな。

「今何考えてる?」
突然の言葉に顔をあげても、彼の視線と重なることはなかった。私も彼と同じように再び線香花火に視線を落として答える。
「花火ってどうしてこんなに綺麗なんだろうって」
「儚いからね」
二人の声の方がよっぽど消えかけていた。
「もし永遠に続く線香花火とか、ずっと空に浮かんだままの打ち上げ花火があったとしたら綺麗じゃないのかな」
「そんなものが開発されたらいの一番に戦争に使われるよ」
「そっか」

ひとり八本あった線香花火を私たちはたっぷり三十分かけて消費した。半分くらいはやはり湿気ていたのかうまく玉にならないまま落ちていった。
それすらも儚いといえるのなら、きっとこの世に無駄なものなんてひとつもない。


「ん。吸う?」
彼がタバコを差し出す。
花火してタバコ吸って。ついさっき出会った頃を思い出していた私は意図せずクスッと笑ってしまった。
「なに」
「いや、火遊び同盟だなって」
彼は少し考えるようなそぶりを見せ、静かに笑った。
「懐かしい」

八年前は少し重くて甘かったはずのタバコはすっかり馴染みのものとなっていた。それは私の肺の奥底まで蝕んで今ではもう体の構成要素の一部となっている。

使わなかった花火を手でもてあそぶ彼を見て、そういえば、と尋ねた。
「なんで片付けてたの? 寝室」
「引越し、しようかなって思って」

驚きを喉の手前で無理やり止めた。止められなかった一部が「へえ」と言葉になって溢れた。どうかどうでもいい相槌に聞こえていますように。
どう考えてもそのきっかけは私の結婚であり、私には驚く権利がないような気がした。
面と向かって彼に結婚すると報告したことはいまだにない。彼がどのような経緯で私の結婚を知ったのか、知った時にどんな表情をしたのか、私には知る由もない。別れようとも告げず、結婚するとも伝えず、謝ることもせず、私は家を出ていこうとしている。
私は最後まで楽をしようとしている。

「明日からどうするの」
「どうするんだろうね。そっちは」
「さあ」
「わかるわけないか」

明日のことなんてわからない。わかっていたら誰もこんなところで黙ってタバコなんて吸っていない。明日のことも将来の健康も棚に上げて私は今ここでタバコを吸っている。
夏祭りが眩しい。

「まさかこんなことで終わるとはね」
彼がポツリとこぼした。誰かに向けられたわけではなく、小説に書かれたセリフを朗読するかのような話し方だった。だから私は何も答えなかった。
別の人と結婚する、たったそれだけのことで私たちは別れてしまう。
理由なく別れた私たちが終わるために拵えた理由。本当にくだらない理由だと思った。

「私たちっていつ別れたのかな」
ドラマで言っていたセリフを朗読するかのように言った。こんなときに言うセリフじゃないね。だから彼は何も答えなかった。
何か答えて欲しかったわけでは決してない。まだ別れてないと思ってた、とでも聞きたいわけでもなかった。彼と話しておきたいことがたくさんあって、聞きたいことがたくさんあって、私との結婚を考えたことがあったのかとか、私が結婚を決めたことに対してどう思っているのかとか、ごめんとかありがとうとかさよならとか、ありきたりなことでもとりあえず伝えなきゃと思って、でもどれを聞いてもどんな答えが返ってきてもすべて後悔につながってしまいそうで、悔いている自分を認めたくもなくて、全部ひっくるめて溢れた言葉がそれだっただけ。
夏祭りの眩しさにほだされて、脳を経由せず喋っただけ。
別れていないとしても、私たちは今日で終わることを、私たちが一番知っている。

ふたりはただタバコをくゆらせて月のない空を見上げていた。夏祭りの明るさに照らされた煙がいつまでもそこに漂っている。
まだそこで揺れている。
彼は二本目に手を出した。
謝ることは一度もせず、私はひとりで部屋の中へと戻っていった。


バルコニーから部屋の中へと戻ると、待ってましたと言わんばかりに部屋の中の熱気が私に纏う。
余った段ボールは後日引越し業者が来て、回収してくれるらしい。来るという表現すらもう適切ではないような気がして、膝から崩れ落ちそうになる。部屋の中に目を走らせると痕跡とか無形遺産とか忘れ物とか失くし物とかがそこら中に転がっていた。どうすることもできず、見て見ぬ振りをして玄関へと向かう。

玄関に掛けられた全身鏡にサコッシュだけ提げた身軽な女が映っている。鏡の中の女は無理やり口角をあげ、不恰好な泣き笑いの表情を浮かべた。
見送られることもないまま、家を出た。

金属製の階段を降りると、カツンカツンという音が響いた。何度も何度も聞いた音だった。

駐車場を突っ切る時、思わず二階の角部屋のバルコニーを振り返ってしまいそうで怖かった。肩に力を入れて前だけ向いて歩いた。

少し大通りに出ると夏祭りの屋台が立ち並び、その明るさに少し目を細める。祭りの実行委員であろう法被を着た人からポスターを受け取った。
随分と背伸びしたポスターだった。ただ屋台が立ち並ぶだけの地域密着の夏祭りなのに、空には花火が上がりみんなは盆踊りを踊っている。バカみたいと思いながら目を離すことはできなかった。
色とりどりの火花で描かれる花火が枯れることなくいつまでも空に浮かんでいる。
明日、戦争は始まるのだろうか。