青城祭二日目 2022年9月31日 pm 15:32:大澤夏樹

 最初に感じたのは、饐えた、吐瀉物のような匂いだった。数時間の間、屯し続けていた数千もの人間の汗や食べ物の匂い。全てが混ぜ合わさり、およそ、普段の生活で嗅ぐ事のない、原始的な匂いが校内に満ちている。
 扉を開けると、本校舎に閉じ込められていた重々しい空気が鼻からに侵入し、その匂いを危険分子と判断した脳は、食道から胃酸ごと吐き出そうとした。
 耐えきれず、夏樹は蹲って嘔吐する。
 やっとの思いで、前を見据えると、

 「なんだよ……これ」

 その情景は、子供の頃に観た映画に似ていた。
 少女が不思議な世界に迷い込み、異世界の住人達の騒動に巻き込まれる映画。そのワンシーン。食器達が躍り狂い、屋敷を訪れた主人公をもてなす場面だ。
 夏樹の眼前では、教室の机や椅子、トンカチや鋏が、狂ったように一人でに空中を動いている。ただ、一つ違う点があるとすれば、それらは訪問者へ歓迎のダンスを踊るのではなく、窓や教室、文化祭展示を破壊していた。
 ガラスを引っ掻く鋏。壁を乱暴に叩くトンカチ。黒板を打ちつけ続ける机。
 ヒステリックに暴れ狂う道具達は、『学校が、憎くて仕方ない』と怒っているようにも思える。
 呆然と、部活棟へと続く鉄扉の前で、学校が蹂躙される様子を傍観していると、突然、ガラスが断末魔をあげた。すぐ横の窓ガラスを、椅子が叩き割ったのだ。ガラス片が飛沫のように飛び散る。

 「うわあ!」

 とっさに横に移動した為、夏樹は教室のドアにぶつかった。鈍い音が廊下の騒音に溶ける。 荒れ狂う道具達に存在がばれ、破壊の対象が自分になる事を危惧したが、道具達は襲い掛かるばかりか、夏樹の存在に気づいてすらいない。まるで意に介さず、破壊を続けている。
 (俺のことを認識していない、のか……?)

 夏樹は、荒れる息を整え、すでに割れた窓を叩き続けている椅子から、ゆっくりと距離を取った。むせ返るような暑さと、立ち昇った埃の匂いの中、震える手を必死に押さえながら周囲を窺う。すると、一つ、分かった。

 何かが、何か透明な生き物が、椅子を振っている。

 夏樹の視線の先では、先の飛び散ったガラス片が、丁度、足のような形で空白になっており、その空白は、椅子が動く度に変化していた。先日受け取った怪文書。目の前の、校舎を破壊する透明の怪物達。そして、いつか出会った透明人間の少女。点と点が結びつき、夏樹は荒れ狂う思考の中、結論を導いた。

 目の前にいるのは、透明人間だ。透明化した人々が校舎を破壊している……!

 その事実に戦慄し、夏樹の体は一段と体温を下げた。文化祭に訪れた人々全てが、透明人間になっているのであれば、その数は8000では足りない。夥しい量の透明人間達が、この青城高校に存在する事となる。

 (なんで、彼等は学校を破壊しているんだ……?)
 (いや、そもそも何故透明人間になっている……?)

 思考を巡らす夏樹を嘲笑するように、廊下中から、けたたましい破裂音が上がる。
 夏樹は唾を飲み込み、浅い呼吸を繰り返す。

 (兎に角、逃げるしかない。 部室棟には何もいなかったはずだ)
 パニックに陥っている頭で、捻り出した結論。
 『部活で鍛えた脚を信じ、ドアを再度開けると部室へと走る』
 決心し、行動に移そうとしたその瞬間、何かに左腕を掴まれる感覚と共に、後頭部に鋭い痛みが走った。

 「ぐあ……!」

 何か、硬い物で叩かれたような感覚とともに、視界が揺れる。一瞬、視界が暗転しかけるが、普段の練習から激しい競り合いをしていた事が幸いし、なんとか踏み止めた。瞬間、後頭部に再び大きな矢印が刺さる感覚が走った。必死に左腕を振り解き、距離を取る。咄嗟の行動が功を奏し、必殺の二発目は外れ、教室の壁を叩いた。

  痛みに顔をしかめながら前を睨み付けると、夏樹の血で濡れた、黒板消しほどの大きさの木材を抱えた、全身黒服姿の大男が立っていた。

 (に、人間……?)

 一撃目の傷は思ったよりも深い様で、頭がクラクラとする。目出し帽のせいで、誰かもわからない。しかし、その屈強な体に漲る殺意は、ふらつく頭でも感じとれた。夏樹は、一歩、また一歩と、ゆっくりとした足取りであとずさる。それに合わせるように、黒服の男も、着実に距離を詰める。
 その動きは、『ここがお前の墓所だ。絶対に逃しはしない』、そんな明確な目的意識さえ感じさせる。夏樹は、目の前の男を牽制する一方で、時折、背後に視線を配り、透明人間達から挟み撃ちに遭わないように最新の注意を払う。

 その最中、夏樹は鼻の中で、血が流れるのを感じた。鉄と埃の混ざった粘液が、口へと流れ落ちる。頭痛。血の匂い。周囲の透明な怪物が校舎を壊す音。目の前に溢れた、殺意。

 ————きっとこれは、俺への罰だ。あの日以来、全てから目を背け、決断を、行動を遠回しにしてきた自分に呪いが追い付いたのだ。呪われた人間の行く先は、惨めな敗北と惨たらしい死だ。このまま、終わる。誰にも見つけて貰う事もないまま、俺の人生は幕を閉じるのだ。過去に呪われたアイツのように、消えて行く。

 「ははっ」

 乾いた笑いが溢れ出すと共に、夏樹の脳内に走馬灯が浮かんだ。