肌にべったりと張り付いたシャツに不快感を感じながら、自転車を漕ぎ、駅へと向かう。今年は例年を遥かに凌ぐ酷暑であり、9月初旬の今日でさえ最高気温が32度にも至ると言う。雲ひとつない空に、得意げな顔をした太陽が居座っていた。
「……暑すぎる」
 自身の背丈まで伸びたススキを横目に、砂利道を漕ぎ進む。駅前の大通りまで繋ぐ工事が行われているはずだが、いつまで経っても進展がなく、飽きた本を投げ捨てるかのように、いくつもの工事道具と剥き出しの砂利道だけが放置されている。
 夏樹は大腿四頭筋を振り絞ってスピードをあげた。黄色信号に飛び込んで角を曲がると、颯爽と駐輪場に自転車を止め、白いタオルで汗を拭った。家から数分移動しただけだが、前髪が縮れるほどの汗をかいている。願掛けがてら、シーブリーズを体に塗り付けてから、駅へ入った。
 予定調和のような、狙いすましたタイミングでやってきた電車に乗り込む。冷えた人工的な空気を深く吸い込み、第二ボタンを開けた。襟元をばたつかせつつ周囲を窺うと、通勤通学時間であるにも関わらず人の数は少なく、空席が目立った。
 夏樹は、比較的余裕のある席に腰を下ろし、ノイズキャンセリングイヤホンを装着した。ランダム再生を開始すると、米国ロックバンドの曲が流れ始め、重々しいギターリフが外界を遮断した。

 そのまま刺々しい曲に没入していると、いつの間にか車内が混雑している。既に座席は埋まり、立ったままの乗客は皆、手元のスマートフォンや文庫本に没入して下を向いている。
 甘ったるい香水やスーツに染み付いたタバコの匂い。視界に映る灰色の群衆の色のように濁った空気が、車体が揺れるたび、不快にかき混ざる。
 目の前の社会人にも、皆平等に学生時代があったと考えると、夏樹はなんだか不思議な気分になって来た。紺の高級スーツを身に包んだオールバックの男は、きっとクラスの中心人物で、恋人を欠かす事もなかったに違いない。そして横に座る老婆は、ちょっと想像もつかない。
 そんな事を考えている夏樹の足先に、滲むような痛みが走った。
 目を向けると、手入れがされていないのか、足先が緑色に腐った革靴に踏みつけられている。初老のサラリーマンである。鼠色のスーツは皺で歪み、皮脂に塗れた頭髪は生え際まで後退し、絶体絶命といった所だ。

 『緊急停車します。ご注意ください』

 無機質な電子音声が流れると、夏樹の体は大きく左へと流れた。そのまま、足は更に強く踏みつけられる。

 ————コイツ、気付いてないのか?

 停車後、焦った様子で弁明する車掌の声を聞きながら、夏樹は目の前の男を睨みつけた。男は、出勤時間を気にしているのか、ぶつぶつ喋りながら頻りに腕時計を確認している。
 すると、男と夏樹は視線を交わした。その最中、男が浮かべた歪な笑みを、夏樹は見逃さなかった。

 『I am the voice inside your head you refuse to hear.』
 ふと、耳元を流れる曲から、こんなフレーズが流れた。
 『俺は、お前が聞くのを拒んでいる、脳内の声だ』
 慣れ親しんだ歌詞の日本語訳が浮かぶと、夏樹は、男の脛に蹴りを入れた。

 「おい! お前今蹴ったろ!」

 痛みに引きつった顔で男が叫ぶ。その声に反応するように、車内の視線が二人へと向けられた。スマホを構える若者や、朝からの騒動に眉を潜めた中年女性などの、好奇心と侮蔑が混じった視線が。

 「どうしたんすか、急に」
 夏樹は、あくまでも落ち着いた声色で返答した。真っ直ぐに男の両眼を見据える。
 「だから、今俺の足を蹴っただろう!」
 「ちょっと、よく分からないな」

 『安全の確認が取れました。運行を再開します』
 再度、無機質な女性の音声が流れると、ゆっくりと電車が動き出した。

 「お前、どこの高校だ」
 「確証も無いのに教える必要は無いな。そんなことより、靴、磨いた方がいいっすよ。意外と足元って見られてるし、何より靴が可哀想だ」
 迫る男を、夏樹は言葉巧みに飄々とかわす。唾を飛ばしながら、「最近の若者は」などと罵詈雑言を浴びせる姿を見ながら、夏樹は別の事を考えていた。

 青春時代は、透明な呪いに溢れている。

 何もそれは、『死ね』だの、『消えろ』みたいな、短絡的な言葉じゃない。友人関係の不足だったり、異性から掛けられた何気ない一言のような、日常生活に無数に巣食うありふれたものだ。その呪いによって、俺たちは、その後の人生の行動や思想、性格さえもが影響を受ける。未成年淫行でゴシップの種にされる経営者も、大人になってからハメを外すエリート社員も皆、この透明な、青春の呪いにかかっているのだ。
 この男は、その典型的な例だ。不潔な服装や血色の悪い肌、そして不発達な表情筋を見るに、社交性に乏しく、恋人はおろか友人さえもいない空虚な青春を送って来たに違いない。そんなコイツが唯一開放される瞬間は、若者をいたぶる時だけなのだろう。俺達、未来ある若者を愚弄することで、失った青い日々への執念を晴らしているのだ。

 哀れすぎて、涙が出そうだぜ。

 「それじゃ。俺、行きますね」
 「おい、まだ話は終わってないぞ!」

 夏樹は、怒りに任せて声を上げる男を押しのけ、池袋駅で電車を降りようとする。男は逃すまいと肩を掴むが、その瞬間、全身が強張った。
 夜の闇の如く深い漆黒の髪は、彼の彫刻のような顔立ちと調和し、見る者の心を引き込む。その端正な顔立ちを、厳しい研鑽を物語るかのように発達した、滑らかな力強さを持つ巨躯が支えていた。

 「う」

 その青く力強い青年からの視線に、男は腕を離した。夏樹は、肩口を整えつつ、ホームへと降り立った。今日は高校サッカー関東選抜のセレクション。勝たなくてはならない戦いの日だ。コンディションを保つ為にも、余計な感情は、持ち込むべきではない。