しばらく考え込んでいると、いつの間にかクラスメイト達が登校しており、ホームルーム開始のチャイムが鳴り響いた。夏樹は、急かされるように小説を仕舞う。
 そのビッグベンに由来する鐘の音に乗って、制服姿に着替えたガクが慌てて教室に駆け込んだ。着替えは中途半端で、第三ボタンまで開いたシャツが、タックインせずにはみ出している。自席に着くすんでのところで、こちらに炭酸飲料を投げ渡す。
 夏樹がうまくキャッチして観察すると、缶の下に油性ペンで『次は負けないゾ!』と書かれていることに気づいた。思わず、その中年男性のような文面に吹き出す。
 それと同時に、担任教師の宇田がやってきた。元柔道国体選手の肩書きに恥じぬ、老いても鍛え上げられた肉体。その豪快そうな見た目に反して毎回一分一秒遅れず几帳面に入室することから、生徒の間でサイボーグなのでは無いかと言う噂が流れていた。

 「伊藤、お前は少し、落ち着きってもんを覚えろ。不快極まりない」
 「サーセン」
 「出席をとるぞ。赤沼」
 ガクの気の抜けた返事が聞こえたのか判らぬまま、宇田はメガネを指先で持ち上げ、業務的に生徒の名前を呼び出した。独特な緊張感を伴う、出席確認が始まる。
 「はい」
 淡々と、生徒達の名前が呼ばれてゆく。暑さからか、皆、声に生気が無い。
 「よし。全員いるな。一旦そのまま座っとけ」
 数十人分の点呼を終えると、普段は興味を失ったかのように即座に退出する宇田だが、今日は教室に留まり、教室の端に座っている。どうやらガクの言った通り連絡事項があるらしい。

 十中八九、文化祭の事だろう、と夏樹は考えた。

 夏樹達の通う青城高校は、明治華族の通う私学校に起源を持つ歴史ある私立一貫高校である。その名残か、今日も多くの社長子息や未来の経営者達が通っており、各家庭の経済力に依拠した自由を謳う実践的な学習をウリとしていた。
 その中でも特に、青城高校の文化祭、通称『青城祭』が校内外で最も注目されるイベントであった。
 『青城祭』の特筆すべき点は学校外部との協力が認められている点だ。生徒達は、自ら校外の店舗や企業に連絡を取り、彼らと協力することで高校生の範疇を超えたクラス企画を運営する。その活力に溢れた若いアイデアの発露を見ようと、三日間で延べ、1万人以上の来場者が訪れる一大イベントであった。
 しかし彼の文化祭に対する情熱は欠如しており、来年の受験戦争を控える身として、一刻も早く授業を開始し、準備に勤しみたいと思うばかりであった。
 少しでも時間を無駄にしないように、一限の日本史の用語集を開き、鎌倉仏教開祖の名前を考える。

 「失礼します」

 風が吹いた気がした。ざわめいていた教室が静まり返り、荘厳な空気さえ帯びる気がする。入室し、教室を見据える女子生徒。たったそれだけの仕草に目を奪われ、記憶から捻出した日本史の用語など、とうに頭から霧散していた。
 少女は、黒い絹の様に艶やかな髪を靡かせ、教壇に上がった。透き通る様な肌と白を基調としたセーラー服が、髪の漆黒をさらに強調させている。

 「生徒会長、西園寺薫です。今日は文化祭について、少しお時間を頂きます」
 心なしか、彼女が言葉を発する度にクラス全体に活力が戻る様だ。
 「今年のテーマは『花』に決まりました。私の名前が、花に関係ある物なので少し気恥ずかしいのですが」
 そう言って苦笑する西園寺。
 「皆さん、2年8組は、『椿』をイメージした展示を作って頂こうと思います。
 ご存知とは思いますが、ご親族の手を借りる事も外部業者と提携する事も自由です。ただし運営規約や先生方のアドバイスには、最大限従う様にお願いします」
 堂々とした振る舞いが、彼女の自信と経験を感じさせる。自分と同い年である彼女に、どこか大人びた雰囲気を感じるのはそれが原因だろう。

 だが、夏樹が彼女に熱中する理由はその振る舞いでも、美貌でもなかった。

 ————俺は、この声を聞いたことがある。

 すると、目が合った。
 こちらの考えを見透かされている様に思われ、夏樹は思わず心拍数が上がった。
 扁桃型の美しい瞳が、真っ直ぐに夏樹を見つめる。永遠に続くかにも思える数秒の後、西園寺はクラス全体を見渡し、最大限の笑顔で宣誓した。

 「クラス内外問わず協力し、最高の青城祭にしましょう」
 満面の笑みを浮かべる。
 それで、連絡事項は終わりかと思ったのも束の間、

 「というのは建前で、本当は、お願いがあって時間を頂いたんです……!」
 困ったような笑顔を浮かべる彼女の姿は、年齢相応の笑顔に戻っていた。

 「実は、生徒会の一人がしばらくの間、登校できなくなってしまって……」

 必死に頼み込む西園寺。

 「文化祭開催までの間、私たちのサポートをしてくれる生徒を探しているんです!」

 それを聞くと、先ほどまで静寂に包まれていた教室中がざわめき始めた。
 「おい、お前行けよ。どうせ暇だろ」「大会近いから無理」「うちのクラス何やるか決まってたっけ?」そんな生徒達の声が混ざり合って、大きな雑音として教室を埋め尽くす。その音に負けないよう、西園寺は声を張り上げた

 「興味のある生徒は放課後、生徒会室まで来てくださーい! よろしくお願いします!」
 再度、黒髪をなびかせて礼をすると、教室から去って行った。次のクラスでも同じような勧誘を行うのだろう。
 「というわけだ。来週の月曜日まで募集しているらしいから、立候補するか考えておけよ。それじゃ授業の準備しろ」
 宇田が、話のオチをつけた。夏樹は、反社会勢力員にも似た宇田の強面に感謝した。彼の強面がなければ、挙手していたかもしれない。そんな浮き足だった興奮に包まれていたのだ。
 宇田が退室した瞬間、再度ざわめき始めたクラスの中で、のぼせきった頭に鞭を打ち、夏樹は、授業の準備へと取りかかる。そんな平生を装う頭の中で、あの一文がずっと流れていた。

 『どっどど どどうど どどうど どどう 青いくるみも吹き飛ばせ すっぱいかりんも吹きとばせ どっどど どどうど どどうど どどう』