闇夜に佇むスタジアムは、数万人の熱気に当てられ、熱いヴェールに包まれている。観客席から湧き上がる歓声が、既に限界に達した鼓動を、さらに加速させた。
 「決まったー! これでPKはサドンデスへ突入します!」
 しゃがれたマイクの音が、スタンドの喧騒に飲み込まれながらも、湿った夜風に乗って胸の奥深くに届いた。大澤夏樹は、仰々しい屋外照明を睨んでペナルティマークへと向かった。 
 新たな皮膚の様に体にべったりと張り付いた青いユニフォームが不快でたまらない。屈んでボールを設置すると、血走った瞳のゴールキーパーと向き合う。その後ろには、赤い、大きな壁があった。
 その壁は、上から血をぶち撒けたかのような赤黒さで、一つ一つの元素が蠢き、叫び声を上げている。その生理的嫌悪を刺激する光景から逃げるように、目を瞑り、深呼吸をすると、その壁が人間で出来ている事が判った。赤黒い大きな旗を犇かせるサポーターの男達が、苦悶の表情で唾を飛ばしながら、ひたすらに祈りを捧げている。

 「外せ!」「負けろ!」

 これを外したら、俺はどうなってしまうのだろう。敗北者として烙印を押され、蔑まれるのだろうか。もしかしたら、殺されるかもしれない。昔、オウンゴールをした南米代表選手がファンに殺されたと聞いたことがある。
 ぱあん、という一際大きな破裂音が響く。サポーターの一人が打ち上げ花火をあげたのだ。夏樹が客席に視線をめぐらすと、赤い人混みの中央で、発煙筒が炊かれているのが見えた。赤い炎を根元に立ち上がった煙は、上にゆくにつれて薄まっていき、最終的には空気と同化してしまった。
 なぜ俺は、こんな熱帯夜にサッカーなんてしているんだろう。馬鹿みたいじゃないか。たかが玉蹴りの為に、心体をすり減らし、死にそうなくらい緊張している。

 「ははっ」

 あまりの滑稽さに、夏樹は吹き出した。
 そうだ。これはただの球蹴りだ。子供の頃から数え切れないほど繰り返してきたように、ただボールを足で蹴る。それだけだ。
 そう考えると、彼を満たしていた緊張がかき消え、自信が漲って来た。一歩一歩、慎重に助走距離を取り、体格に最も適した四十三度の入射角に位置つく。

 サポーターの声にかき消されつつ、ホイッスルが響いた。夏樹はワンテンポ遅れて走り出し、ゴール右下を狙って右足を振り抜く。ボールの芯をとらえた鈍い音、足の甲に走る心地良い痛みと共に、これ以上無い重みのあるシュートが発射された。
 しかし、相手キーパーは助走時の体勢からコースを読んでいた。低いコースへの対応策として、通常では左足で踏み込む所を、右足で踏み込み、低く鋭いセービングに掛かる。

 伸びる腕、空を切る巨躯。

 夏樹は、ボールが弾かれる音が聞こえた気がした。しかし、渾身の力で打ち出されたシュートの威力は凄まじく、キーパーの左手はなす術なく弾き飛ばされた。ゴールネットを揺する音が響き渡り、相手サポーターの脱力感が大きな波となって押し寄せる。

 「……っしゃあ!」

 夏樹は、右手を突き上げ、勝利の雄叫びを上げた。駆け上がる歓喜の中、倒れ込むキーパーの姿を見てやりたい衝動に駆られたが、踵を返してチームメイトの元へと駆け寄る。彼らは皆、夏樹を讃え、口々に「ナイスシュート!」と叫んでいる。その声は、敵サポーターの怒号や嘆きの声をも飲み込むほどに大きく、スタジアムの空気を一変させるようだった。
 しかし、夏樹は突然、異様な光景に足を止めた。

 チームメイトの顔が、見えないのだ。顔だけ切り取った写真のように、彼を見据える瞳も、笑顔を形作る口元も、すべてが消え失せ、透明に溶けていた。空に浮かぶ虚ろな輪郭の向こうに、人工芝の広がるピッチだけが揺らいでいる。何もかもが透き通ったその景色には人間の温もりなど、微塵も感じられなかった。