試合後の待ち合わせ場所について話しておくのを忘れてしまった。日中に要と別れた地下駐車場へ行こうと思ったが、どの鉄扉を開けたらいいか分からない。全部が該当する扉にも見えるし、違うふうにも見える。入場する前に散策をしたのが間違いだったろうか。そう、美澄は今、迷子だった。
 下手に動くと余計に分からなくなりそうで、薄暗がりの中で煌々と光を放って存在を示す自動販売機の横に並んだ。自分の立てる音が消えると、別の足音が聞こえることに気がついた。何となく息をひそめ、要から受け取ったはくちょんのぬいぐるみを守るように抱え込む。徐々に大きく、鮮明になる足音に呼応するように、スマホが着信を告げた。
「っ……おお、びっくりした」
「す、すみません……」
 気配の主は思い浮かべた相手ではなかったが、見たことのある顔をしていた。驚きに見開かれている涼しげな双眸。観客席で隣になった女性の「推し選手」だった。
「こんな所で何してんすか……ってか、電話、出ないんですか」
 試合中に披露していた軽やかなプレーからは想像もできない気怠そうな声で指摘され、慌ててボディバッグからスマホを取り出す。要先輩。画面に表示された名前に、腰が抜けそうなくらい安心した。
「し、失礼します……もしもし、雪平です……」
『もしもし、美澄ごめんな、どこで待ち合わせるか言うの忘れてたわ。今どこ?』
「あ、えっと、地下駐車場に行こうとして、迷ってしまって……」
 電話に出たのに、丹羽はそこから動かない。温度の低い目が、じっと美澄を凝視している。驚かせてしまったのが、相当頭にきたのかもしれない。
『俺が迎えに行ったほうがいいかぁ。美澄、近くに何ある? ゲートの番号とか看板とか、教えて』
「はい! 薄暗くて、自動販売機と、あの、丹羽選手がいます」
『丹羽さんいんの!? ってか丹羽さんは目印じゃねーから!』
 スマホ越しに要の笑い声が響いた。笑いごとではないのに。唇を尖らせると、目印にしてしまった「丹羽さん」が、
「要の知り合い? 貸して。代わりに説明しますんで」と熱のない口調で右手を差し出した。マメだらけで硬そうな手のひらに、おそるおそる端末をのせる。
「あー、もしもし。俺。なに、待ち合わせでもしてんの? 後輩? ふーん、じゃあ年下か。今、すげぇ説明難しいとこにいんだわ」
 普段ここを使い慣れている人ですら説明が難しいのだ。目印が人になっても仕方ないだろう。
「お前のご褒美スタベの近く。関係者用三番ゲートの近くに自販機あるだろ? そこにいる。ん、分かった」
 話がまとまったようだ。無言で差し出されたスマホを受け取る。
「すみません、ありがとうございました」
「すぐ向かうって。あんた、要の後輩なんだ?」
「はい。要先輩は、高校の一つ上の先輩で」
「ふーん」
 一緒に待ってくれるのだろうか。丹羽は自動販売機にポケットから取り出した小銭を入れ、水を二本買った。やる、と一本を美澄に渡して、もう一本を半分ほど一気に飲んだ。
「もしかして、チケットの人か」
 チケットの人。一瞬考え、要が用意したチケットの話だと結論づけた。
「あ、そうです。要先輩が、チケットを用意してくれて……すごくいい席で、今日は本当に楽しかったです」
「そりゃよかった。アイツ、自分名義でチケット取るの初めてだったから、誰呼んだんだってチームの中でウワサになってたんだよ。後輩だったんだな」
「初めて、だったんですね」
 何故だろう。すごく嬉しかった。
「俺と同じで、野球にしか興味ないんだろうな。プロ入りしてからずっと女の影すらないし、ヘラヘラしてるようで人付き合いも慎重なタイプだから」
 美澄の知らない要の話だった。遠くから、慌ただしい足音が聞こえる。丹羽は音のするほうを見て、ほんの少しだけ口角を持ち上げた。
「美澄ぃー」
「要先輩、すみませんでした」
「丹羽さんもすみません、待っててもらっちゃって」
「いや、別に大した手間じゃない」
「水まで買っていただいたんです。丹羽選手、本当にありがとうございました」
「ん。また来て応援してくれればそれでいいよ。んじゃ、帰る」
「っす。ありがとうございました」
 要が来た道とは反対方向へ歩いていく背中が見えなくなると、肩からどっと力が抜けた。なんというか、オーラがすごかった。
「ほんとごめんな、どこに行っていいか分かんなかったろ」
「俺もすっかり忘れてました。地下駐車場の入り口も、どこだか分からなくなっちゃって」
「お前、昔から方向音痴だよなぁ」
「そうですか?」
「練習試合の時、トイレ行ったっきり戻ってこないと思ったら隣のグラウンドにいたことあったじゃん」
「そんなこともあったような、ないような……」
「つーか目印に丹羽さんはマジで面白かった」
「あれは慌ててたので……!」
「っし、もう迷子にならないように、手ぇつないじゃお」
「えっ」
 指先が触れ合い、するりと絡まる。大きくて温かな手は、豆だらけで硬くなっていた。美澄が野球から離れてから、どれだけバットを振り込んできたのだろう。
 ぎゅっと握られたので、そっと握り返してみる。要は一瞬だけ驚いたように眉を上げたが、すぐにふにゃりと目を細めた。
「さ、帰ろーぜ」
 いつもより、二人の距離が近かった。暑いのに離れたくない。心臓がうるさくて、要まで聞こえてしまいそうだ。試合前だって、緊張したことないのに。
「なあ、美澄」
「……なんですか」
「手汗、すげーな」
「暑いから仕方ないんです!」
 それは言わない約束だろうと抗議の視線を送っても、要はへらへらと笑うばかり。誰よりもカッコよくて頼りがいがあると思ったら、直後にイタズラが大好きな子どものような笑顔を見せる。こういうところが、昔から大好きだ。
「ぴちゃぴちゃ……」
「……」
「っ、あはは、いててて、元ピッチャーの握力強ぇよ」
「要先輩が悪いんですー」
「怒った?」
「怒ってない。ホームラン打ってくれたので」
 階段をおり、美澄一人ではたどり着けなかった地下駐車場で要の車を目指す。道は覚えられなかったが、尊敬する先輩の愛車はすぐに見つけられた。アウディのSUVタイプ。乗り込む為に手を離さなければならないのが、少し寂しい。