リーグ三連覇、そして昨シーズンは日本一にもなった常勝軍団は、今年も首位をひた走っていた。
――その中でも注目すべきは、昨日サヨナラタイムリーを放った間宮要。昨シーズンまでは夏になると目に見えて落ちていた打率が、今夏は目に見えて上昇している。日本代表にも選出される天才が、どこまで成績を伸ばせるかが期待されている。
「カッコいいなぁ……」
 新聞に掲載された記事に目を通すと、思わずそんな言葉が口をつく。
 今日は朝からコンビニへ行って、スポーツ新聞を買ってから出勤した。ファンのお手本のような行動だ。ふと我に返って「何してるんだ、俺……」となる時はあるが、要が一面に大きく掲載されている新聞を見かけるとどうしても手が伸びてしまうから仕方ない。ちなみに、全てきちんと保管済みである。
 ピンポーン、とチャイムが鳴り響いた。二十二時の来客は、ただ一人と決まっている。
「悪い、遅くなった」
「お疲れさまでした。今日は惜しかったですね」
 接骨院の閉院時間が二十一時だからリアルタイムの視聴は叶わなかったが、結果は先ほどニュースで確認した。ゼロ対一。スワンズの完封負けだ。
「もーマジで悔しい。向こうのライトが超ファインプレーしてさぁ。あれで二点は防がれたし。久しぶりの完封負けとか、ホントへこむわぁ」
「そんな要さんに朗報です」
「うん」
「今日の夕飯はハンバーグオムライスです」
「やった、へこんだ心が一気に元通りだ」
 一秒前とは打って変わって足取りが軽くなった要に、笑いが堪えられなかった。
 遠征が無ければ週に一回、オフの日に施術を受けに来ていたのが、今では週に二回、三回と増えた。今日のようなナイトゲームの日は試合後の移動になる為、到着が夜遅い。そういう時は直接美澄の家まで来てもらい、食事を振る舞いマッサージをしたりストレッチの補助をする。オフの日は今まで通り夜八時に予約を取って、接骨院で施術を行った後二人で美澄の家に帰った。
 はたから見たら尽くしすぎだと言われるかもしれないが、多すぎるくらいの食費を(いらないと言っているのに)渡されているし、そのおかげで食卓にのぼる料理の材料が豪華になったので、ウィンウィンの関係だと美澄は考えている。
 リビングのテーブルには、美澄がついさっきまで読んでいた新聞がそのままになっていた。紙面の自分を目で捉えた要が、うわぁ、と眉を寄せる。
「それ、買ったんだ」
「はい。要先輩が載ってるので。ほら、こんなに大きく」
「いや、見せなくていい。恥ずかしいから」
「俺すげー、ってならないんですか?」
「スタメン定着してすぐの頃はなったけどさ、よく考えてみ? アドレナリン全開でテンションぶち上がってガッツポーズしてる自分を後から冷静になって見返すなんて、結構恥ずかしいぜ?」
 俺すげーとなっていた当時を思い出したのか、照れくさそうに両手で顔を覆った要を横目に夕食の準備を進める。形まで作っておいたハンバーグを焼きつつ、ケチャップライスを卵で包んでいく。生ものは美澄自身が苦手なのとアスリートには不向きなので、トロトロバージョンではなくよく焼きバージョンだ。
「要先輩、スプーンの用意をお願いします」
 何だかんだ気になるのだろう。恐る恐るといった様子で新聞に目を通していた要に声をかける。待ってましたとばかりに動いてくれるので、美澄としても頼みやすい。
「おっけー。うわ、やべぇな。超美味そう。しかもデミグラスソースじゃん」
「缶のやつを温めただけですけどね」
「ケチャップも美味いけどさ、デミグラスもいいよな」
 最近知ったのは、要が甘い物以外ではオムライスやハンバーグ、エビフライにから揚げなど、お子様ランチとして出てきそうな料理が好きだということだ。高校の頃はとても大人に見えた一学年の差が、今では懐かしい感情だった。
 食事を終え、ひと休みしたらストレッチとマッサージを施し、夜中に放送されるリアクションが大げさな通販番組を眺めながら、日本代表正捕手の野球談議を子守唄に眠りにつく。そして翌朝、美澄の出勤に合わせて二人で家を出る。いつかファンから刺されるんじゃないかと心配になるくらい贅沢な日々を、数ヶ月前の自分は想像もしていなかった。




 日中の暑さが、より厳しさを増す八月初旬。今日の夕食は素麺だったが、明日も明後日も素麺にしたいくらい暑かった。要はきっと、毎日素麺を出しても美味い美味いと食べてくれるだろうけれど、それはさすがに美澄のプライドが許さない。
 明日の献立を考えながらコーヒーを啜る。カフェインへの耐性があるのか、寝る前にブラックコーヒーを飲んでも影響を受けない体質だった。
 ふと、テレビから木製バットの打撃音が聞こえた。いつも流しているニュースのスポーツコーナーで、野球特集に切り替わる時のジングルだ。
――今日のプロ野球スーパープレーをお届けします! まずはこの選手。東京スワンズ不動の正捕手、間宮要選手の強肩発動! 昨シーズン盗塁王の東選手にも、進塁を許しません。
 よく見かけるスポーツアナウンサーが、映像に合わせて熱の篭った声で語る。
――いやぁ、このプレーは本当に凄かったですよ。二塁に進まれたら、東選手にはヒット一本で帰ってくる足がありますからね。今日の試合、ここで決まったと言っても過言ではありません。間宮選手の強肩は宝ですよ。彼がいるかぎり、日本代表の捕手には困らないでしょうねぇ。
 右下のワイプで嬉しそうに目を細めたのは、解説者の野村。元キャッチャーである老齢の彼は辛口の批評で有名だが、今日の要は文句のつけどころがない活躍だったようだ。
――長年プロで活躍された野村さんでも、そう思われる選手なんですね。
――ええ。是非とも自分が教えたかったくらいの逸材ですよ。
 パッと映った観客席の画角だけでも、要のユニフォームを来たファンがたくさんいる。試合を観る前から薄々分かっていたが、要の人気は凄まじい。多分、球団で一位二位を争う「チームの顔」だ。
「ねえ要先輩、すっごい褒められてますよ」
「なー。俺、今日全然打てなかったのに」
「勝ったからいいじゃないですか。というか、普通に一本ヒット打ってたし」
「でも、単打だし。得点に絡めなかった」
 どうやら今日は「納得行かなかった日」のようだ。ほぼ牛乳の甘いコーヒーをちびちびと啜り、不服そうに唇を尖らせる横顔を盗み見る。テレビの向こうで躍動する、プロ野球選手としての間宮要しか知らないファンは、今日はダメだったと落ち込む彼を知らないだろう。後輩の家でこうして寛いでくれていることも、知っているのは美澄だけ。そんなちょっとした優越感が、無加糖のブラックコーヒーをほんのりと甘くした。
「なあ、美澄ぃ」
「なんですか?」
 野球の話題がサッカーに移る。呼ばれたので隣を見たが、要はテレビの画面に目を向けたままだった。
「連休って取れんの?」
「取れますよ。来週の火曜と水曜も連休ですし」
 これといってどこかへ行く予定もなく、当たり前のように要と過ごすつもりでいる。
「よかったら、試合観にこない? スワンズドームの一塁ベンチ上の席、関係者枠で用意できるんだけど」
 美澄が野球観るの、しんどくなければ。落ち着いた口調で続けられた言葉に、要がこちらを見なかった理由を察した。目を合わせたら断りにくくなると思ったのだろう。小さな気遣いが嬉しかった。
 かさぶたで覆われた心の傷に問う。自分はどうしたい? そんなの、決まってる。
 美澄の宝石みたいなヘーゼルがぱぁっと明るくなり、キラキラと輝き出す。蕾がほころぶような笑顔が、答えだった。
「俺、観に行きたいです。先輩が野球してるところ」
「よし、分かった。いい席取ってもらうから、楽しみにしとけよ?」
「はい!」
「んで、試合終わったら俺んち泊まってきな」
「え、いいんですか?」
「もちろん、いつも泊めてもらってばかりで悪いしさ。火曜日の試合観て、一緒に帰ってそのまま泊まる感じでいい?」
「いつもと逆ですね」
「……嫌?」
「いえ、すごく楽しみです」
「絶対勝たなきゃなぁ」
「期待してます。ホームランですか?」
「プレッシャーかけるなぁ。ま、絶対楽しませるからさ」
 大きな手のひらが、美澄の丸っこい頭をぽんぽんと撫でた。一週間後が、今から待ち遠しくて仕方ない。