二度目の夕食だというのに、要はあっという間にどんぶりを空にした。
「ごちそうさま。美味かったし、すげー食いやすかった」
「よかったです。じゃ、コーヒーいれてくるのでゆっくりしててください」
「何から何まで申し訳ないから、何から手伝うよ。皿洗いとか」
「大丈夫です。俺が勝手に連れてきたので」
「俺、美澄にあんなに怒られたの初めてだったからビビった」
 手伝いは不要だと言ったのに、要は空の食器を持ってついてきた。万が一お湯がこぼれて火傷なんてさせたら、美澄では払いきれない賠償金を球団から請求されそうなのでキッチンから追い出すと、渋々さっきまで座っていたソファへと戻っていった。その背中があまりにも寂しそうで、美澄は大急ぎで食器を片付け、アイスコーヒーとアイス牛乳コーヒー(激甘)を作った。
「要先輩。すみません。すごく甘くしちゃったので、牛乳足したい時は言ってください」
「えー、そんなに? いただきまーす」
「あ、ちょっ、ほんとに甘いですって」
 注意喚起したにもかかわらずグラスを豪快にあおった要が、キラキラと目を輝かせて美澄を見た。
「やばい、めっちゃ美味い!」
「俺は要先輩の味覚が分からない……」
 まるで子どもみたいな笑顔につられて笑ってしまう。テレビでただ流れているバラエティも相まって、リビングは明るい雰囲気に満ちていた。
「お前がいたら、夏も苦手じゃなくなりそう」
 その言葉に、鼓動が速くなる。分かっている。要に必要なのは美澄自身ではなく、施術や作った料理のほうだってことは。
「自分で作る余裕ないなら、ご家族に作ってもらったらいいんじゃないんですか? 埼玉と東京なら、通えない距離じゃないですし」
 要が母子家庭で育ったのは知っていた。彼によく似た美人な母親が、たまにスタンドの上のほうで応援していたのを覚えている。
 試合間の空き時間に会話する姿を見るかぎり、親子関係は良好そうだったし、息子がこれだけ活躍しているなら喜んでサポートしてくれそうな気がするのだが。そんな美澄の考えは、すぐに叶わぬものだと気付かされる。
「母さんは死んだよ。俺、もう独りなんだ」
「……え」
「俺が高校を卒業して、一ヶ月くらいの時かな。プロになりたてホヤホヤだった俺に心配かけたくなくて、調子悪いのずっと我慢してたみたいでさ。倒れて病院に運ばれた時にはもう遅くて、あっという間だった」
 美澄は衝撃のあまり取り落としそうになったグラスを両手で持ち直し、喉から言葉を絞り出した。
「そう、だったんですね……」
「それからもうずっと一人でさ。別に、自分で飯作れないこともないんだけど、夏とかシーズン後半はやっぱりキツくて」
 要は眉を下げて小さく笑った。
「すみません、何も知らずに……」
 無神経な発言だったと、美澄は自分の無知を恥じた。生命と野球じゃ重みが違えど、突然失うということの痛みを知っている。
「言ってなかったもん、仕方ねーよ。むしろ謝るのは俺のほうだろ。ちょうどお前が怪我した時期と重なったんだよ。手術するくらいの怪我だって聞いたのに連絡してやれなくて、先輩らしいことしてやれなくて……悪かった。本当に」
「謝らないでください。要先輩は何も悪くない」
「……俺、キャプテンだったじゃん」
「ええ」
 扇の要で、四番で、キャプテン。そしてバッテリーを組んだ相棒として、誰よりも頼りになる人だった。
「俺、キャプテンとか、ほんと、そーゆーの向いてなかったんだよ。疲労と暑さとプロの緊張感でこのザマなのに。そんな奴が先頭に立ってまとめる立場とか、笑っちゃうよな」
「向いてないなんて、一度も思ったことはないです。要先輩を超えるキャプテンを、俺は知らない」
 口の端に自嘲を含ませた要を、かぶりを振って否定した。美澄にとって、要は世界で一番のキャプテンだった。きっと、当時のチームメイトもそう思っているはずだ。
「まあ、そういうネガティブな感情を抱え込んで、平気なフリして意地を張り通せるところ。全然変わってないなーとは思いますけど」
「……よーく分かってんじゃん」
「バッテリーでしたから」
 要が美澄を知っているのと同じだけ、美澄も要を知っている。いつか、胸を張って言える日が来ることを願っている。



 ふと見上げた壁掛け時計は、間もなく日付けを跨ごうとしていた。

「先輩。もう夜も遅いし、泊まっていきます?」
「え、さすがに迷惑だろ」
「ストレッチ補助に朝食付き。悪くはないと思いますが」
「俺は嬉しいけど……美澄は嫌じゃねーの?」
「嫌だったら、そもそも家まで連れて帰ってきて夕飯食べさせてませんよ」
「そっか。じゃあ、甘えさせてもらおっかな」
 ふわりと笑えば、ちらりと覗く八重歯が眩しい。男から見てもかっこいい上に背も高く野球が天才的に上手いだなんて、神様は何物を与えれば気が済むのだろう。
 平日の試合は基本的に夜に行われるナイトゲームの為、午後から動き出しても十分間に合うらしい。明日は火曜日。美澄は接骨院自体が休みなので、一日休みだ。
 順番に風呂に入った後、公約どおりストレッチを手伝う。座ったままでも二塁へストライク送球が出来る要の強肩は人よりも可動域が広く、一人ではなかなか満足に伸ばすのが難しそうだった。
「息は止めないでくださいね。痛かったら教えてください」
「うぃ~……」
 あぐらをかいて座る要に頭の後ろで手を組んでもらい、背後に立つ美澄が両膝で要の肩甲骨を押さえ、両手で上腕を斜め後ろに持ち上げる。心配になるくらいの可動域だが、本人は痛そうな素振りを全く見せないので大丈夫なのだろう。
「次、足伸ばします。仰向けに寝転がってください」
「んー」
 フローリングに敷いたヨガマットの上に寝転がった要と視線がぶつかった。本人の嗜好と同じ甘ったるい眼差しが、美澄を捉えて離さない。何故か先に逸らしたら負けだと思って見つめ返すと、要は心底嬉しそうに、そしてくすぐったそうにはにかんだ。
「わー、ホントに美澄だ。ほんもの」
「なんですか、藪から棒に」
「だって、もう会えないと思ってたからさぁ……」
 それは美澄とて同じ思いだった。嫌われたとばかり思っていた。辛いのは自分ばかりだと思って、勝手に嘆いて、諦めて。
 左のハムストリングスを伸ばしていた手を止める。美澄が次の言葉を探しているのを察してか、要はゆっくりと半身を起こした。
「……俺、実は」
「うん」
「怪我をした時に要先輩から連絡がこなかったのは、先輩が俺のことを嫌いになったからだと思ってました。怪我をして、思うように投げられなくなって、俺は野球から逃げた。こんな弱くて卑怯な俺のことなんて、嫌いになって当たり前だって」
 弱虫な自分自身が大嫌いだった。膝の上で握ったこぶしが震える。
「本当は、俺もプロになりたかった。また要先輩とバッテリーを組みたかった。スカウトもきてたし、球団の人と話をする機会もあった。それなのに、俺はみんなを裏切って逃げたんです」
「逃げじゃないだろ」
 要の右手が、美澄の左手首をそっと掴んだ。年中着ている長袖シャツの袖を上腕まで捲られる。
 さらけ出された、消えない手術痕。白い肘の内側に走る一本線は赤みを帯び、苦しい記憶を思い起こさせる。それらを全部上書きするみたいに、要の少しカサついた指先がなぞった。
「これだって、美澄が頑張った証だと俺は思うけど」
「……っ」
「それに、プロになることが全てじゃないしな。柔整師と指圧師だっけ? スポーツやってる人をサポートする仕事してるじゃん。それは逃げなんかじゃなくて、真摯に向き合ってる証拠だと俺は思うよ」
 ツンと鼻の奥が痛くなって、慌てて上を向いた。
「……あまり、やさしい言葉をかけないでください」
「え、どうして。俺今すげー先輩っぽいこと言ったじゃん」
「でも、要先輩が俺の先輩でよかったなって、改めて思いました。ありがとうございます」
 誰がなんと言おうと、要は世界で一番のキャプテンだ。