三度目の来院は、久しぶりの試合観戦から二週間後のことだった。
 要の所属する東京スワンズが加盟しているラ・リーグは、全国各地に本拠機を置く六チームが参加しており、シーズン中に開催される試合の半分はホームゲーム、もう半分は各本拠地に出向いてのビジターゲームとなっている。遠征で家を空けていたから来られなかったのだと、予約の際に要本人から聞かされた。
「美澄ぃ……バス移動で腰バキバキだから、重点的にお願いしてもいい?」
「分かりました。マッサージ終わったら、電気治療もしましょうか」
「ん。ありがと」
「あ、そうだ。先輩、試合観ましたよ」
「マジで? どうだった? 俺、活躍した試合だった?」
 隠しきれていなかった疲労の色が一気に吹き飛んだような、明るく弾んだ声だった。
「一回裏に、スリーラン打った時の試合でした」
「めっちゃいい時じゃん! やっぱ俺、持ってんなぁ」
「そうですね。やっぱり、本当にカッコよかったです」
 アンダーウェア越しに触れ、全身の状態を確認していく。本人の申告どおり、腰の筋肉がカチカチになっていた。遠征なんて日本各地へ行けて楽しそうだと思うが、長時間の移動やそれにともなう疲労の蓄積など、いいことばかりではないらしい。
「いいとこ見せられてよかった」
「でも、次の試合では三打席連続三振……」
「うわ、そっちも観ちゃった?」
「はい。肩に力入りまくってるなぁ、って思いました」
 アウトを告げられた時の悔しそうな表情は、初めて見る顔だった。
「あの時は負けてたから、どうしても点数とってやりたかったんだよ。頑張って投げてるピッチャーの為にも」
「その結果、最後の打席で逆転タイムリーって……漫画に出てくるヒーローかって思わずツッコミいれましたよ」
「一人で?」
「一人で。ビール飲みながら」
「はは、その美澄見たかった」
「昔からそうでしたよね。要先輩は、責任とか期待とか、全部一人で背負えてしまう人だった」
 要は何も言わなかったけれど、指先に伝わってくる肩の張りが答えだった。先日よりも時間をかけて解していこう。片付けと戸締りは下っ端である美澄の役目だ。多少時間がオーバーしても、何も言われはしないだろう。
 マッサージに電気治療。全ての施術を終える頃には、多々良も吉村も帰宅した後だった。二人きりの室内は静かで、互いの呼吸さえよく聞こえる。好都合だ。心置きなく懸念をぶつけられる。
「要先輩、少し気になったことがあるんですけど」
「んー?」
「前回来院した時より、痩せましたよね……?」
 わずかな変化だったが、それはたしかな違和感だった。壁に貼られた人体模型をイラスト化したポスターを眺めていた要が、ぴくりと肩を跳ねさせる。
 要先輩、ともう一度名前を呼べば、先輩捕手は恐る恐るといった様子で振り返った。バチッとぶつかった目は、すぐにフラフラと泳いで逸らされる。自覚ありか、この人。
「飯、ちゃんと食ってるんですか」
「まあ、それなりに」
 怪しい。それなりって何だ。
「ホントですか」
「……うん」
「今日の夕食は?」
「食べた」
「何を」
「…………素うどんを、少し」
「はい?」
 この身長と筋肉量で小麦粉オンリーはダメだろう。そもそも、キャッチャーは消費量の多いポジションだ。しかも今は夏。たくさん食べても、どうしても夏は痩せてしまうんだと、同級生のキャッチャーが言っていた。要だって例外ではないはずだ。
「タンパク質は? 脂質は? ビタミンやミネラルは? というか、少しってどれくらいですか」
「このくらいの器の、半分」
 両手の手のひらで受け皿を作って、要は唇を尖らせた。
「いやいやいや、計算しなくてもカロリー不足でしょう!」
「……ス、スミマセン」
「まさか、毎年じゃないですよね」
「夏は、どうしても苦手で」
「でも、シーズン打率は低くないですよね」
 調べてみたら、三割前後だった。要は「気合い」と言って苦笑した。その状態で今までどうにかなっていたのは、才能と努力と意地っ張り故か。
 心配を通り越した感情が、何故か怒りに変換された。ふつふつと湧き上がって、色素の薄い目が据わる。
「要先輩」
「っ、ハイ」
 ガッと要の右手を掴んで、甘ったるい目をじっと見つめて、美澄は言った。
「うちに来てください。俺はこれから夕飯なので、一緒に食べましょう」



 キッチンカウンター越しに見える憧れの人は、居心地が悪そうに小さくなっていた。ソファに浅く腰かけ、テレビを眺めている。時折こちらをチラチラ気にしているのが面白い。
 明日も試合なので、あまりのんびりはしていられない。身体を休めるのも、プロ選手の立派な仕事だ。
 ご飯はタイマーで既に炊き上がっていて、あとは食材を刻んでいくだけ。刻んだオクラに一口大にカットしたアボカド、納豆にとろろ。それらをどんぶりによそったご飯にのせていく。同時進行で作った豆腐とワカメの味噌汁も、いいタイミングで完成した。
「先輩、お待たせしました」
「ありがと。おお、すげー」
「刻んでのせただけなので。簡単ですよ」
「でもごめんな、わざわざ」
「今日は元々ネバネバ丼にする予定だったので。一人分も二人分も変わらないです。さ、食べましょうか」
 最近、暑さがより厳しくなってきたから、今日は元々食べやすさ重視のメニューにする予定だった。美澄が手を合わせると、要もそれに続く。いただきます、と二つの声が重なった。
 要は納豆ととろろの境い目をスプーンで慎重にすくって大きな口で頬張ると、ふにゃりと相好を崩した。美味しいですか? と聞くと、何度も首肯する。口に合ったようで何よりだ。
「うめぇ」
「それはよかったです。ちなみにキムチも刻んだので、味変の時はご自由にどうぞ」
「俺、辛いの苦手……」
「あー、甘党でしたっけ」
「そ。辛いのもだけど苦いのも無理」
「このあと、コーヒーいれようと思ってたんですけどお茶にしますね」
「牛乳入ってれば大丈夫」
「何対何です?」
「九対一」
「牛乳が九?」
「うん。あと甘くしてほしい」
「お茶いれるの、全然手間じゃないですよ?」
「コーヒー牛乳は好きなんだよ、俺」
 それはもはやコーヒー牛乳ではなく牛乳コーヒーでは、と思ったが、口には出さなかった。「好き」を語る要は、いい顔をしている。
「もしかして、今もスタベの新作飲みに行ってるんですか?」
「いや、身体の為にもあまり行ってない。甘いもの食べていい日は決めてて、三ヶ月に一回くらいにしてる」
「俺、要先輩が寮の食堂ではちみつ飲んだの、いまだに覚えてますよ」
「あの時の美澄のドン引き顔、俺も覚えてるわ……」
 要が極度の甘いもの好きだと知ったのは、美澄が高校に入学し、バッテリーを組んで間もない頃だった。スタベの新作フラッペが発売されるたび付き合わされるのだと、当時の最上級生が教えてくれたのだ。
 何だか不思議な気分だ。嫌われてしまって、もう二度と会えないと思っていた要が、美澄の家で、美澄の作った料理を食べながら、想い出話に花を咲かせている。夢かもしれない。逃げた野球に再び目を向けて、センチメンタルになった心が見せた幸せな夢。でも、それでもいいや。