夕食後、要の部屋を訪れた。淡い期待を抱きながら、扉を三度ノックする。要はすぐに出てきた。
「おう、いらっしゃい」
「おじゃまします……」
 合同自主トレが始まってからずっと、マッサージは美澄の部屋で行なっていた。初めて入る要の部屋。美澄に割り当てられた部屋と内観はほとんど変わらない。
「ミネラルウォーターしかねーけど、いい?」
「あ、はい。大丈夫です」
「好きなところ、座ってて」
 美澄の部屋では荷物置きになっている、奥の窓ぎわにあるソファに腰をおろした。
 要は冷蔵庫からペットボトルを取り出し、グラスにそそぐ。そして不意に顔を上げると、困ったように眉を下げて笑った。
「美澄、照れっからあんまり見ないで」
「あ、すみませんっ」
 無意識に目で追ってしまっていることを、言われて初めて気がついた。誤魔化すようにミネラルウォーターで口を潤し、ほっと息をつく。
「……要さん」
「どした? 隣、失礼~……っと」
 グラス片手に、要は隣に腰を下ろした。美澄の右腕と要の左腕が触れ合うくらいの距離。体温を意識した瞬間、心臓がうるさくなる。
 聞いても、いいだろうか。こっそり右隣を見上げてみる。要も、美澄を見ていた。色素が濃い虹彩に吸い込まれそうになる。
「さっき、室内練習場で言ってた言葉の意味を教えてほしくて」
「何か言ったっけ?」
「美澄は俺のって」
「あれは、俺の専属トレーナーって意味だけど……」
「でも、真尋くんが「俺の専属になってよ」って言う前も言ってました」
「……そーだっけ」
「そうです。ほら、ハグされてた時」
 引かない美澄に、要が目を泳がせ苦笑する。珍しい構図だった。あー、とも、うー、ともつかない不明瞭な声をあげ、それから意を決したようにまっすぐに美澄のヘーゼルの瞳を見つめた。
 顔が近づいてくる。咄嗟に目をつむると、鼻先に何かが触れた。ちゅ、と小さなリップ音。沈黙が落ちる。
 そおっとまぶたを持ち上げた先で、憧れの人は切なげに眉を寄せていた。視線がぱちっとぶつかって、絡み合う。要は掠れた声で、こういうこと。と言った。
「黙っててごめん。好きだよ、美澄」
 こつんと額が合わさる。鼻が触れ合い、まつ毛が絡んでしまいそうなほど近くで、要はもう一度「好き」と呟いた。
「それは、そういう、好きってことですか……?」
「うん。そういう好き。やさしいところも、真面目でまっすぐなところも、ちょっと意地悪しても食らいついてくるところも……もちろん、綺麗な顔も全部、昔からずっと特別だった」
「昔?」
「そ。高校の時から。お前とプレーした時間は、俺の青春の全てだったよ」
 後頭部を丸々包み込んでしまいそうな手のひらが、微かに震えている。ああ、本気なんだと、その切実さを知った。
 美澄は息を飲んだ。脳裏に浮かぶのは、日本選手権後の桃味のキスだ。酩酊状態で、勢いに流されて重ねた唇にも、美澄の望んだ理由があった。
 喉が震える。幸福感が内側から溢れてきて、美澄を包み込んだ。
「……日本選手権で負けた後、一緒にお酒飲んだじゃないですか」
「うん」
「あの時、キスしたの覚えてますか?」
「えっ!?」
「ふふ、やっぱり」
「じゃあ……もしかして俺、ゲイだってことも……」
「言ってました」
「うそぉ……」
 甘やかで端正な顔が、戸惑いや後悔の感情に染まった。美澄とは逆方向にひっくり返って、両手で顔を覆う。たくさん練習をして、数え切れないくらい突き指をしてきたのだろう。節くれだった指のすき間から、うっすらと潤んだ瞳が美澄の様子をうかがっていた。
「ひ、引いたよな……?」
「いえ。酔わないとキスさえできないの、要さんらしいなって思いました」
「あはは……」
 それも含めて間宮要という男なのだと、美澄は知っている。だって、美澄の青春も、要と共にあったのだから。
「俺も好きです。そういう意味で」
「……え?」
 こつ、とグラスを置く音が、二人きりの室内に大きく響いた。美澄はそっと要の顔を覆う手を取って、肉厚な唇にキスをした。
「こういうことです。分かりました?」
 憧れがいつしか恋に変わり、蕾は育って、やがて大輪の花を咲かせる。ふわりと軽やかに微笑んだ美澄は、もう一度要に淡い口づけを落とした。
「…………夢?」
「夢じゃないですよ。現実です」
「……うん、ちゃんと痛い」
 頬をつねってふにゃふにゃと頬をゆるめるのは、常勝スワンズを支える若き天才捕手。イケメンで、大人気で、チームの顔で、誰よりもカッコイイのに。美澄の前でしか見せてくれない気の抜けた顔に、愛おしさが溢れて溺れてしまいそうだ。
 もう、甘えてみてもいいらしい。なおもひっくり返ったまま耳の先まで赤く染める要にすり寄ってみる。首すじに顔を埋めれば、力強い腕が背中に回された。眼差しをそのまま溶かしたような甘さが、鼻腔を満たす。
「要さんの匂いがする」
「え、くさい?」
「いい匂いです。大好き」
 甘いものはあまり好きではないのだけれど。要の甘さは大好きだ。
「……美澄さん」
「なんでしょう、要さん」
「キスしていいですか」
 どうして敬語なのだろう。思わず笑うと要もつられて目を細めた。鼻先が触れる。甘えるように下唇を食み、角度を変えて重ねる。口唇のすき間から侵入してきた舌は火傷しそうなほど熱く、柔らかい。
「っ、ん……、ふ」
 あの時は美澄も酔っていたから、今日ほど感覚が鮮明じゃなかった。咥内を蹂躙されると、背中を快感が駆け上がる。負けないように絡め返して、ちゅ、と吸って、何度も角度を変えてキスをすれば、ぐ、と硬いものが太ももに触れた。刹那、身体が浮いて景色が変わる。要の髪が頬に触れてくすぐったい。天井が見えて、背中にソファの合成皮革の弾力を感じた。
 見上げた要は、微かに息を上擦らせていた。ふ、ふ、と熱い呼吸が肌を撫ぜる。夜の色をした虹彩の奥底に、隠しきれない欲の炎が揺らめいていた。自分で興奮してくれている。求められている。この上ない幸せじゃないか。
「要さん」
「っ、ごめん」
 背中に手を回して、離れられないようにぎゅっと力を込めた。いつもはヘラヘラ……否、ニコニコしていることのほうが多い要の余裕が消え、美澄だけが知ることを許された切なげな表情が浮かんでいる。優越感がじわじわと心に広がって、快感に変わっていく。
 もっと、もっと自分に夢中になってほしい。ワガママな一面が顔を出す。投手なんて、みんなそういう生き物なんだ。
「要さん、していいですよ」
「っ」
「きて、先輩」
 身も心も全て、あなたのものになりたい。
 手を伸ばして、要を求めた。