予期せぬ再会から一週間後。要は再び多々良接骨院にやってきた。もちろん、電話できちんと予約をしてきた上でだ。
「こんちわー」
 夜八時、五分前。にこにこと人好きのする笑みを浮かべて来院した要は、前回と違ってキャップとマスクをしておらず、ちょうど治療を終えて帰るところだった学生たちを驚嘆させた。何せ、テレビの向こうで活躍するプロ野球選手が突然目の前に現れたのだ。言葉を失って目をまん丸にしている球児たちを横目に、美澄は要を奥の個室へ案内した。ベンチに座り、もぞもぞとパーカーを脱ぐ背中に問う。
「背中の調子、どうでしたか?」
「すげーよ。全然平気だし、身体も軽くて」
「ストレッチしました?」
「もちろん。毎日欠かさずやった。美澄のおかげだ」
「要先輩が自分でしっかりケアしたおかげですよ。ところで、もう少しオーラを抑えてきてください。学生たち、目がこぼれ落ちそうなくらい驚いてましたよ」
「悪い悪い。あんなに驚かれるとは思ってなくてさ。そんなに俺ってオーラあんの?」
「すごいです。眩しくて直視できない」
「と言いつつ、めっちゃ見てくるじゃん。おもしれーなぁ、美澄は」
 こちらも二回目だからか、前回よりスムーズに言葉が出てきた。会話のリズムが懐かしく、心地良い。
 断りを入れ、背中に触れた。一週間前のような張りは無く、しなやかな筋肉の感触が手のひらを押し返してきた。
「状態、かなり改善しましたね」
「マジ? 先週、美澄にマッサージしてもらってから、めっちゃ活躍したんだけど」
「それはよかったです」
「試合、テレビ中継されてるんだけどなぁ……もしかして美澄、プロ野球は観ない人?」
「……はい」
 プロだけじゃなく、甲子園大会も観ていない。ニュース番組のスポーツコーナーで野球の話題になると、なんとなく後ろめたくてチャンネルを変えてしまう。野球からは完全に離れていると言っても過言ではなかったが、そこまで正直に伝えたら悲しませてしまう気がした。
「観てほしいな。俺の野球してるとこ」
「……かっこいい、でしょうね」
「楽しませるって保証するよ」
「今度観てみます。ところで、背中は大丈夫そうですけど、どこか痛いですか?」
 そういえば、二度目の来院の理由を聞いていなかった。予約欄にも書かれていなかったから、てっきり背中の張りがまだ続いているのかと思っていた。
「どこも痛くない。身体の疲れ取りたくて来たって感じ。ダメだった?」
 椅子を支点に身体ごと振り返った要が、こてっと小首を傾げた。身長が百七十六センチある美澄よりも十センチほど背の高い男のしていい仕草ではないが、元々こういうあざとさがある人なので気にしない。
「もちろんダメじゃないです。じゃあ、今日は多めにマッサージしましょうか。前回と同じくうつ伏せでお願いします」
「はーい」
 蓄積した疲労が全て、とは言わないけれど。少しでも来てよかったと思えるコンディションまで整えてあげたい。少しでも力になりたい。その一心だった。



「お邪魔しました。美澄、また来るから」
「はい。お待ちしてます」
「あ、間宮選手! サインください」
「俺もー!」
「ちょっと、みんな、要先輩……じゃなくて間宮選手はプライベートで」
「いいよ、美澄。あ、でもここの時間的に大丈夫? 閉店時間的な」
「それは大丈夫ですが、いいんですか?」
 来院時に堂々と入ってきたから、こうなるとは思っていたけれど。施術を終えて個室から出てきた途端、要は学生に囲まれてしまった。眉を下げた美澄に、要は鷹揚に笑ってみせる。
「大丈夫。よし、みんな順番なぁ」
「間宮選手、質問いいですか」
「いいぜ~」
「彼女いるんですか」
「あはは、初っ端からそういう質問? いねーよ。野球が恋人ってみんなに言っとけ」
「じゃあ俺も野球が恋人!」
「おっ、じゃあライバルだな。よし、みんなサイン大丈夫? 親御さんにも、「間宮要からサインもらったから今日から東京スワンズファンになる!」って言っといてな?」
 どんな理屈だ、と思わず笑ってしまった。
「ウチは元々スワンズファンです!」
「うちもー」
「俺も。じいちゃんも父ちゃんも俺もそう! 三者連続ホームランで騒ぎすぎて母ちゃんに怒られたもん」
「マジで? へぇ、スワンズ人気なんだなぁ。ありがとうな」
 野球少年たちの目がキラキラと輝いている。プレー外でも、プロ野球選手が与える影響は大きいようだ。
「美澄も俺の活躍観てよ。次来た時、感想聞くからさ」
「分かりました。久しぶりに観た野球が負け試合にならないように、頑張ってくださいね」
「おう、任せろ」
 口では生意気なことを言ったが、「次」があることに心底安堵する自分がいた。嬉しかったと、今度は胸を張って断言できる。たとえわずかな時間だったとしても、要と会って話ができた時間は、美澄にとって幸せ以外の何物でもなかったのだ。



 要との約束を守る為、休日の夕食時にテレビのチャンネルを野球中継に合わせた。懐かしいダイヤモンドに、テレビ越しでも圧倒的されそうな大歓声。いつもこの中でプレーしているのかと感心すると同時に、心臓が拒否反応を示して早鐘を打つ。この胸の痛みは病的なものではなく、精神的なものだと分かっている。過去から目を背けるのが上手くなっただけで、ちっとも乗り越えられてなんかいない。
 スタメン発表のアナウンスと同時に、打順が画面に映し出される。五番・キャッチャー、間宮。本当にプロ野球選手なんだなぁ、と今になって実感する。
 今日の先発投手である若槻真尋(わかつき まひろ)という選手は、若干二十歳にして球団のエースピッチャーらしい。美澄より三つも年下だ。すごいなぁ、と一人呟きながら、近所のスーパーで安かった鯛の切り身で作ったアクアパッツァを頬張った。彼女いない歴イコール年齢。一緒に出かけるような友人もいない美澄にとって、料理は数少ない趣味だ。
 ホームゲームの為、スワンズは後攻。これから始まるのは一回の表なので、要たちはそれぞれの守備位置についている。試合開始を前にリズム良くボール回しをする選手一人一人がアップになって、簡単な紹介が読み上げられていく。
 スタメンマスクはもちろんこの男。常勝スワンズの扇の要を任される若き天才、間宮要――実況アナウンサーの軽快な声に合わせて画面いっぱいに映し出された甘いかんばせ。甲子園出場よりもずっと狭き門であるプロの世界で、「天才」と評されるほど凄い選手だったのか。たしかに学生時代、プロのスカウトが何人も練習や試合を視察しにくるような人ではあったけれども。
 体つきはプロらしくなったけれど、マウンドに立つ投手へ声をかける時の表情は少しも変わらない。ピンチでも決して動じない、自信たっぷりでいたずらっ子のような笑顔。基本お調子者な人なので、よくこちらをからかってくる時は正直ムカつくけれど、野球をしている間は不思議なくらい安心するのだ。
 マウンドに立った先発投手の若槻真尋は、エースらしい、気の強そうな目をしていた。主審によってプレイボールが告げられ、試合が始まる。ゆっくりと上げた左足を大きく前へ踏み出し、投じた第一球。スピンの効いた白球は糸を引くように要の構えたミットに吸い込まれ、パァンと画面越しでもよく分かる乾いた音を立てた。
 ボールを投げ返す何気ない仕草に、ノスタルジーを感じずにはいられなかった。今でも鮮明に思い出せる青春の日々と、手が届かないくらい遠くへ行ってしまった現実。対極にある二つの感情が、美澄の心を締め付ける。
 あっという間にアウトを三つ取り、今度はスワンズ側の攻撃。一番バッターが内野安打で出塁し、二番がバントで一塁ランナーを二塁へ進める。三番バッターがライト前にタイムリーを放ち、あっという間に点数が入った。教科書に手本として載っていそうな鮮やか過ぎる攻撃に呆気にとられていると、今度は何だかすごく打ちそうな体格のいい選手がバッターボックスに入った。四番バッターの日下部麗司。表の守備で、ファーストにいた選手だ。昨シーズンは、三十本もホームランを打ったらしい。画面の下部にそんなデータが表示されていた。
 二球でツーストライクと追い込まれてしまったが、粘りに粘って四球を選んだ。ワンアウト一、三塁。チャンスで回ってきた打席に、美澄は思わず食事の手を止めて食い入るように画面を見つめた。
 五番、キャッチャー、間宮。ウグイス嬢のアナウンスをかき消してしまいそうなほどの大歓声が、要の背中を押している。バッターボックスへ向かう要の真剣な表情の中に、抑えきれない高揚感が滲み出ていて、何故か涙が出そうになった。
「……頑張れ、要先輩」
 一球目は外に大きく外れてボール。四球でランナーを出した後だから、そろそろストライクを欲しがる頃合いだろう――と考えるのがセオリーだから、あえてもう一球外すかもしれない。でも、この勝負はきっと要が勝つ。読み合いは、昔から彼の得意分野だ。
 ピッチャーが二球目を投げる。待ってましたと言わんばかりの鋭いスイングに、美澄は一瞬ボールを見失った。要がバットを放り、ボールの行方を見上げながら駆け出す。実況アナウンサーの声に熱がこもった。
――打球は伸びて、伸びて……入りました! 丹羽のタイムリーと間宮のスリーランで一回の裏から四点差をつけ、エースの若槻を援護します!
 悠々とダイヤモンドを一周する姿は、あまりにもカッコよかった。負け試合にならないように、とは言ったけれど、こんなに活躍するだなんて思ってもみなかった。
 気づかないうちに、口角が上がっていた。怪我をしてから五年もの間、ずっと意地を張って野球から目を背けていたのに。憧れていた先輩が活躍しているのを目の当たりにして、心臓がいい意味でドキドキと鼓動の速度を上げていた。
 次に会ったら、なんて声をかけようか。