ホテルに到着してチェックインを済ませると、要と真尋は早速練習着に着替えて部屋から出てきた。そこそこのスピードで走って五分ほどの場所に今回の自主トレを行なう室内練習場があるらしい。長距離の移動で疲れていないはずがないのに、一息つく間もなく練習をするつもりなのだから、二人とも相当な野球バカだ。
 美澄も一緒に走ろうかと思ったが、現役アスリートのスピードと体力についていける自信がなかったので、ホテルのレンタサイクルを利用して自転車で二人を先導することになった。
「美澄、そっちじゃない、逆、逆!」
「え、もしかしてあの人方向音痴……?」
「うん」
「いや、先導させちゃダメでしょ! 迷子んなるから!」
 方向音痴の所為じゃない。初めての道だったから、口頭で説明されただけでは分からなかったのだ。
 結局、初日は二人の後ろをついていくことになったが、自転車と変わらないスピードで走っていく二人に美澄は感心してしまった。特にエースピッチャーの真尋だ。練習場に到着し、軽く息を上げた要の隣で、涼しい顔をして鼻歌交じりに肩のストレッチを始めた。
「要さん、あの」
「んー? どした?」
「真尋くん、すごいですね。かなりのスピードで走ってきたのに、全然息が上がってない」
「シーズン中もシーズンオフも、暇さえあれば走ってるからなぁ。相当な努力家で野球バカだよ、アイツは」
 全身からみなぎる自信は、練習量に裏付けられているのだろう。要が言うのだから間違いない。
 練習場には、先ほど空港で見かけた記者が二人ほどついてきていた。どうやって情報を仕入れているのかは分からないが、トレーニングを非公開にしているわけでもないので、自由にさせているらしい。要の機嫌を損ねたという人物はいなかった。
 それにしても、プロ選手は大変だとつくづく思う。ただひたすらに野球だけに向き合えばいいなんてことはなく、スター選手であればあるほど野球以外の仕事や対応に追われるのだ。ファンありきの人気商売であるのだから仕方ないし、高校の時だって甲子園常連校と言うだけで知らない大人がたくさん挨拶にやってきては監督が頭を下げていた。
 二人いればキャッチボールもストレッチもできるので、美澄はドリンクを用意したりタイムを計測したり道具を運んだりと、マネージャーのような役割をこなしていた。二人の役に立てるのは嬉しいが、要と楽しそうに柔軟運動をしている真尋を見ていると、どうしても羨ましい気持ちが芽生えてしまう。空港からついてきたスポーツ雑誌の記者だという男が一眼レフカメラを構えると、真尋は要にぴったりと密着したままピースサインで応じた。
「やっぱり若槻くんは間宮くんとセットだと、表情が柔らかくなっていいね」
 美澄が二本のスクイズボトルに水を補充していると、カメラで撮影したデータを液晶モニターで確認しながら男が言った。周囲には美澄以外に誰もおらず、独り言ではなさそうな声量だったので話しかけられているのだろう。
「そうなんですか?」
 要から教えられた程度しか真尋のことを知らないので、素直に問い返す。これから二週間、身体のケアをする相手だ。少しでも情報が欲しかった。
「若槻くん単体だとすごく気分屋というか……塩対応っていうのかな。登板する試合の後だとピリピリしてるし、あまりマスコミの前に姿を見せなかったりするから。間宮くんと一緒だと、こう、撮れ高がよくて助かるんだ。ああやってスキンシップもとってくれるし」
 視線を記者から二人へ戻す。何をどうしてそうなったかは知らないが、広い背中に真尋がしがみつき、楽しそうに笑っていた。要も完全に面白がっているのか、されるがままだ。二人の為の合同自主トレだと分かっていても、モヤモヤする。


 一日目は移動日ということもあり、キャッチボールと軽いティーバッティングのみで練習を切り上げた。ホテル近くのレストランで夕食をとった後、部屋で明日のタイムスケジュールを確認していると、控えめなノック音が響いた。二十時五十五分。約束は二十一時。五分前行動が身体に染み付いているらしい。
「どうぞ」
「……しつれーします。ねえ、開けっ放しは防犯的によくないと思うんだけど」
 ドアの向こうからひょこりと顔を覗かせた真尋が眉を寄せた。ストッパーを使ってドアが完全に閉まらないようにしていたのが気になったのだろう。
「もうすぐ真尋くんがくると思ったから。寝る時はちゃんと鍵をかけるよ。早速始めようか。ここにうつ伏せになってくれる?」
「すげー……マッサージベッド、わざわざ持ってきたの?」
「宅配便で送ったんだ。折りたたみ式だから小回りがきくし、便利だからね」
「へー。じゃ、お願いシマス」
 うつ伏せた真尋の背中は、アンダーシャツ越しでも筋肉の盛り上がりがよく分かった。要といい、プロアスリートの筋肉量は学生やアマチュアとは比べ物にならない。
 そっと手を触れ、確かめるようになぞる。弾力があって柔らかい、理想的ないい筋肉だ。
「……あれ?」
「何?」
「真尋くん、右利きだよね?」
「そうだよ。右投げ右打ちだけど。何か変?」
「左右差が全然ないなって思って」
 右半身と左半身。触れた身体の筋肉量に、ほとんど左右差がなかった。要もバランスを考えながらトレーニングをしているので左右差は少ないほうだが、それ以上かもしれない。
「それは、意識して鍛えるようにしてる。トレーニングだけじゃなくて、日常生活も左手使うようにしてるし。俺、左でもある程度投げられるよ」
「え、今度見てみたいな」
「……まあ、いいけど」
「楽しみにしてるね。じゃあ、仰向けになって」
「ん」
 右足の踵と膝を支え、ゆっくりと回旋させる。可動域の広さに、美澄は目を丸くした。
「わ、股関節柔らかい」
「それはなんか、生まれつきというか……肩も肘も柔らかいから、そういうのを最大限活かせるようにっていつも考えてて」
「自分で?」
「うん。学生の頃からずっと」
「へぇ、すごいね」
 若いのに、と言いかけて思いとどまる。年齢を理由にすると怒るのだと、以前要が言っていたのを思い出した。野球と本気で向き合うのに、若いも若くないも関係ない。
 バカにするなと怒らせてしまうだろうか。内転筋群を伸ばしながら、顔色をうかがう。
「当たり前じゃん。自分のことは、自分が一番分かってる。トレーナーつけても、俺、合う合わない激しいから……というか、そういうの突き詰めてくの好きだし」
 真尋の声は少しずつ小さくなり、照れくさそうにそっぽを向いた。