常勝の名にふさわしい戦いぶりで順調にマジックを減らした東京スワンズは、危なげなくリーグ優勝を決めた。試合の後に始まった優勝を祝うビールかけのライブ中継を、美澄はひと足先に戻ってきた間宮家のリビングに設置されている八十インチテレビ越しに眺めていた。大きいので、キッチンからでもよく見える。
 今夜のメニューはミートドリアにコーンスープにグリーンサラダ。優勝記念のサプライズとして、イチゴのパフェも作る予定だ。
 チームキャプテンの丹羽が普段どおりのローテンションで挨拶を終え、宴が始まった。画面を横切る白い泡。見ているだけでも酔っ払いそうだ。
 監督の新川は強面でガタイがよく、厳つい見た目をしているが、今日ばかりは無礼講だ。遠慮なく頭からビールをぶっかける選手たちに、見ている美澄のほうがハラハラしてしまう。
 選手にインタビューをするアナウンサーももれなくびしょ濡れになる中、憧れを探す。試合中は主役級のオーラを放っていた要は、インタビューを受けるだけ受けて隅っこでビールの雨を避けていた。人にはしっかりかけているところが彼らしい。 
 サラダとコーンスープが完成し、ちょうどいちごパフェを仕込み終える頃合で、玄関から物音がした。スポンジやムース、ストロベリーソースを仕込んだ器を冷蔵庫に隠し、オーブンにミートドリア入れた。近づいてくる足音は軽やかだ。
「たーいまー」
「おかえりなさい。早かったですね」
「シャワー浴びて速攻帰ってきた。すげーいい匂いする……」
「ドリアに焼き目がついたらすぐ完成なので、座って待っててください」
「ありがとー」
 随分と機嫌がいい。優勝当日だから当たり前か。
「要さん、酔ってます?」
「んや、ビール苦くて好きじゃねーから、意地でも口に入らないようにしてた」
 スポーツバッグを床に置いた要は、疲れたぁ、と気の抜けた声を出してソファに沈みこんだ。ビールかけ中継を終えてからも東京スワンズ特集を流し続けていた東テレのチャンネルでは、今シーズンのスーパープレー集が始まったところだった。劣勢の場面で見せた、丹羽と要の意表を突くダブルスチール。自分の姿を見た要はむくりと顔を上げ、「俺~」とキッチンの美澄にアピールしてきた。

 ビールを飲まなかったこともあり、かなりの空腹だったらしい。熱い熱いと言いながらミートドリアを頬張る顔は幸福感に溢れている。
「これ、俺めっちゃ好き」
「ありがとうございます。要さん、ミートソース好きですよね」
「うん。米にもパスタにも合うなんて、ミートソース神だわ」
「ところで、皆さん真っ赤な顔してましたけど、まっすぐ帰ったんですか?」
「何人かは飯食い行くって言ってたし誘われたけど、断って帰ってきた。美澄の飯のほうが絶対美味いし」
「そうですか?」
「うん。間違いない」
 悪い気はしなかった。
「あ、そうだ。帰ってきたら改めて言おうと思ってたんですけど」
「うん」
「リーグ優勝、おめでとうございます」
「ありがと。とりあえず無事にリーグ三連覇ってことでひと安心かな。ま、ラストシリーズに日本選手権って続くから、気は抜けねーんだけど」
 ラ・リーグのペナントレース終了時点での上位三チームによるトーナメント戦、ラストシリーズ。それを勝ち抜いて初めて、レ・リーグ王者と日本一をかけて戦う日本選手権への挑戦権を得る。日本一への道はまだまだ遠い。
「さっき、ビールかけのライブ中継見てたんですけど」
「うん」
「要さん、満面の笑みで新川監督の頭にビールそそいでるから、こっちが緊張しました」
「許されてんだから、やらなきゃ損だろ。俺、いっつも怒られてるし」
「新川監督も、現役時代はキャッチャーで強打者でしたもんね」
 日本代表にも選ばれていたのを、美澄も覚えていた。打てるキャッチャー。まるで要のような立ち位置の選手だった。
「そ。小学生の頃にテレビで観てた人が監督って、変な感じだよな。野球始めた時からキャッチャーだったから憧れてたけど、あの頃の俺に教えてやりたい。お前、あの人にめちゃくちゃ叱られるから覚悟しとけよって」
「タイプが似てる分、期待されてるんですよ」
「だといいな。ま、あと二回ビールかけのチャンスあるから、次は背中からそそいでやろうと思う」
「あはは、頑張ってください。ちなみに、デザートはいちごパフェです」
「マジ!? やった」






 ペナントレースの全試合が終了した。毎年、夏の弱さが課題と言われていた要は打率、打点、本塁打数、盗塁数に盗塁阻止率など、可視化される項目のほぼ全てにおいてキャリアハイを残していた。つい数日前に始まったばかりのラストシリーズでも絶好調。連日その活躍が新聞やテレビ、ネットニュースでも報じられている。
「美澄ぃ、何見てんの?」
 風呂から上がってきた要が、不思議そうに目を丸くした。ソファに腰かけてスマホを見ていた美澄は、画面の上部に表示された見出しを読み上げる。
「――キャリアハイの間宮要、今日も打った! 五打数四安打の大爆発! という記事です」
「うわ、恥ずかし。俺の記事かよ」
「他にもたくさんあるんですよ。見ます?」
 どの記事の写真も素敵だ。プレー中、どの瞬間を撮られても整った顔を崩さない要は、女性人気もかなり高い。
「あー……いや、いいかな」
「え、たくさん褒められてるし、カッコイイのに……」
「自分の記事読んで「俺カッコイイー!」とはならねーだろ」
 キャッチャーミットを手に隣に座った要が、モゾモゾと手入れを始めた。寝ている時と並んで静かになる瞬間だ。
「……昨シーズンまでは夏に失速していたが、今シーズンはむしろ上り調子で駆け抜けた。誰もが認めるその活躍の裏には…………え?」
「どした?」
 突然動きを止めた美澄に、要がミットに向けていた視線を上げた。寄りかかるように肩を密着させ、手元を覗き込んでくる。
「アンチ記事でもあった?」
「いえ、でも、コレ……」
「んー? なになに……誰もが認めるその活躍の裏には、とある女性の存在か……あはは、ようは彼女ってことだろ? え、俺が調子いいのってそんな理由なの?」
 ツボに入ってしまったのか、要はミットごと腹を抱えて大笑いしている。シャンプーの甘い香りが鼻腔をくすぐって、目眩がしそうだ。
 今まで、要のそういった噂は聞いたことがなかった。でも、話が出たって何も不思議ではない。プロ野球選手で、レギュラーで、日本代表にも選ばれている実績のある人だ。引く手あまただろう。
「い、いないですよね……?」
 思いのほか、縋るような口調になってしまった。邪魔はしたくないけれど、失恋する心の準備はできていない。
「いないよ。一番長くいるの美澄だし」
「……」
「あ、その顔信じてねーな。じゃあ、一番長くいるお前に聞くけど。俺にそんな時間あったと思う?」
「いや、思わないです……」
 思い返してみれば、そんな時間は全然なかった。試合後はどちらかの家に帰って食事をして、ケアをして、次の日は一緒に球場へ行く。それが生活の一部になっているから気にもとめていなかったが、一日のほぼ全てを共にしている。誰かが介入するすき間なんてない。
 記事のコメント欄には、よく野球選手の取材を担当しているアナウンサーの名前や、始球式に登場して話題になった朝ドラ女優の名前などが好き勝手に書き込まれ、予想合戦が繰り広げられていた。要はそれを目で追いかけながら、まともに喋ったこともねーよ、と笑う。
「俺の周りで、去年までと変わったのはお前だよ。美澄」
「俺、ですか」
「うん。夏から、お前が一緒に飯食ってくれたじゃん? 毎年、暑くなると全然食えなくなって体重落ちてたのに、今年は全然落ちなかったし。身体のケアもしてくれたしな」
「身体のケアは、球団のトレーナーがいるじゃないですか」
「俺が素直に、どこが痛いそこが痛いって言えればな」
「あっ……」
 わざわざ隣県の接骨院に勤めていた後輩の元へやってくるような意地っ張りなのを忘れていた。
「ってことは、どういうことだか分かる?」
「え………わかんないです」
「つまり、俺の今シーズンの好成績はお前のおかげってことだよ、美澄ぃ~」
「おわっ」
 ミットをテーブルに置いた要は、美澄の腹にしがみついてきた。ぎゅーっと抱きしめられると温かいが、苦しくはない。
「……なあ、美澄」
「はい?」
 美澄の腹にじゃれついたまま喋りはじめた。服越しに伝わる呼吸がじんわりと温かくてくすぐったい。
「高校の頃、俺の学年にいた山田って覚えてる?」
「覚えてます。要さんと同室だった山田先輩ですよね」
「アイツ、中学校の先生やってんだよ。数学の教師で、野球部の監督してんの」
「そうなんですね。俺、たまに勉強教えてもらってました。要さんが自主練から戻ってくるの待つ間とかに」
 ピッチングについての相談をしに部屋へ赴いた際、要がまだ戻ってきていないことがままあった。待たせてもらう間、丁寧に教えてもらった範囲のテストではいつも高得点だったから、教師と聞いて納得した。
「教え子が、多々良接骨院に通ってるらしくてさ。雪平っていう若い柔整師がいるって部員から聞いて、珍しい苗字だから美澄じゃないかって教えてくれたんだ」
 腹に巻きついた腕の力が強くなる。美澄はそっと、要の髪に触れた。
「腕のいい接骨院があるって言ってたのもホント。だけど俺は、どうしようもなくお前に会いたかったんだ」
「要さん……」
「また、会えてよかった」
 くぐもった声は、微かに震えていた。