多々良接骨院への最終出勤日は、オフだった要が迎えにきてくれた。いつもは来院しない曜日の学生たちも駆けつけてくれ、接骨院の前はすっかり大所帯。なんだか有名人にでもなった気分がして、少し落ち着かない。
「多々良先生、吉村先生。短い間でしたが、本当にありがとうございました」
「こちらこそ、一生懸命働いてくれてありがとう。いつでも遊びにきていいからね」
「はい!」
「美澄、身体には気をつけてな。人のケアにばっか気ぃ取られて、自分が身体壊したら元も子もないから」
「はい。肝に銘じます、吉村先生」
「頑張れよ」
「ありがとうございます!」
 後ろ髪を引かれる思いだったが、飛ぶ鳥は跡を濁さず行くべきだ。門戸に横付けされたSUVの助手席に乗り込むと、要が窓を開けてくれた。学生たちが駆け寄ってくる。
「美澄先生、頑張ってな!」
「うん、ありがとう。みんなも、部活頑張ってね」
「っす!」
「勉強もね」
「……っす」
 半分以上の子が目を逸らしたのは気の所為ではないだろう。運転席の要も「耳がいてーわ」と呟いている。
「間宮選手、美澄先生いじめないでくださいね!」
「おう、任せろ。幸せにする」
「あはは、プロポーズみてー!」
 車窓に縁取られた景色が、ゆっくりと動き出す。手を振る顔が遠くなり、見えなくなって、窓を閉めた。門出を祝うようなバラードが、控えめに車内を彩っている。
 宴の終わりのような物悲しさが、心に薄く膜を張る。喪失感がないと言えば嘘になる。でも、このすき間を埋めてくれる人の隣が、美澄の新たな居場所だ。
「これでもう、後戻りはできないですね」
「……後悔してる?」
「いいえ。ワクワクしてます」
「そっか」
「でも、これからは要先輩の成績が落ちてクビになったら、俺も一緒に路頭に迷うってことになりますね」
 美澄はイタズラっぽく口角を上げた。
「うぇ~、縁起でもねーこと言うなし」
「なので頑張ってください。俺も全力で支えます。一蓮托生ですから」
「ああ、大舟に乗ったつもりでいてくれ。世界一のキャッチャーの専属トレーナーにしてやるからな」
 昔から有言実行を地で行く男だ。少しも心配はしていない。
「あと、一つ言おうと思ってたことがあって」
「うん」
「……よ、呼び方を、変えようと思うんですけど」
「え?」
「要先輩じゃなくて、要さん。まあ、先輩であることに変わりはないんですが……これからは仕事相手にもなるので、気持ちの問題、です」
 あと、要さんと呼んでいる真尋が少し羨ましかったのもある。絶対に口には出さないけれど。
 そんなところに拘らなくていいと言われるだろうか。膝の上で親指をすり合わせながら、ちらりと横顔を窺う。街灯の淡い橙が照らし出すかんばせは、早朝の凪いだ海のように穏やかだった。
「分かった。俺も早く慣れるようにするわ」
 今日はこのまま要の家に行く予定だった。しばらくは契約等で忙しくなるので、球場により近い要の家に居候させてもらうことになっている。
「要さん」
「なに?」
「呼んだだけです。ふふ、なんかくすぐったいですね」
「……呼ばれるほうもな」
 口元がもにょもにょと動いた。珍しい表情だ。耳の先が赤く色づいている。
「要さん、照れてます?」
「……ん」
「じゃあ、早く慣れるようにたくさん呼びますね」
「おー。よろしく頼むわ」
 決意の先には、どんな未来が待っているのだろう。



 歓声が、怒声と悲鳴に変わった。ベンチ裏でリュックの中身を整理しながら、モニターで音声のない試合映像を観ていた美澄は、血相を変えて立ち上がる。
 ベンチからグラウンドに出て、バッターボックスに駆け寄った。今の打席で死球を受けた要は、プロテクターを外しながらマウンドに厳しい視線を送っていたが、美澄の姿を視認するなり表情をやわらげた。
「あ、美澄だ」
「要さん、どこに当たりましたか」
 外されたプロテクターを受け取り、一塁へ向かいながら確認する。左肘の外側を指さす顔に変化はない。
「エルボーガードだったから大丈夫。ちょっと響いてるけど」
「冷やします?」
「いや、大丈夫。アザになるかならないかぐらいじゃね?」
「分かりました。違和感や痛みが続くようなら教えてください」
「りょーかい。ありがとな」
 別れ際にぽん、と背中を叩かれた。それが当てられた左腕だったから本当に大丈夫なのだろうが、一応攻守交替の際に冷却したほうがいいだろう。
 ベンチに戻ると、東京スワンズの監督である新川が美澄を呼んだ。エルボーガードに当たったこと、現時点ではプレーに支障が出るような痛みはないこと、攻守交替の際に念の為冷却しようと思っていることを伝えてからベンチ裏へ下がる。選手交代の必要はなさそうだが、後から腫れが出ないことを祈るばかりだ。
 後続が打ち取られて、塁上の選手がベンチに戻ってきた。数人がかりでキャッチャーの防具をつけていく要の肘に冷却スプレーをかけていると、プレー中特有の張り詰めた空気をほんの少しだけゆるめて目を細めた。
「少し赤くはなってますが、大丈夫そうですね」
「だな。ってか、試合中にお前の声聞けるの、なんかいいなぁ」
「要さん。それ、昨日も言ってましたよね」
「言ったっけ……あ、言ったわ」
 レガースの装着を手伝っていた控え選手がくすくす笑っている。東京スワンズは選手同士の仲が良く、雰囲気もいい。間宮要の専属トレーナーとして、試合中もバックヤードに入るのを許されてから知ったことだ。
 新しい生活がスタートしたけれど、自宅から通える距離に本拠地であるスワンズドームがある為引越しはせず、試合後にどちらかの家へ二人で帰って食事をするというルーティーンもそのまま続いていたので、今までの生活と変わらない点も多かった。大きく変わったことといえば、遠征で東京を離れても欠かさずケアができるようになったこと、それから、試合を観る場所が観客席ではなくベンチ裏――客人から関係者側の立場になったことだろうか。
 キャッチャー用のヘルメットをかぶった要は、バックスクリーンに表示されているスコアボードを見上げた。九回表。三対ゼロ。今日も圧巻のピッチングで相手をたったの三安打に抑えていた真尋が、今シーズン十三個目の勝ち星を自らの投球で決める為、颯爽と飛び出していった。相手はクリーンアップから始まる好打順だが、マウンドに駆けていく背中を見る限り心配はいらないだろう。
「優勝マジック、残り三かぁ。よし、最後まで気ぃ抜かずに守ってくるわ」
「行ってらっしゃい、要さん」
「ん。行ってきます」
 差し出されたこぶしに、左手をコツンとぶつける。グラウンドに駆け出す背中は広く、頼もしかった。