メレンゲをたてて作ったふわしゅわホットケーキにパウダーシュガーを振りかけ、たっぷりのメープルシロップをかけてバターものせた。トロリととろけて、甘い芳香が辺りを満たす。我ながらいい出来だ。カフェで出てきそうな完成度に、頬がゆるんだ。
「要先輩、お待たせしました」
 リビングでそわそわしながら待っていた要の元へ持っていく。平皿に盛り付けられた念願のホットケーキに、要の目がこぼれ落ちそうなほど見開かれ、光を当てられた宝石みたいに輝き出す。その幼い表情は、つい数時間前に執念のサヨナラタイムリーを放った男前と同一人物だとは思えない。
「これ、食べていいの……?」
「ええ、もちろん。冷めないうちにパクッといっちゃってください」
 キッチンへ戻り、自分の分を焼きながら要に言った。
 要は雪をかぶったキツネ色にそおっとナイフを入れ、追いメープルをつけてひと口頬張る。美味しいですか? と聞かなくても、言葉にならない感激の声が答えだった。
「やべー。マジで打ててよかった……」
「喜んでもらえて何よりです」
「美澄はどうすんの? 甘いの好きじゃないよな?」
「俺はしょっぱいバージョンです。ベーコンと半熟卵」
 今しがた焼き上がった生地の上に、別のフライパンで焼いていたベーコンエッグをのせる。皿に盛りつけリビングへ向かうと、要の視線が痛かった。
「……美澄ぃ」
「はーい?」
「そっちも食べたい……」
 甘えたな声色。美澄は得意げに眉を上げた。
「そう言うと思って、先輩の分も作りました」
「さっすが美澄!」
 ホットケーキ一つでここまで喜んでもらえるなんて、本当に作りがいがある。

 順番に入浴を済ませ、いつも通りマッサージを終え、ソファに並んでニュースを眺める。笠井アナウンサーのハキハキとしたタイトルコールで始まったスポーツコーナーが野球の話題に差し掛かるより早く、隣から寝息が聞こえてきた。起きている時はコロコロと目まぐるしく変わる表情は、目を閉じていると随分と幼く見える。
 一点もやれない緊迫した展開でのリードに、一点ビハインドの九回裏ツーアウトで回ってきた打席。プロの世界は美澄の想像を遥かに超えるプレッシャーばかりだろうが、今日は素人目に見ても盛りだくさんだった。さすがの要もヘトヘトだったのだろう。ソファで寝てしまうだなんて珍しい。
 ぐらりと身体が傾いて、肩にもたれかかってきた。脱力した筋肉質の身体はずしりと重く、温かい。髪が首すじをくすぐる。
「要先輩、寝るなら寝室行ってください。身体痛めますよー……せんぱーい」
 何度か肩を揺らしたり叩いたりしてみたが、目を覚ます気配はなかった。変な体勢は身体に悪いが、かといって寝室まで運んであげられる体格も筋力もない。どうしようかと悩んだ末、頭を支えてそおっと膝まで誘導し――いわゆる「ひざ枕」の体勢で落ち着いた。
 頭の重みが心地いい。サラサラとした髪の感触を少しの間楽しんで、触れるだけのキスを落とす。頬や鼻先にされたことがあるのだ。髪くらいは許してほしい。
「……好きです、先輩」
 自覚してからというもの、日を追うごとに恋心の輪郭が鮮明になっていく。このまま成長を続けたら、いつか破裂して溢れてしまいそうだ。
 自分は、どうしたいのだろう。想いを伝えて、両想いになりたい? なれたらいいとは思うけれど、最適解かと考えたら違う気がする。今、要の最優先は間違いなく野球だ。要は野球を愛していて、要は野球に愛されている。憧れた人の進む道。邪魔はしたくない。
 ほぼ牛乳のコーヒー牛乳も、美澄のブラックコーヒーも、すっかり冷めてしまった。二つのマグカップは仲良さげによりそい、見下ろした先の整った寝顔は穏やかで、ゆっくりと流れる二人きりの時間は幸せだ。今の関係が心地いい。要もきっと、そう思っているだろう。
――俺の、専属トレーナーになってほしいんだ。
 そう切り出した時の、緊張で強張った顔を思い出す。要が美澄に託そうとしているのは、安易に「はいやります」とは答えられないような大切な役割だ。プロスポーツ選手の専属トレーナー。柔整師や指圧師の資格を持つ人間の中でも、ほんの一部の選ばれた者だけが辿り着ける狭き門。美澄は今、その門戸の前に立っている。それだけでも身に余る光栄だ。
 一人の野球人生を背負う。たった一人だけど、要の全てだ。責任の大きさは果てしない。今までとは比べ物にならないほどに。でも、責任の大きさを盾にして逃げるつもりは毛頭なかった。返事はすぐじゃなくていいと要は言ったが、答えは最初から出ていたのだ。
 俺は、要先輩の力になりたい。
 ひざの上の丸い頭をなるべく揺らさないように、テーブルのマグカップへ手を伸ばす。すっかりぬるくなったコーヒーを啜りながら、美澄は決意した。



 終業後、院長の多々良に話があると伝えた時、彼は全てを悟ったような、寂しそうな笑みを浮かべた。いつもはほとんどを担っている片付けを吉村に任せ、事務所へ場所を移す。そして美澄は、要から専属トレーナーになってほしいと打診があったこと、自分自身がぜひ受けたいと思っていることを申し出た。したがって、多々良接骨院を退職したいということも。
「あい分かった。最近の君たちを見て、遅かれ早かれこの話が出ると思っていたよ。でも、美澄くんの人生だ。僕に止める資格はない」
「……すみません」
「美澄くんは、若くてやさしくて腕もいい優秀な人材だ。患者さんからの人気や信頼もあるし、本当は辞めてほしくない……でも僕はね、君たちが高校でバッテリーを組んでた姿を見ているから」
「え……?」
 初めて聞いた話だった。多々良の元で働き始めてから一度だって、過去に踏み込まれたことはない。
「テレビ越しでも伝わってくる信頼関係。夏の甲子園の決勝では惜しくも負けてしまったけれど、二人ともいい顔をしていて感動したし、とてもいいバッテリーだと思ったよ」
「なら、俺が、野球を辞めた理由のことは……」
「肘の傷を見ているから、何となくはね。誰だって、聞かれたくないことの一つや二つあるだろう?」
 多々良は一度言葉を切って、少しうつむきがちだった美澄の顔を下から覗き込んだ。いつも通りの穏やかな眼差しに、朝から強張っていた肩の力が少しだけ抜けた。
「プロスポーツ選手の専属トレーナー。名誉ある肩書きじゃないか。もっと誇らしげな顔をしていいんだよ」
「でも俺は、多々良先生にも吉村先生にも、言葉では表しきれないくらいお世話になりました。それなのに、俺は」
 自分なりに考えて決めた未来なのに、多々良接骨院を踏み台にしているみたいで今さら足がすくんでいる。
「美澄くん」
「っ、はい」
「君がここを去ったとしても、一度できた繋がりは切れないよ。君と間宮さんだってそうだろう?」
「……はい」
 六年の空白を経ても、二人は今共にある。その事実が、多々良の言葉に重みを持たせた。しっかりと頷いた美澄に、多々良は朗笑する。
「君なら大丈夫。立派に間宮さんを支えられると思う。頑張りなさい」
「っ、はい、ありがとうございます……!」
 この人の元で働けてよかった。心からそう思う。