要が支度を終えて美澄の元へ歩いてきたのは、志麻と別れてすぐのことだった。サヨナラタイムリーを打った喜びと、あの場面で四番を敬遠されて勝負を選ばれた悔しさが入り混じる複雑な表情をしていた。
「要先輩、お疲れさまでした!」
「おー、ホント疲れた……」
 駆け寄って荷物を持とうと手を伸ばす。いつもは断られるが、今日は持たせてくれた。憧れの人の大切な仕事道具が入ったスポーツバッグの重みに感激しながら、地下駐車場への道を要より半歩先に行く。さすがにもう迷子にはならない。
「俺、要先輩が打った瞬間、感動して泣きそうになりましたよ」
「俺は麗司さんが敬遠された時に泣きそうになった……今日全然当たってなかったし、仕方ねーんだけど。うわ、俺舐められてるって思ってさ」
「それでも、最後に打つのが要先輩のすごいところですから。終わりよければ全てよしということで。今日の夕飯は何がいいですか? サヨナラ賞です。何でも受け付けますよ」
「……ホットケーキ。メープルシロップいっぱいかけたい」
 思わずかわいいと言いかけて、分かりましたと言い直した。
 車に乗り、帰路を行く。まだまだ車通りの多い夜の大通り。いつも要が好んでかけている洋楽が、二人きりの空間に満ちている。今は喜びより悔しさが勝っているのだろうか。ちらりと盗み見た横顔は、いつもより強張って見えた。
「……ほんと、打ててよかったよ」
 ぽつりとこぼされた言葉は、美澄の返事を求めない類のものだった。言葉尻に滲んだ安堵が、重圧の大きさを物語る。
「打線が援護してやれない状態で、朔が頑張って投げてたからさ。どーしても打ってやりたかった。キャッチャーの俺が決めたかった。全然打ててなかったけど、俺が」
 どんな関係性であろうと、要は投手想いの女房役だ。同い年の気安さで遠慮がなかろうと、心の中ではいつだって投手の為を考えている。
 今の言葉を志麻が聞いたら、どんな反応をするだろう。想像しただけで口角が上がった。
「さっき、志麻選手に挨拶しました。ナイスピッチングでしたって」
「ああ、帰んの早かったもんな。何か言ってなかった? アイツ」
「やさしくしろーって言ってました」
「やっぱり? 今日なんて俺、朔が取られる五点は計算済みだとか言っちゃったよ。二点で抑えてても負け投手にしちまいそうだったのに」
「笑ってましたよ、それ」
「はは、笑って許してくれんだ。やさしいからなぁ、朔は」
 横顔が赤信号に染まる。車が完全に動きを止めると、要は左を見た。夜と同じ色をした瞳が、まじろぎもせずに美澄を捉える。敬遠がよほどこたえて落ち込んでいるのかと思ったのだが。よく見てみれば、緊張の面持ちと表現するほうがしっくりきた。
「なあ、美澄」
「はい」
 何か大切なことを言おうとしていると、空気で察した。背すじを伸ばし、美澄もまっすぐに要を見る。
「あのさ……俺の、専属トレーナーになってほしいんだ」
「え……?」
 一瞬だけ、世界が時を止めた。信号が青に変わって、思い出したように動き出す。要は前を見てブレーキから足を離し、アクセルに足をのせた。
「専属トレーナーとして、俺と契約してほしい。もちろん、今までみたいにどっちかの家で一緒に飯食いたいし、給料とは別に食費も出す。給与額も、今美澄がもらってるよりも上げられる。遠征費は俺持ちで、球団から補助も出るから心配いらない。今の仕事との折り合いもあるだろうから、今すぐじゃなくていい。来シーズンからでも構わないから、考えてみてほしい」
「……どうして、このタイミングで?」
 喜びと戸惑いが一緒くたになって美澄を包み込んだ。今までの関係だって施術はしてあげられたし、遠征先には球団のマッサージトレーナーが同行している。ちゃんと冷静でいられたことに安堵して、訊ねた。
「今日の最後の打席で、これ打てたら言おうって思ってたんだよ。言いたいなら打つしかねーぞって。専属になってほしいなっていうのは、ずっと前から考えてたんだ。とにかく、今すぐにとは言わない。答えが出たら、聞かせてくれ」
「分かりました。ひとつ、いいですか?」
「なんでしょうか」
「なんだか、プロポーズみたいだなぁって思って」
「……ま、そう受け取ってもらってもいいけど」
「え?」
「いや、何でもねー」
 不意打ちでは聞き取れないくらい小さな声で何かを呟いた要は、へらりと笑ってオーディオの音量を上げてしまった。先ほどまでの硬さが嘘のような上機嫌な横顔で、ホットケーキの唄(作詞作曲・間宮要)を口ずさみ始める。少し……いや、かなり下手っぴだ。そうだ、歌はこの人の唯一の弱点だった。甲子園で歌った校歌。隣から聞こえた歌声の衝撃は、多分チームメイト、それも近くにいた一部の人間しか分からないだろう。
 要の歌声に対抗するような洋楽のベース音が、ズシンズシンと腹の底に響いている。