翌日の夜八時のきっかり五分前に、間宮要はやってきた。目立たないようにとの配慮だろう、キャップをかぶりマスクをして、半袖のパーカーにジーンズとラフな格好をしていたから、治療を受けていた学生たちに正体がバレて騒ぎになることは避けられたが、体つきが一般人とは全く違った。共に白球を追いかけていた頃よりもずっと逞しくなった先輩捕手は、奥の個室へ到着するなりマスクを下げ、にっと八重歯を覗かせる。
「美澄、久しぶり」
「お久しぶりです、要先輩」
 記憶の中と何一つ変わらない笑顔に、胸がきゅーっと締め付けられて涙が出そうになる。深く一礼して呼吸を整え、もう一度顔を見上げた。目が合った者を一瞬で虜にしてしまう甘ったるい眼差し。すっと通った鼻筋。よく笑う口元に、そこからちらりと見え隠れする八重歯。圧倒的なオーラも全て、一ミリとして違わず記憶の中の要とリンクした。本物の要先輩だ、と呟きそうになって、慌てて飲みこむ。今は患者と施術師。やるべきことがある。
「背中の張り、でしたよね?」
「ん、そう」
「状態を確認したいので、まずはベンチに座ってもらえますか」
「はーい。服、脱いだほうがいい?」
「パーカーの下は」
「アンダー着てる」
「じゃあ、パーカーだけ脱いでください」
「りょーかい」
 パーカーの下から現れた体躯は、プロ野球選手のそれだった。くっきり浮かび上がった背筋は、上着を畳むわずかな動作でも動きを見せる。
「触りますね」
 断りを入れてから、そっと背中に触れた。キャッチャーの要が酷使する場所である肩甲骨周辺に、バットのスイングで痛めやすい左の腰付近。ひと通り触れて、特に張っているように思えるのは、やはり右の肩甲骨の下部だった。
「この辺ですかね。張ってる場所って」
「あー、うん、そう。さすが」
「ここを重点的に解しましょう。マッサージベッドにうつ伏せになってもらえますか」
「分かった」
 うつ伏せた背中の先ほど触れて確認した場所に、親指の付け根で圧をかける。うあー、と気の抜けた声が聞こえた。
「要先輩」
「なに?」
「どうして、うちへ?」
 本当は聞くべきでないと分かった上で、あえて訊ねた。東京のプロ球団で活躍するような人が、わざわざ埼玉の接骨院までやってくるなんて。
「友だちに、地元で腕がいいって評判の接骨院があるって教えてもらってさ」
「でも、チームにトレーナーいますよね? いいんですか?」
「いいんだ。大事にしたくないから、オフにこっそり来たわけだし。正捕手の俺が痛いとか違和感があるとか言ってたら、みんな不安になるだろ」
 口調は明るかったが、どんな表情をしているかは見えなかった。
「ってことは、背中、痛むんですね」
「すこーしだけな。プレーに支障はないよ」
 普段相手にしている学生とは比べ物にならない質量を持った筋肉の感触が、手のひらに伝わってくる。トップアスリートの身体だ。美澄の知らない六年間が、そこに詰まっている気がした。
「身体、大きくなりましたね」
「まぁな。でも、俺なんか小さいほうだぜ? プロはマジで、筋肉ダルマがごろごろいんの」
「そうなんですね。あ、少し力入れるので、痛かったら言ってください」
「んー。美澄、マッサージ上手いなぁ」
「仕事ですから。というか、背中の張り結構強いので、出来れば休んだほうがいいです」
 悪化して肉離れに繋がる危険性がある。治療する側としての意見だった。
「シーズン中だし、さすがに休めねーよ。チームにバレたくねぇからココきたの」
「……まあ、そう言うと思ってました」
「俺、ダメなんだよ。プロんなってから、夏になるといつもこうで」
 要は困ったように笑って、それきり何も話さなくなった。力が強くなりすぎないよう細心の注意をはらいながら、凝り固まった背中を解していく。
 顔を合わせた瞬間から、嫌悪感は微塵も伝わってこなかった。キャッチャーというポジション柄、高校の頃から心理戦が上手い人だったから、負の感情を全て内側に隠している可能性も無くはないけれど。
――俺のこと、嫌いになったんじゃないんですか。
 逞しい背中に問いかけたくなる。そうだよって言われたら、二度と立ち直れなくなるくせに。
「要先輩、一度起き上がって、ゆっくり立ち上がってみてください」
「んー……おお、背中が軽い。すげー」
 見上げた先で、要が相好を崩した。ゆらゆらと楽しげに揺れる身体を両手で制し、直立させる。一歩離れて見ると、真っ直ぐ立っているはずの身体がほんの少しだけ右に傾いていた。
「……疲れで重心がズレてるかもしれないです。投げたり、バット振るのに支障はないんですよね?」
「とりあえずは。試合観た? 俺、一昨日ホームラン打ったんだぜ?」
「いや、観てないですが……とりあえず、背中の筋肉を伸ばすストレッチのやり方を教えるので、毎日寝る前にでもやってみてください」
 一人でも出来る簡単なストレッチを教え、昨日の打ち合わせ通りに診療時間が終わってから電気治療を施した。プロ野球選手の突然の来院に、多々良も吉村もぽかんと口を開けて驚いていたが、当の本人は全く気にする様子もなく、吉村がちゃっかり用意していた色紙に快くサインなんかして帰っていった。
 片付けまで全て終えて帰路につく頃には、まるで嵐が去っていったような静けさと、一試合を一人で投げ抜いた後と変わらないくらいの疲労感が肩に重くのしかかっていた。でも、美澄は無傷だ。お礼参りみたいに、憎き後輩をボコボコにしにきたわけではなかったらしい。
 高校三年の春、美澄は左肘の手術をした。切れてしまった靭帯は無事に繋がり、主治医曰く「再び投げられる状態」にまで回復したはずだったが、もう一度マウンドに立つことは叶わなかった。
 プロで待ってる。尊敬してやまない人がそう言ってくれたのに、美澄は約束を守れなかった。失意に塗れた入院中、チームメイトや卒業した先輩から届いたたくさんのメッセージに元気をもらった。「焦るな」「みんな待ってるから」「大丈夫」――その中に、要の名前はなかった。
 きっと要はプロへの道を諦めた美澄に失望し、怒っていたのだ。そんな結論に至った時の絶望感は、今思い出しても涙が出そうなくらい苦しい。高校生が生きる狭い世界の中で、最も尊敬する人に嫌われるのは、魂を削られるような痛みをともなう。月日を重ね、もっと広い世界を知り、ようやくまともに呼吸ができるようになったと思ったのに。要は、再び美澄の前に現れた。

 日が落ちても暑さが引かなくなってきた七月下旬。通勤に使用しているシティサイクルは、心地良い風で頬を冷やしてくれる。少しだけ遠回りして帰ろう。いつもは右折する交差点を、今日だけは真っ直ぐ進んだ。もう少し、感情を整理する時間がほしい。
 再会できて嬉しかったのか、それとも苦しかったのか。自分自身に問いかけてみても、答えは出なかった。