耳を澄ますと、話し声が微かに聞こえてくる。要と真尋の声だ。ヒーローインタビューで見せるコントのような会話ではなく、一歩踏み外したら喧嘩になりそうな、真剣なトーンで言葉を交わしている。
 接骨院の休みの日が連戦の頭になるので、美澄が観に行ける試合は真尋の登板日が多い。先日の試合後に突然絡まれて以降は挨拶程度しか顔を合わせていないし、どちらかと言えば苦手な部類の人だけれど、ピッチングは本当にすごい。惚れ惚れする。今日も二失点完投で、勝利数を一つ重ねた。
「五回裏の二人目。アウトコース低めをあそこまで運ばれた。納得いかない」
「たしかに変化は小さかったけど、あのコースに毎回決まるならホームランになることはねーよ」
「犠牲フライにはなったけどね……ねぇ、要さん。次もあのコースに構える?」
「あー……状況にもよるけど、俺だったら次はインハイ」
「うわ、それは最高。あと、七回の一点取られた時に――」
 ほぼ完璧と言ってもいい内容だったのに、真尋は全然満足していないようだった。球速や変化球の精度だけではなく、こういう気持ちの強さが真尋のエースたる所以なのだと美澄は分かっているから、何時間でも待つつもりだった。
 二十四歳という若さで日本代表の正捕手を務める要が相手だろうと関係ない。納得がいかなければ確認するし、時には反論もする。すごいなぁ、と思った。美澄にはできなかったことだ。ひとつの年の差さえ眩しくて、憧れが大きくて、なかなか自分から意見を言えずに喧嘩になったこともあるのに。
 試合後は中で待たせてもらえるだけでありがたいので、ベンチには座らないと決めていた。壁に背中を預け、真剣な会話に耳を傾ける。何もないこの時間が、結構好きだ。
「あのー」
「あ、はい、すみません、邪魔でしたか?」
 ぼんやりとしていた所為で、自分に近づいてきた人の気配に気がつかなかった。唐突に声をかけられ、慌てて壁から離れて一歩下がる。美澄より背の低い、スーツ姿の男が立っていた。
「いえ、違うんです。雪平美澄さんでいらっしゃいますよね?」
「え、あ、そうですが……」
「お話がありまして。少しお時間よろしいでしょうか?」
 声の主は、元々切れ長の目をさらに細めた。多々良よりは若いが、吉村よりは年上だろうか。球団スタッフの顔は覚えているから、その中の誰でもないのは分かっている。誰だろう、この人。
 要たちの反省会はまだ続きそうだし、話を聞くくらいならいいか。首肯すると、待ってましたと言わんばかりに差し出された名刺に目を落とした。
「みやこテレビ……?」
「ええ。私、都テレビの安中と申します。よろしくお願いします」
「ど、どうも……」
 都テレビと言えば、今日の対戦相手である「愛知キャメルス」のグループ会社だ。東京スワンズのキャップをかぶっている一般人の美澄に、一体なんの用だろうか。というか、どうして名前を知っているのだろう。
 仮面のような笑みを張り付ける安中は、美澄の怪訝そうな表情にも全く動じる様子はない。足の先から顔までをねっとりと視線でなぞられ、身体中に鳥肌が立った。
「日本球界史上最強捕手とも言われる間宮要選手と同じ、千里第一高校出身。間宮選手の一学年後輩で、雪平さん自身は一年の春からエースナンバーを背負っていた。お間違いないですね?」
「……ええ、まあ」
 戸惑いながらも肯定すれば、安中が笑みを深めた。
「甲子園準優勝の左腕。キレのある直球と多彩な変化球を操り、制球力も群を抜いていた。私も見てましたよ。あの夏の甲子園での活躍を」
「……どうも」
「プロ入り確実と言われた雪平さんの、甲子園での投げっぷりを覚えている人は少なくないでしょう。華やかなビジュアルも、当時は相当話題になりましたし。「消えた天才」として、番組で取り上げさせていただけないでしょうか?」
 え、普通に嫌です。すごく。美澄は心の中で即答した。たくさん練習して、悔しい思いもしてきたからこその甲子園準優勝だ。天才のひと言で片付けられるのは不服だし、勝手に消えたことにされるのは気分が悪い。センシティブな話題に出会って数分で踏み込んでくるのも、嫌。
 それに、散々迷惑をかけたあの頃のチームメイトがこの話を知ったら、不愉快極まりないだろう。他を当たってくれと言いかけて、ふと自分の立場を思い出した。
 首から提げる入場証。キャップのつばの裏側に書かれたサイン。ここは東京スワンズの本拠地だ。自分がこの話を断ったら、要の印象まで悪くなりそうな気がする。それは、絶対に嫌だ。
「お返事は今すぐでなくても大丈夫です。そちらに電話番号を記載してありますから、ご連絡をいただければ――」
「美澄悪い、シャワー浴びてくるからもう少し待ってて……って、誰その人」
「要先輩」
「間宮選手、お疲れさまです。私、都テレビの者でございます」
「都テレビ? キャメルス側のテレビ局が、こっちに何の用ですか」
 試合が終わって間もない上に真尋との反省会直後だからか、いつもの甘ったるい雰囲気は鳴りを潜めていた。あまり見ない鋭い眼差しに思わず見とれる。いつも向けられる笑顔も好きだが、キリッとした顔も好きだ。
 安中から差し出された名刺ではなく、美澄が持っていた名刺をひょいっと取り上げた要は、厳しい表情を崩さなかった。要を説得して外堀を埋めるほうが早いと思ったのだろう。安中が仮面の笑みを一ミリも動かさずに美澄にしたのと同じ説明を繰り返すと、最後まで聞くことなく名刺を突き返した。要が、安中に。
「返します、コレ」
「あ、でも電話番号が……」
「今ここで断ります。受けさせません」
「でも、もう一度スポットライトが当たるんですよ? 理由次第ではたくさんの視聴者に共感され、SNSでもバズるでしょう。悪い話ではないと思いますが……」
「美澄、お前SNSやってんの?」
「連絡用のNINE以外はやってないです。あまり興味がなくて……」
「だそうです。というか、失礼すぎませんか? そちらとしてはスポットライトを当てて「あげる」つもりなんでしょうけど」
「そ、そんなこと……」
 安中が言葉を詰まらせる。見たことも聞いたこともない先輩捕手の皮肉っぽい言い回しに、美澄はぽかんと口をあけた。
「偉いんですね、テレビ局って。まあ、ありがた迷惑ってヤツですよ」
「っ、それは……」
 狐のような顔が歪んだ。痛いところをつかれて言い返せなくなってしまったのか、下唇を噛み締めて黙り込んでしまう。
「美澄、帰んぞ。この話は忘れていいから」
「っ、はい、すみません」
「じゃ、失礼します」
 手首を掴まれ、引かれるがままに歩き出した。外へ出て、いつも行く地下駐車場への道とは反対へ進んでいく。少しだけ、ほんの少しだけ方向音痴だから、どこへ向かっているのかは分からなかった。
 外はすっかり涼しかったから、要の手をより熱く感じた。前を行くから表情は見えなかったけれど、怒っている。それも、かなり。
「要先輩……あの、どこへ……?」
 張り詰める背中に問う。答えはなかった。周囲の建物からこぼれる明かりだけが頼りの暗く静かな道。角を曲がってすぐに、冷たく固い壁に押し付けられた。現役選手の腕の力に勝てるはずもなく、身動きが取れない。
「なんで断らねーの?」
「っ」
「嫌だろ、あんなの」
「……そうですね。嫌でした」
「じゃあ、なんで突き返さなかったんだよ。嫌だって言えよ」
 ふつふつと沸き立つやるせなさが伝わってきた。温厚な人が怒ると怖いってことを、高校の頃に一度だけ要とした喧嘩で十分理解している。あの時も、ちゃんとこちらの話を聞いてくれた。言わないで一人で抱え込むほうが、この人は嫌がる。
「……高校の名前を出されて、俺、あの頃のチームメイトにこれ以上迷惑かけたくなくて嫌でした。それに、俺は天才なんかじゃない。練習して、要先輩に引っ張ってもらって、やっとの思いでマウンドに立ってたのに」
「うん」
「でも、要先輩にも関係する話だから、断って、先輩の評判まで悪くなったらって思うと、怖くて……」
「美澄」
「……っ」
 至近距離で低い声に呼ばれ、肩が跳ねた。相棒だった頃よりも精悍さを増したかんばせに、胸が苦しくなる。
「あのな、俺の中にはずっといるんだよ。消えてねーの、美澄のピッチングは!」
「え……」
「消えた天才だ? バカじゃねーの。雪平美澄はここにいるだろ。お前のすごさは、魂が震えるようなピッチングは、俺が全部覚えてんだから」
 それは慰めなんかじゃなく、心からの言葉だと思えた。怒りという鋭い圧を間近で受けているのに、美澄の胸を満たしたのは喜びだった。どうしよう、口角が勝手に上がってしまう。
「あーもう、ホントにあの人、思い出しただけでムカつくなぁ。出禁だ出禁。名前覚えたからな」
「……ふふ」
「ちょ、なんで笑うんだよ!」
「すごく、褒められてるなぁと思って」
 怒りながら褒めるという高等技術に、思わず笑ってしまった。予想もしていなかった反応だったらしい。要の凛々しい眉がふにゃりと下がった。
「笑うなよ、もぉ……」
「だって、嬉しくて」
 ぐいっと身体を引き寄せられた。背中の冷たさは一転、ぎゅーっと抱きしめられて温かくなる。試合後なのも相まって、熱いくらいだ。
「もー……ごめんな美澄。壁に押し付けたりなんかして。背中、痛くなかった?」
「全然痛くなかったです。腕の力は強くて、全然動けなかったですけど」
「ごめん~……」
 背中を摩る手がやさしい。
「怒ってないです。というか、怒ってくれてありがとうございました」
「……うん」
 美澄を掻き抱く腕の力は弱まらない。要の中のぐちゃぐちゃした感情を消化し、整理しているのだろう。
 きっと安中は言うだろう。雪平ってヤツは生意気だ。こっちがせっかく取材しやるって言っているのに、と。でも、外野になんと言われようが構わない。要が見ていてくれるなら。
 シャワーに行く前だと言っていたから、いつもは感じない汗の匂いがした。意識した途端、心拍数が急上昇して顔が熱くなる。
「……先輩」
「なに」
「もう少し、このままでいたいです」
「ん、いいよ」
「……ありがとうございます」
「どーいたしまして」
 背中に手を回してみる。さらに上がった密着度にドキドキがバレたらどうしようと思ったけれど、要から伝わってくる心音も速かった。許されるのならば、ずっとこのままでいたいなぁ。ふわふわと甘やかな幸せに染まった心に身を任せ、肩に顔をうずめた。